第3話 チェシャ猫の秘密
午後6時。僕は今、店の外で菊乃を待っている。本当は1人で帰るつもりだったんだけど、菊乃に「一緒に帰ろう」って言われて断れなかったのだ。彼女の声は本当に不思議だ。本人は無自覚だろうけど、頼まれ事をされると簡単には断れない強制力がある。僕がそう思いながら大きく息を吐いた時、店の扉が勢いよく開き、菊乃が外に出てきた。
「お待たせ、時也くん。ごめんね、結構待ったでしょ?」
「いや、平気だよ」
僕たちはそういう言葉を交わすと帰路についた。そう言えば、菊乃の帰る方向はどちらなんだろうと思って尋ねると、菊乃は答えた。
「このビジネス街を抜けて20分ほど歩いたところよ。同居人が帝都大学の学生だから大学まで電車ですぐ行ける場所に住みたいって言ったから」
「え?じゃあ菊乃の家と僕の家ってそんなに離れてないんだね」
「うん、そうみたいね」
ちなみに今、僕たちは仕事帰りのサラリーマンやOLがたくさんいる道を歩いているんだけど、僕はヘッドフォンをしていない。なぜか菊乃と一緒に喋りながら歩いていると人の心の声が聞こえないんだ。菊乃の声に何か秘密があるのかな?
昼間の奴らがまた現れるかもしれないと僕は内心ヒヤヒヤしてたけど、何の問題もなく僕たちはビジネス街を抜けた。ここの最寄り駅の隣の駅がマンションや社宅を増設している地域のため、ビジネス街を抜けた先にある住宅地は割と静かだ。僕は両親を亡くした後遠い親戚にお世話になっていたのだが、その親戚が両親の遺産目当ての最悪な奴だったため、今は亡くなった父の友人の家にお世話になっている。この父さんの友人がまたパンチ効いてるんだけど、菊乃に言っていいものか迷っている間に僕の家についた。
「ああ、ここが僕の家」
「ほんとに近所だったわね。私の家、あそこだもの」
菊乃は僕の家の3軒隣の家を指差した。その時、僕の家の扉が勢いをつけて開き、よれよれのスーツを着た男が吹っ飛んできた。僕は咄嗟に菊乃の腕を引いて抱き寄せ、男から彼女を守った。僕は吹っ飛んできた男を見てため息をついた。なぜなら、そいつは最悪な親戚の叔父さんだったから。そして、彼の頬には誰かに殴られた新しい傷があった。
(また同じパターンかな)
僕の予感は的中した。叔父さんを殴り飛ばしたであろう人物は玄関に仁王立ちしていた。その人物こそ僕の今の保護者、一ノ瀬 真子さんだ。ちなみに彼女は女性ではなくれっきとした男性だが、子供が生まれて10年後に女に目覚めてしまい、今はこの近所で女に目覚めた仲間たちと共にスナックを営んでいる。今でこそ綺麗系の美女の姿をしているが、学生時代は空手で全国2位になるほどの腕前だったためその腕っぷしは未だ健在らしい。
真子さんは叔父さんの靴を持つと彼に靴をぶつけて怒鳴った。
「いいか。今度うちに来やがったら拳骨一つじゃ済まさねえからな!」
叔父さんは小さく舌打ちすると立ち上がり、要約僕たちに気付いたようだ。僕は菊乃を後ろに庇った。
「よぉ、時也。相変わらず綺麗なツラしてるな」
「・・・何度も言ったはずだ。ここにはもう二度と来るなって」
「つれねぇこと言うなよ。一時は親子だった事もあるのに」
「僕はあんたを父親だと思った事は一度もない!僕の父さんは亡くなった本当の父さんと真子さんだけだ!」
僕がそう叫んだ瞬間、叔父さんは僕の鳩尾に蹴りを叩き込んできた。僕はその衝撃にその場に蹲った。叔父さんは蹲った僕の髪を掴んで上に持ち上げた。
「また随分と生意気な口をきくようになったな、時也。大人への口の利き方をもう一度その脳に刻み込ませてやらなければいけないようだな」
僕はその言葉で2年前のこの男から受けた数々の屈辱と地獄の日々を思い出し、更に痺れるような腹の痛みと掴まれている髪の痛みで気が飛びそうになった。霞む視界の中で真子さんがいつになく怖い顔をしてこの男に迫っているのが見えた瞬間、急に髪の痛みが和らいだ。視界が戻ってきて、気が付くと僕の髪を掴んでいた叔父さんの腕を菊乃が掴んでいた。菊乃はその華奢な腕のどこから出ているのかわからないぐらい強い力で叔父さんの腕を掴んでいるらしく、叔父さんの顔は恐怖と苦痛に歪んでいた。
