夢とかけ離れていく姿
劉秀は険しい顔をしたまま宛へ向かう。
(天よ、天よ、天よ)
彼の心は煮え立つ怒りを必死に抑えながら駆ける。
(なぜ、あなたはこれほど私から奪うのですか)
幼い頃には父を奪い、家族から離した。挙兵時には母を奪い、姉の子供とと次兄、叔父上の家族を奪った。そして、今回は長兄を奪った。
(これが困難だとでも言うのですか)
孟子は天は天命を授ける者には困難を与えるという。ならば高祖・劉邦はどうだ。劉邦は身内の家族はあまり失わずに天下を得た。しかも家族を失っても彼は成熟した大人であった。また、天はありとあらゆるものを劉邦に与えた。才覚のある臣下たち、忠義に溢れる者たちなどを・
劉秀とはあまりにも対照的ではないか。天はあまりにも劉秀に対して厳しすぎる。天は彼の身内をどんどんと奪っていく。
どんどん心がおかしくなっていくのを感じる。
異常なほどの怒り、それを必死に抑え込もうとしている自分、怒りのまま兄を暗殺した者たちを殺しにいきたい。
走ってる途中で川を見つけるとそこで降りて休憩すると述べると川の水で顔を洗う。
(私はこんな顔をしているのか)
おぞましい怒りの表情である。
「こんなものは僕ではない……」
『どんなに言い繕ったって、文叔は変わらない。変わらない。臆病で弱虫な文叔ちゃんさ』
厳光の言葉が蘇る。
「その通りさ」
怒りのままに兄の仇討ちを考えた。しかし、王常は兄とは仲が良かったがだからといって仲間から離れてこちらにつくとは思えない。李通はなんとしても新王朝を潰したいのであり、身内同士で争うことを望まないだろう。
劉氏の一族も協力してくれるかはわからない。
(兄はそれだけ評判は悪かったからね……)
そう思いながら川を見ながらにっこりと笑う。
「よしよし笑えた。これでこそ僕だ」
陽気で明るい劉秀でなければ……
「官に付くなら執金吾、妻を娶らば陰麗華~」
鼻歌混じりに歌う。それはまるでかつての夢を思い返すがのように、かつての理想とする姿に戻ろうとするかのように、彼は歌う。
「さあ、急ぐとするか」
明るい声になって言う劉秀に周りは驚きつつ従う。
馬に駈けている間、劉秀は先ほどの言葉を呟き続けた。
その姿を厳光は見ていた。
「あはは、滑稽だねぇ。何も変わらない。英雄なんて呼ばれたって、臆病で弱虫でしかないさあ」
劉秀の姿に彊華は目を細める。
「文叔……」
劉秀が単身で来る。
この報告に宛の誰もが驚いた。
劉縯に心ある者は心配し、心無い者は警戒した。
劉秀はそんな空気の宛の城門前に来ると、そこに酒を飲みながら座り込んでいる馬武を見つけた。
(もし仇討ちしようとしたらこの人は敵になるのだろうか)
そんなことをふと思いながら劉秀は笑みを浮かべなら話しかける。
「このようなところで飲む酒は美味いですか?」
「おめぇのくそったれな顔を見たら不味くなった」
(変わらないなあ)
馬武はどんな旗の下でも変わらないだろう。ある意味、嘘が無い人である。
馬武はやれやれとばかりに立ち上がるとそのままどこかへと去っていった。
(心配してくれたのかなあ……)
そうだったらいいなあと思いならば劉秀は門をくぐる。誰もが奇異な目で劉秀を見ている。
「すっかり人気者になってしまった」
この時、護衛として同行していた馬成に劉秀は笑いかける。馬成はどう答えて良いのかわからず黙りこむ。因みに彼は若くして郡吏を努めており、潁川攻略する上で一部の県の内政を任さすほど信頼を寄せている男である。
劉秀は宮中に入るとすぐさま、兄・劉縯の罪を述べて謝罪した。
