エンドウマン
積みあげた参考書は机の奥に押しやって、手前にはおかずが並んでいる。
蛍は1冊だけ開いた参考書のページを捲った。
連なった文字を目で追いながら、感覚を頼りに茶碗に手をやる。
伸ばした指先が、1度は持ちあげた茶碗を取り落とした。
蛍が「あ」と呟くと、同時に窓ガラスが割れる。
激しい音がして、何かが転がり込んだ。
それは積まれた参考書を吹き飛ばしながら蛍の目前を通りすぎると、壁にぶつかって動きを止めた。
丸くなったそれから、低いうなり声が聞こえる。
どうやら転がり込んだのは、男のようだ。
呆然とする蛍の脳裏に、映画「野菜24時」が流れる。
俳優水嶋チンゲン菜が、窓ガラスを割って建物に飛び込むシーンだ。
男は立ち上がると、クロスした腕を解いた。
現れた顔は驚くほど色白で、堀が深い。
整えられた顎髭が彼を大人びてみせるが、まだ若いように感じる。
緑の瞳はまるで、夏に生い茂る葉のように生命力に溢れていた。
「すまない、レディ。通りすがりにライスの悲鳴を聞いたもので」
男が胸に抱いた茶碗を差し出す。
「怪我はなかったか?」
「ええ、まあ…」
男は蛍の手に茶碗を握らせると、腕に刺さった硝子をぬきながら「よかった」と微笑んだ。
彼がハンカチで腕を縛りあげているのをぼんやりと眺めていると、玄関でチャイムが鳴った。
大きな音に、驚いた隣人が駆けつけてくれたのだろうか?
寮母さんかもしれない。
身体に力が入らず、立ちあがることができない。
蛍はできる限り大きな声で「どうぞ」と答えた。
「お邪魔します」
「羽根木ちゃん!?」
羽根木は散らかった参考書と割れた窓ガラス、満身創痍の男をみて、腰を折った。
「蛍先輩、申し訳ありません!叔父が迷惑を…」
「おじさん…?」
「羽根木、知りあいか?」
「おじさん。知りあいとも知らずに、勝手に家に飛び込まないでください!例え知りあいの家でも飛び込まないでください!迷惑ですから!」
「やれやれ、反抗期か?」
羽根木が頭を抱えると、男は「ははは」と笑って、蛍に手を差し出した。
「羽根木の叔父の、エンドウだ」
「…どうも」
「蛍さんは、かりん糖くんを知らないか?」
「かりん糖…?」
「かわいい姪が惚れた男を見極めようと、遥々ベジタブランドから…」
エンドウがぴたりと口を止める。
ベランダの向こうに子供の泣き声を確認すると、彼は「すまない」と言い残し窓から飛び降りた。
羽根木が「もう!」と地団駄を踏む。
「だから…おじさん、5階から飛び降りないでって言ってるでしょ!」