「おい!何だてめぇは!」
「・・・時也くんの友達よ」
「は?とにかく腕を離せ!ぶっ殺すぞ!」
菊乃は指示通りに叔父さんの腕から手を離したが、次の瞬間叔父さんの顔面に後ろ回し蹴りを食らわせた。それは一瞬の事で叔父さんも避ける暇がなく、菊乃の蹴りをモロに食らった。そして菊乃は、僕の家の壁まで吹っ飛んで座り込んだ叔父さんと同じ目線までしゃがむと拳を壁に叩きつけた。菊乃の拳は叔父さんの顔のすぐ横の壁にヒビを入れた。
「さっきあなた、大人への口の利き方がどうのこうの言ってたけど、そもそも無抵抗な子供を殴って従わせる事が大の大人のやる事なの?一人前の大人として口利いてほしいならまずそこから勉強し直してきなさいよ」
「・・・こ、この小娘」
「まだわからないようなら、あなたみたいな馬鹿でもわかるように言ってあげるわ」
菊乃は立ち上がると今度は壁に向かって回し蹴りを食らわせた。コンクリートで出来ている筈の壁は叔父さんの頭上で横に亀裂が入った。
「これ以上私に殴られたり蹴られたりする前に、とっとと消え失せなさい!!」
叔父さんは菊乃の手足の強靭さにやっと恐怖を覚えたらしく、立ち上がると転がるように逃げて行った。菊乃は大きなため息をつくと、僕に歩み寄ってきた。
「時也くん、大丈夫?」
「・・・うん、何とかね」
「・・・ごめんなさい」
何故か菊乃の目から涙が溢れ出てきた。僕は予想外の事に慌てた。
「え!?何で菊乃が泣くの!!?」
「だって、私、時也くんが、あいつに蹴られる前に、助けられなかったから」
「大丈夫だよ。これぐらいどうってことないから。・・・もう、だから泣かないでよ」
僕は、まだ泣き続ける菊乃の頭を撫でた。僕のために大の男を蹴り飛ばして、僕のために泣き出したりして、菊乃は僕と違って感情豊かで優しいんだなってそう思った。その光景を見ていた真子さんは大きく息を吐くと僕たちに言った。
「とにかく2人共、中に入りましょう。玄関先であんたたちに泣かれると私が泣かしたみたいに思われちゃうわ」
「・・・え?」
「気づいてなかったの、時也。あんたも泣いてるわよ」
僕は目元に手を当てた。・・・本当だ、いつの間にか僕も泣いてしまっていたらしい。あの男にまた殴られて過去を思い出してしまった恐怖の所為か、それとも泣き出した菊乃を見てほっとした所為か、どちらかはわからないけどここまで誰かの影響を受けるのは久々で何処か心地よかった。
僕は菊乃と真子さんと一緒に家に入り、リビングで菊乃が泣き止むまでしばらく黙っていた。菊乃は要約落ち着くと真子さんに頭を下げた。
「初めまして、因幡 菊乃です」
「一ノ瀬 真子よ。菊乃ちゃんて言うの?可愛らしい名前ね」
「さっきはすいませんでした。時也くんが目の前で傷つけられて、頭に血が昇ってしまいました。あの壁の修理代、今は手持ちがないので明日お支払いします」
「ああ、いいのよ。どっち道、あんたがやらなければ私があのクズ野郎をボコボコにしてただろうから、結果は変わらなかったでしょうし。中学生に修理代を請求するほど貧乏なわけじゃないしね」
「・・・あの、私、大学生です」
真子さんはその言葉を聞いて驚きの表情に家わった。僕と同じ反応してる。まあ、菊乃の外見を見たら誰もが同じ表情になると思うけど。
「あらやだ、私、てっきり時也と同じ年なのかと思ってたわ。・・・ところで」
真子さんは菊乃に顔を近付け、小さな声できいた。
「時也とはどういう関係なの?もう付き合ってるのかしら?」
「ちょ、ちょっと!真子さん!」
慌てる僕と正反対に平然と菊乃は言った。
「今日初めて会ってお友達になったばかりです」
それを聞いた真子さんはちょっとがっかりした顔で僕を見た。・・・やめてくれないかな。勝手に期待して勝手にがっかりするの。
「それにしても珍しいわね。時也が初対面の人にここまで気を許すなんて。・・・ところで時也、お友達にあの事、ちゃんと話してるんでしょうね?」
「あの事?」
菊乃が疑問気な顔をこちらに向けてきてやっと思い出した。
(!そうだ!菊乃にまだ共感覚持ってること話してなかった!)
