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銅馬が征く  作者: 大田牛二
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少年よ、夢を抱け

初めましての人からお久しぶりの方まで、ついに後漢の光武帝の話まできました。どうぞよろしくお願いします。外伝の「蛇足伝」の方で前漢物語を更新しましたので、そちらもどうぞ。

 暗い目をした少年が男に連れられて歩いている。


「ここが今日からお前の家だぞ」


 男がそう言うのを少年は頷く。


 家の中に入ると男の妻とその子がじっと少年を見ている。それに対して少年は目を伏せる。


「さあ、お前の部屋に行こう」


「はい」


 小さな声で答える少年を見て、男はため息をつく。男は少年の叔父で、劉良りゅうりょうという。ちなみに息子の名は劉栩りゅうくという。


 少年の名は劉秀りゅうしゅう、字は文叔ぶんしゅくという。彼の父は劉欽りゅうきんといい南頓県令だった人である。あまり殖産に興味が無く、人々によく施しを行っていた。だが、彼が死ぬと劉秀の家は生活ができないほどの貧窮に陥った。人としての綺麗さが子孫を助けることだけでなく、苦しめることもあるという例であるとも言える。


 兄であった劉欽が死んだ後、苦しい生活となっていた劉秀の母であり、劉良からすると義姉である樊氏に末弟である劉秀を預かり、援助したいと申し出た。


 樊氏はそれに同意したため、劉秀は叔父の元に預けられることになった。樊氏もまだ幼い劉秀を手放すことには抵抗感があったが、家には長男の劉縯りゅうえん(字は伯升)と次男の劉仲りゅうちゅう、産まれたばかりの劉秀の妹を抱えていた。正直、全員を賄えるほどの蓄えはなく、娘はまだ乳飲み子である。


 そのため泣く泣く劉秀を義弟に預けたのである。しかしながらその行為はまだ幼い劉秀の心にひびを入れた。


(大人しい子であるとは思っていたが……)


 劉良は劉秀の様子に悲しみを覚えた。今、彼は母に捨てられたという意識を持っている。また、彼は頭がよく、叔父に預けられたとはいえ、叔父の家を継ぐことはないことも知っている。その立場のことを理解しているため、叔父の家の中にいることも苦痛になっている。


 劉秀がこのままでは歪みを抱えて成長することになってしまうと思った劉良は積極的に彼を連れ出し農作業を行った。自分の働きで母を、兄弟を、自分の家を助けているのだという意識をもたらすことで少しでも前向きにしようと考えたのである。


 元々劉秀は大人しいものの真面目な性質を持っている。口数は少ないものの真面目に農作業に従事した。また、農作業の才能があるようで彼の担当の農地の実りは中々によかった。劉良はそのことを大いに褒めた。


 叔父である劉良の優しさは心のひびを少しずつではあるが、癒していた。しかしながら逆にそのひびが大きくなる出来事が起きた。


 兄である劉縯がたまたま劉秀が働いているところを通り、劉秀を見つけると彼を殴ったのである。


「お前は私たちよりも楽をしている」


 それが劉縯の苛立ちであった。


「縯、何をしているか」


 劉良が彼を叱りつけると劉縯はさっさと去っていった。


「気にすることはない」


 劉秀を立ち上がらせ、劉良は優しい言葉をかけたが、劉秀の心のひびは以前として大きいままであった。


 その後も劉縯は劉秀を見つけると苛立ちをぶつけた。


「お前は高祖の兄といった器量だ」


 高祖・劉邦りゅうほうの兄は農作業ばかりを行っていたが、劉邦が天下を取るまでに何の功績を挙げることができなかった。そのことを揶揄した言葉であった。


「お前の兄は高祖を気取って、遊興の連中で関わり、遊んでばかりいる。だがな高祖には天命があったのだ。高祖を真似たところで高祖にはなれん」


 劉良はだから気にすることはないと劉秀を励ました。彼は劉秀の真面目な性質こそが世間に認められるべきだと思っている。


 しかしながら劉秀は別に劉邦の兄であってもいいと思っている。それよりも悲しいのは兄に冷たい言葉を浴びせられることでる。彼の心のひびは更に大きくなっていく。


 その心のひびを抱えながら劉秀は農作業には毎日のように出ていた。それ以外の時は部屋に引きこもることの多い彼であったが、農作業を行っている間は気持ちが落ち着くことと元来持ち合わしている責任感がそうさせていた。


