第6話 もう1人のチェシャ猫
・・・時也の意識が消えた。
きっと時也に何かあったんだ。
・・・助けなきゃ。
だって、時也を巻き込んでしまったのは僕だから。
僕はゆっくりと目を開けた。最初に目に飛び込んできたのは黒と赤の縞模様の服の袖だった。そうか、時也が気絶させられて仕方なく僕が出てきたんだった。・・・それにしても、生身の人間の体は2年ぶりだ。2年前のあの事故の後、時也が心の奥底に閉じ籠ったまましばらく出てこなかったから、仕方なく僕が時也としてしばらく生活していたんだっけ。
「やっとお目覚めだね。もう1人のチェシャ猫くん」
僕が起き上がるとそこには優介さんが立っていた。僕はゆっくりと起き上がると相手を見据えた。
「・・・それで、用件を伺おうか?イカれた帽子屋さん」
「帽子屋」と呼ばれたのが光栄だったのか、優介さんはクスッと笑った後、喋りだした。
「優秀な君ならもうわかってるんじゃないのかい、もう1人のチェシャ猫くん・・・いや、不老不死の人間、宮古 キトラ」
僕は一瞬動揺した後、大きなため息をついた。こいつの言ったことは本当だ。僕は時也の別人格ではない。時也の別人格を装い、時也と体を共有している全く別人の魂だ。
僕がこの世に生を受けたのは江戸時代後期。日本は鎖国をやめて海外の物が流通し出したと同時に神の領域を侵す研究を始めるイカれた研究者も増え始めた。僕の両親もそうだった。僕は望んでいないのに両親に不老不死にされ、何百年も生き続けてきた。
しかし、時也に憑くようになった事故が起こる1ヶ月前、僕はある事件がきっかけで長年苦しめられた不老不死から解放され、魂の状態であの世に送られた。普通の人間としての枠組みを外れた僕を受け入れてくれた場所は、同じくはぐれ者の魂が暮らす場所である彼岸だけだった。彼岸で暮らす魂は大半が人間に憑依している憑依霊だったため、最初は僕も同じように誰かに憑依したら現世に関われるし楽しいだろうなっていう楽観的な考えだったんだけど、たまたま臨死状態の時也に出会い、時也を生かすために憑依したというわけだ。
「・・・それで、君は何で時也と僕が別人だってわかったの?時也は新しい家族にすら解離性同一性障害の事は内緒にしていたのに」
「チェシャ猫くんが巻き込まれた事故の時だよ。あの事故の写真を偶然発見したんだ」
優介さんは1枚の写真を取り出した。そこには炎上したバスと共に1人の少年が写っていた。
「この写真に写っているのは確かにチェシャ猫くんだが、よく見ると瞳の色が紺色になっている。しかし、事故直後にすれ違った彼の瞳の色は黒色だった。それを見た時、確信したよ。彼の中には別人がいる。そしてそいつは自分の師匠の仇だとね」
(・・・クソ、まさか体を借りている所を写真に撮られていたなんて。もっとマスコミには注意すべきだった)
今更後悔している僕は先ほどスルーした彼の言葉を思い出して、つい問い返してしまった。
「・・・え?師匠の仇?」
「やはり、覚えていなかったか」
優介さんは僕を冷めた顔で見ながら続けた。
「私は、君に唆されてヨーロッパの小国・マルスの王族の末裔と戦って殺された魔術師、ガルダの弟子だ!」
僕は自分の考えの甘さに嫌気が指しそうだった。
魔術師ガルダは自分を追放したマルスの王族の抹殺を計画していたが、結局死ぬほど憎んでいた王族の第2王子によって倒され、今は地獄で責め苦を受けているはずだ。しかし、奴には多くの弟子がいる。その弟子たちが師匠を死に追いやった僕への復讐に動く可能性は充分にあったが、弟子たちの殆どは本国の人間で、その中でも要注意人物には政府の監視が付いているという話を聞いていたため、大丈夫だと勝手に安心していた。まさか日本にも奴の弟子がいたとは・・・。
優介さんはクスクスと楽しそうに笑いながら続けた。
「ああ、今日はなんて良い日なんだろう!2年間待ち望んだ魔術の師の復讐をやっと果たせるんだ!」
・・・やっぱりイカれている。あんな奴のために2年間も復讐のために生きるだなんて。ほんと、奴の信者は厄介な奴が多い。とにかく早く逃げないと。
「今、君は逃げないと危険だと思っているだろうが、この状況で逃げ切れると思っているのかい?まあ、チェシャ猫くんの大事なアリスが傷つけられても良いのなら逃げれば良いけど」
彼は拳銃を菊乃ちゃんの頭に押し付けた。僕は数世紀ぶりの危機的状況にため息しかでなかった。・・・とりあえず、僕に何を要求するつもりなのかだけでも聞いておこうかな。
