[93] 戦いの終わり
リクは、緑の紋章の直ぐ傍で忘れ去られし書を広げ悪魔と戦っているタカの元に飛んで行った。
フーミィは、ドラゴンブレスの炎を吐き、その後直ぐに氷のブレスを吐く。この世のどんな火よりも熱い炎に焼かれて直ぐに凍らせられ、あまりの激しい温度差にそこら中の悪魔は粉々にされていた。
「兄ちゃん。速く。空と大地の門の傍に行け」
リクの声に、タカが振り返った。そのタカの目に見る見る近付いて来る、うねる様な水の流れが見えた。
その流れは空を飛び、悪魔達だけを水の中に取り込んでいく。叫び声を上げながら次々と悪魔が捕らえられていくなか、水の流れは闇の門を目指しているのが、タカにも分かった。
「水が……闇の門を目指してる……あの水は、何だ……」
水の中に、キラリと光るものが一つ見える。その光は、水を飛び出すと、真っ直ぐにフーミィ目掛けて近付いてきた。リクは、その光に目を奪われていた。透明の輝きの中に、明らかに闇の門と同じ、底の無い闇を包み込んでいた。
「水の紋章だ……」
水の紋章は、フーミィの目の前まで来てピタリと止まった。
「水の魔術師……」
タカが、小さな声で言った。
水の紋章の周りが銀色に輝いて、人の形を取り始めた。
『いいえ、私は生命の巫女……闇の門は私が閉じます。私の幸せの記憶よ。リアルディアへ行き使命を果すのです』
その時、竜になったガウに乗ってユティが空に舞い上がってきた。
「生命の巫女さま。水の紋章はなぜ闇を抱いているのですか」
生命の巫女がユティをじっと見た、その瞳は銀色に輝きどこまでも冷たい。
『賢者ユティか。知りたがりと言った方が良いか……水の領域は神々の領域であると共に、闇の領域とも繋がっている。生命の泉からは命が誕生し、死の泉には魂が沈んでいく。沈んだ先は闇の領域。混沌は魂を喰らい、また命を吐き出す。生と死は裏と表。だからこそ私が悪魔達を闇に帰すのだ』
その言葉どおり、闇の門は多くの悪魔を闇の世界に送り返し、魔王も既にその姿を消していた。
「しかし、女神様も混沌も、この戦いには関知なさらないと」
『確かに、神々も混沌も、この戦いに関知しない。だが、水の紋章はそなた達の紋章の輝きを追ってやってきてしまった。そなた等の世界を守りたいと願う心に紋章たちが共鳴し、水の紋章まで呼んでしまった。この戦いでは、そなた等の勝ちとなろうな』
「この戦いでは……」
ユティの顔から、タカとフーミィの方に目を向けると、生命の巫女は目を細めた。
『この者達の戦いはこれから始まる。ソラルディアで勝ったとしてもリアルディアで失敗すれば、世界は崩壊するのだ。あちらには、魔法も無ければ、仲間もいない。どう戦うのだろうな。敵は悪魔などではなく、限りなく悪魔に近い人間達なのだから……』
タカがフーミィの背中をそっと撫でた。
「俺にはフーミィがいる。二人なら出来る。世界を守って見せるどんなものからも……」
そう言ったタカの手の中で、忘れ去られし書が、パラパラとめくれた。
「お前もいるしな……」
タカが、忘れ去られし書をそっと撫でた。
『さあ、リアルディアの王よ。己の世界に帰るがいい』
その声が発せられた瞬間、闇の門に悪魔達を流し込み終え蛇の様に飛んでいた水が、タカとフーミィの目の前にピタリと止まった。
自然に水は二股に分かれ、一本は直ぐに闇の門を撫でるようにしながら闇の世界に入り込んでいく。闇の門は水が流れ込んだ瞬間から閉じ始め、それに呼応するかのように、空と大地の門が虹色の渦を小さくし始めていた。
もう一本の水の流れが、フーミィとタカを飲み込もうとしていた。身体が半分以上水に捕らわれたタカが、リクに手を差し出した。
「リク。帰ろう一緒に。母さんが待ってる。帰ろう」
リクが、すっと手を伸ばしタカの手を取った。タカは、リクの手をしっかりと握る為に、力を入れる。
一瞬、リクの手が振るえた。リクは、タカの手を握り返す事は無かった。
初めから分かっていた事。己が見でこの瞬間を何度も見たのだ。自分は、リアルディアに帰る事はできない。そして、レインを置いて、使命を捨ててなど出来るはずはない。
