表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銅馬が征く  作者: 大田牛二


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/98

新王朝の滅亡

 九月、長安周辺に集まった兵達が宣平城門(長安城東の北側第一門)から進入した。民間では「都門」と呼ばれている門である。


 城門を巡行していた張邯は兵に遭遇して殺された。


 王邑、王林、王巡、䠠惲らは分かれて兵を指揮し、北闕の下で迎撃を行うことにした。


 しかしながらこの時、漢兵(反王莽軍)で莽封(王莽を獲た褒賞として与えられる封爵)を貪るために力戦する者は七百余人おり、その勢いを恐れたことで、ちょうど日が暮れる頃には、官府や邸第(邸宅)にいた者は全て逃走してしまった。


 城中の少年(若者)・朱弟、張魚らが鹵掠(略奪)に遭うことを恐れ、走ったり喚声を上げながら集団になった。作室門(未央宮西北に位置する織室や暴室を指す。尚方の工徒が作業を行う場所。作室門は工徒が出入りする門で、未央宮の便門(副門)にあたる)を焼き、敬法闥(敬法は宮殿の名、闥は小門)を斧で破壊し、


「王莽、なぜ投降しないのか」


 と叫びまくった。


 ついに城下に火が放たれ、火は掖庭(後宮の宮女が住む場所)から承明殿に及んだ。承明殿には黄皇室主が住んでいた。


 黄皇室主は、


「何の面目があって漢家(漢の人)に会えましょうか」


 と言うと、火の中に身を投じて死んだ。


 黄皇室主は王莽の娘である。十三歳の時に平帝と結婚し、翌年、平帝が死んだ後、十八歳の時に定安太后となり、翌年に黄皇室主に改められた。


 本年、自殺した時は三十二歳であった。


 王莽は火を避けて宣室前殿に移ったが、火はすぐ後に迫っていた。


 宮人や婦女が泣き、


「どうすればいいのですか」


 と叫んだ。


 この時、王莽は紺袀服(紺色で統一された服)を身にまとい、璽韍を帯び、虞帝匕首を持っていた。


 この虞帝匕首に関して、『資治通鑑』の注釈を書いた胡三省は、


「虞帝が匕首を持っていたはずがない。王莽が人を愚弄するために自分で作ったものだろう」


 と吐き捨てるように書いている。


 天文郎が王莽の前で式(栻。式盤。暦数や吉凶を占う道具)を使って占った。


 王莽は席を回して斗柄が指した方角(式盤には斗柄がついており、吉となる方角を指します)を向いて坐り、


「天は予に徳を生んだのだ。漢兵が予に何ができようか」


 と言った。これは孔子が言った言葉を元にした言葉である。


 この時、王莽は食事もせず、気(精神)が少し衰えていたという。


 明け方になり、群臣は王莽を腋に抱えて前殿から椒除(宮殿の階段。陛道)を南に下り、西に向かって白虎門を出た。


 和新公・王揖が門外で車を準備して待機している。


 王莽はその車に乗って漸台に向かった。この漸台というのは未央宮の台のことである。未央漸台は滄池の中にあり、建章漸台は太液池の中にあった。漸台に移ったのは池の水で身を守るためである。


 王莽はこの時も符命と威斗を抱きかかえており、公卿大夫や侍中、黄門郎等の従官で王莽に従う者は千余人いた。


 王邑は昼も夜も戦って疲労が極まり、士卒もほぼ全て死傷し尽くしたため、走って宮内に入った。転々と行ったり来たりしながらやっと漸台に至った。


 そこで子の侍中・王睦が衣冠を解いて逃走しようとしているのを見つけた。王邑は息子を叱責して王睦を戻らせ、父子共に王莽を守ることにした。


 兵たちが殿中に入り、


「反虜・王莽はどこか」


 と叫ぶ。すると一人の美女が房(部屋)から出て、


「漸台にいます」


 と言ったため、衆兵は王莽を追い、数百重に包囲した。


「ふふっ」


 美女は宝石が揺れる笠を被り姿を消した。


 台上ではまだ弓弩を射て抵抗しており、包囲している兵をわずか倒したが、やがて矢が尽きて弓弩を射ることができなくなったため、短兵で接戦した。


 この戦いの中、王邑父子と䠠惲、王巡が戦死した。


 王莽は室内に入った。

 

