第1話 チェシャ猫の憂鬱
これは「四神相応」から二年後のお話です。
僕はこの世界が大嫌いだ。
特に人込みや屋外は人の声・車のエンジン音・木霊する都会の音、全てがうるさく聞こえてきて、ヘッドフォンがなければまず歩く事が出来ない。
そんな世界で僕はまるで太陽のような人と出会った。
その人の声だけがこの雑音だらけの世界で綺麗に響いている感覚がとても心地よかった。
「コラ!鮎沢!授業中はヘッドフォンをしまえ!」
・・・またか。いつも同じ事ばかり言って、つまらなくないのだろうか、この教師は。
僕がそんなことを思いながら無視し続けていると向こうも僕を叱るのは時間の無駄だと判断したらしく、肩ではまだ怒りつつ教卓に戻って行った。
ここは東都学園中等部。僕、鮎沢 時也はここの2年生。まあ、あまり学校には来ていないし、来たとしても授業なんてほとんど聞いていない。そんな僕は悪目立ちするらしく、クラスメートたちがひそひそ話をしている。
「鮎沢くん、やっぱり変だよね。顔はかっこいいのに」
「全然授業聞いてないのに成績はトップクラスだからほとんどの先生は容認してるみたい」
「一体何のために学校来てるのかしら」
・・・何のために、か。わからないから来てるんだけど。
勿論、僕はその言葉を口には出さない。僕にとっては自分の声すら雑音だからだ。
僕は共感覚というものを持っている。共感覚を持つ人は何の変哲もない文字や音に色を感じたりするのだが、僕の場合は特に聴覚がこの症状の影響を受けている。そのため、僕は世の中に溢れる全ての音が色づいているように見えるんだ。共感覚を持つ人はその事をハンデだと思わない人が多く、むしろ才能だと前向きに考えて多方面で活躍している人がほとんどだそうだ。・・・僕と違って。僕にとってこの共感覚は日常生活に支障を来たすだけのものだ。他人の声は大体が黒い闇みたいに聞こえて、相手の本音までも聞こえてきそうになる。耐えられないぐらいうるさい雑音の世界で僕はこれからも生きていかなくてはいけないんだ。ほんと嫌になる。
僕は窓から見える景色を眺めながら決心した。
(この授業が終わったら帰ろう)
僕は授業終了のチャイムが鳴るとすぐ化学部の部室に向かった。ここはある教師が良からぬ噂を流している影響で大半の生徒から気味悪がられているため、誰も近づかない。しかし、その日は先客がいた。
「よぉ、時也。また早退するつもりでここに来たのか?」
「・・・ほっといてください。一ノ瀬先生こそ何でここにいるんですか」
「喫煙所に行くのが面倒だったから」
「何度も言いましたけど、こんな危険な薬品がたくさんある場所で煙草を吸わないでください」
「別にいいじゃねえか。まだボヤ騒ぎの一つも起こしてねぇんだから」
「起きたらシャレになりませんよ」
僕はため息をつきながら(この人、本当に教師か?)という目を彼に向けた。彼の名前は一ノ瀬 響。この学校の化学科教師で僕しか部員がいない化学部の顧問。そして僕が唯一信用している教師でもある。この人の声は何もないのどかな草原のような色だから聞いてて不快じゃないし、驚くほど裏表のない性格だから話しやすい。ちなみに生徒達に黒い噂を流したのはこの人だ。それはこの部室を静かな空間にするためなんだけど、一ノ瀬先生はイケメンでこういうさっぱりした性格をしているからか生徒達にすごく人気があり、生徒たちは噂を簡単に信じた。
僕は、注意したにも関わらず煙草に火をつけた先生を横目で見ながら私服に着替え始めた。僕の通学用の斜め掛け鞄には、ふと(もう帰ろう)と思い立った時のために常に私服が入っている。着替えている僕をじっと見ていた一ノ瀬先生は煙を吐きだすと口を開いた。
「お前、目立ちたくないって言ってる割に私服が派手だな」
「そうですか?」
「だってその服、この前ライブハウスでライブやってたビジュアル系バンドのボーカルが似たような恰好してたぞ」
「あんなわけのわからないメイクしてどす黒い歌しか歌えない奴と一緒にしないでください。それに僕だって好きでこんな格好してるわけじゃ」
そこまで言って僕は口をつぐんだ。先生はその事に一瞬首を傾げたが、どうでもよかったのか何も追及してこなかった。
(危なかった。あの事はこの人にはまだ話してないんだった)