 そんな時、彼の担当の農地に行列が近づいてきた。


「あれは陰氏の行列だ」


 共に作業している者からそう聞いて、劉秀はその行列を眺める。


 陰氏は劉秀のいるここ南陽群の豪族である。


「聞いたが、陰氏にはとびっきりの美女がいるそうだ」


 共に作業を行っている男が劉秀にそう言った。


「そうですか……」


「ああ、そうだ名は確か陰麗華いんれいかって言うらしい」


(陰麗華……)


 劉秀はふと行列の中にある馬車を見た。すると馬車にかけられた布が風で揺れ、中にいた美少女の姿が見えた。


(綺麗だ……)


 劉秀はあれが噂の陰麗華だと思った。すると馬車の中にいた美少女と目があった。


「あっ」


 そして、美少女は目のあった劉秀に微笑んだ。それを見て劉秀は胸を抑える。


「陰麗華か……」


 馬車が見えなくなるまで、劉秀はずっとその行列を見続けた。ひびの入った心に陰麗華の美しい顔が浮かぶようになった。


 そんなことがあったある日、一人の男が劉良の家を訪ねた。


「おお、来歙らいきゅうか」


 劉良は男の姿を見るや否や喜びを顕にし、彼を家に入れた。


 来歙は劉秀の祖父の姉妹を母に持っている人で、遠い親戚の人である。


「どうしてここに?」


「いやはや舂陵侯の様子を伺うついでに参ったのだよ」


 舂陵侯とは劉嘉りゅうかのことで本来であれば劉秀の家の本家にあたる家の当主である。


「そうであったか」


 劉良は微笑む。それに対し、来歙は顔を険しくする。


「そして、王朝がついに滅んだ」


「そうか……」


 漢王朝、いや正確に言えば、今は新王朝というべきであろうか。かつて劉邦が立てた漢王朝は王莽おうもうという男に乗っ取られたのである。


「王莽は劉氏を警戒している。その警告にも来たのだ」


「そうであったか」


 劉良はため息をつく。ついにこの時にきたのかという想いでいっぱいであった。


「できる限り、私も努力してみるがどうか慎みを忘れないでもらいたい」


「承知している」


 二人は頷き合う。


「では、私はこれで」


「ああ、また来てくれ」


「ええ、ぜひとも」


 来歙は劉良の元から離れた。


 馬車に向かう途中で暗い目をした少年に出会った。


(ふむ、容貌が整っているのに、暗さが覆い隠している)


 気になった来歙は少年に話しかけた。


「少年よ。どうかしたか?」


 少年……劉秀は突然、話しかけたため、驚いて何も答えない。


「ふむ、そう言えば、名乗るのは忘れていたな。私は来歙、字は君叔だ。君は?」


「劉秀……」


「ほう、劉氏か。なら舂陵侯のご親戚かな?」


「遠い親戚にはなります。私は劉欽の末子です」


「おお、そうであったか」


 来歙の嬉しそうな大声が劉秀の体を震わせる。


(声の大きい人だ)


