呂母の乱
劉秀は朱祐は薬を売ったり、学問に打ち込んだりと日々を過ごしていった。そのうち帰郷の時となった。
「私も一緒にいいか?」
朱祐がそんなことを言ってきた。
「構わんよ」
二人は共に帰郷することになった。
「おや、友人ができたか少年」
来歙がそう言って笑った。
「はい」
劉秀は溢れるほどの笑顔で答える。
「では、行くとするか」
馬車に二人を乗せ、来歙は出発した。
「護衛が多いですね」
劉秀は周りを見て、護衛がいつもよりも多いことに気づいた。
「最近は物騒だからな」
現在、各地で反乱が起きており、それを鎮圧して回るというのが新王朝の現状なのである。
「そうですか……」
劉秀は後ろを振り向かい、宮殿を見る。あそこに皇帝・王莽がいるのである。
「皇帝は一体、何をしたいのでしょうか?」
王莽の政治の評判は悪い。
「儒教の理想を体現しようとしている」
「そうでしょうか?」
不快そうに言ったのは朱祐である。
「名を正すなどを行っていることから儒教の理想を成し遂げようという意識があることはわかる」
儒教の大家である孔子は政治を行う上で先ず初めに行うこととして名を正すということを挙げている。そのことを王莽は実践したのである。
「確かに孔子はそのようなことをおっしゃいました。しかしながらそれは強引なやり方で行うものではありません」
「そのとおりだ。王莽は強引に儒教論理に従った改革を行っている。早すぎる改革とも言っていい。そのあまりにも強引で早すぎる改革に民衆がついていけなくなっているのだ」
王莽は名を正すを行うと称して長安を常安としたりしたが、別のところでは三度、四度変わることもあった。名を正すどころかよくわからなくさせてしまっている。
「王莽は儒教の理想像を演じきった人だ。そんな人が儒教を誰よりも学んでおきながら儒教の意思とは隔離した政治を行っている」
「なぜ、王莽はそのような政治を行っているのですか?」
劉秀が来歙に問いかけた。
「それはあの方が幻想の中で政治を行っているからだ。自分の理想、自分の聞きたいこと、知りたいことしかしろうとせずに政治を行っている。王莽の政治には他者がいないのだよ」
「つまり王莽は己の幻想の中で生きている」
「そうだ。己の幻想の中で生きている。一生、夢の中で生きているようなものだ」
その時、劉秀は草原に飛ぶ、蝶を見た。
(胡蝶の夢の如く、王莽は蝶にならずにここまで来てしまっているのか)
悪政を行う皇帝が蝶となって去ってくれればいいのにと民たちが願うだけの我慢はもはや限界となりつつある。
南陽郡に近づいた時、たまたま別の方向に進む黒い一団が見えた。その中で最も黒い外套を纏った男と劉秀は目があった。
(凄まじい人だ)
思わず、劉秀は唸った。厳しい世界の中で生きている。男の鋭い目を見ただけで劉秀は思った。
一団と劉秀たちはそれぞれ別方向へと進んでいき、離れていった。
ふと黒い外套の男が振り向いて、劉秀たちがいた一団を見た。そして、再び前を向くと進むように指示を出した。男の名は呉漢。後に劉秀を助けることになる武の象徴となる人物である。
劉秀たちが南陽に帰郷を行った頃、新王朝の滅びのきっかけが起きた。
王朝が滅びる理由というものは様々な要因が絡み合った結果、始まることであるが、やはりそのきっかけというものが起きることで初めて滅びることになるのである。
しかしながら新王朝の滅びのきっかけとなった事件を起こした者が女性であったことから歴史上では中々に奇異の光を放っている。
事件の起きた経緯について話そう。
紀元14年に琅邪海曲で小さな事件が起きた。
呂母という者がおり、名を育といい、游徼(盗賊を取り締まる官)を勤めていた。その息子が小罪を犯した。詳細は不明であるが決して死刑になるほどの重い罪ではなかった。
(罪は罪ではあるが、息子はすぐに戻ってくるだろう)
呂母はそう考えていたが、実際は琅邪海曲の宰(漢代の県長・県令)が死刑の判決を下して殺してしまった。
