最終話 ノイズの国で2人はこれからも・・・
★★★
時也目線
☆☆☆
菊乃目線
のお話となっています
☆☆☆
しばらく経つと光が消え、私は閉じていた目を開けた。でもそこには何も見えない常闇の世界があった。
「・・・ここが、時也くんの心の中なの?」
私はブレスレットの事を思い出し、久々に玲魔さんと連絡を取ろうとしたが、ブレスレットは何の反応も示さなかった。
(もしかして、いきなり世界を移ったから電波が悪くなってるのかな?このブレスレットの通信の仕組みなんて知らないけど)
とにかく、頼るものが何も無くなってしまった事実に私は大きなため息をついた。
「・・・はあ、せめて明かりがあれば」
そう呟いた瞬間、ブレスレットが急に光り出し、私はビクッとした。
「きゃあ!・・・ビックリした~」
ブレスレットの光りは消えない。どうやら私の「明かりがほしい」というお願いは聞いてくれたみたいだ。
(・・・これがハイテクな魔法道具っていうのは本当だったみたいね)
私はブレスレットの明かりを便りにゆっくり歩き出した。しばらく歩いてみたが、何も起きないし何も聞こえてこない。現世では絶対に有りえないその空間に私は小さくため息をついた。
「・・・これ、どこまで続いてるんだろう」
私が手を前に翳してそう呟きながら歩いていると、漸く手が何かに触れた。私はビクッとして手を引っ込めて、明かりを当ててみるとそれは普通の扉だった。
「・・・扉?何でこんな所に?」
私は恐る恐るノブに手を伸ばし、扉をゆっくりと開けた。そこにはさっきまで歩いてきた場所と変わらない常闇の空間が広がっていた。
(さっきと変わらない。・・・この扉、意味あったの?)
私がはあっとため息をついて一歩踏み出すと、すぐ近くでジャラっという金属音が聞こえた。
「えっ?」
私が足元を見ると太い鎖があった。どうやらさっきの金属音は私が鎖を蹴とばした音だったらしい。
「・・・鎖?」
鎖の先を照らすとそこには見覚えのある赤と黒の縞々の袖が見えた。その先にはずっと暗闇の中で探していた人物が手足を鎖で繋がれて寝転がっていた。
「時也くん!」
私は彼に駆け寄った。彼は目を閉じていたが、私が駆け寄るとゆっくり目を開けた。
「・・・菊乃?何でここに?」
私は彼と久々に言葉を交わせた事が嬉しくて、起き上がった時也くんを抱き締めた。
「時也くん、良かった!またこうして話が出来た!」
「・・・・・・」
時也くんは何も言わなかった。その事に私は違和感がした。
「どうしたの?」
「・・・菊乃、僕はもう現世には帰らないよ」
急にそう言った時也くんの目は初めて会った時よりも暗さを増していた。
「どうして?まだ時也くんは死んだわけじゃないんだよ。諦めちゃダメだよ!」
「・・・僕にはあの世界で生きる資格なんてない。だって、僕のせいで大勢の人が命を落としたんだから」
私はその言葉の意味が分からず、首を傾げた。
「思い出したんだ、2年前のあの事故の時の記憶。・・・心の奥底に隠し続けてきた悲しい記憶を、ね」
それから時也くんはポツリポツリとその思い出した記憶について話し出した。
★★★
・・・ずっとおかしいと思っていたんだ。
僕は事故が起こった時の事をハッキリと覚えていない。
事故が起きた直前の事は、予想外の事が起こって混乱していれば覚えていなくて当然かもしれない。
それでも、何で事故が起きたのかはおろか、何でバスに両親と乗っていたかも覚えていないなんていくらなんでも忘れすぎだ。
思い出そうとしても、まるで脳が拒絶反応を起こしているかのように思い出せなかった記憶。
・・・そうか、閉ざしていた記憶の中にその答えはあったのか。
2年前、海外に単身赴任していた父さんが久々に帰ってきた次の日、家族で出掛けようって話になった。僕が「市の郊外にある遊園地に行きたい」って言って僕たちは市の中心から遊園地までバスに乗って行くことになった。すると、遊園地の少し手前の停留所で、まだ昼間なのに酔っ払いが乗ってきた。その人はひどく泥酔しているらしく、たまに呟く言葉は呂律が回っていなかった。車内の人間がその人を遠ざける中、僕は小さく呟いた。
「・・・気持ち悪い」
前も言った通り、僕の共感覚は生まれつきのものだ。そして、決まって泥酔している人の声は大波に揺られる船のように感じて、船酔いと同じ感覚を味わうことになるため、僕はそう呟いたんだけど、その人は自分自身の事を「気持ち悪い」と言われたと勘違いしたらしく、激昂して僕の胸ぐらを掴んできた。
「あぁ!?てめえ、今、俺のこと気持ち悪いって言っらな!!」
「ぼ、僕は、そんなこと」
「嘘つくんじゃねえよ!」
相手は拳を振り上げてきた。僕は(殴られる)と思って目をつぶったが、僕に拳は届かなかった。僕が目を開けると父さんが僕の代わりに殴られ、頬が赤くなっていた。
「!父さん!」
父さんは頬をさすりながら相手に言った。
「君、もう十分だろう。これ以上うちの息子に絡むなら脅迫罪と暴行罪で訴えるぞ」
