第26話 航海日誌②
〈大地母神の月 第五の日〉
ラティさんが「あたいはもう林檎なんてうんざりなんだから! なんでもっと美味しいもの持ってこなかったのさ!」って、我がままをおっしゃりやがる。俺たちが木箱に詰めておいた食料を、わざわざ取り出して〈波乗り小人号〉に置いてきたのはどこの誰だよ……と、思わず心の中で突っ込んじまった。
食べるもんがあるだけでもありがてえのに、贅沢な人だぜ。
けどまあ、ラティさんの気持ちはわからなくもねえ。俺もさすがに毎日林檎ばかりじゃ辛くなってきたからな。
陸に上がったら腹一杯、好物の肉料理を食べてえな。サーラがつくった、兎肉の煮込みとかさ。
〈大地母神の月 第六の日〉
このところ、サーラが夜になると、やたらとこっちへ寝転がってきて困るぜ。筏の端っこで寝てる俺にどーんと体当たりして、海へ突き落す気かよ。
そうなる度に「この、この!」って肘で突いて起こそうとするんだが、魔女っ子の安心しきったきれいな寝顔を見てると、いつの間にかその気も失せちまう。この間、デュラムが居眠りして寄りかかってきたときもそうだったが、どうも俺は信頼してる奴の寝顔にゃ弱いぜ。
とはいえ、そう何度も体当たりされちゃたまらねえから、サーラを起こさねえよう、そっと場所を変えて寝直す。すると今度は寝ぼけたラティさんが「ふふん、父様捕まえた! 世界一愛してる!」とか言いつつ、むぎゅうっと抱きついてきやがる。
誰か助けてくれ! ただでさえ夜寝る時間を削って剣術の鍛錬をしてるんだから、寝不足で目の下に隈ができちまう。
……それはそうとサーラの奴、寝てる間によく「姉さん、今どこ?」ってつぶやくんだよな。以前コンスルミラで、ナボン太守の館に泊まったときも聞いた寝言だ。昔、姉さんと生き別れにでもなったんだろうか。
だとしたら……いつか、どこかで会えるといいんだけどな。
〈大地母神の月 第七の日〉
ラティさんが「ねえ坊や……いい加減あきらめて、父様のしもべになりなよ♪」って、しつこく誘ってきやがる。こっちにゃそんな気はさらさらねえってのにって、困った人だぜ。
ラティさん曰く――「父様」ことメラルカのしもべになりゃ、こんな漂流生活とはおさらばできるし、待遇は三食昼寝つきで間食も出る。おまけにしっかり働けば、それに見合うだけの「ごほうび」がもらえるんだとか。
そう言えば、以前火の神が初めて俺たちの前に現れたときも、あの神様、掌から大量の金貨をじゃらじゃらとあふれ出させて、俺たちを勧誘してきたっけ。自分の許で働くなら、俺たちが満足するだけの報酬は用意させてもらう――とか言ってさ。
あの金貨が、ラティさんの言う「ごほうび」なんだろうか。だとしたら……冗談じゃねえ!
俺たちゃ絶対、金につられて神のしもべになったりなんざしねえんだからな。
太陽神リュファトにかけて、絶対だ。
〈大地母神の月 第八の日〉
真夜中に、不思議なもんを見た。いや、聞いたっていうべきだろうか。満月が頭上に昇ってから、それまで起きてたサーラに代わって見張りをしてると、遠くから歌声が聞こえてきたんだ。
こんな夜更けに、しかも海の上で、一体誰が歌ってやがるんだ? 神々か、あるいは美しい声で船乗りを惑わせ、海底へ引きずり込むという人魚か。
東の海を見やると、歌声の主が誰なのか、すぐにわかった。
海面から高々ともたげられた、あの鎌首。大海蛇ヘッガ・ワガンだ。
海神ザバダの眷属は、その鼻面を頭上の円かな月に向け、こんな歌を歌ってた。
「凍てつく月の光浴び、波の響きを聴きながら、
我は嘆く、この姿――己が醜き見てくれを。
巌のごとき、この頭。うねり、のたくるこの体。
猪首のまわりを取り巻きし、ささくれ立った、この鱗。
我を見し者ことごとく、恐れおののき魂萎び、
その身を石に変えると人は言う。
誰が自ら望みて斯様なる、醜き姿に生まれよう?
誰が斯様におぞましき、姿の我を愛せよう?
誰も彼もが我をただ、恐れ遠ざけ、忌み嫌う。
嵐を呼び寄せ大波起こす、海の王たる我が怒り、
和らげ、収め、静めんと、乳香焚きしめ、生贄捧ぐ。
されど我、年端もゆかぬ贄の巫女、食らうに忍びず生かしたり。
海の底へと連れ去りて、主の館に住まわせり。
誰もが恐れる海の、醜き蛇にも心あり。人を憐れむ心あり。
なれど醜き海蛇の、胸に秘めたる心など、果たしてこの世の誰ぞ知る?
今も昔も、この先も、知る者なからん、誰一人。
ゆえに嗚呼――我、日々鬱々として楽しまず、口より漏れるは溜め息ばかり。
今宵は一時の慰めに、白く輝く月の下、
波打ちざわめく海原に、嘆きの歌を響かせん。
果て無き海にて、ただ一人、孤独をかこつ我が歌を――」
戦場に鳴り響く角笛の音色にも似た、重々しく低い声。けど、その調子は胸をきゅっと締めつける哀愁を帯びてて、先日襲われたときみてえな恐怖は感じねえ。
歌い終えてほどなく、ヘッガ・ワガンは海中に姿を消したが、俺はその後デュラムと見張りを交替してからも、なかなか寝つけなかった。
大海蛇の歌声――あの物悲しい歌声が、ずっと耳元で木霊してるように感じられて、とてもじゃねえが眠れなかったんだ。
〈大地母神の月 第九の日〉
漂流生活も、今日で十二日目になる。陸地はまだ見えてこねえ。
ガレッセオからもらった林檎は相変わらず、いくら食べてもなくなることはなく、おかげで俺たちは飢えも渇きもせずに済んでる。
けど、こうも漂流が長く続くと、さすがに気が滅入っちまう。俺たちゃこのまま二度と大地を踏むことなく、海の上で一生を終えるんじゃねえか。そんな不安が、背筋をひたひたと這い登ってきやがる。
もう、たくさんだ。頼むからいい加減、陸に上がらせてくれよ、俺たちを……!
思わず心の中で、そう祈っちまった。
神々の助けなんざ当てにしねえで、あの連中が定めた運命に立ち向かう。そんな自分の決意と矛盾してることは承知だが、それでも祈らずにゃいられなかったんだ。
つくづく自分の弱さが、歯痒くて仕方ねえ。
……もっと、強くなりてえな。困ったときの神頼みなんざしなくても生きていけるくらい、強く――強くなりてえよ。
そんな思いから、今日は夜だけじゃなくて、昼過ぎから日が沈むまでの間も、剣術の鍛錬をして過ごした。




