甘い甘いお菓子の話
ごめんなさい、暗いです、シリアスです。
それでもよろしければ、どうぞよろしくお願いします。
後ろから迫りくるような雨音が彼女を急き立てた。目の前に立ち塞がるドアノブに手をかけるが少し力を込めただけではびくともしない。それは彼女の決意を鈍らせる。一度失敗したら二度目はない。そんな世界に身を置いていた彼女にとって、そのドアは自らを拒絶されたようで一瞬途方に暮れる顔つきになる。
諦めかけ手を下ろした彼女の耳に、ドアの向こうから来訪を許可するようにカチャリと鍵穴が回る音がする。
そして再びドアノブに手をかけた。今度はまるで軽やかにドアは開かれたのだった。
赤い絨毯、茶色のタンス、金色の振り子時計、そして何より彼女を出迎えた優しい声色。
「おかえり、ぼくのアリス」
男は言う。今日もシャツに黒いズボンに日本人には有り得ない金髪をさらりと横に流し、片眼鏡の奥の瞳は仄暗く亜璃子を見つめている。そこに宿る色を見つけるだけで亜璃子の心はざわつくが、それもすぐに人の好い笑みに紛れ見失う。そして促されるまま部屋の中央にあるテーブルに案内され、椅子に座り紅茶をいただく頃にはすっかりと胸のざわつきなど忘れているのだった。
「今日はどうしたのかな、亜璃子。お茶の時間には早い、そして学校が終わるにも早いはずだけど?」
だから鍵がかかっていたんだ、と男は申し訳なさそうに言う。それに亜璃子は首を振って応えた。
「代休」
何の、とまでは言わない。それはこの場にはいらない情報だからだ。男が求めるのは亜璃子との一時のお茶の時間。そして亜璃子が求めるのも一時の安らぎなのだから。
男はいつの間にかカップに入ったデザートを持って亜璃子の前に置いていた。真っ白な生クリームの上にベリーが飾られ、女の子なら喜ぶだろうデザートだ。
「今日は君の為に女王陛下も懇意にされているというパティシエのところのトライフルを取り寄せたんだ。食べてみて、君の口に合うといいけれど」
薔薇の模様が彫られた銀のスプーンを手に取り、亜璃子は躊躇いながら掬う。躊躇ったのは男を怪しんでではなく、その綺麗な飾りつけの施されたデザートの形を崩すのがもったいなかったからだ。
「トライフルっていうのは家庭料理の一種さ。家にある材料で作れるデザート。だからぼくらは食べ慣れているんだけれど、どうだろう? 君の憂いを少しは払ってくれたかな?」
食べたことがないわけではない。けれど男が自分の為に考えて選んでくれたものなのなら、喜ばないはずはない。甘い物は幸せを感じさせてくれる魔法のような食べ物だ。
亜璃子の綻んだ顔を見て、男も笑顔を浮かべた。
「それで、奴らはまだぼくの亜璃子をいじめているのかな?」
亜璃子はふと目を伏せる。男の言う“奴ら”を思い浮かべ、投げられた言葉を思い返す。
「また、父が学校に呼び出されたの。私はやっていないのに」
「亜璃子になすりつけたというわけか」
「私は学校の備品を壊してないわ。そもそも通りかかってさえいないんだもの。でもそれを証明できる人がいなかったの」
「君以外の人間にはやっていないと証明できる何かがあったというわけかな」
「絶対嘘だわ」
「口裏を合わせたんだろうね」
紅茶を一気に流し込んだ亜璃子のティーカップに、再び注がれる琥珀色の液体。その優雅な手つきを眺めながら亜璃子は内に燻る思いを止める。
「先生も、よ。私がどれだけ主張しても聞き入れてくれない。きっと二人が頭を下げるのを喜んで見ているのよ。」
「亜璃子、ぼくの亜璃子。君のご両親と先生との関係はきっと最初で崩れてしまったんだろう」
どういうこと? と亜璃子は男を見上げる。男が立ち上がり身振り手振りを加えて話し始めたからだ。
「はったりでも君の親御さんは君がそういうことをする子ではないと主張すべきだった。そして君ももっと言葉にすることができたんじゃないかな? 亜璃子、君は良い子さ。それはぼくもよく知ってる。物静かで聡明というのは良い印象を持つ反面、自己的主張を遠ざけてしまう。言葉は魔法さ。魔法は使い方次第で守ることも闘うこともできる」
「では感情的に否定すればよかったの?」
男は肩をすくめる。そして状況次第だけれど、と前置きをした。
「相手に声をかけるというのは時間稼ぎになり状況把握にも繋がるんだ。疑問点はいっぱいあったはずだろう?」
そうね、と呟いて亜璃子は手元に寄せたカップを眺める。ゆらゆらと揺らめく水面に映るのは、長い黒髪を垂らし悲しそうに眉を下げた少女。カップに添えられた手に、温かいぬくもりが寄り添った。
顔を上げた亜璃子を覗き込むように男の顔が近くにあった。細められた目元は優し気で、亜璃子を気遣ってくれていることは十分にわかる。
「亜璃子、君にあげた“アリス”はきっと役に立つ。これからはいつも彼女と一緒にいるといい。彼女に相談してみてもいい。言葉にすることはきっと君の心の負担を取り除いてくれるから」
美しい白金の髪を垂らし水色の洋服を纏ったアンティークドールを思い浮かべる。赤い唇が印象的に綺麗な人形はもともと男の持ち物だったが、初めて男と出会った日に“贈り物”として渡されたもの。
「君とぼくが出会った記念として」と手渡された時、高価そうな人形などもらえないと断ったが、預かることになった。会いたくなくなったら返してくれればいい、と。
二度目に男のもとを訪ねた時、亜璃子が“アリス”を持っていないことに男は安堵していた。だから亜璃子もわざわざ持ってきていないし、目立つから外へは持ち出していなかった。
「彼女の専用ケースをあげよう。バックの中に入れてもこれで彼女を傷つけずにすむ」
ガラス製なのかと思ったが叩いてみても割れそうにない金縁の長方形の箱。その中は人形が傷まないようにか、ふわふわの布団が敷かれていた。
亜璃子がお礼を口にしようとした時、振り子時計が無情にも音を鳴らす。
「残念ながらもう時間のようだね。ぼくの可愛い亜璃子、またいつでもおいで。美味しいお菓子を用意して待っているよ」
夢の時間は終わる。パタンと閉められた目の前のドアを見て溜息を吐いた亜璃子だが、今日は手元にそれが夢でないことを証明するものがある。
階段を下りてビルから外へ出れば、いつの間にか雨は止んでいた。男に話したからなのか少し胸の内が軽くなった亜璃子の帰宅への足取りは軽かった。