「これはどういうことか」
死罪になるような罪ではなかったにも関わらず、殺された。これは宰による殺人ではないか。
宰を怨んだ呂母は秘かに客を集め、仇に報いる方法を練ることにした。元々呂母の家は豊かだったようで、貲産(財産)が数百万あった。
そこで呂母は家財を散じて醇酒(美酒)を大量に醸造し、刀剣弓弩や衣服を買い集めた。少年(若者)で酒を買いに来た者には全て支払いをつけにし、貧困な者を見たらいつも衣裳を貸し与え、その数を問わなかった。
数年後には呂母の家財をほとんど使い果たした。少年(若者)達はそのことを知ると今までの恩に報いて償おうとした。すると呂母が集まった彼らの前に涙を流して言った。
「諸君を厚く遇してきたのは、利を求めることを欲したからではありません。ただ県宰が不道を行い、我が子を枉殺(冤罪で殺すこと)したため、怨みに報いたいのです。諸君はこれを哀れんでくれましょうか?」
少年達は呂母の意が壮烈だと思って感服した。その上、以前から恩を受けていることや新王朝への不満もあり、そろって承諾した。
彼らは仲間たちにこの話を行い、やがて数百人が集まった。
彼らは数が増えたことから呂母と共に海上のある島に移動し、亡命している者を招いて吸収していった。その衆は数千に及んだ。
呂母は自ら将軍と称し、兵を還して海曲を攻めた。この呂母の執念と新王朝への不満をぶつけたことで、あっさりと破れた県宰は捕えられ、呂母の前に引き出された。
諸吏が叩頭して宰のために命乞いをしたが、呂母は、
「我が子は小罪を犯しただけであり、死には当たらなかったにも関わらず、宰に殺されました。人を殺したら死ぬべきではありませんか。また何を請うのですか」
と言って斬った。
呂母は宰の首で子の冢(墓)を祭ってから、再び海上の島に還った。その衆はしだいに拡大し、後には合わせて一万人を越えるほどになった。
紀元17年にこの母の執念によって行われたこの復讐劇は「呂母の乱」と呼ばれることになる。しかし、この乱はきっかけに天下は揺らぎ始めることになる。
南方では緑林兵が挙兵した。
荊州では饑饉が起きており、それによって苦しんだ人衆(民衆)が集団になって野沢に入り、掘鳧茈(荸薺。湿地に生える芋のような食物)を掘って食べ、互いに財を侵して奪い合った。
新市の人・王匡、王鳳はその状況に対し、公平に争いを処理したため、渠帥(長)に推された。その衆は数百人いた。
他にも亡命していた南陽の馬武、潁川の王常や成丹らが集まって王匡等に従った。
王匡らは共に離鄕聚を攻撃し、緑林山の中に隠れた。数カ月で七八千人に拡大した。これを緑林兵という。
同時に南郡の張霸、江夏の羊牧等も王匡と同時に挙兵し、それぞれ万人の衆を擁した。
本格的に反乱が大きなものになりつつある中で、王莽は使者を送ってその地で盗賊を赦させた。
使者が還ってこう報告した。
「盗賊は解散しても、いつもまた集合します。その理由を問いますと、皆、こう申しました。『法禁(法制禁令)が煩苛(複雑苛酷)なことを憂愁して手を挙げることもできず、力作(力を尽くして農耕に励むこと)して得た物も、貢税を納めるのに足りず、門を閉じて自分を守ろうとしても、また鄰伍(近所)の鋳銭挾銅(貨幣鋳造や銅の携帯の罪)に坐し、姦吏がこれを利用して民を愁いさせています(民から財を奪っています)』このように民が困窮しているから、ことごとく起って盗賊になるのです」
盗賊が発生し、反乱を起きる理由を的確に指摘した言葉であった。しかしながら王莽は激怒してこの使者を罷免してしまった。
王莽の意に順じておもねる者は、
「民は驕黠(驕慢狡猾)なので誅すべきです」
と言い、または、
「時運がそうなっているだけで、久しくせず滅びましょう」
と言った。
王莽は悦んでこれらの者を昇進させた。
聞きたいことしか聞かないこの皇帝の治世がまともに行われることはなく、ますます政治は乱れ、反乱は大きなものになり始めていた。
大地が揺れ、天を動かし始めている。