「それで、君は僕に何をしてほしいの?言っとくけど、今の僕は昔ほど万能じゃないから出来る事は限られてるよ」
僕は口ではそう言いつつ、彼が何を要求してくるのか大方の予想はついていた。そして、予感は的中した。
「チェシャ猫くんの体から出てそこに倒れている男の体に入ってもらおうか」
「成程、それでその男の体に入った僕を殺してうさを晴らそうってわけか。確かに、その方法なら確実に僕は今度こそ死んで現世に干渉できなくなる」
僕はそう言った後、一呼吸おいて続けた。
「けど、それが可能なのはあくまで僕と時也の魂が完全に別物だったらの話だ」
その言葉に優介さんは怪訝な顔をした。
「・・・どういう事だ?」
「現世の人間の寿命はあの世の管理者たちによって決定されている。まあ、結構アバウトなものだけど管理者たちの野性の勘は予知能力者レベルだから、大体の人間の寿命は彼らによって決められていると言っても過言ではない。そして、彼らの見解では2年前の事故の生存者はゼロのはずだった」
頭の良い彼はやっと理解したようで顔をこわばらせた。
「・・・もうわかるよね?時也は僕が干渉しなければ、あの2年前の事故で死ぬはずだったんだ。あの世の者になりかけていた彼の魂を僕が無理矢理彼岸に引き留め、彼の魂と僕の魂の一部を融合させることで、僕は彼の命を再び現世に戻した」
僕は胸に手を置いて続けた。
「あの時から僕と時也は運命共同体となった。もし君が僕を殺せば時也も死ぬ。・・・それでも良いならこの体ごと僕を殺せばいい」
彼は菊乃ちゃんの頭から拳銃を離し、僕に近づいてきた。確実に僕の頭を撃ち抜ける圏内に入り、彼は僕の頭に銃の標準を合わせた。しかし、彼は中々引き金を引かない。彼の顔には僕に対する復讐心ではなく、引き金を引くことに対する戸惑いが現れていた。
「無理だよ。君は僕を殺せない。・・・いや、具体的に言うと時也ごと僕を殺せないんだ」
彼は心の底を見透かされ、驚きの表情になった。
「妙だと思ったんだ。君が僕を死ぬほど憎んでるなら、どうして請け負い業者に時也を誘拐させようとしていたのか。だって、この体は時也のものなんだから僕が干渉出来る範囲は限られてるし、それこそさっきのように影に隠れて時也ごと射殺するなりすれば簡単に復讐が果たせるのに君はそれをしなかった。それに、さっき死んだ男の体に僕の魂が入り込む事を要求したのも、時也を殺さないようにしている証拠だ。・・・そしてその理由は、時也は君が愛する人の大事な家族だから」
優介さんは明らかに目が泳いでいた。・・・結構憶測も混ざってたんだけど、どうやら僕の勘の鋭さは魂のままでも健在らしい。
「・・・な、何を根拠に」
「名前の呼び方」
彼はどうやら無意識にそうしていたらしく、首をかしげた。
「相手に情を持たないためだろうけど、君は余程の事がない限り相手の事を名前ではなくあだ名で呼んでいる。でも、先程の時也との会話の中で唯一名前で呼んでいる人物がいたんだよ」
彼はやっと思い出したらしく、小さく「あっ」と呟いた。
「・・・君の思い人は響さんだね」
優介さんは全て言い当てられて動揺しているのか、挙動不審になっている。その時、誰かが階段をかけ上がってくる音が聞こえた。僕が振り向くとそこには肩で息をする響さんが立っていた。僕は驚いたけど、僕以上に驚いたのは僕の目の前にいるイカれた帽子屋だった。
「な、何故、君がここに?」
「・・・雪兎の看病してたらいつの間にか寝ちまってたみたいでな、時也の部屋に行ったらもぬけの殻だったから仕方なく時也のスマホのGPSで場所を調べたってわけだ」
響さんは僕に駆け寄ると肩に手を置いた。
「時也、怪我はないか?」
「うん、平気だよ」
どうやら僕が時也じゃない事に響さんは気づいていないようだ。響さんは時也が無事だったことにほっとすると、優介さんに向き直った。
「優介さん、やっぱりあんたが時也を狙っていた犯人だったんだな」
やっぱり響さんは気づいていたんだ。勘の鋭い響さんなら雪兎くんが背後から殴られた時点で雪兎くんの知り合いが犯人だと大方の予想はしていたはずだ。響さんは拳を握りしめながら叫んだ。
「何で、雪兎を傷つけるようなまねをしたんだ!?雪兎はあんたの事をまるで父親のように慕っていたんだぞ!なのに何で!!」