真子さんはため息をついた。
「あんたのことだから私事に巻き込むまいと敢えて黙っていたんでしょうけど、ここまで巻き込んでしまったんだから、もう諦めなさい」
僕は真子さんの言うことは正しいと思い、菊乃に全てを話した。生まれつき共感覚を持っている事。2年前のバスの事故から共感覚がひどくなり、それと同時に昼間に出会した奴らのような危険な輩に狙われるようになった事。
「・・・信じられないかもしれないけど、僕には人の心の声が聞こえるんだ。あの事故からこうなったからあの事故の時に何かあったんだろうけど、あの時の事は全然覚えてなくて」
僕の説明を聞いた菊乃は沈黙した。・・・やっぱり信じてもらえないよね、こんな有り得ない話。俯いた僕に菊乃は全く予想外だった事を言った。
「だから時也くん、初めて会った時ヘッドフォンしてたんだね。人の抱えている感情は良いものばかりじゃない。他人が抱える悲しい気持ちや恨みとかを聞きたくなかったから」
僕と真子さんは唖然とした。菊乃はあっさり僕の言ったことを信じた。嘘かもしれない可能性が高いのに。
「あの、何で僕の言うことを信じられるの?こんな突拍子もない話、誰も信じてくれないから家族以外には内緒にしてたのに」
「気づいてないだろうけど、時也くん、嘘つくのすごく下手だよ。簡単に目が泳ぐし、目に気を付けてたら今度は不自然に手足が動いたりするし。でも、さっきの話をしている時にそんな仕草がなかったから本当の事だなって」
・・・成程。僕の年齢を当てた事といい、菊乃は観察眼が鋭いらしい。
「それで、人の心の声が聞こえるようになってから狙われるようになったって言ってたけど、何か理由があるの?」
「さあ、わからない。あいつらには何度も絡まれたけど、相手の隙をついて逃げるっていう対処法ばかり取っていたし、そもそも相手が何者なのかもわからないし」
「要するに何もわからないまま狙われてたわけね」
僕は図星をつかれ、押し黙った。菊乃はしばらく考えていたが、思い出したように言った。
「時也くん、明日暇?」
「暇だけど」
「じゃあお昼頃にアリスの世界に来てくれる?明日シフトで入ってるバイトの子が昼間の怪しい奴らについて何か知ってるかもしれないわ。あの子、情報屋だし」
僕は(そう言えば、優介さんが訳ありのバイトばかりだって言ってたな)と思い出した。自分の事にこんなに沢山の人を巻き込んでしまっていいのだろうかという考えがまた頭をよぎったけど、あいつらが何者なのかわからないまま狙われるのはやっぱり気分が悪い。
「・・・わかった。明日の昼1時頃、アリスの世界に行くよ」
菊乃はその言葉に頷くと立ち上がった。
「それじゃあ私、帰るね。また明日」
「待ちなさい。私が送ってあげるわ。女の子の一人歩きは危険だもの。ああ、そうだわ。時也、私、菊乃ちゃんを送っていって店に行ってくるわ。あの子も今日は帰ってこないそうだし、ご飯食べて先に寝てて」
僕は頷いた。
「ありがとうございます、真子さん。・・・じゃあね、時也くん」
菊乃は笑顔で僕に手を振ると真子さんと一緒にリビングを出ていった。
(そう言えば、『また明日』なんて久々に言われたな)
僕は仲良くなった人の心の奥底に秘めている声を聞くのが怖くて、あまり人と関わらない生き方をしてきたから今まで友達なんていなかった。もしかしたら菊乃が初めてかもしれない。しかも、菊乃は僕に心を読まれてしまうかもしれないのに態度を変えなかった。
(ほんと、不思議な人だったな)
僕はそう思いながらキッチンに行って冷蔵庫を開けた。冷凍された御飯と卵があったからそれらを炒飯の素と炒めて炒飯を作った。真子さんがすごく料理上手だから僕が作れるのはこういう簡易的に出来るものだけだ。でも、今は手の混んだものと同じクオリティのものを簡単に作れる時代だからこういう炒飯ぐらいのものが作れれば十分かなと僕は思っている。
僕は晩御飯を食べ終わると食器を洗い、お風呂に入って自分の部屋に戻ってきた。ベッドに寝転がってしばらく目を閉じていると、ふと誰かの声がした。
『今日は大変だったね、時也』
僕はゆっくりと目を開ける。さっきの声は僕の独り言ではないし、勿論この家には今、僕しかいない。でも、この声は幽霊の声だとか心霊的なものではない。紛れもなく生きている人間の声だ。僕はベッドからゆっくりと起き上がると部屋にある全身鏡の前に立ち、口を開いた。
「うん、大変だったし、あの男に蹴られたところがまだ痛むけど、今日は今までで一番充実してたよ。だって、君を呼ぶ機会が一度もなかったんだから」
『まったく、すごく心配したんだから。君だけの体じゃないんだよ?』
「・・・うん、わかってるよ。僕は君で、君は僕なんだよね」
これが僕の誰にも言っていない本当に大きな秘密。
・・・僕の中にはもう1人の僕がいる。