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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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漢の旗は連なりて

 成紀の隗崔と隗義、上邽の楊広、冀の人・周宗が同時に兵を挙げて漢に応じた。


 成紀県は天水郡に属し、上邽県は隴西郡に属している。かつては邽戎(戎族の一つ)の邑だったところでもある。冀県も天水郡に属している。


 隗崔らは平襄を攻めて王莽が置いた鎮戎大尹・李育を殺した。


 平襄県も天水郡に属している。王莽は天水郡を鎮戎に改名している。


 この反乱を起こした隗崔の兄の子・隗囂はかねてから名声があり、経書を愛していることで有名であった。隗崔らは共に隗囂を上将軍に推した。隗崔は白虎将軍に、隗義は左将軍と称している。


 隗囂はこれを受けて使者を送って平陵の人・方望を招き、軍師にした。


 方望は軍師として迎えてきたことから自分への敬意を感じ、隗囂を説得して平襄邑の東に高廟(漢高帝廟)を建てさせた。


 七月、高祖(高帝)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀り、隗囂らは皆、臣と称して儀式を行った。。馬を殺して同盟し、奮起して劉氏宗室を援けることを誓った。


 その後、檄文を郡国に送って王莽の罪悪が桀・紂に匹敵すると弾劾し、兵十万を統率して雍州牧・陳慶、安定大尹・王向を撃殺した。これらの衆も吸収し、更に諸将を分けて隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌を攻略させ、全て降した。


 かつて茂陵の人・公孫述は清水長になったことがあった。その能力によって名が知られるようになった。後に導江卒正に昇進して臨邛を治所にした。


 漢兵が起きると南陽の人・宗成、商(弘農郡の県名)の人・王岑も兵を起こして漢中を攻略し、漢に呼応した。王莽が置いた庸部牧・宋遵を殺し、その衆は合わせて数万人になった。


 公孫述は使者を送って宗成らを迎え入れた。


 ところが宗成らは成都(蜀郡の県)に入ると虜掠暴横(略奪横暴)を行うようになった。


 公孫述は郡中の豪傑を招いてこう言った。


「天下が共に新室を苦とし、劉氏を思って久しくなる。だからこそ漢の将軍が来たと聞くや、道路に馳せて迎えたのである。しかしながら今、百姓は無辜(無罪)にも関わらず、婦子が係獲(捕獲)されている。これは寇賊であり、義兵ではない」


 公孫述は部下に漢の使者を偽らせ、公孫述に輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を授けさせた。


 その後、精兵を選んで西南に向かい、宗成らを撃って殺した。その衆は公孫述に吸収されていった。


 元鍾武侯・劉望も汝南で挙兵して占拠した。彼は劉秀や劉玄と先祖は同じである。


 昆陽で劉秀に敗れて逃走した新の納言将軍・厳尤と秩宗将軍・陳茂は劉望に帰順した。


 八月、劉望が皇帝の位に即き、厳尤を大司馬に、陳茂を丞相に任命した。


 王莽はこれを恐れて、太師・王匡、国将・哀章を派遣して洛陽を守らせた。


 一方、更始帝は定国上公・王匡を送って洛陽を攻めさせ、西屛大将軍・申屠建、丞相司直・李松を送って武関を攻めさせた。李松は李通の従弟である。


 更始勢力が近畿に迫ったため、三輔が震動した。


 析の人・鄧曄と于匡が南郷で百余人の兵を挙げて漢(更始勢力)に応じた。


 当時、新の析宰(析県の宰)が兵数千を率いて鄡亭に駐留し、武関の守りに備えていたが、鄧曄と于匡は析宰にこう言った。


「劉帝が既に立ったのに、君はなぜ命を知らないのだ」


 析宰は投降を請い、鄧曄らはその衆を全て得た。


 鄧曄は輔漢左将軍を、于匡は右将軍を自称し、析や丹水周辺を攻略して武関を攻めた。武関都尉・朱萌は投降。


 更に進軍して右隊大夫・宋綱を攻撃し、これを殺した。その後、西に向かって湖県を攻略していく。


 この事態に王莽はますます憂慮したが、策が思いつかなかった。


 そこで崔発が王莽に言った。


「『周礼』および『春秋左氏(左伝)』によると、古の国に大災があれば、哭してそれを厭(圧)したものです。だから『易』は『先に大哭して後に笑う』と書かれているのです。呼嗟(呼号哀嘆)によって天に告げることで救いを求めるべきです」