「・・・復讐のためだよ」
優介さんはそう呟いた。
「ウサギくんやアリスのような訳ありの人間をバイトとして採用したのも、自分の正体に気づきそうな危険な彼らを監視するためだ。ウサギくんを襲ったのも彼が私と請け負い業者の関係に気づきそうだったからだ。・・・もうわかっただろう。私はそういう人間なんだよ」
「・・・本当にそうなのか?」
響さんの言葉に優介さんは顔を上げた。響さんの目にはもう怒りは映っていなかった。
「時也がよく言っている。人の声の色は嘘をつかない。聴いてて不快じゃない声を持つ人はごく稀だが、その人は充分信用できる人だってな。時也、この人の声は不快だったか?」
急に話を振られて僕は少し動揺したけど、時也になりきって答えた。
「全然不快じゃない。静かに凪いだ海の色だよ。・・・彼自身の声の色はね」
僕の言葉に響さんは首をかしげ、優介さんは顔面蒼白になった。
「さっき動揺した時に別の色が見えたよ。・・・君も僕と同じで、1つの体に2つの魂を宿している」
優介さんは真っ青な顔のまま固まっている。響さんがわけが分からないというように首をかしげたその時、緊急事態が発生した。突然、三階の天井を支えている中央の柱が爆発したのだ。僕と響さんが呆然としていると、放心状態の優介さんが呟いた。
「・・・これで全て終わりだ。・・・響くん、チェシャ猫くん、早くアリスを連れてここを出るんだ。ここは時期に崩れる」
「優介さん!」
「私はここに残るよ。・・・もう、いいんだ」
優介さんは虚ろな目のまま天井が崩れかけているホールの奥に歩いていった。その間にも全員がいるフロアは段々崩れてきている。優介さんが菊乃ちゃんから離れたのを見計らって、響さんは菊乃ちゃんの縄を解き、彼女を抱きかかえた。
「時也、とにかくここを出るぞ!」
「でも、優介さんはどうするの!?」
「・・・あの人を説得する時間はない。きっともう助けられない」
僕は優介さんが消えていった方角を見つめると、決心して走り出した。
「!時也!どこに行くんだ!?」
「響さん!菊乃ちゃんを連れて先に行って!」
僕は響さんに背を向けた。響さんが何度も時也を呼ぶ声が聞こえたけど、僕は構わず駆け出した。爆発が起きた直後の優介さんの目は、2年前に大切な人たちを守るために犠牲になった僕と同じだった。・・・もう繰り返したくない。
優介さんはホールだった場所の片隅で踞っていた。僕は優介さんに手を差し出した。
「優介さん、一緒にここを出よう」
「・・・・・・」
優介さんは僕の言葉に何も反応を示さない。僕はイラッとして彼の腕をつかむと無理矢理立ち上がらせた。その直後、彼は僕の手を振り払った。
「なぜ君はここに来たんだ!?私はもうこんな呪いに縛られて生きるのはまっぴらなんだ!どうして放っておいてくれないんだ!!」
「・・・僕はもう自分と同じように自らを犠牲にするのが最適解だと思っている人を増やしたくない」
彼はその言葉に顔を上げた。僕は彼の手を握った。
「それに、君の手で作られるコーヒーを楽しみにしてる人が身近にいる。それは呪いなんかじゃなく君自身が生み出した己の価値だ」
僕は彼に微笑みかけた。
「生きる意味があって大切な人がそばにいるうちは死なない方がいいと思うよ」
僕の言葉が救いになったのか、彼はもう僕の手を振り払わなかった。
どうやら3階の柱は1階2階も支えていたらしく、建物の崩壊が激しく、僕たちが階段をかけ降りて1階にたどり着いた頃には、建物は倒壊寸前だった。僕は出口を要約見つけ、優介さんに振り向いた。
「優介さん、出口だよ!あともう少しだから頑張って!」
優介さんの首には呪いの印である五芒星が浮かび上がっている。優介さんが僕の言葉で正気に戻ったため、彼の体に根付いている魔術師の呪いが暴走し始めているのだ。しかし、優介さんは呪いの暴走での苦しみを隠しながら僕に力強く頷いた。僕が出口に振り向くとそこに響さんが立っていた。
「時也!優介さん!早く!」
僕も優介さんも響さんの顔を見てほっとした。その時、僕たちの頭上にあった天井が大きな音を立てて崩れてきた。
「チェシャ猫くん!」
優介さんが僕の体を押したが、遅かった。崩れてきた天井が僕たちの逃げ道を完全に塞いでしまった。しかも運の悪いことに崩壊した建物の瓦礫が大量に僕たち目掛けて落下してきた。
・・・響さんが僕たちを呼ぶ声が木霊する中、僕は意識を失った。