父さんは論理的で冷静な人だった。でも、酔っ払いがそんな正論で大人しくなるわけがなく、酔っ払いは父さんを突き飛ばした。父さんは座席の角に頭をぶつけ、倒れた。父さんの額からは血が出ていた。
「父さん!」「あなた!」
酔っ払いは動かない父さんを見て気が動転したのか、窓から外に出ようとした。さすがに運転手もただ運転しているわけにはいかず、後ろを振り返って叫んだ。
「お客様!お止めください!お客様!!」
「!きゃあ!前!!」
乗客の誰かが叫んだ言葉で僕は前を見た。
ーーービルの壁がバスのフロントガラス目前まで迫っていた。
菊乃は僕の話を聞いてただ沈黙している。僕は全てを話し終えると自虐的な笑みを浮かべた。
「・・・きっと、人の心の奥底の声が聞こえるようになったのは僕に負わされた罰だったんだろうな」
「罰?」
「だって、僕があの時余計な事を言わなければ、父さんが殴られることもなかったし、相手が混乱して無茶な行動を取って運転手が気を取られる事もなかった。・・・たくさんの人が死ぬこともなかった」
僕は三角座りをして顔を膝の間に埋めた。
「なのに、僕は一人だけ生き残って現世でずっと暮らしてきたんだ。自分が犯した罪も忘れて・・・っほんと、最低だ!」
涙が溢れてきた。こんな時に限って感情的になっている自分自身にも嫌気が指したけど、とにかく泣かずにはいられなかった。目の前に菊乃が居るのに。・・・菊乃の前では少しでも男らしくありたかったのに。
菊乃は僕が泣き始めてしばらくは黙っていたけど、急に僕の両手を自分の両手で包み込んだ。
「菊乃?」
「・・・生きるのに資格なんているのかな」
僕は目の前にいる菊乃を見た。
「自分の欲望のために生きたい、この先の未来のために生きたい・・そして、たとえ自分にそんな価値は無くても大切な人のために生きていたい。どんな理由があっても生きたいって意志は同じだよ。時也くんが一人で生き残って、多くの人たちから心ない言葉を投げ掛けられても現世で生きていたのは本当に罰を受けるためだったの?」
菊乃の言葉は僕の絶望していた心を揺さぶった。・・・でも、僕が多くの人の将来を奪った事実は変わらない。僕が生きている意味なんて1つもないんだ。
☆☆☆
時也くんは私の言葉に一瞬動揺を見せたけど、その後はまるで自分を拒絶するかのようにまた顔を俯けた。・・・私に何が言えるんだろう。かつての自分のように生きることに意味を見出だせない彼に何が出来るんだろう。私はあの人が私にやってくれた事を思い出した。
(・・・そうか、私にもあの人と同じことが出来るんだ)
私は、俯く時也くんを静かに抱き締めた。
「じゃあ、私が時也くんの生きる意味になる」
彼は私の言葉が予想外だったのか、少し顔を上げた。
「最初はただ、昔の自分に似ているあなたを放っておけなかっただけだった。それに、失恋の苦しさや怖さを一度経験してるから臆病になってたのかもしれない。でも、自分の気持ちにもう嘘をつきたくない。・・・私は時也くんが好き」
告白なんて初めてで、私は顔が赤くなった。時也くんは私を信じられないようなものを見る顔で見た。
「まだ現世でたくさん一緒に過ごしたい。まだお別れしたくない。時也くんを失いたくない。・・・私の我儘、きいてくれる?」
言い方が狡い事ぐらい分かっていたけど、彼を失いたくない一心で私はそう言った。すると、彼は小さく笑った。その目にはもう絶望は映っていなかった。
「君はすごいね。外見はお姫様みたいなのにまるで王子様のようにこんな所まで僕を探しに来て、そして僕に新しい生きる意味を与えてくれるんだから」
時也くんは私を見据えて言った。
「たとえ、僕が犯した罪が一生消えなくても、菊乃が僕と一緒に生きたいと思ってくれるなら、菊乃が居てくれるなら僕はどんな世界でだってきっと生きていける。・・・僕も菊乃が好きだ」
時也くんは私に口付けをした。その瞬間、彼の手足の鎖が消滅し、常闇の世界は白い光りに包まれた。
次に私が目を覚ましたのは店長の病室だった。どうやら私は現実の世界に無事に帰ってこられたらしい。
「菊乃さん」
顔を上げると私の反対側には玲魔さんと霧崎教授が座っていた。私はずっと店長の手を握りしめていたことに気づき、そっと手を離した。私の無事な姿を見て、玲魔さんはホッとしたのか小さく息を吐いた。
「無事で良かったです。急にあなたの意識を感じられなくなったので心配しましたよ」
「・・・店長の意識を見つけた後、時也くんを助けに彼の心の中に行ったんです」
玲魔さんはその言葉に少し驚いた後、小さく笑うと店長を見た。
「成程、あなたはまだ僕が教えた呪文を忘れていなかったんですね」
「菊乃さん、それで、優介は?」
私は霧崎教授の問いかけに笑顔で答えた。
「もう現世に怯えるのは止めて戦うって言ってました。・・・きっと、今の店長なら大丈夫です」
私は店長の心の世界の救世主になれたのかな。
