第57話 神様が認めなくても
「つ、疲れたぜ……!」
夕方――太陽神リュファトの眼差しが赤みを帯び、世界を緋色に染める時間になって、ほどなく。宿屋の一室に入るなり、俺は部屋の一番手前に設えられた寝台に倒れ込んだ。
木枠の中にたっぷり敷き詰められた藁の匂い。その上を覆う、柔らかな亜麻布の手触り。
このところ、ずっと筏の上や砂浜で寝起きしてたからな。寝台の上で休むなんざ、久しぶりだ。ごろりと転がり仰向けになると、剥き出しの腹が鍛冶場で踏まれる鞴みてえに上下して、のどの奥から溜め息を吹き上がらせた。
浜辺でシャー・シュフィックと決闘し、奴に勝負の結果を認めさせてから、ろうそく一本が燃え尽きるくらいの時間が過ぎた今――俺たちは、朝からめざしてたイスティユって町の宿にいる。
あの決闘の後、シャー・シュフィック一味は船の側面にへばりついた大海魔を、悪戦苦闘の末に引き剥がし、錨を上げて去っていった。吸盤つきの長い足に巻きつかれてた二人の海賊は、仲間たちの手で助けられ、魔物の餌食にゃならずに済んだみてえだ。
一方、奴らと別れた俺たちはそのまま旅を続け、どうにかこうにか、目的の町にたどり着くことができた。
今晩泊まることになったこの一室は、町の表通りに〈海精の誘惑亭〉って看板を掲げる宿屋の二階に、運よく一つだけ空いてた四人用の大部屋だ。寝台が四つも置かれてちょいとばかり狭苦しいが、掃除はきちんとされてるようだし、扉にゃ鍵もかけられる。おまけに、こっちと亜麻布の幕で仕切られた奥にゃ、湯を張った風呂桶があって、汗を流すこともできるときた。
今夜はひとまず、ゆっくり休めそうだぜ。
「まったく。だらしがないな、貴様という男は。せめて革靴くらいは脱いだらどうだ」
一階で宿代の先払いを済ませてきたデュラムが、寝台の上で完全に伸びちまってる俺を見て、眉をひそめた。さらに何か嫌味を言おうとしたみてえだが、
「いいじゃないの、デュラム君。好きなように休ませてあげなさいって」
続いて部屋に入ってきたサーラにそう止められて、口をつぐむ。
「多分、今日一番がんばって疲れてるのは、この子なんだし♪」
魔女っ子が俺の傍らに来て、そっと毛布をかけてくれた。
「それは……確かにそうですが」
「それよりデュラム君、腕はまだ痛むの? 痛み止めの薬なら、まだあるけど」
「いえ、もう大丈夫です。心配には及びません」
「本当に? なら、いいんだけど……でも驚いたわ。デュラム君って、あんな大魔法も使えたのね」
うー。なんだ、なんだ。ぐったりしてる俺を余所に、二人で何話してるんだよ?
起き上がって話に加わりてえが、あいにく今は疲れすぎてて身を起こすのも億劫だ。仕方がねえから、このまま聞き耳を立てることにしよう。
「あくまでも、いざというときの切り札です。一度放てばあの通り、反動で腕が激痛に襲われますから。そうなるとしばらくは槍を握ることさえままならないので、気軽には使えません」
「ふうん……そう、なんだ」
サーラの声が、憂いを帯びる。
「ごめんなさい――あたしのために、無理させちゃったのね」
「謝る必要などありません。巨岩人ほどの強大な魔物が相手では、たとえサーラさんが捕まらなくとも、どの道あの魔法を使うことになっていたでしょうから」
うーん、だろうな――と、心の中でデュラムに同意する俺。
巨岩人は強かった。今まで俺たちが戦った魔物の中じゃ、牛頭人や三頭犬と並んで、間違いなく最強の部類に属する。魔物にゃ、あれ以上の強敵もいるのかと思うと、ぞっとするぜ。
「ねえ、ところで――デュラム君って、どうしてあたしと話すときだけ、そんなふうにかしこまっちゃうの? メリックと話してるときみたいに、普通に喋ってくれればいいのに。ひょっとして、女の子は苦手とか?」
「……っ! そ、そんなことはありません。妖精の男子たる者、異性に対しては丁重であれと心がけているだけであって、それ以外に理由など……」
「本当に?」
「森の神と風神に誓って、真実です」
デュラムは珍しく狼狽してるようで、声がかすかにうわずってやがる。起きてりゃ、あいつのうろたえた顔も拝めただろうに、惜しいぜ。
二人の話を聞いてるうちに……ふわぁ。ちくしょう、睡魔が襲ってきやがった。
まぶたが重くなってきて、意識が眠りの淵へと沈み込んでいく。
まだ夕暮れ時だし、飯も腹に入れてねえが、もう限界だ。
二人にゃ悪いが、今日は先に休ませてもらうからな……。
眠りに落ちる前に、サーラがそばに来て、耳元でこうささやくのが聞こえた。
「……今日はありがと。あなたのおかげで、助かったから。デュラム君も、あたしも――」
魔女っ子がさらに近づいてきて、しなやかな指が俺の髪をなでる。櫛で梳るように、優しく梳いてくれる。
「あなたのがんばりがなかったら、三人ともあの海賊に捕まって、命まで奪われてたかもしれないわ。あたしたちが今生きてるのは、間違いなくあなたのおかげよ。たとえ神様が認めなくても、あたしやデュラム君はちゃんとわかってるんだから。あなたは今日、自分の力で運命を変えたんだってこと――」
サーラの気配が間近に迫り、ほんの一瞬、柔らかいもんがほっぺたに触れた気がする。
今の感触は……唇、じゃねえか? でもサーラ、お前なんで、そんなことを……?
それ以上、深く考える間もなく、俺の意識はそこでぷっつりと途切れた。




