いなくなれば……
「ごめんね、私のせいで……」
それが彼女の口癖だった。
交通事故に合い、下半身不随となってしまった彼女を支えるべく、身を粉にする程に働く。しかし、最低でも一日一回は彼女の病室に顔を見せる。そんな毎日を続けていた。
「もういいのよ? あなたは若いし、あなたの人生があるでしょう?」
彼女の両親も素晴らしい人達で、そんな風に俺を気遣ってくれる。確かに残業で遅くなったり、どうしても間に合わなくて、仕事を家に持ち込む。そこまでして毎日通うのは苦行ではあったが、苦痛ではなかった。
だから俺はいつもこう返す。
「彼女のいる人生が俺の人生です」と。
このやり取りも何度しただろうか。彼女が歩けなくなってから半年が過ぎた。
彼女が退院してからは、俺の強い要望もあり、彼女と二人暮らし。所謂、同棲状態になった。彼女の両親も最初は強く反対していたが、そこまで言うのならと、最終的に身を引いてくれた。今となっては本当に申し訳ないと思っている。
しかし、同棲することになってから、やけに目に付く彼女の行動があった。
黄昏れるのだ。
名前を呼ぶと、「ん~」と言いながらふやけた顔でこちらを振り向く。その仕草がたまらなく愛おしいのだが、胸に残る一抹の疑念はどうしても拭えなかった。
無性に怖くなった。彼女は自殺を考えているのではないか、と。
朝早くに起き、まだ眠い体を引きずりながらの出勤。理不尽な出来事の多い日の足取りは辛かった。
飲みに誘われ、断る事情に彼女の事を話す辛さ。それを聞いて彼女のことを腫れ物のように扱う友人や同僚。聞き飽きた過剰な心配や同情がうざったくなった。
不随になり、歩けなくなった彼女に束縛される疎ましさ。毎日のように悲観に暮れる彼女への苛立ち。わざと少ししか顔を出さない日。それらのことに対する罪悪感。顔を見せたくない日だってあった。
嫌で投げ出したくなることなんて沢山あった。だけど、それでも。彼女がいて、自分がいる。それが幸せで、大切で、どうしても譲られない。譲るなんてあり得ない。万に一つも無い。
それを彼女に伝えたい。分かって欲しい。どうすれば理解してもらえるだろうか。
彼女が事故に合ってから、彼女に必要な物は全て、保険と慰謝料から卸していた。だが、今回の事は彼女のためになるのか分からない。かなり痛い出費だが、喜んでくれたら金額など些末な事だ。
「大事な話がある」
毎度のように遠くを眺める彼女を現実に呼び戻す。俺の表情から冗談の類ではないことを悟ったのだろうか。彼女は車椅子を駆使して俺の正面に居直る。
背広の内ポケットに入れてあった。小さな箱を取り出す。その箱を見て、彼女は即座にその中身が何であるかを半ば察したようで、驚愕と困惑が混ぜ合わさったなんとも奇妙な顔つきとなっていた。
小箱を体の正面に構え、おもむろに蓋を開く。中から顔を見せたのは、銀色に輝く一つの指輪だった。
恥ずかしさのあまり、徐々に俯いていく自分の顔。彼女とまともに顔を合わせるなんて不可能に近かった。
こういう時に何て言えばいいのだろう。「結婚してくれ」? 違う。いや、違ってはいないのだが。今一番伝えたい言葉じゃない。
永遠にも近い十数秒。その後でようやく口にした言葉――
「死なないでくれ……頼む」
なんてロマンチックの欠片も無い言葉だろう。何度も口を開閉させておいて、やっとのことで絞り出した言葉がこれか、と酷く羞恥した。
赤面したままの顔を上げると、彼女は嗚咽していた。両手で覆われた顔からは表情が伺えず、見えるのは彼女の頬を伝う涙だけ。
表情が分からないことがこんなにも恐ろしいとは思わなかった。泣いてる彼女に対して受け身でい続けることがこんなにももどかしいとは思わなかった。そして、彼女がこんなにも弱く思えたのは初めてだった。
そんな彼女を守りたい。そう強く思った。
「――はい」
泣き腫らした彼女から、可憐な笑顔で返事が貰えたのは、プロポーズから随分後のことだった。
――翌日の夜。この日ほど彼女を天才だと、そして、大馬鹿者だと思った日はない。
家に誰もいなかった。出掛けたのかと考えもしたが、「違う」と脳のどこかが言っていた。
直感的に悟った。彼女は行方不明になったのだと。代わりにと言わんばかりにテーブルに置かれた置き手紙を開ける……彼女の字だ。
『出かけてきます。一生帰ってきません。ごめんね。
指輪、本当に嬉しかった。サイズが合わなくて指に入らなかったのに、サイズ替えを拒否してごめんね。あなたが買ってくれた最初の指輪だったから、取り替えたくなかったんだ。
事故に合ってから、あなたが私のことばかり考えて、私を中心にした生き方をしてくれたこと。本当に感謝してます。一生してもしきれないぐらいに。
きつく当たった時もあったね。ごめんね。受け止めてくれるあなたに、ついつい甘えてました。
死にたいと思うことがあっても行動に移さなかったのは、あなたがいてくれたからです。誰よりも、あなたが私の支えでした。
私と結婚なんてダメだよ。絶対もっとお似合いの人がいるから、その人にしなさい。これは命令です! なんてね。でも、本当にしたら悲しいな……ごめんね。
「私のせいで」って言う時、いつも不満そうな顔してたよね。歩けなくなってからはその顔も必死に隠してくれてたけどね。
好きです。大好きです。誰よりも愛してる。別れよう。
指輪はもらっていくね。私の人生の証にするから。
本当にありがとう。愛してます。さようなら。私の一番大切な人。』
「なん、で……」
俺はしばらくそこから動けなかった。彼女の文字を滲ませる液体がどこから来ているのかも分からない。世界が滲み、歪んでいく。
彼女は知っていた。だが、分かってはいなかった。『私を中心にした生き方』。そうだ、まさにそうなんだ。
君がいない世界での生き方が俺には分からない。
……探そう。彼女を。
例え、この世界にいないとしても。