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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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くじ引き

 万歳三唱が鳴り響く中、男はあることを思い返していた。それは小さな頃のことである。


『お祖父様、どこに行かれるのですか?』


『正義を果たしに行くんだよ』


 そう言って、祖父は行き、死んだ。


 祖父は正義のために死んだ。祖父は賊として殺された。祖父は漢王朝を復興させるという正義を掲げたにも関わらず、今、その祖父が果たせなかった漢王朝の復興を成し遂げようとしている男がいる。


 正義は果たされる。祖父ではなく、彼によって、果たされようとしている。その違いはなんなのだろうか。


 祖父が信じた正義は誰にも認められる、彼は認められようとしている。


 正義とはなんなのだろうか。


「祖父ができなかった正義を、今度こそ果たす」


 それこそが祖父の願いであるはずなのだ。それだけを考えれば良いではないか。


 












 劉秀りゅうしゅうが即位した頃、鄧禹とううは安邑を包囲していた。数カ月経っても攻略できない状態にあるところに更始政権の大将軍・樊参はんさんが数万人を率いて黄河を渡り、大陽(県名)に至って鄧禹を攻めようとした。


 しかし鄧禹はそれを察知すると逆に解南で攻撃して樊参を斬った。


 敗北を知った王匡おうきょう成丹せいたん劉均りゅうきんが軍を合わせて(兵を集めて)十余万で再び鄧禹を攻撃した。今度は鄧禹軍が不利になり、敗北をしかけたが突然、更始帝軍の動きが止まり、守りを固めて出撃しなかった。


 実は戦っている最中に「六甲窮日」となっていたのである。


「六甲窮日」は「干支が尽きる日」のことである。「癸」は十干の最後の日、「亥」は十二支の最後の日であるため、王匡らはこの日を不吉だと考えたため出撃を止めたのである。


(取り敢えず助かった)


 鄧禹はその間に改めて兵を整えることができた。


 翌日、王匡らが全軍を投じて鄧禹軍を攻めた。


 鄧禹は軍中に妄りに動かないように命じ、王匡等の軍が営下に迫ってから、諸将に伝令して戦鼓と共に並進させた。


 急な巻き返しに対応できなかった王匡らは破れて皆、逃走した。


 鄧禹は王匡の将・劉均および河東太守・楊宝ようほうを追撃して斬り、河東を平定した。


 王匡等は奔って長安に還った。


 この敗北を受け、張卬ちょうこうが諸将と議した。


「赤眉は鄭と華陰の間という近い場所に居り、旦暮(朝夕)にもここ長安に至るだろう。今、我々には長安があるだけである。もはや滅亡を見るまでもないと言える。自らを富ますために、兵を整えて長安城中の物資を奪い、ここから移動して経由する地で転戦し、東の南陽に帰って宛王(劉賜)らの兵を収めた方がいい。事がもし成功しなくても、また湖池の中に入って盗を為そうではないか」


 申屠建しんとけん廖湛りょうじんらは納得して共に入宮し、更始帝を説得した。しかし更始帝が怒って何も言わないため、諸将はそれ以上進言できなくなった。


 更始帝は王匡、陳牧ちんぼく、成丹、趙萌ちょうぼうを新豊に駐屯させ、李松りしょうを掫(地名)に駐軍させて赤眉に対抗させた。


 更始帝が赤眉に備えて王匡や李松を派遣した間に、張卬、廖湛、胡殷こいん、申屠建が御史大夫・隗囂かいごうと共謀し、立秋の貙膢(立秋の祭祀)の時に更始を脅かして前計(南陽に帰る計)を実現させようとしていた。


 侍中・劉能卿が張卬、申屠建らの陰謀を知って更始帝に告げた。


 更始帝は病を理由に立秋の祭祀に参加せず、逆に張卬らを招いて全て誅殺しようとした。


 隗囂は病と称して入宮せず、賓客の王遵おうじゅん周宗しゅうそうらと兵を整えて邸宅の守りを固めた。


 張卬らは参内したが、更始帝は躊躇して誅殺の決断ができず、張卬ら四人をとりあえず外廬で待機させることにした。ここまで決断力の無い人も珍しい。


 張卬、廖湛、胡殷は異変を疑い、宮門を突破して脱出、申屠建一人は宮内に残り、更始帝に斬られた。申屠建だけは更始帝のためを思ってやろうとしていたのだろう。


 更始帝は執金吾・鄧曅に兵を指揮させ、隗囂の邸宅を包囲させ、三人の元に兵を送った。


 張卬、廖湛、胡殷の三人は兵を率いて東西の二市で略奪し、空が暗くなってから、宮門を焼いて逆に進攻した。宮中で戦い、更始帝は大敗した。


 隗囂も鄧曅の包囲を破って天水に走った。


「さて、ここからは己の足で立たねばな」


 彼はそう呟きながら天水へ向かった。


 翌朝、更始帝は妻子と百余の車騎を率いて東に奔った。新豊の趙萌を頼るためである。


 更始帝は王匡、陳牧、成丹も張卬と共謀しているのではないかと疑っており、三人を同時に招いた。


 陳牧と成丹は先に到着してすぐに斬首され、懼れた王匡は兵を率いて長安に入り、張卬らと合流した。







 一方、赤眉は進軍を続け、華陰に至っていた。


 赤眉の軍中には斉巫がおり(「斉巫」は斉出身の巫という意味)、常に福助を求めるために、鼓舞(太鼓を打って舞を踊ること)して城陽景王を祭っていた。


 城陽景王とは斉悼恵王・劉肥りゅうひの子・劉章りゅうしょうのことである。呂氏を滅ぼしたことから民衆は彼を守護神として崇め、各地で祠が建てられた。皇帝にはなれなかった人であるが神にはなれたと言っていいかも知れない。