たとえなれていなくても今は無事に2人が帰ってきてくれたらそれでいい。
私はそう思いながら店長の病室を出て、もう1人の大切な人の場所へ向かった。
★★★
僕が気がつくとそこは黄泉の窟屋だった。自分の心の中から何とか帰ってこられたらしい。
(そういえば、何で菊乃が僕の心の中にいたんだろう?・・・それにしても、過去の記憶に囚われていた僕をわざわざ助けに来るなんて、やっぱり菊乃は勇敢だな)
「時也!」
急に名前を呼ばれて僕がそちらを振り向くと、そこにはあちこちボロボロになっているキトラがいた。どうやら僕が気を失っている間、土人形たちと戦っていたらしい。キトラは僕に駆け寄ってくると僕を抱き締めた。
「良かった!時也が戻ってきた!」
「・・・キトラ、心配かけてごめん。そして、ありがとう。僕が辛い思いをしないようにあの事故の記憶を忘れさせていたのはキトラなんだよね?」
キトラは僕の言葉に少し驚いた後、小さく頷いた。その時、僕は大きな圧力を感じて後ろを振り返ると、ガルダの悪意が動揺を隠しきれない表情で立っていた。
「馬鹿な。どうやって自分の記憶を乗り越えたのだ!?お前は、私と同じくらいあの世界を嫌っていたはずだ!お前は自分を責め続けるあの世界が嫌いじゃないのか!?憎くないのか!!?」
僕は相手を見据えて続けた。
「確かに僕はあの世界が大嫌いだ。でも、側に大切な人が居てくれるなら、どんな世界だって生きていけるし、外の声も気にならなくなるんだって漸くわかったんだ。そして、やっと気づけた。あの世界で聞く声をドス黒くさせていたのは共感覚じゃなくて僕自身の心の弱さだったんだってね」
相手は理解できないという顔のままだ。僕は一息つくと彼に言った。
「確かにあなたは魔力という特別な能力を持っている。僕みたいな普通の人間はまず敵わないだろう。でも、どれだけ才能や魔力を持っていても、世界が嫌いになった理由を人のせいにして世界を拒絶しているあなたはこれから先も一生孤独なままだし、僕が過去を乗り越えられた理由も一生理解できない」
彼は僕の言葉が癪に障ったらしい。土人形と共に僕に襲いかかってきた。僕はキトラから借りたスマホを取り出した。
「聞け!闇の中から僕を救ってくれた救世主の歌声を!」
スマホから僕が作った「DAISY」の歌が鳴り響いた。その瞬間、土人形たちが動きを止めた。ガルダの悪意は想定外の事に驚愕した。
「な、何が起こった?」
「悪意は善意が欲望によって歪んだもの。なら、歪みを治してやればいい。罪に苛まれていた僕を菊乃の声が救ってくれたように、『DAISY』の声には人を幸せにする力があるんだ」
「・・・ば、馬鹿な!こんなただの機械音がか!?」
「確かに『DAISY』は誰も手を施さなければただの機械音だ。でも、そこに作り手の思いが籠ればこんな風に人の心を揺さぶることが出来る。・・・これが人の可能性なんだ」
相手は僕の持っているスマホから流れる「DAISY」の声に耳を傾け、初めて笑顔になった。その悪意の抜けきった顔に僕は少し驚いた。
「時也、と言ったか。お前は大した奴だ。かつて大魔術師と恐れられた私に立ち向かい、普通の人間の可能性を示すとはな。・・・いいだろう。私も元の体に戻るとしよう」
ガルダの悪意はそう呟くと白い光りに包まれて静かに消滅した。その瞬間、土人形たちは粉々になり、土に還った。僕はずっと続いていた緊張状態が漸く解けて地面に座り込んだ。
「・・・はあ~、疲れた~」
「時也」
キトラが駆け寄ってきた。僕は彼に振り向くと小さく笑った。
「終わったよ。これで、優介さんは助かるんだよね?」
「うん。優介さんの魂はノアに頼んでついさっき現世に送り返してもらったよ」
キトラはそう言うと僕に手を差し出してきた。
「お疲れ様、時也。・・・やっぱり、2年前に君を選んでいて正解だったよ」
僕はキトラの手を握って立ち上がると思い出したようにきいた。
「キトラ、ききたいことがあるんだけど」
「・・・何で、2年前に僕が憑依する人間として君を選んだか、でしょ?」
僕は頷いた。キトラは少し考えた後、決心したのか顔を上げた。
「わかった、教えるよ。でもとにかく、今は彼岸に戻ろう。ここは人が長居できるような場所じゃないからね」
僕とキトラは黄泉の窟屋を出ると彼岸まで戻ってきた。そこにはノアさんと透さんがいて、ノアさんは渡し舟に乗っていた。
「お帰り、時也・キトラ」
「俺たちが応戦していた土人形たちが消えたということは、どうやらガルダの悪意は完全に消滅したようだな」
僕は透さんの言葉に頷くと、キトラに振り向いた。キトラは「分かった」とでも言うように小さく頷いた。
「僕が時也を選んだのは、君が『世界ではなく自分自身を拒絶していたから』だよ」
「・・・自分を、拒絶?」
「僕は不老不死の力を得てからずっと現世を嫌っていた。普通とは違う僕自身よりも自分を拒絶する現世を憎んで生きてきた。そういう点ではガルダと僕は似た者同士だったのかもしれないね」
