昆陽の戦い 後編
王尋と王邑の元に劉秀の率いる軍が迫っていることが伝えられた。しかしながらその数が一万にも満たないことを聞くと彼らは兵数千を送って交戦を命じた。
「大軍だからこそ、油断があるんだろうね」
劉秀は新軍が数千のみで潰しにかかったことから自分たちを脅威に感じていないのだと判断した。それにより彼はこの隙こそが勝利への活路だと判断した。
「勝つための活路はある」
彼はそう呟くと突撃を仕掛けた。
大いに自ら矛を振るながら戦場を駆けまわって数十級を斬首した。
諸部の将はこの姿に感嘆し、
「劉将軍は平生なら小敵を見て怯えているようなのに、今は大敵を見て勇猛になっておられる。甚だ不思議なことだ。しかもまた前に向かって進んでいっている。我らは将軍を助けることを請う(将軍を助けたい。将軍を助けに行こう)」
と言い、劉秀の後を追い、戦果を挙げていった。皆、劉秀の勇気に感化されて奮闘する。
一度、引き上げると劉秀は新軍の様子を眺めてから再び、進撃した。
矛を振るい、兵を殺していく。鬼気迫る表情で敵を斬っていく姿に王覇は感動する。
彼は頴川群の人で、若くして獄吏になったがあまり好まなかったため、父によって長安へ留学された人である。
この乱世において高祖・劉邦のような人が出てくることを期待し、この軍に参加したが、彼が望むような高祖のような人はいないと感じていた。更にこの大人しい劉秀の元に配属になり、正直、あまり良い気はしなかった。
そんな風に思っていたにも関わらず、今、あの大人しい劉秀が鬼気迫る表情で百万という大軍に挑みかかっている。
「高祖はいない。されど劉文叔将軍がおられた」
王覇は大きな感動があった。今、新たな英雄の姿を目撃しているのだと感じた。
「いくぜぇ」
嬉々としながら彼は劉秀と共に敵兵を屠っていく。彼はここから長きに渡り、劉秀と共に運命を共にしていくことになる。
劉秀は何度も突撃を仕掛けながら新軍の様子を見る。
王尋、王邑の兵が後退した。
「よし、もう一回」
劉秀は諸部と共に乗じて数百千級(数百から千級)を斬首してみせた。劉秀軍は連勝して前進を続ける。
(考えろ、考えろ)
勝利のために今、できることをできる最大の手を。
劉秀は自分のことを今まで歴史に出てきた英雄と呼ばれるような者たちとは違い、天性の才覚に欠けていると思っている。
孟嘗君のような人としての怖さも白起のような人外じみた怖さも無い。
だからこそ、勝利のために知恵を巡らせなければならない。努力しなければならない。諦めずに戦い続けるしかない。
かつての英雄たちとは自分は違うのである。それでも……
『悩んでいる人に手を差し伸べ、助ける。かっこいい男だろう?』
来歙の言葉が思い出す。
「憧れることはできる。憧れに向かって努力することができる」
劉秀はつぶやき、昆陽城を見る。あそこからも自分たちの戦いの様子を見ることはできるはずである。それでも自分たちが所詮少数に過ぎないと思っているはずである。だから出てこないのだろう。
(なら、城のみんなにも勇気をあげないと)
「朱祜っ」
劉秀は朱祜を呼ぶと偽の書を複数作らせ、昆陽城と新軍の元に届けさせた。
内容は宛下の兵が到着したというものである。
この時、兄である劉縯が宛を攻略して既に三日が経っていたが、劉秀はそれを知らなかった。
「これで少しでも動揺してくれれば」
劉秀はそう呟きながら再び出撃の準備を始める。その姿に朱祜は悔しさを滲ませる。
(ここに来ても諦めずに戦っている)
長安で共に肩を並べ、学んだ中なのにいつの間にか差が生まれている。
(負けてはいられん)
「どうする。このまま一気に行くか?」
「お、いつも真面目で慎重な君がそう言うなんてね。でも、悪くない。一気に行ってみるか」