 でも、うるさいといった感情は抱かなかった。それよりも明るさを感じさせる声である。


「私は少年の祖父の姉妹を母としていてな。少年からも遠い親戚なのだよ」


「そうなんですか」


 劉秀は彼の容貌をじっと見た。凛々しい眉に髭、まさにかっこいい男というのはこういう人なのだと思った。それに比べれば、自分のなんと貧相なことだろうか。


「少年よ。暗いぞ。どうした?」


 来歙が笑いかける。


「いえ、別に……」


「ふむ、話したくないこともあるものだもな」


 来歙は一人納得しながら劉秀の後ろに回ると彼の体を待ち上げる。


「わっ、な、どうして……」


 突然のことに劉秀は動揺し体を揺らすがそのまま来歙の馬に乗せられた。


「ふふ、どうだ。高いだろう?」


 驚く劉秀に来歙は笑う。


「あの、その……はい高いです」


「そうだろう。そうだろう」


 来歙は頷きながら自分も馬に乗る。


「さあ、行ってみよう」


「どこへ?」


 劉秀が怯えるように言うのが、聞こえているのか否か、来歙は馬を駆けさせた。


「わっ」


 劉秀は馬に乗ったのは初めてである。その速さ、揺れの大きさにびっくりする。


「よく捕まっているのだぞ、少年」


 来歙はそう言って、更に馬を走らせる。劉秀はその速さが怖かった。しかし、同時に風が纏う感じが気持ちよかった。


 来歙は近くの草原にまで馬を走らせ、降りる。そして劉秀に言った。


「少年よ。執金吾という役職を知っているかね?」


「いいえ」


 素直な気持ちで劉秀は問い返した。


「執金吾は都の警備を担う役職だ。とても豪華で目立つ格好をすることが多い」


「へぇ」


「とてもかっこいい役職でな。なりたいと望む者も多いのだ」


 来歙の言葉を聞いて、劉秀は執金吾の格好を想像する。


「少年、目が輝いているぞ」


「えっ」


 劉秀は顔を赤らめる。


「恥ずかしがることはない。男足る者、夢を持たねばな」


 来歙は大声で笑う。


「少年よ、執金吾になりたいか?」


 その問いかけに劉秀はなりたいと思いながらもなれないと思った。


「僕なんかがなれないと思います」


「違うぞ少年」


 来歙は真剣な表情で彼を見る。


「私はなれる、なれないを聞いているのではないのだ。なりたいかと聞いているのだ」


 真剣な表情で見てくる来歙に対し、劉秀は迷いながらも頷いた。


「なりたいです」


「ふむ、それで良いのだ少年」


 来歙は笑う。


「男ならば、夢を持つ者だ。さあ背を正し、胸を張れ、そして大声で言うのだ。官に付くなら執金吾とな」


「えっ、そんなこと……大声でなんて」


「さあ、男ならば言えるだろ。さあ少年」


 劉秀を首を振る。


「少年、先ずは背を正してみろ」


 劉秀は戸惑いながらも従う。次に胸を張れと指示され従う。


「どうだ。少しは自信がみなぎっていくだろう?」


「いえ、その……」


「少年、下ばかり見ているとな人は変なところでつまづくのだ。下を見ているにも関わらずな」


 来歙は上を見るように指を一本、上に向けた。劉秀はそれに従い、上を見上げる。夕暮れの空が広がっている。


「空のなんと綺麗なことか。雄大なことか」


 来歙の言葉に劉秀は同意するように頷く。


「空を眺めていると人のなんとちっぽけなことか。孤独も感じることもある。だがな、勇気もくれるとは思わないか?」


 彼は目を細め、そう言う。


「さあ少年、君は今、何になりたい?」


 劉秀はその言葉を受け、言った。


「官に付くなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」


 思わず、後にそう付け加えた劉秀に対して、にやりと来歙は笑う。


「おやおや、隅に置けないなあ、少年」


 劉秀は顔を真っ赤にする。


「陰麗華……確か陰氏のご息女であったな。なるほど美女で有名な……ほほう」


「あの、その……」


「いいではないか。少年、それが君の夢なのだろう?」


 劉秀はじっと目を伏せたまま、頷いた。


「いい夢ではないか」


「そうですか?」


「そうだとも」


 来歙は笑う。


「その夢に向かって、少年よ努力せよ。努力すれば、夢はきっと叶う」


 劉秀には来歙の言葉が、その姿がとても、とても眩しかった。なぜ、この人はこれほどに明るいのだろうと、なぜ、これほどに優しいのだと。


「なんで、僕にここまでしてくれるんですか。会ったばかりなのに……」


「ふふ、少年が悩んでいるように見えたからさ」


 来歙は笑いながらカッコつけるように言った。


「悩んでいる人に手を差し伸べ、助ける。かっこいい男だろう?」


 劉秀は思わず、笑った。久しぶりにこんなに笑った気がする。


「やっと少年の笑顔を見れた。さあ、帰ろう。送っていくよ」


 来歙は再び劉秀と共に馬に乗って駆けた。


「あの、僕は執金吾になって、来歙さんみたいな人になりたいです」


「ほほう、嬉しいことを言ってくれるではないか少年」


 二人は笑いあった。


 この時の来歙との会話が自分にどれだけの光をくれたのだろうか。どれほどの勇気をくれたのだろうか。どれほどの希望をくれたのだろうか。


 後に劉秀はそれを思い返し、涙を流すことになる。




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