「あまりにも慌てまして潁川攻略を勝手にやめて参りました。私の軍を全て返上し、この罪に伏したいと考えております」
彼は徹底的に罪の言葉を述べ、謝罪のみを行った。
これがあの昆陽の戦いの英雄だろうか。
誰もがそう思いながらも劉秀の哀れさに同情した。暗殺の実行者である李軼と朱鮪までも同情した。
取り敢えず、後で沙汰を述べるということで劉秀は退室を望まれたため、彼はそれに従った。
もちろんこの後の行動を監視されているのは劉秀はわかっている。
劉秀の元に司徒の官属(劉縯の官属。劉縯は大司徒)が劉秀に会いに行き、弔辞を述べていく。しかしながら劉秀は彼らと私語を交えず、ただ自分の過失を引責するだけであった。
「劉文叔様ですね」
そこに一目で逸材とわかる人が話しかけてきた。岑彭である。
「この度は……」
「兄には罪があった。それだけのことです」
劉秀はそう言った。内心では彼らは所詮、兄を守れなかったという意識が強い。
「優しい方だ」
そう言われ、劉秀は目を細める。
「その優しさを見失わないように、どうかお体を大切に」
岑彭はそう述べて、立ち去っていった。
(ああ言う人もいるのか……)
あの人だけは兄の傍に居てくれて良かった人であった。そう思った。
その後も劉秀は昆陽の功績を誇ることもなく、劉縯のために喪服を着ようともせず、普段と同じように飲食したり談笑した。
監視からその様子を見て流石に更始帝は慚愧し、劉秀を破虜大将軍に任命して武信侯に封じることにし、罪を問わなかった。
「だが、軍は奪う……」
まあ仕方ない。それでも困難は脱したと言っていいだろう。
劉秀はため息をついた。
「取り敢えずはよしだ」
『偽善者』
かつて彊華に言われた言葉を思い出す。
「その通りだ……」
劉秀はそう呟くと、
「官に付くなら執金吾、妻を娶らば陰麗華~」
そう劉秀は歌う。
かつての夢とかけ離れた自分を感じながらふと、ある男の存在を思い出した。
その男とは陰識である。陰麗華の兄である。彼は劉縯の挙兵の時、長安へ留学していたが、こうはしてられないと故郷に戻り、一族を集めて急遽参加した人である。
そんな彼の元に劉秀は訪ねた。
「何のようだろうか」
陰識は兄の仇討ちに誘うつもりかと警戒しつつ、対応した。
「お願いがあって参りました」
「ほう、お願いとは?」
(やはりか……)
予想通りの願いだろう。しかし正直従うべきではないというのが彼の中での結論である。
「その前に確認したいことがございます」
「何でしょうか?」
「その……」
急に劉秀は恥ずかしそうにする。
「あのですね。あなたの妹君はどなたかに嫁がれているでしょうか?」
あまりにも意外すぎる言葉に陰識は沈黙する。しかしその後、微笑むと答えた。
「嫁いではおりません」
「誠ですか?」
劉秀は嬉しそうな表情を浮かべる。
「ええ、少し事情がありましてね……しかしながら……あの約束が果たせるか……」
「約束?」
首をかしげる劉秀に陰識は首を振る。
「お気になさらず、それで妹が嫁いでいないことをお聞きになられてどうなさいますか」
劉秀は顔を真っ赤にしながら言った。
「願わくば、妹君を妻として迎えたいのです」
「承知しました」
あっさりと陰識は同意した。
「誠によろしいのですか?」
劉秀はあまりにもあっさりと答えたため、聞き返す。
「ええ、構いませんよ」
「感謝致します」
劉秀は心の底から喜ぶ、その姿に陰識は目を細める。
(約束は果たしましたぞ)
劉縯の姿を思い浮かべながら彼は呟いた。