僕は少しほっとしながら着替えた制服の学ランを畳んで鞄に入れた。ちなみに僕の今の格好は、袖が黒と赤の縞々になっている長袖の黒Tシャツ(右胸元に猫のワッペンあり)と半袖の黒い猫耳パーカー、下は黒い七分丈のズボンに黒と赤のスニーカーという結構特殊な格好だ。でも、さっきも先生に言いかけたけど、これは僕の趣味じゃない。こういう格好を好む厄介な奴が身近にいるせいだ。僕は帰る準備を整えて鞄を持つと外に通じる窓を開けた。この部室は裏口に近い校舎の1階の奥にあるため、人目に付かず学校を出るには絶好の場所なんだ。
「じゃあ先生、僕はこれで」
「おう。また気が向いたら学校来いよ」
教師らしからぬセリフを吐いて先生は僕に手を振った。僕は学校を出ると家に向かって走り出した。
東都学園はビジネス街の側にあり、僕の家はビジネス街を抜けたところにある。僕は学校を出るとすぐにヘッドフォンをした。ビジネス街なんてストレスだらけのサラリーマンやOLがはびこる負の感情の巣窟だ。ヘッドフォンが無ければその人たちの心の声がたくさん聞こえてきて数メートル歩くだけでも死んでしまいそうになる。
(昔はここまで症状はひどくなかったのになぁ)
本来、共感覚を持っている人は僕ほど苦しむ必要はない。音や文字に色がついているように感じられた所で日常生活に大して支障はないからだ。しかし僕の場合、人の声だけでなくその人の心の中の声まで聞こえてきてしまうから厄介なのだ。
そうなってしまったのは2年前、両親と僕がバスの事故に巻き込まれた時からだ。その事故で両親が亡くなり、僕は天涯孤独となったわけだけど、その時の事はあまり覚えていない。気が付けば炎上したバスの外に放り出されていて、駆け付けたパトカーや救急車のサイレンの音がけたたましく頭の中で響いていた事だけが今でも忘れられない。そのバスの事故の唯一の生存者だった僕はしばらくマスコミから逃げなくてはいけなかったためあまり思い出したくない思い出だ。
僕が嫌な事を思い出して大きなため息をついた時、僕が歩いているすぐ横に車が停まった。嫌な予感がして僕は駈け出そうとしたけど遅かった。前も後ろも黒い服を着た男に挟まれ、僕はその場から動けなくなった。・・・またか。2年前に共感覚がひどくなってから僕は頻繁にこういう輩に絡まれるようになった。
「鮎沢 時也。今日こそ一緒に来てもらうぞ」
「何度も言いましたけど、お断りします」
「そうか。では強硬手段を取らせてもらう」
男たちは臨戦態勢となった。僕は大きなため息をつくと(仕方ない。いつものパターンでいくか)と思い、その準備に入ろうとした。その時、急に僕の目の前にいた男が前のめりに倒れてきた。僕がそれを避けて前を見るとそこには見たことのない女の子が立っていた。その女の子は可愛らしい顔立ちの少女だったが、何より目を引くのは彼女の格好だ。頭に付けた黒い大きなリボンカチューシャ、水色と白色のエプロンドレス。まるで不思議の国のアリスのような井手達だった。彼女は呆然としている僕の手を取ると走り出した。後ろから男たちの追いかけてくる足音と叫び声が聞こえていたけれど、僕が少ない体力を削りながら女の子の早い足についていっていたからか、その音は段々聞こえなくなり、完全に聞こえなくなった頃にやっと女の子は足を止めた。僕はその場に尻をついて苦しい呼吸を整えた。彼女は僕と違い体力がある方らしく、1回深呼吸をすると僕に振り向いて笑いかけてきた。僕はずっとつけっぱなしだったヘッドフォンを取ると口を開いた。
「あ、あの、ありがとう」
女の子は、俯いてぼそぼそと喋った僕に満面の笑顔で答えた。
「どういたしまして」
その声を聞いた時、僕は今まで感じたことのない感覚がした。それはまるで光の差さない深海から引き上げられたような救われた感覚。彼女の声は本当に天使の様だった。彼女は、呆然としている僕に無垢な笑顔で微笑みかけた。
「ああ、そうだ。まだ名前きいてなかったね。私は因幡 菊乃。あなたは?」
「・・・時也、鮎沢 時也」
この世界がノイズだらけの不思議の国で僕がこの世界を嫌うチェシャ猫だとすると、彼女はまさにこの世界の救い主のアリスなのかもしれない。少なくとも僕はそう思っている。