 周の春官に属す女巫の職責は、国に大災があれば、歌哭して天に救いを請うことであった。


「哭」とは「哀を告げること」のこといい、また、春秋時代に楚が鄭を包囲した時、鄭人は大臨(集まって哀哭すること)し、城壁を守る者も皆哭した。


 崔発の進言はこれらの故事が元になっている。


 王莽は自らも敗れつつあることを知り、群臣を率いて南郊に至った。符命の本末を述べてから天を仰いで、


「皇天が既に命を私に授けたのに、なぜ衆賊を殄滅(殲滅)しないのか。もしも私が正しくないのなら、雷霆を下して私を誅すことを願う」


 と言い、胸を叩いて大哭した。気が尽きると伏して叩頭した。


 また、天に告げる千余言(字)の策書を作って自ら今までの功労を述べた。


 諸生(儒者。学者)・小民(庶民)も旦夕(朝夜)に集まって哭し、そのために餐粥(粥等の食事)を設けた。悲哀が特に激しい者や策文を唱えることができた者は郎に任命したため、郎の数が五千余人に上った。䠠惲がそれを統率する。


 王莽は九人を将軍に任命し、それぞれ虎を号にして「九虎」と呼んだ(これを「虎将」という)。九虎に北軍の精兵数万人を率いて東に向かわせ、その妻子を人質として宮中に入れた。


 当時、省中(禁中)には万斤の黄金が入った匱(箱)がまだ六十匱あり、黄門、鉤盾、臧府、中尚方の各所にもそれぞれ数匱が残されていた(合わせて六十余万斤の黄金があった)。


 長楽御府、中御府および都内(国庫を管理する官署)や平準帑藏に貯蔵された銭帛・珠玉・財物も黄金に並ぶほどの数があった。


 しかし王莽はますます財物を惜しみ、九虎の士に一人当たり四千銭しか与えなかった。衆(将兵)は怨みを重ねて闘意(闘志)を失う。


 九虎は華陰の回谿に至り、険阻な地形を利用して守りを固めた。防御線は北は河(黄河南岸)から南は山(恐らく崤山)に至るものである。


 于匡が数千弩を率い、堆(高地)に乗じて戦いを挑んだ。


 鄧曄は二万余人を指揮して閿郷から南の棗街、作姑に出撃し、王莽軍の一部を破ってから北に回り、九虎の後ろに出て攻撃した。


 九虎のうち六虎が敗走し、史熊、王況の二虎が宮闕を訪ねて死に帰した(罪を認めて死刑を受け入れるという意味である)。


 王莽が使者を送って、


「死んだ者はどこに居るのか(自殺を促す言葉)」


 と責めさせたため、二人とも自殺した。


 他の四虎は逃亡した。四虎の名は伝わっていない。


 残った郭欽、陳翬、成重の三虎は散卒を集めて渭口の京師倉を守った。


 鄧曄は武関を開いて漢兵(更始勢力)を迎え入れた。


 丞相司直・李松が二千余人を率いて湖に至り、鄧曄らと共に京師倉を攻めたが中々攻略できなかった。


 そこで鄧曄は弘農掾・王憲を校尉に任命し、数百人を率いて渭水を北に渡らせ、左馮翊界内に入って城を降し、その地を占領した。


 李松は偏将軍・韓臣らを派遣し、直接、西進して新豊に到らせた。韓臣らは王莽の波水将軍と戦い、波水将軍は敗走した。


 因みにこの波水将軍は竇融という。後に劉秀を支える者の一人がこんなところで戦い、敗走していた。


 韓臣らは敗走する兵を追って長門宮に至った。


 王憲は北に向かって頻陽に至った。通過する場所で人々が王憲軍を迎え入れて投降し、櫟陽の人・申碭、下邽の人・王大といった大姓がそれぞれ衆を率いて王憲に従った。


 また、属県(三輔の諸県)でも斄(県名)の厳春、茂陵の董喜、藍田の王孟、槐里の汝臣、盩厔の王扶、陽陵の厳本、杜陵の屠門少(屠門が氏)らがそれぞれ数千人の衆を擁して自ら漢将を号した。


 この時、李松と鄧曄は京師の小さな倉(京師倉)も攻略できていなかったために長安城の攻略は更に困難だと思い、更始帝の大軍が到着するのを待つべきだと判断した。


 そこで軍を率いて華陰に至り、攻城の道具を準備した。


 しかし長安の周辺で挙兵した者達は城下の四方で集結しており、天水の隗氏もすぐに到着すると聞いたため、皆、先を争って入城しようとした。


 王莽を誅殺するという大功を立てて、しかも他の勢力に先んじて鹵掠(略奪)するという二つの利を貪るためである。


 王莽は使者を分けて派遣し、城中諸獄の囚徒を釈放して全てに兵器を与えた。豨(野豚)を殺してその血を飲み、皆に誓って、


「新室のために尽力しない者は、社鬼(土地神)がこれを記憶する」


 と宣言した。


 王莽は更始将軍・史諶に彼等を指揮させたが、渭橋を渡ると全て離散逃走してしまった。史諶は単身で引き還した。


 衆兵は王莽の妻子や父祖の冢(墓)を掘り起こし、それらの棺椁や王莽が建てた九廟、明堂、辟雍を焼いた。その火は城中を照らすほどであった。


 新王朝の最後が近づきつつあった。














 

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