劉縯
劉秀の勝利は新王朝に大打撃を与えたと言っていい。しかし、それは同時に彼と兄である劉縯の名声の高まりを意味しており、新市、平林の諸将たちにとっては面白くなかった。
彼らは更始帝に秘かに進言し、劉縯兄弟を除くことを勧めた。
その空気は劉秀でもわかるものであり、彼は父城を攻めている間に劉縯へ書簡を出して戒めていた。
「事は不善を欲しています(善くない陰謀があります)」
しかし劉縯は、
「いつもと同じことだ」
と返して、警戒しなかった。
そんなある日、更始帝が諸将を集合させた。更始帝はその席で劉縯が持っている宝剣を見せて欲しいと言った。劉縯は宝剣と呼べるものではないと断りながら剣を更始帝に近づいて差し出した。
その時、綉衣御史・申徒建(「申屠建」とも書く。申徒と申屠は同じであるとされている)がそれに合わせて玉玦(円形で一部が欠けた玉器)を更始帝に示した。
「玦」は「決」に通じ、劉縯暗殺を決断するように促しているのである。
しかし更始帝は劉縯の剣を持ったがそのまま剣を振り下ろさず、眺めるだけにとどめた。
劉縯の舅(母の兄弟)・樊宏はこれに違和感を覚え、劉縯に言った。
「申徒建には范増の意(范増は鴻門の会で項羽に劉邦殺害を勧めた)があったのではないか?」
劉縯はそれでも気にしなかった。
また、あの劉秀の勝利によって被害を受けたのは新王朝だけでなく、あの戦いから逃げ出した李軼も名声を失うという被害を受けていた。
彼にとって劉縯兄弟は李氏のための道具でしかないという認識が強かったにも関わらず、あのような名声を持ち、自分は名声を失いそうになっている。
そんな彼が取った行動は名声を失うきっかけを作った兄弟と対立し、始末しようとしている者たちに近づくことであった。特に彼は理屈屋の朱鮪に近づいた。皇帝よりも臣下のが名声が高く、主催者になるということはあってはいけないと述べて李軼は信用を得ていた。
劉秀はこの動きに気づき、念の為、劉縯を戒めて言った。
「彼は今後、信用するべきではありません」
しかし劉縯はこれにも従わなかった。彼は前から李軼のことを見下しており、彼に何ができようかと思っている。
だが、そんな彼も味方を得れば、凶暴な牙を向けるということを彼は理解できなかった。
劉縯の部将・劉稷はその勇が三軍(全軍)の筆頭になるほどであった。
そんな劉稷は更始帝が即位したと聞いた時、怒ってこう言った。
「元々兵を起こして大事を図ったのは伯升(劉縯)兄弟である。今まで更始は何を為したというのか」
後に更始帝が劉稷を抗威将軍に任命したが、劉稷は拝命しなかった。そこで更始帝は諸将と共に数千人の兵を布陣し、まず劉稷を捕らえた。
更始帝が劉稷を誅殺しようとすると、劉縯は強く反対して止めた。
李軼と朱鮪はこのことから徒党を組もうとしていると訴えて、更始帝に劉縯を捕えるように勧めた。
ついに更始帝はこれに同意して、暗殺者を劉縯へと放った。
暗殺者たちは自らを皇帝の使者と名乗り、堂々と彼の陣中に入っていった。
「皇帝より命令が下った。将軍をお呼びである」
劉縯が出てくると暗殺者は一斉に彼へ飛びかかり、剣で貫いた。劉縯が倒れ、死んだと判断すると彼らはすぐさま、去っていった。
「ぐ……がぁ……」
倒れたまま劉縯は前に進もうとする。
「秀……お前に一言……謝りたかった……」
それが最後の言葉であった。
彼の遺体は彼の食客たちがすぐさま、見つけ劉秀の元へ急ぎ向かった。
父城へ馮異を返し、これで平定が終わるだろうと思い、一人でいると風を感じた。風が吹いた先を見ると白い仮面が見えた。
「厳光……」
長安で会った奇人である。
「やあ、ふふふ、伝えたいことがあって来たよ」
「伝えたいこと?」
胸のざわめきを感じながら聞き返す。
「君のお兄さん死んだよ」
軽い笑い声が暗闇に木霊していく。その時、扉が開かれた。
「劉秀っ」
朱祜が出てきた時には厳光の姿はなかった。
「劉縯殿が」
「死んだのか?」
劉秀は自然にそう言った。
「そうだ……しかも暗殺された。皇帝陛下に……」
その時、劉秀は幼い頃の思い出が浮かんだ。
劉縯が幼い劉秀を背に乗せて歩いている。その時、彼は劉秀に教えるように『大風歌』を歌っていた。それを意味もわからない状態で劉秀は笑ったのを覚えている。それに釣られるように兄も笑った。
その光景が一瞬で真っ暗になり、厳光の笑い声が響く。
「どんなに言い繕ったって、文叔は変わらない。変わらない。臆病で弱虫な文叔ちゃんさ」
笑い声がいつまでもいつまでも聞こえるばかりであった。
(こんな弱々しい劉秀の姿は初めて見た)
朱祜は自分も動揺しているのを必死に抑えながらいう。
「どうする?」
彼の言うどうするとは仇討ちをするかということである。仇討ちをすると劉秀が言うのであれば、喜んで力を貸すつもりである。
(李通殿、王常殿ならば協力してくれるはずだ。それに劉縯殿の旗下の配下はまだいる。十分、勝つことができる)
そう考えての発言である。しかし劉秀は彼の言葉を聞いているのか聞いていないのか。目が揺れるばかりで答えない。
「劉秀っ、どうする。君が決定しなければならない」
思わず、語気を荒げると劉秀は自分を見た。
(本当に劉秀か?)
それほどに弱々しい目を劉秀は朱祜に向けている。しかし先ほどまで揺れていた目が揺れなくなり始めた。そして、ひと呼吸すると言った。
「朱祜……ここを任せていい?」
「構わないが、君はどうする?」
「謝罪しに行く」
劉秀の言葉に朱祜は驚く、そのようなことをしても殺されるだけではないか。
「劉秀、それでは殺されてしまう」
「大丈夫、大丈夫だから」
劉秀は父城攻略の軍を朱祜に任せると少しの供と共に、宛へと向かった。
彼の耳元では厳光の笑い声と言葉が未だに木霊していた。