キトラの目は何処か寂しそうで僕は何も言えなかった。キトラは小さく笑うと話を続けた。
「そして、漸く不老不死から解放されて僕はここにたどり着いた。最初は現世にまた関わるなんて御免だと思っていたけど、まだ現世に未練があって、現世に干渉できる魂を透に探してもらうことにした。ある条件付きでね」
「条件?」
「それは渡し舟に乗った人に2つの質問をすること。1つは『現世に未練があるか』そしてもう1つは『もし生き返れるとしたら何をしたいか』」
僕はその言葉の意味がわからず首をかしげた。
「大抵の人はこの2つの質問をすると己の欲望を丸出しにするとノアにきいたからね。僕は自分で言うのもなんだけど、気まぐれなんだ。他人の欲望のために現世に干渉する気は毛頭なかった」
「・・・それで、僕は何て答えたの?」
僕の質問にキトラの代わりに透さんがこう答えた。
「最初の質問には『未練があったとしても自分にそんな価値はない』。そして、次の質問には『そんな事が出来るのなら自分じゃなく別の人間に使ってほしい』だったよ。ここまで自分を否定している奴は初めてだったからよく覚えてる」
透さんの言葉にキトラは肯定するように頷いた。
「ここに来た君の目は自分への憎悪と事故で亡くなった人への罪悪感で溢れていたよ。まだ12才の小さな体に負の感情と重荷を抱えて、君は今にも押し潰されてしまいそうだった」
さっき漸く記憶を蘇らせたばかりの僕は大体想像がついて俯いた。
「そんな君に教えてあげたかった。現世は悪いことばかりじゃない事、自分を否定する人間もいれば肯定して包みこんでくれる優しい人だっている事。他にもたくさん僕がこの世界に来る直前まで気づけなかった現世の事を君には生きている間に知ってほしかった。・・・それが君を選んだ大きな理由だよ」
全てを話し終えるとキトラは渡し舟を指差した。
「これで僕の話は終わり。さあ時也、ノアの渡し舟で現世に送ってもらうといいよ」
僕は小さく頷いた。渡し舟に乗る直前、僕はキトラを抱き締めた。キトラは不意を付かれて驚いて固まっている。
「キトラ、ありがとう。そしてごめんね。僕はこの2年間ずっと、辛い事や悲しい事を全部君に押し付けてきた」
「構わないよ。そうなる事を分かっていて僕は君を選んだんだから」
「でも、もう大丈夫だから」
僕はキトラの目を見据えて続けた。
「痛みや苦しみを抱えて生きる事がどれだけ辛いかは理解してるけど、それを含めて『人間らしく生きる』って事だ。これからは絶対に逃げたりしない。そうしなきゃ強くなれないから」
キトラはその言葉に笑顔で頷いた。
「これから先も僕たちは運命共同体だけれど、僕は出来る限り君に干渉するのをやめるよ。君の人生は君のものだ。君自身がたくさんの事を選択して生きていくんだ」
「ありがとう、キトラ。・・・また、いつか会えるよね?」
「・・・勿論だよ。さあ、早く行くんだ」
僕は渡し舟に乗り込むとノアさんが舟を漕ぎ始めた。彼岸の幻想的な風景が遠ざかっていく。僕は、いつまでもこちらに手を振り続けるもう一人の僕に同じように手を振り続けた。
しばらく経つと彼岸は見えなくなり、三途の川の川面だけが果てしなくどこまでも続く場所に出た。それまでずっと黙っていたノアさんが口を開いた。
「・・・お前、キトラにまたいつか会えるかきいてたけど、ほんとは気付いてるんだろ?2年前と同じようにお前の彼岸での記憶は現世に帰ると消える」
「・・・うん、わかってる。それでも僕は最後に笑顔で別れたかったんだ」
(ありがとう、僕を守ってくれて)
僕がそんな思いを抱いていると、前に川岸が見えてきた。
「もうすぐ現世だな」
「そうみたいだね。ノアさんも僕の我儘に付き合ってくれてありがとう。透さんにもお礼を言っといてほしいな」
「まあ、お前の我儘のおかげでこっちは後で傀儡に説教食らう事になるんだろうが、そのお代はきっちり返してもらうぜ。・・・お前が現世で体験した土産話でな」
僕が振り向くとノアさんは笑顔で言った。
「言ったろ?人生は一人に一度きりだ。俺はそいつらの話が聞きたくてずっと渡し守をしてるんだ。だから一度死んで生き返った男の話なんて超貴重なんだよ。楽しみにしてるぜ、時也」
僕は頷いた。その間にも現世の岸はどんどん近づいてきて、とうとう岸に着き、ノアさんは舟を止めた。すると、僕たちの目の前に大きな扉が現れた。
「それが現世への扉だ。その先に行くと現世に戻れる。そして、お前はここでの記憶を全て忘れる」
僕は舟から降りるとノアさんに言った。
「じゃあね、ノアさん。元気でね」
「ああ。お前も簡単にここに来るなよ」
僕はその言葉に小さく笑うと現世への扉を開けた。現世の光が僕を包み込む。
その時、ノアさんは最後に呟いた。
「ああ、そうだ。最後に透から伝言だ」
僕は振り向いた。
「『人との出会いは一期一会。人との繋がりを大切にして生きろ』だってさ」
