第32話 異変
「ん……」
初めは一瞬、サーラの背中がぴくっと引きつったように見えただけだったが、
「う……んんっ!」
それから胸が一、二拍鳴った後、今度ははっきり、魔女っ子の体がびくんと痙攣する。あともう一息でメラルカに届くところまできてた激流が、見る間に勢いを失い、最後にゃ杖の先端から滴る水滴となって消え失せた。
「……サーラ?」
「あ……い、いやあぁあぁあッ!」
俺の呼びかけに返ってきたのは、杖がカランと魔女っ子の足元に落ちる音と、あいつののどから血飛沫のように噴き出した悲鳴。普段のさっぱりしたサーラからは想像もできねえような、苦痛を訴える声だった。
「は、あ……あああああッ!」
魔女っ子の華奢な体が、カクンとくの字に折れ曲がったかと思えば弓形に反り、また曲がっちゃ反り返る。がくがくと震える膝。鍔広のとんがり帽子をかぶった頭が、心持ち尖った顎が、あるいはのけ反ったのどが、びくん、びくんと痙攣を繰り返す。
見開かれた真ん丸な目、開きっぱなしの口。細い指が苦しげにのどを押さえ、爪を立てて、かきむしる。
「……! ね、ねえあんた、一体どうしたのさ? ねえってば!」
空飛ぶ金床の上から、ラティさんが魔女っ子に呼びかけてる。大好きな「父様」と戦ってたサーラが苦しんでるんだから、火の神の娘さんにとっちゃ嬉しい状況だろうに、意外にもその声に歓喜の響きはねえ。むしろ、金床から落っこちそうなくらい身を乗り出し、驚いた顔してこっちを見てることから察するに、サーラの身に何が起こったのか気になって仕方ねえようだ。
だが、魔女っ子自身は今、ラティさんの呼びかけに応えられる状態にねえ。
サーラの奴、本当にどうしちまったんだよ? この様子は……どう見ても普通じゃねえぞ。
「お、おいサーラ、しっかりしろよ!」
もう立ってることもできなくなったのか、サーラはがっくりと膝をつき、そのまま頭から、崩れ落ちるように倒れ込み……そうになったところを、俺がとっさに両手で抱き留めた。
「……! あちちッ!」
触ってわかったことだが、サーラの奴、ひどい熱があるじゃねえか。風邪なんて、そんな生易しいもんじゃねえ。特に背中は、今にも服が燃え出しそうな熱さで、触れた手を思わず引っ込めちまったくらいだ。
「ああ、惜しかったね。あと一手で、ボクに手傷を負わせられたかもしれないのにさ」
メラルカとラティさんを乗せた空飛ぶ金床が、筏のそばへ降りてきた。
「ラティ、キミはここにいて」
「え? けど父様、あたいも一緒に……」
「いいから、ここはボクに任せてくれないかな」
ラティさんを優しく諭して金床の上に残し、火の神が筏へ飛び移ってきた。トン、と軽やかな音を立てて降り立つと、そのままこっちへ、筏の揺れを気にすることなく歩いてきやがる。
「かわいそうに、苦しそうじゃないか。けど大丈夫だよ、安心して――ボクが診てあげるからさ」
「……ッ!」
ほとんど無意識のうちに、魔女っ子を抱く腕にぎゅっと力を込め、こっちへ伸びてくる神の手から、大切な仲間を遠ざけた。
「てめえッ! サーラに触るんじゃねえ!」
メラルカからは敵意こそ感じられねえが、なれなれしくサーラに触れようとするのを見て、かっとなっちまった。友達でもないのに無礼じゃねえかって、憤りを覚えずにゃいられなかったんだ。
けど、俺以上に怒りをあらわにしたのは、デュラムだった。
「貴様、よくもサーラさんを! 神と言えども、許さん……!」
普段は沈着冷静なすまし屋なのに、サーラのこととなると暴走しがちなこいつらしい。手にした槍を構えると、俺が止める間もなく、メラルカに繰り出す。
至近距離からの、かわしようがねえ一突き。白銀を木の葉の形に打ち伸ばした槍先が、メラルカの鳩尾に打ち込まれ、ずぶりと背中へ突き抜ける。
けど……ほとばしったのは血じゃなくて、火の粉だった。
「うん、いい突きだ。キミもなかなかやるね――ウィンデュラム」
鳩尾と背中から、血潮の代わりに火の粉を噴き出しながら、炎の神は苦しむ様子もなく破顔してみせた。
「……!」
いつもは滅多なことじゃ驚きを顔に出さねえデュラムが瞠目し、神の胸に刺さった槍を引き抜く。間髪入れずに、槍先を頭上高く振り上げると、今度は気合のかけ声も鋭く、メラルカの脳天めがけて打ち下ろした。
「はッ!」
白銀の刃が、神の顔面を真っ二つに断ち割り、そのまま胸を切り裂いて、へそのあたりまで来たところでようやく止まる。メラルカの上半身が、鉞で割られた薪みてえに真っ二つに裂け、左右に分かれた。
だが、そこまでやられても、火の神は苦痛の声一つ漏らさねえ。
「無駄だよ、ウィンデュラム」
左右に割れた上半身が、時間を巻き戻すかのようにくっつき、へそから鳩尾、のど笛、鼻筋を経て眉間、脳天へといたる裂け目が、きれいに閉じ合わさっていく。
「地上の種族が鍛えた武器じゃ、ボクを傷つけることはできないのさ――絶対にね」
「……化け物め」
デュラムがうめいて、じりじりと後退する。その後を追うように、悠然と歩を進める火の神。
「化け物? ひどい言われようだね。これでもキミたち地上の種族に火を与え、鍛冶を教えた神なんだけどな」
筏の端まで後ずさったデュラムと、その傍らでサーラを抱える俺に、メラルカは――今の今まで上半身が真っ二つになってたとは思えねえ、穏やかな口調で語りかけてきた。
「……大丈夫だよ。なにもその娘を、傷つけようってわけじゃないんだ。もちろん、キミたち二人にも手出しはしない。なにしろ……」
優しい猫なで声でそう言ってから、
「キミたちは、ボクのしもべになるんだからね。三人とも、きちんと飼って、手なずけてから、存分に働いてもらうんだ。だから今、こんなところで殺したりはしないよ」
そんな身勝手で恐ろしいことを、さらりと言ってのける。
「……! 飼って、手なずけるって、あんた……」
まるで家畜か愛玩動物について語るかのようなメラルカの言い様に、愕然とした。この神様にとっちゃ、俺たちはその程度の存在なのかよ。
ってことは……ついさっきまでサーラと戦ってたのも、この神様にとっちゃ馬の調教か、犬のしつけみてえなもんなのか。じゃじゃ馬が言うことを聞かずに暴れるから、あるいは飼い犬が手を噛んできたから、ちょいとお仕置きしてやるかって、軽い気持ちで相手をしてやってただけ――そのくらいにしか思ってねえのかよ。
サーラは俺やデュラムを守ろうと、あんなに必死だったってのに。
……馬鹿にしやがって、この野郎。
やり場のねえ怒りに震えながら、俺は唇をきゅっと噛み締めた。
唇が切れて、血が出るくらい、強く――強く。