劉秀は彼の言葉に笑顔で答えると敢死者(決死隊)三千人と共に城西の川岸から新軍の中堅(中軍。主将がいるので堅く守られている。そのため、中堅という)を衝いた。
王尋と王邑は漢軍を軽視していたため、自ら万余人を率いて陣内を巡行し、諸営にその場から動かないように厳しく命じていた。そのため単独で漢兵を迎え撃つことになった。
交戦の結果、新軍が不利になったが、大軍は勝手に動いて助けに行くことができなかった。
「正に好都合とはこのことだね」
劉秀は喜びながら一気に攻めかかるように指示を出す。
王尋と王邑の陣が混乱し、ついに崩壊した。王尋は戦死した。
「なぜだ」
王邑はそう叫びたかっただろう。彼の失態は自らの失敗の経験に固執しすぎたところである。
この時、王常が合わせるように城中の兵も戦鼓を敲いて喚声を上げ、出撃した。中と外が威勢を合わせ、叫び声が天地を振わせた。
王邑は敗走し、王莽軍は混乱に陥って大壊滅した。走って逃げる者が互いに踏み合い、百余里の地に屍が伏していく。
更に大雷と大風 に遭い、屋根の瓦が全て飛ばされ、雨が降り注いだ。滍川(滍水。南陽魯陽県西の堯山が水源で、東南に流れて昆陽城北を経由し、東の汝水に入る)が水かさを増して溢れ出した。
崩壊した王莽の大軍が号呼し(叫び声を上げ)、虎豹も全て股戦(戦慄。懼れ震えること)した。逃走する士卒が争って川に向かい、溺死者が万を数え、そのために水が流れなくなるほどであった。
王邑、厳尤、陳茂は軽騎で死人を踏みながら川を渡って逃走した。
誇張が過ぎるところもあるが、それほどに混乱し収集がつかなくなったのだと思われる。
「勝ったのか」
信じられないという表情で朱祜が呟く。周りを見ると皆、誰もが埃と泥だらけである。劉秀も同じようである。息も耐えたえ、勝てたのが不思議なほどである。
「でも勝てたんだ」
劉秀は呟く。生き残った。その思いの方が強かった。
「さあ、みんな敵さんが残したものを皆で分けようか」
疲れを忘れる明るい声で言った。
漢軍は新の軍実(軍中の物資)・輜重を全て奪った。車甲・珍宝といった物資は数え切れず、数カ月経っても輸送が終わらなかったため、一部の余った物は焼き捨てるほどであった。
王莽の士卒は奔走してそれぞれ自分の郡に還っていった。王邑だけは自分が率いる長安の勇敢な士数千人と共に洛陽に還った。
関中の人々は大敗の情報を聞いて恐れ震えた。
この後、この勝利の報告を訊くや海内の豪桀が一斉に呼応し、各地で牧守を殺して将軍を自称した。彼らは漢の年号を使って詔命を待った。
こうした動きは旬月(一月)の間に天下に拡がることになる。同時に劉秀とその兄・劉縯の名が天下を震わすことになった。
彊華は戦勝に湧く劉秀たちを見ている。
「勝利したか……」
そのつぶやきを聞いて厳光が言った。
「天が勝たせようとしただけさ」
劉秀が努力して成し遂げた結果ではないと否定すると、
「それは違う」
彊華は反論した。
「あれはあいつが最後まで諦めなかった結果だ」
「おやおや、肩入れするの、劉秀に」
からかっているような声をしながらもその言葉が怒りから出ていることが彊華にはわかった。
「そう言うわけではない」
「そうかなあ、それならそんなこと言わないはずだよ。どうしたの。いつもの憎まれ口を叩く、兄……彊華らしくないよ」
怒り混じりの彼の言葉に彊華は答えなかった。
厳光は仮面を身につけながら呟く。
「僕は認めない。人の本質はどう言い繕ったって変わらないんだ」
劉秀を睨みつける。
「そのことはもうすぐわかる」
戦勝に喜ぶ、劉秀に大きな悲しみの時が近づきつつある。
厳光の兄の後はなんでしょうか?
兄上、兄様、兄貴、兄者、兄さん、兄ちゃん……