僕は何処かで聞いたことのあるその言葉に驚きながら意識を失った。
どれくらい経っただろう。僕は瞼の隙間から入ってくる光を感じて閉じていた目をゆっくり開けた。目の前に白い天井が見えて、耳には無機質な機械音が聴こえる。やっと僕は自分の今いる場所がわかった。
(・・・ここは、病院?・・・そうか、現世に、帰ってこられたんだ)
僕は上体を起こすと自分の手を見つめた。
(・・・やっぱり、生きてるっていいな)
今までは生きているのが苦痛だったはずなのに、そう感じた。何でか知らないけど、自分の考えが前向きになっている事が僕は嬉しくて少し笑った。
その時、入口の方から何かが落ちる音がして、そちらを振り向くとそこには菊乃が立っていて、コンビニ袋が彼女の足元に落ちていた。
「・・・菊乃」
僕が名前を呼ぶと菊乃の目から大粒の涙がこぼれた。僕がそれに戸惑っていると菊乃は僕に駆け寄ってきて僕を抱き締めた。
「あ、あの、菊乃?」
「・・・っ時也くん!時也くん~!時也く~~ん!!」
「・・・もう、何回僕の名前呼ぶんだよ」
僕はそう呟くと、何度も僕の名前を呼びながら泣き続ける菊乃の頭を撫でた。
「だ、だって、時也くん、ずっと目を覚まさなくて、時也くんと心の中でお話ししたの、夢だったのかなって、ずっと不安で・・・・」
「・・・心の中?」
菊乃は僕の疑問にはっとすると「何でもない!」と言った。僕が首を傾げていると、菊乃はその空気を払拭するように1回咳払いするとにっこり微笑んだ。
「お帰り、時也くん」
僕はその言葉を聞くと涙が出てきた。菊乃の声は僕に「自分は今ここで生きている」という実感を湧かせてくれた。僕は笑顔で菊乃に、僕の救世主にこう答えた。
「菊乃、ただいま」
それから1週間後、僕は漸く退院した。退院当日には菊乃が来てくれた。
「あれ?菊乃だけ?響や真子さんは?」
「真子さんは家で時也くんの退院祝いのごちそうつくってるよ。響さんは他に用があるからって朝から出掛けたんだって」
どうやら響が気を聞かせてくれたらしい。そして僕は、帰ろうとした菊乃に思い出したように言った。
「・・・そうだ。菊乃、帰る前に行きたいところがあるんだ」
菊乃は僕の言葉に「いいよ、行こう」と頷いた。
僕たちは東都学園の別館前に来た。別館の倒壊具合は酷いものだった。3階建てだったはずの別館は最早瓦礫の山と化していた。僕はその光景を見ながら呟いた。
「これに巻き込まれてよく1週間で退院できたな、僕」
「響さんが言ってたの。時也くんと店長の周りだけ瓦礫が一欠片も無かったんだって。まるで瓦礫が2人を避けて落ちたみたいだって不思議がってた」
「それが、菊乃が言ってた優介さんの魔法なの?」
「そうだったんじゃないかな。今度、店長にきいてくるよ。・・・まあ、店長はしばらく塀の中だから今までみたいに頻繁には会えないだろうから、会える時にたくさんお話ししておかないとね」
僕は菊乃の言葉に頷いた。優介さんは僕が目を覚ました半日後に目を覚ました。そして、今は器物損壊の罪で逮捕されて刑務所にいる。殺人に関しては警察はまだ証拠は愚か、優介さんが叔父さんを殺した動機すらつかめていないから不問にされるだろうと響が言っていた。・・・当たり前だ。僕は、優介さんが僕を誘拐するために叔父さんを利用していた事を警察に話すつもりはなかった。僕の証言がなければ優介さんの罪は証明されないんだから、今の警察が真相を知ることができるわけがない。
「時也くん、良かったの?誘拐されそうになっていた事、警察に言わなくて」
「2年前の事故の時に最低限の事しかしなくてその後の当事者の生活はほったらかしにする警察に話すことなんて何もないよ。それに、響のためにも優介さんには早く罪を償って自由になってほしいし」
優介さんが目を覚まして最初に会ったのは響だった。響と優介さんが何を話したのかは知らないけど、警察に行く直前の2人の雰囲気を見る限り、親密な関係は保たれたままらしい。
(当然か。響も優介さんの事、前から好きだったみたいだし)
僕がそう思っていると、別館だった瓦礫の山を眺めていた菊乃が僕に振り向いた。
「じゃあ、帰ろうか。響さんも真子さんも時也くんの帰りを待ってるよ」
「あ、あの、菊乃。・・・教えてほしいことがあるんだ」
「何?」
「菊乃自身の事」
菊乃はその言葉に少し驚きの表情を見せると、少し俯いて呟いた。
「確かに、私が時也くんの心の傷を知っていて、時也くんだけが私の事を何も知らないのはフェアじゃないかもね」
「菊乃?」
「ああ、何でもない。・・・いいよ、教えてあげる。ちょっと遠出することになるけどね」
僕は首をかしげた。
「遠出?」
彼女は唐突にきいてきた。
「今週の土曜日、暇?」
(成程、そう言うことだったのか)
その週の土曜日、僕と菊乃は都市郊外行きの電車に揺られていた。退院当日、「菊乃の事を知りたい」と言った僕に彼女はいつも通りの笑顔で言った。
「いいよ。ただし、私の里帰りに付き合ってくれるならね」