 

 その巫が狂言を発した。


「景王が大怒して『県官(天子)になるべきだ。なぜ賊になるのか』と言った」


 巫を笑った者は皆、病を患ったため、軍中が驚いて動揺した。


 また、方望ほうぼうの弟・方陽ほうようが更始帝に兄を殺されたことを怨んでいたため、今後の形勢を予測して赤眉の頭目である樊崇はんすうらにこう言った。


「更始が荒乱して政令が行われていないため、将軍らをここに到らせました。しかし今、将軍らは百万の衆を擁して西の帝城に向いておられるが、称号がないために、名は群賊となっています。これでは久しくできません(長く存続できません)。宗室を立てて、義によって誅伐するべきです。この号令をもってすれば、誰が従わないでしょうか」


 樊崇らは方陽の意見に納得し、巫の言もますます甚だしくなったため、西進を続けて鄭に至った時、互いに相談した。


「今、長安に迫近しており、鬼神もこのようであるため、劉氏を求めて共に尊立しよう」


 以前、赤眉は式(泰山郡に属す県)を通った時、元式侯・劉萌りゅうぼうの子である劉恭りゅうきょう劉茂りゅうも劉盆子りゅうぼんしを捕まえて、三人に強制して従軍させていた。


 劉恭、劉茂、劉盆子は太山(泰山)・式の人で、城陽景王・劉章の子孫でもある。


 その中の劉恭は若い頃に『尚書』を習い、おおよその大義に通じている人物であった。


 赤眉に従軍してから、樊崇らに従って洛陽で更始帝に降り、改めて式侯に封じられた。


 その後、明経に基いてしばしば進言したため、侍中に任命され、赤眉が更始政権から離れてからも長安で更始帝に従った。


 劉茂と劉盆子は赤眉の軍中に留まり、右校卒史・劉俠卿に属して牧牛を管理し、「牛吏」と号していた。


 樊崇らが帝を立てようとした時、軍中で城陽景王の後代を求めて七十余人を得た。


 その中で劉茂と劉盆子および劉孝が最も近い親族に当たった。しかしながらこの劉孝という人物は謎の人である。


 おもかく樊崇らが議論して言った。


「古では天子が兵を指揮する時、上将軍と称したと聞く」


 そこで樊崇らは札(木簡)を符にして「上将軍」と書き、二枚の何も書いていない札と一緒に笥(箱)に入れた。つまり自分たちが掲げる皇帝をくじ引きで決めようということである。


 鄭北に壇場を設け、城陽景王を祀り、諸三老や従事が全て陛下(階段の下)に集合した。


 劉盆子ら三人を壇の中央に並べて年齢順に札を箱の中から取らせた。最も年少の劉盆子が後から札を引いて符を得た。


 それを見て、諸将は皆、臣を称して拝礼した。


 この時、劉盆子は十五歳という若さであり、髪は束ねず下に垂らしたままで、足は裸足、服は古くて破れているという様相であった。諸将の拝礼を見て、ただただ顔を赤くして汗を流し、恐畏のため泣きだしそうになった。


 そんな弟に劉茂が言った。


「符をしっかりしまいなさい」


 ところが劉盆子は符を噛み切って棄てると、劉俠卿を頼って帰ってしまった。


 劉俠卿は劉盆子のために絳単衣(「絳」は「赤」)と半頭赤幘(「半頭幘」は頭巾の一種で、冠礼前の男子が被る)、直綦履(直線の模様が刺繍された靴)を作り、軒車大馬(大馬が牽く、囲いがついた馬車)に乗せた。車には赤い屏泥(車前の泥除け)がついており、車体は赤い幕で覆われていた。


 こうして劉盆子が即位して赤眉は建世元年に改元した。


 赤眉の指導者である樊崇は勇力によって起ちあがり、皆から尊重されていたが、書数(学問)を知らなかった。そこでかつて県の獄吏を勤めており、『易経』に通じている徐宣じょせんを皆が推して丞相にした。


 樊崇が御史大夫に、逄安ほうあんが左大司馬に、謝禄しゃろくが右大司馬になり、楊音ようおん以下の者も列卿や将軍に任命されていった。


 劉盆子は皇帝になったが、今までと同じように朝夕には劉俠卿を拝し、牧児について遊んだ。しかしながたある日、また外出して牧児と遊ぼうとした時に、劉俠卿に怒られたためあきらめた。


 樊崇らは劉盆子がこのようであるため、皇帝として候視(挨拶すること。様子を伺うこと。ここでは謁見、拝謁の意味)することがなくなった。まあ彼らからすればお飾りなのである。特に気にすることもなかった。


 彼らは西へ向かって進み続けた。




 


 

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