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苦い苦い世界のお話

 亜璃子は追い立てられるような気持ちで、それでも乱れた感情を悟られないよう校内を歩いた。シン、と静まり返った校舎は早鐘を打つ心臓の音が響くようだった。

 ふと濡れた感触に気付いてスカートを見れば、裾の部分の色が変わっていた。明るめのグレーの変色はまるで亜璃子の行為を証明しているようで何気ないふりを装いながら、袖で隠しつつ歩く。

 ロータリーを出た辺りで迎えの車をすぐに見つけ、駆け込むように近づく亜璃子を運転手は出迎える。そして開いたドアの中に最も会いたくない人物がいることに気付き亜璃子は乗るのを躊躇った。


「いつまで待たせるつもりだ」


 バンドカラーシャツにジャケットという私服姿の兄。きっと大学からの帰りなのだろう。時間が被ってしまった為に一緒になったらしいと瞬時に理解した亜璃子は、なるべく距離を取ってドア側の方に身を寄せた。


 亜璃子は兄が苦手だった。今朝もセットしていた目覚まし時計が鳴らなかった。そのせいで寝坊して朝食抜きだったのだが、こんなことをするのは兄しかいない。部屋の掃除は基本的に自分でやることになっている有守河家ありすかわけ。母がわざわざ時計をいじる理由などないので兄しかいないと思っているが、それを口にすることは憚れた。言えばそれ以上の言葉が返ってくるのだ。


「あーあ、失敗した。サークル出ればよかった。こんなのと一緒の空気吸いたくない」


 いつものことだ。運転手が回って反対側の運転席へと戻る隙に言うものだから、反論する頃にはもう運転手がドアを開け乗る。醜い言い争いなど聞かれたくない亜璃子はただ車窓から外を眺めてやり過ごした。

 出発する間際にジャージ姿の女子が泣きながら玄関から出てきていたのをぼんやりと眺めた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 自室の椅子に“アリス”を座らせた亜璃子は、制服から私服へと着替えを済ませると、自分はベッドに座りながら人形に向かって今日のできごとを話す。


「私は悪くないの。仕方のないことだもの。その外部生に何もしてなかったとわかったら、私もその子もどうなっていたかわからないじゃない。もっとひどいことをされていたかもしれない」


 口に出すことでよりそれしかなかったと強く思う。我ながら最善の手段を取ったと。

 けれど一方で囁きが聞こえる。本当にそれでよかった? と。

 例えば命令を無視して亜璃子が逃げたとしよう。結局はその場しのぎにしかならず、亜璃子も彼女たちの餌食になっていただろう。

 例えば対象になってしまったその子に事実を伝えたとしよう。その子は小中高一貫の生徒達の中に紛れる特殊な外部生だから、内部生との確執は切っても切れない。それでも、力は弱くてももし裏切り亜璃子を生贄に差し出されたら何も解決しない。その子も同じ道を歩むことになるのだから。

 共に逃げることも、味方のない中たたかうこともできない。

 それなら言われた通りに事を進めて、彼女達を満足させた方が賢明だ。どうせ標的は移り変わる彼女たちのおもちゃのようなものなのだから。

 標的となった子には悪かったけれど、個室に入っているところを狙ったから犯人が亜璃子だとわからないだろうし見られていた可能性も低いだろう。


「だから私は悪くない。彼女達が全て悪いの。そうよね、アリス?」


 今日も綺麗につやつやとした髪を垂らした人形。赤い唇がどこか楽し気に映る。それが亜璃子の言葉を肯定しているようでほっとするのだ。

 亜璃子は習い事へ向かう為に階下へ降りていく。

 取り残された人形の腕がパタリと膝から滑り落ちた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「また来てくれて嬉しいよ、亜璃子。今日はアリスも一緒なのかい」


 麗らかな昼下り――を少し過ぎた、けれどお茶会ティータイムには少し早い時間。

 再び男の部屋へ訪れると、今日は随分と上機嫌に出迎えてくれた。いつもはシャツにズボンという格好なのに、いつの時代かと思わせる貴族風の装いだった。首に巻いているのはたしかクラヴァットとかいうやつだ。何かの本で読んだことがある、と亜璃子は記憶を辿る。