というわけで、僕たちは今、菊乃の生まれ故郷に向かっているところだ。
「意外だね。菊乃ってずっと市内育ちだと思ってたよ」
「私が市内に住み始めたのは中2の頃だから、実は故郷で暮らした時間の方が長いんだよ」
菊乃はそう言うと懐かしそうに窓の外を眺めた。その横顔が綺麗で僕は見惚れてしまった。
電車に揺られる事3時間、漸く駅に着いた。やっと座りっぱなしの状態から解放されて伸びをしている僕の横で菊乃は辺りを見渡している。
「誰か探してるの?」
「うん、迎えに来るって言ってたのに・・・あっ、いた!」
菊乃はそう叫ぶと、改札の近くにゆっくりと歩いてきた黒い着物の男性に駆け寄った。男性は何処か浮世離れした掴み所のない表情に笑顔を浮かべている。
「お帰り、菊乃ちゃん」
「ただいま、お父さん」
「・・・えっ、お父さん!?」
僕の大きな声に菊乃と男性は同時に僕を見た。
「どうしたの?時也くん」
「いや、だってこの人、どう見ても20代の娘がいるお父さんって感じの外見じゃないよ!」
思っている事がつい口から出てしまい、僕は口を手で塞いで顔を俯けた。男性はそんな僕を見るとクスッと笑った。
「そんなに私は若く見えるかい?これでも40はとうに越えているんだけどね」
「・・・すいません、失礼なことを」
「気にすることないよ。大抵の人は同じ反応をするからね。もう慣れたよ」
男性は笑顔のまま僕に手を差し出した。
「自己紹介がまだだったね。菊乃ちゃんの実父の翔也だよ。よろしくね、鮎沢 時也くん」
「何で僕の名前を知っているんですか?」
「菊乃ちゃんから昨日電話があって、君の事を聞いたんだよ」
僕は男性、翔也さんの手を握り返した。翔也さんはそのまま僕をじっと見つめてきた。
「何だか、君からは懐かしい気配がするよ」
「・・・そういえば、僕もあなたと会うのは初めてじゃないような気がします」
僕は、翔也さんの不思議な雰囲気も優しそうな顔も何処かで見た気がするのに何も思い出せなくてしばらく考えた。そんな僕の顔を菊乃が覗き込んできた。
「時也くん、どうしたの?」
「えっ?ううん、何でもないよ」
「さて、まずは私の家に行こうか。案内するよ」
翔也さんが先立って歩き始め、僕と菊乃は後を付いていった。
翔也さんの家は駅から徒歩15分の所にあった。僕はその純和風の家を見上げ、呟いた。
「へえ、ここが菊乃の実家なんだ」
「・・・うーん、半分そうかな」
菊乃の言葉の意味が分からず、僕は首をかしげた。
「半分?」
「私がここで暮らしたのはほんの3年ほどだから」
「じゃあ、この家まだ建ってからそんなに経ってないの?結構古そうに見えるけど」
「いや、私は少なくとも妻が亡くなってから20年以上ここに住んでいるよ」
翔也さんの言葉を聞いて、僕はさらに頭が混乱してきた。
「えっ?だって、翔也さんは菊乃のお父さんでここに長い間住んでて、でも菊乃がここで暮らしたのは3年ほどで、お母さんもとっくに亡くなってるって事は離婚が理由ってわけでも無さそうだし・・・」
菊乃はブツブツと呟いている僕を見て、クスッと笑った。
「そりゃあ、混乱もするだろうね。とにかく、中に入って。詳しい事はそこで話すから」
家の中に入ると僕は早速居間に通されて、菊乃は僕と翔也さんを居間に残してお茶を入れに行った。僕は今更人見知りが発動して、何を話せばいいのか分からず、居間の中を見渡した。すると、端に置かれている仏壇が目に留まった。その仏壇には写真立てが2つ置かれていて、菊乃にそっくりな銀髪の女性の写真とクセのある黒髪で少し鋭い目付きの男性の写真が飾られている。僕は仏壇に近づき、写真立てを手に取った。
(こっちの女性は菊乃のお母さんだよね?菊乃にそっくりだし。・・・じゃあ、こっちの男性は誰なんだろう?写真だって隠し撮りっぽいし・・・)
「あ、あの、翔也さん」
「何だい?」
「こっちの女の人は菊乃のお母さんですよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、この男の人は一体誰なんですか?」
「私の唯一無二の親友だよ。ここの隣の家に住んでいたんだけれど、12年前に死んでしまったんだ」
僕は縁側に出て隣の家を見た。そこにはこの家より少し小さめの和風の家が建っている。僕はしばらく隣家を眺めると、翔也さんに向き直った。
「この人はどんな人だったんですか?」
「顔に似合わず、誠実で嘘をつくのが苦手な奴だったよ。・・・そして、あいつはきっと誰よりも菊乃ちゃんの幸せを願っていた」
僕はその言葉に違和感がした。その時、菊乃がお茶を部屋に持ってきた。
「お待たせ!・・・ああ、もしかして話始まってた?」
「いや、私が仏壇に飾っている写真について話していただけだよ」
翔也さんはそう言うと立ち上がった。
「じゃあ、私は席を外すよ。あとは若い者同士で話をしてくれ」