 下餔の時(晡時(午後三時から五時)の後。夕方)、衆兵が台を登り始めた。


 王揖、趙博、苗訢、唐尊、王盛や中常侍・王参らは全て台上で死んだ。そしてついに商の人・杜呉が王莽を殺してその綬を奪った。


 校尉で東海の人・公賓就(公賓が氏、就が名)は元大行治礼(大行治礼丞。儀礼を治める官)だったため(杜呉が持っていた綬に気づき)、杜呉に綬の持ち主がどこにいるか問うた。


 杜呉は、


「室内の西北の陬間(部屋の隅の空いた場所)です」


 と答えると公賓就はそこに行き、死体が王莽だと確認してから首を斬った。


 多くの者が王莽の体を細かく切り刻み、戦功を争って殺し合う者が数十人もいたという。

 

 公賓就が王莽の首を持って王憲を訪ねた。


 王莽を滅ぼした王憲は漢大将軍を自称した。城中の兵数十万が全て王憲に属させると王憲は東宮に宿泊して王莽の後宮の妃嬪を妻にし、王莽の車服(車馬や衣服、器物)を使った。


 李松と鄧曄、趙萌と申屠建は長安に入った。


 それにも関わらず、王憲が璽綬を手に入れて提出しようとせず、多数の宮女を私有し、天子の鼓旗を立てていたため、捕えて斬首した。


 王莽の首は宛に送って市に掲げられた。百姓は共に提撃(打擲。打撃)し、王莽の舌を切って食べる者もいた(憎しみを表す行為)。


 更始帝は王莽の首が届いた時、黄堂でくつろいで坐っていた。彼は王莽の首を取って見ると、喜んでこう言った。


「王莽もこのようにしなければ、霍光と等しくなっただろう」


 寵姫の韓夫人が笑って言った。


「もしこのようにしなければ、帝はどうしてこれを得られたでしょう?」


 更始帝は愉快になり、王莽の首を宛の城市に掲げたのである。


『漢書・王莽伝下』で班固が王莽に対する長い評価を書いており、『資治通鑑』が抜粋して紹介したものを載せる。


「王莽は外戚として起ちあがり、節を折って(腰を低くして)力行(努力)することで名誉を求めた。高位に就いて輔政することになると国家のために勤労し、直道(正道)を進んだ。これは『色(表面)は仁を取りながら実際の行動は違えた(『論語』の言葉が元になっている)』というものだと言える。王莽は元から不仁であり、しかも佞邪の材(才)があり、また四父(王鳳、王音、王商、王根)の歴世の権に乗じ、漢の中微(半路における衰退)に遭い、国統が三絶し(成帝、哀帝、平帝には後嗣ができなかった)、そのうえ、太后が寿考(長寿)によって宗主になったために姦慝(奸悪)をほしいままにし、簒盗の禍を成してしまった。これらの事から推して言うなら、これも天時(天と時。天命)であり、人力がもたらしたことではないと言えよう」


「帝位を盗んで南面してからは、顛覆(転覆。滅亡)の形勢が桀・紂よりも険しくなった。しかし王莽は晏然(安寧)として自分が黄帝と虞帝(舜)の復出(再生)だと信じて疑わず、恣睢(放縦)になってその威詐(武威と詐術)を奮った。その毒が諸夏(中華)に流れ、乱が蛮貉に蔓延したにも関わらず、まだその欲を満たすには足りなかった。そのため四海の内が囂然(憂愁の様子)として生を楽しむ心を失い、中外が憤怨し、遠近が共に兵を発したのである。城池を守れなくなり、支体が分裂し、ついに天下の城邑を廃墟とさせ、害が遍く生民を覆った。書伝が記載する乱臣賊子からその禍敗を考察しても、王莽のように甚だしい者は未だにいなかったと言える。昔、秦は『詩』『書』を焼くことで私議(正道ではない個人の考え。ここでは秦が推進した法家の思想を指す)を立て、王莽は『六芸』を誦して姦言を粉飾した。両者は路は違っても帰するところは同じで、共にそれらを用いて滅亡することになったのだ。皆、聖王に駆除される対象になっただけである」




 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