雲台二十八将集結
劉秀が河北における政敵と言える謝躬を始末し、馬武らが降伏した頃、更始帝は南に目を向けていた。
彼は枉功侯・李宝(「枉功侯」は「柱功侯」とすることがあり、「李宝」は「張宝」とすることがある)、益州刺史・李忠を派遣し、兵一万余人を率いて蜀を攻略しようとした。
蜀の公孫述は弟の公孫恢を派遣し、綿竹(広漢郡に属す県)で李宝と李忠を撃たせた。
公孫恢は大勝して李宝、李忠を走らせた。
公孫述はこの勝利を機に自立して蜀王と称して、都を成都とした。
民も夷族も皆、公孫述に帰順していった。
また同じ頃、赤眉の樊崇らが兵を率いて潁川に入り、その衆を二部に分けた。樊崇と逢安が一部を率い、徐宣、謝祿、楊音がもう一方を一部を率いた。
樊崇と逢安は長社を攻めて攻略し、南の宛を撃って県令を斬った。
徐宣、謝祿らも陽翟を攻略し、兵を率いて梁に向かい、河南太守を撃って殺した。
赤眉は何回も戦で勝利を収めていたが、次第に軍は疲弊していった。そのため多くの兵が戦を嫌い始め、皆、日夜愁いて泣いていた。東に帰ることを欲するようになった。
樊崇らは今後の方針を計議し、部衆が東に向かえば、故郷に帰ると考えて必ず分散してしまうと考えた。そのため東に帰るよりも西の長安を攻めた方がいいと判断した。
そこで樊崇と逢安が武関から、徐宣らが陸渾関から、二路に分かれて長安に向かった。
更始帝は王匡と成丹に命じ、抗威将軍・劉均らと共に河東と弘農に分れて、拠点を造って赤眉軍を防がせた。
劉秀が河北で勢力を強固にする中、更始帝らは劉秀へ目を向けづらい状況であった。
劉秀の元へ歩く一人の男がいた。
兵たちは彼を見て、少し距離を取っていく。彼の名は劉隆、字は元伯という。
彼の父は王莽への反逆を企み謀反を起こして殺されている。そのためか漢王朝への思いが深いのか更始帝が挙兵すると彼の元に行き、仕えた。
だが、劉秀が河内を制圧すると彼は騎都尉の地位を捨てて、劉秀に仕えた。この意識は漢王朝の復興を真に成し遂げるのは劉秀だと考えたためである。
そんな彼であるが、実は無表情な人である。同じ無表情である馮異は表情こそ無表情であるが兵と明るく談笑するなど親しみを覚えさせる人であるが、彼は違う。彼は周囲に冷たい印象を与えるためあまり兵から好かれていなかった。
「遅れました」
劉隆は陣幕を開けて自分の席に座った。
「よし揃ったね」
劉秀は皆を見る。
この場には鄧禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植の他、劉喜、劉歆、侯進、馮勤、韓歆といった後の雲台二十八将を含めた諸将が揃っていた。
「更始帝が赤眉への対応を行っている隙に北の燕・趙を攻略しようと考えているんだけど、同時に赤眉が長安を破るとも思っている。そのためこの乱に乗じて関中を併呑しようと考えているんだ」
劉秀は諸将を見回しながら言った。
「そこで鄧禹を前将軍に任命し、麾下の精兵二万人を持って関(函谷関)に入らせることにする」
その後、鄧禹には自分で偏裨(偏将・裨将)以下、同行させるにふさわしい者を選ばせた。
「ただ今、更始帝の大司馬・朱鮪、舞陰王・李軼や田立、陳僑が兵を指揮して三十万と号しており、河南太守・武勃と共に洛陽を守っており、また鮑永と田邑が并州にいる。鄧禹が関中を攻めている間、河内が険要な地で物資も豊富であるからここを攻め込む可能性が高い、そこで諸将の中から河内を守れる者を選ぼうと考えている」
鄧禹が進言した。
「寇恂は文武を充分備えており、牧人・御衆の才(人を治めて大衆を統御する才能)がございます。彼でなければ任命できる者はいないでしょう」
劉秀は頷き、寇恂を河内太守・行大将軍事(大将軍代理)に任命した。そのまま寇恂に言った。
「昔、高祖が蕭何を関中に留めた。僕はあなたに河内を委ねる。軍糧を給足(充足)させ、士馬を率厲(統率。訓練)し、他の兵を防遏(防衛制止)して、北に渡らせてはないようにして頂きたい」
更に劉秀は馮異を孟津将軍(孟津は黄河の渡し場)に任命し、河上(黄河沿岸。ここでは孟津を指す)で魏郡と河内の兵を統率させることにし、洛陽の兵を拒ませることにした。
その後、劉秀は自ら鄧禹を野王まで送った。
鄧禹が六裨将を率いて西に向かってから、劉秀は兵を還して北に向かった。
河内を委ねられた寇恂は糇糧(食糧。「糇」は乾糧です)を調達し、器械を治めて(修理・製造して)軍に供給した。そのため劉秀軍は遠征しても物資が絶えることはなくなった。
劉秀が志を果たすため戦略を実行する一方、天下は更に乱れ始めていた。
劉秀と愉快な仲間たち
疫病神・劉隆