翔也さんは居間を出て行った。僕は自分の席について、菊乃はお茶を僕の前に置いて僕の正面に座った。菊乃はちょっと戸惑いを見せている。
「どうしたの?」
「あの・・・なんか、私自身の事って言われても何から話していいかわからないんだけど」
「あっ、ごめん、あの時はとにかく何か知りたくて、なんかざっくりした言い方になっちゃって・・・でも、今一番知りたいのはこの人と菊乃の関係かな?」
僕は写真立てを見せた。菊乃は少し話ずらそうに顔を俯けた。
「あ、あの、話しにくい事なら無理に聞かないから」
「ううん、大丈夫だよ。ただ、懐かしくて泣きそうになっただけ」
菊乃は出そうになっていた涙を拭うと僕に言った。
「この人の名前は因幡 透さん」
「因幡 透?」
僕は頭の片隅で何かが引っ掛かった。・・・何だろう、何故かは分からないけど、僕はこの人の名前を何処かで聞いたことがある。・・・うーん、思い出せない。
しばらく唸った後、僕はあることに気づいて菊乃に聞き返してしまった。
「ちょっと待って・・・因幡?」
「うん」
菊乃は続けた。
「透さんは私の養父なの。そして私は法律上はまだ透さんの養女だから名字もそのままなのよ」
「えっ!」
僕は驚いてつい写真を凝視してしまった。
「どうして実のお父さんがいるのにこの人の養子になったの?」
「翔也さんが実のお父さんだって分かったのはほんの2年前だから。それまで私にとって翔也さんは隣に住んでいるお兄さんでしかなかったの」
(2年前って事はもう大学生になってからか。・・・じゃあそれまで菊乃は両親の事を何も知らずに育ったのか)
僕は2年前に両親を亡くすまではごく普通の一般家庭で育った。そんな僕には生まれた時から両親を知らずに育った人間の苦労は想像が出来ない。菊乃は、僕が考えていることを察して続けた。
「時也くん、確かに私は普通の人とは違う家庭で生活してきたけどそれを後悔はしてないよ。両親がいて家族に愛されるのが当たり前な家庭で育った人からすると私は苦労して育ったように思えるかもしれないけど、色々な人の愛情を受けて育った点は同じだから。・・・まあ、私もその事に気づいたのは透さんの養女になって随分経ってからだったけど」
菊乃は少し顔を俯けた。
「それまではずっと地獄だった。生まれてすぐに預けられた施設では苛められて、漸く引き取ってもらえた家ではストレスの捌け口にされて、死んでしまいたかったけどそんな覚悟もなくて・・・私がここにいる意味なんて無いんじゃないかって思えて、世界がどんどん色を無くしていった。あの時は自分のいる世界が大嫌いで仕方なかった」
僕は驚きの表情で菊乃を見た。「この世界が大嫌い」「自分がここにいる意味なんてない」、それはかつて僕がよく言っていた言葉と同じだったからだ。
「そんな時に透さんに出会ったの。透さんは誰からも必要とされなかった私の家族になってくれて、私に生きる意味を与えてくれた。それからたくさんの人たちに出会えて私の世界は段々色を取り戻していった。・・・初めてどんなに辛いことがあってもこの世界で生きていきたいって思えた」
「大切な人たちがこの世界で一緒にいてくれるなら?」
菊乃は僕の言葉に笑顔で頷いた。・・・やっぱり菊乃はすごいな。僕が誰かに教えてもらわないと気付けなかった事に自分で気付いたんだから。
僕がそう思いながら黙り込んでいると、菊乃は思い出したように「あっ!」と言った。
「そういえば、透さんのお墓参り、まだ行ってなかった。行かないと」
「・・・僕も付いていっていい?」
「勿論。ていうか、時也くんに来てほしいの」
そう言って菊乃は僕に微笑みかけた。相変わらず菊乃の笑顔に僕は逆らえないんだなと改めて実感させられた。
僕たちは家を出て、家の裏手にある山の山道を歩き始めた。透さんは身寄りがなかったため、翔也さんが裏手の山を買い取ってその山頂にお墓をたてたらしい。歩き始めは穏やかな山道だったけど、山頂に近づくにつれて段々道は険しくなっていき、僕は山頂についたと同時に地面に寝転がった。
「・・・あの、菊乃、この山、急な道が、多くない?」
「時也くん、大丈夫?」
「大丈夫、じゃ、ない・・・はあ」
僕と同じ道のりを歩いてきた菊乃が全然平気な様子を見て僕は小さくため息をついた。
(やっぱり空手とか習うべきなのかな)
最低でも自分の身は自分で守れるぐらいまで強くならないと菊乃にはいつまで経っても振り向いてもらえそうにない。僕の落胆のため息に菊乃は少し首を傾げた。
「どうしたの?」
「・・・何でもないよ。もう大丈夫」
漸く呼吸が楽になってきて僕は笑顔でそう答えた。菊乃は僕の笑顔に安心したのか、山頂の一番日が当たる場所に立っている透さんのお墓に駆け寄った。
「なんか、お墓が1つだけ立っているところって初めて見たかも」
「大抵の人は驚くよ。中には罰当たりだって言う人もいるし。まあ、お父さんは『バチなんかより親友を取ることの何が悪いんだ』って言ってるけどね」
