甘い夢の終わりの先
綺麗に磨かれた床の上に散乱した陶器の破片。
テーブルに散らばる綺麗に盛り付けられていたはずの野菜。
「おまえは、有守河家に何度泥を塗るつもりだ!」
――響き渡る怒声。
激高した父の顔は真っ赤で、青褪めた顔の母はただ震えて後退りしている。一人平然と座る兄はただ事の成り行きを見ていた。
亜璃子は目を伏せる。
今日、あの日に彼女達に命令されたことを実行した犯人が亜璃子であることが知られてしまった。
最初から彼女達はそれを狙って亜璃子の犯行現場を写真に収めていたらしい。写真部という手先を使って。
逃げても告げ口してもどうせ結果は同じだった。
それに今度は言い逃れできない。実行したのは間違いなく亜璃子だったから。
彼女達の言うことに逆らえなかったとは言えない。彼女達が命令したという、その証拠はないのだから。
亜璃子の味方はもうここにはいない。
夢見がちな母も現実を知り亜璃子に失望したことだろう。今までは「理由があるのよ」と父を諫めてくれていたけれど、心の弱い人であったから今も壁に寄りかかって崩れていく。
父は良くも悪くも無関心だった。家族全員で食卓を囲ったことがない我が家で、わざわざ早く帰ってきて怒鳴りつけるとなると、無関係とはいえないほどのことを亜璃子がしでかしたということ。影響が出てしまったのだろう。
兄は元から亜璃子を良く思っていない。
もうどうにもならないほど亜璃子の周囲は彼女たちの悪意によって壊されてしまったのだ。
亜璃子はその日、“アリス”だけを抱えて家から逃げ出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
打ち付けるような雨音がする。どこかで小さく雷の音がした。
抱えた“アリス”は男からもらった箱に入っているので濡れることは防げた。しかし亜璃子自身はびしょ濡れで、肌に纏わりつく服を邪魔に思いながらも、握りしめた拳をドアに打ち付ける。
「お願い、お願い、開けて、レーヴン」
きっとこの扉が開かれなければ亜璃子は絶望に呑まれるだろう。
そっとアリスを床に下ろし、再び強くドアを叩く。
「レーヴン、助けて! 私の味方ならここを開けて! ねぇ、あなたの亜璃子よ!」
ずるずると亜璃子は座り込む。少し経っても扉の鍵が開く様子はない。
目に止まった箱のアリスが輝いて見えた。
「私もアリスになりたい」
幼い頃の夢だった。母が毎日読み聞かせてくれた童話の世界は、キラキラとしたものが詰め込まれているようでいつも胸を躍らせていた。その中に入れたらとずっと思っていた。童話の世界のヒロインになれたら、と。
熱でも上がったのか息苦しく視界が滲む中でもうだめなのだと亜璃子が諦めた時、突然側に置いてあったアリスの箱が開いた。
驚きで息を呑む亜璃子の目の前で、小さな白い手が伸び、縁を掴んでそっとアリスが上半身を起こした。
うす暗い廊下だというのに彼女自身が光を纏っているようにキラキラとした粒子が飛び交っている。そして艶やかな髪を一払いしたアリスは、くるりと亜璃子を振り返り、その赤い唇の口角を上げた。
すくっと立ち上がり箱から出てきたアリスを、亜璃子は呆然と見ていることしかできない。
きっと熱のせいで夢を見ているんだと、早く夢から覚めるよう祈った。
コンコン、とアリスが扉を叩く。
そして艶やかな唇を尖らせて軽く扉にキスをすると、カチャリと鍵が開く音がした。
「おいで、ぼくの“アリス”」
あの優しい声色が聞こえた。
白いシャツから伸びる手は男のもの。大事そうに“アリス”を抱きかかえて、ドアノブに手をかけたまま亜璃子を見る。
片眼鏡の奥の瞳は怪しく仄暗い光を宿し、亜璃子の心をざわつかせる。
「おめでとう、亜璃子。君は君を煩わせる世界から逃げることができたんだ。君の“アリス”になりたいという願いも叶って、これからはずっとぼくと一緒さ。ぼくの“ありす”」
嬉しそうに笑う男の顔を最後に、亜璃子の意識はそこで途切れた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
こちらは一応最終話になるのですが、この後の「亜璃子」がどうなるのか次第でハッピーエンドかバッドエンドかが変わるかと思います。そちらはご想像にお任せします。
そして次話が残っている、と思われる方へ。
この次の話はif設定~もしも~の最終話です。
亜璃子的にはハッピーエンドだけれどあの人にとっては……なお話です。
この三話と冒頭部分は一緒ですが少し話が変わってくるのでよろしければお進みください。