「外へ行っていたの?」

「今日は女王陛下にご挨拶に行っていてね。こんな格好で申し訳ないが今日は勘弁してほしい」

「外には出られないのに?」

「君の世界には行けないのさ。それに今日は陛下の許可があったからね」


 そういって男は机にティーセットとスコーンを用意する。今日はクロテッドクリームをたっぷり塗ろうと決意した亜璃子は席に着く。


「アリスと一緒にいると味方がいるみたいで安心するの」

「アリスは僕の思いだ。どこにいても君には味方がいる。嫌になったならいつでもここへ来ればいい」


 片眼鏡モノクルをかけていない方の目でウインクした男の言葉は亜璃子の心に染みわたるようだった。絶対に離れることのない味方がいるというだけで、心強く感じられる。


「どうやらアリスと随分馴染んだようだね」


 嬉しそうにスコーンを口に頬張る亜璃子を微笑まし気に見つめながら男は言った。その物言いに首を傾げながらも亜璃子は頷く。


「日記を書く習慣を持つ人がいるでしょう? あんな風に、書くんじゃなくてアリスに聞いてもらっているの。思っていることを口に出すと軽くなるわ」

「それは良いことだ。君の憂いが少しでもなくなるのであれば、どんなことも正しいことだ」


 片手でカップを持ち匂いを確かめていた男の言葉に、亜璃子は胸に残っていたわだかまりを思い出す。じっと男を見つめていると、手の止まった亜璃子に気付いたのか、それとも視線で気づいたのか、どうかしたかと目で促された。

 亜璃子は言葉に詰まる。具体的に話すのは憚れる。それは男が亜璃子を否定したときの恐怖を想像したから。もし自分の考えを否定されたら、それが正しいと信じた自分は絶望に叩きのめされるような気がした。

 だから亜璃子はふっと笑う。悩んでいた事を頭の片隅に追いやって。


「いつも私の話ばかりでしょう? たまにはあなたの――レーヴンさんの話を聞きたい」


 男は僅かに目を瞠り、それでも亜璃子の思いに応えてくれた。


「私の世界とあなたの世界は違うの?」

「ぼくは君たちの世界のことは知らない。でもぼくの世界のこともよく知らない。知っているのは女王陛下が治める少し頭のねじがイカれた国民の多い場所ってこと。いつも楽しく過ごすことばかり考えているんだ」

「まるで童話の世界みたいね。私の名前が“ありす”なのも、母が童話を好きだったからなの」


 亜璃子が笑うと男も可笑しそうに笑った。スコーンにクリームとジャムをつけて亜璃子の差し出すので、亜璃子も喜んでそれを受け取った。


「前にも話したかもしれないけれど、ぼくはここから一度も外へ出たことがない。良い大人がって思うかもしれない。それでもここのドアはぼくを外へ出してはくれない。そういう決まりだから。だから外の話はいつも新鮮だよ。食料や生活の必需品を届けてくれる頭の固い配達人にはうんざりだけどね。だから君が来てくれてぼくはとても嬉しい。酸いも甘いもぼくには縁のないことなんだ。当事者である君にとっては辛いことの方が多いかもしれないけれど、それがどれだけ幸せな経験であるかとぼくは思うよ」


 男の言っていることはよくわからない。どこから突っ込んでいいのか悩む亜璃子の気持ちを察したのか、更に付け加える。


「だからぼくに君の見てきた世界を教えてほしいんだ。君の話がぼくを幸せにする。だからぼくは君の味方で有り続けられるんだ」


 きっと話を逸らされたと薄々気づいた。それでも亜璃子の話が男の憂いを少しでも晴らせるのならと頷く。嬉しそうに笑った後、男は亜璃子の目の前に追加のスコーンを置いた。


「君はぼくの“アリス”だから」


 スコーンにジャムをたっぷり塗って幸せそうに頬張る亜璃子を、男は口もとに笑みをのせながら眺めていた。




【補足】

・兄:晴人はると

 なぜか亜璃子のことを快く思っていない。


有守河家ありすかわけ

 有守河グループの創設者の家系

 亜璃子も晴人もお嬢様お坊ちゃま学校に通っている



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