そう言いながら菊乃は墓前に花を供え、手を合わせた。僕も菊乃の横にしゃがみ、手を合わせる。
「透さん、久しぶりだね。今日はどうしても紹介したい人がいるの」
菊乃は僕の方を見た。
「鮎沢 時也くん。私の大好きな人」
僕はその言葉に驚きを隠せなかった。
「透さんが亡くなる間際に言ってくれた『誰かを守れるぐらい強くなれ』っていう言葉を実践できてるかどうかはまだ分からないけど、その言葉のお陰で私はここまで大きくなれた。だから、ありがとう。たとえ血の繋がりはなくても透さんは私のかけがえのない家族だよ」
「たとえ血の繋がりはなくてもかけがえのない家族」・・・菊乃の呟いた言葉は青空に溶けていった。菊乃の感謝の言葉はきっと透さんに届いたはずだ。
・・・それより、さっき菊乃がさらっと言った言葉の方が僕は気になっていた。
「あの、菊乃、さっきの『大好きな人』っていうのは?」
菊乃はその言葉にキョトンとした後、漸く自分が言った言葉を思い出したらしく、赤面した。
「一応報告しとこうと思って。私にもやっと両思いな人が出来たって」
「えっ?両思いって、僕、菊乃に告白したっけ?」
しばらくその場に沈黙が降りて、菊乃が恐る恐るきいてきた。
「・・・もしかして、時也くん、あの時の事覚えてない?」
「あの時って?」
僕が首を傾げると、菊乃は漸く何かがわかったらしく、大きなため息をついた。
「・・・はあ、まさか二度も告白することになるなんて思わなかった。一度だけでも結構勇気が必要だったのに」
「あ、あの、ごめん、もしかして僕何か忘れてる?ずっと意識がなかったから最近の記憶が曖昧なのかも。待って、思い出すから」
僕は腕を組んで考え出した。
(うーん、確か別館に菊乃を助けに行って、優介さんに気絶させられた後は全然覚えてない。・・・もしかして、もう一人の僕が、いつまでも菊乃に思いを打ち明けない僕にイライラして、僕の体を借りて告白したとか?いや、彼はそんな質の悪いことをするような人じゃないし)
いくら考え込んでも何も思い出せない僕を見て菊乃は小さく呟いた。
「やっぱり、直接本人に言うのが一番だね」
「菊乃?」
菊乃は僕が名前を呼ぶと僕の手を握った。咄嗟の出来事に僕が困惑していると、菊乃は僕の目を見据えて言った。
「私はあなたの事が好きです。私と付き合ってください」
僕は告白を聞いた直後は困惑と動揺でしばらく思考が停止したしたけど、嬉しさが込み上げてきたのと、何より赤面しながら告白してきた菊乃が可愛くて、ついフフッと笑ってしまった。菊乃は頬を膨らました。
「・・・もう、笑うことないじゃない!」
「・・・ああ、こめん。なんか、菊乃が僕の事を本気で好きになってくれてたことが嬉しくてつい」
僕は一通り笑った後、菊乃に向き直ると続けた。
「僕はずっとこの世界で自分を否定して生きてきた。でも、君に出会って全てが変わったんだ。君は人の心の声に苛まれていた僕を助けてくれて、僕にこの世界で生きる意味を与えてくれた」
僕は菊乃を抱き締めた。
「君は僕の救世主だった。ありがとう、菊乃。・・・僕も君の事が好きだ」
僕と菊乃はしばらく抱き締めあった後、口付けを交わした。菊乃はそれが終わるとまだ頬に赤色を残したまま、僕に告げた。
「・・・言っとくけど、キスはこれで2回目だからね」
「・・・・・・へ?・・・えっ!?ちょっと待って!いつしたっけ!!?」
「自分で思い出して。ちなみに寝込みを襲った訳じゃないからね」
菊乃は僕に悪戯っ子のような笑みを浮かべて続けた。
「あの世界で時也くんそっくりな子に散々翻弄されたんだからこれくらい許してよ」
僕はその言葉の意味が理解できなかったが、(菊乃の新しい面が見れたからいいか)と割り切った。菊乃はそんな僕の視線に気付かず、山頂から見える景色を眺めている。
「ねえ、時也くん。まだこの世界の事、嫌い?」
「まだマシになったけど、好きとは言えないかな。でも、僕はこれからもここで生きていくよ。・・・菊乃が側にいてくれるなら」
菊乃はその言葉に嬉しそうに頷いた。その顔は何よりも輝いて見えた。
僕はこの世界が大嫌いだ。
まだ僕の事を心ない言葉で傷つける人はたくさんいるだろうし、きっとこれから先もその人たちの声はドス黒いままだろう。
でも、僕はもうこの世界で孤独じゃない。
救世主アリスが僕の隣にいてくれるなら、アリスに恋をしたチェシャ猫の僕はどんなに辛い現実でも生きていけるし、どんな過酷な運命にだって立ち向かっていける。
そうして、僕たちはこれからもこのノイズの世界で生きていく・・・
世界を嫌うチェシャ猫と彼の救世主であるアリスの物語はこれで終わりです。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます。
この物語に出てきた登場人物はどの人も好きなので、また次書く予定の小説に出すかもしれません。
そのときは「ああ、こんなキャラいたな」と実感していただければと思います。