母に会いたかった、父にも、友人の翔太にも、心の底から会いたかった。レインと出会う前の、当たり前の日常がこんなにも恋しい。でも、リクは知ってしまった。これまでの日常よりも、会いたい家族や友人よりも……守りたいものに気付いてしまった。
リクは、タカの手を振り払った。
「ごめん、兄ちゃん……ムリ……俺は帰れない……」
タカの目が大きく見開かれた。こうなるのではないかと思っていた。分かっていたはずだった……でも、信じたくは無かった。
一緒に、母の元に戻ると信じていたかっただけ。
「リク、俺は母さんに約束したんだ。お前を連れて帰るって……帰ろうリク」
リクの目に涙が溢れてきた。
『早くせねば、空と大地の門は閉じてしまう……良いのか』
生命の巫女の冷たい声が響いた。リクが、流れた涙を服の袖でグッと拭った。
「兄ちゃん、大好きだ。母さんにも……愛してるって、大好きだって言って」
「リ、ク……ゴプッ……」
タカは、水の中に飲み込まれた。その姿は、いまだに手をリクに向けて伸ばしていた。
「生命の巫女。早く、兄ちゃんを空と大地の門に」
リクが叫ぶとすぐに、水の流れは、闇の門に流れこんだのと同じ様に、空と大地の門に流れ込んで行った。
リクは、もう何もいえないまま、空と大地の門が閉じられていくのをただ見つめていた。リクは、ゆっくりと地上に向かって降下を始めた。
その身体は大の字に広げられ、脱力しているように見える……誓いの剣だけが、上に向かって突き出されていた。傍にレインが寄ってきて、リクをしっかりと抱きしめた。
「リク。リク……泣いていいのよ……我慢しなくていい……」
レインの言葉を聞いて、リクの瞳からとめどなく涙が溢れ始め、喉を震わせて泣き始めた。
「リク愛してる。ずっと一緒にいましょう。私が一緒にいるから……」
レインは何度もリクの背中を摩りながら、優しく囁く。レインの唇が、リクの唇に重なり、悲しみの慟哭が一瞬消えた。リクは身体をびくっと跳ね上がらせたあと、自分の腕をレインの背中に回し、しっかりとしがみついた。
「レン……一緒にいて……」
リクにとって、今、レインが唯一無二のものだった。大切な家族、友人……もう二度と会うことは叶わない……胸が張り裂けてしまいそうなほど哀しかった。
でも、レインの温もりが、その心の哀しみを埋めていってくれる。
「レン……愛してる……」
リクとレインを中心に、細かい雨が降り始めた。
雨が降り注ぐ大地には、闘いに命を落とした同胞達が血の海で横たわり、傷を負った者が、苦しんでいた。命を落とした者は、その命を吹き返すことはなかったが、苦悶の表情が何故か柔らかな穏やかさを取り戻しているように見える。傷を負っている者は、その傷がはっきりと治っていくところを目の当たりにしていた。
リクとレインの癒しの雨は、命のリズムとなってソラルディア全体に広がり始めていた。草も木も、大地も、人もその他の生き物も、清らかな雨が降注ぎ、生命の躍動を強くしていく。
その時、それぞれの領域の紋章が、それぞれの領域の魔術師の手に戻った。リクの手に戻った大地の紋章が、レインの手に戻った雲の紋章が、スカイの手に戻った空の紋章が、ヒルートの手に握られた緑の紋章が、光を増し一直線に一点目指して光の帯を走らせた。
もう、人の拳大ほどしかなくなった空と大地の門の虹色の渦巻き目指して、4つの紋章の出す光の帯が、水を追いかけるように飛び込んで行った。
「何、何が起きてる……」
リクはその様子に首を傾げていた。その間に、空と大地の門は、完全にその渦を閉じていた。
生命の巫女がリクを振り返った。
『リアルディアに、そなた等二人の命のリズムを送ったのだ。紋章がそれを望んだ。リアルディアの王に贈り物となるだろう』
それだけ言うと、生命の巫女は、すっとその姿を消した。
紋章から発せられる輝きを受けて、リクとレインの降らせる雨はあらゆる色に輝いていた。
戦いが終わって、戦死した者の弔いが行われた。
弔いの儀式は、領域を超え、種別を越え、全ての者に平等に行われた。
竜たちはその怪力を使い、人のもの、竜のものと、次々と幾つもの墓穴を掘った。人は手に手に道具を持ち墓に立てる墓石を切り出した、うでに覚えのある者がそこに名前を彫って行った。魔術師は、魂が穏やかに眠り、また誕生する日を待てるよう、弔いの火を焚いた。
それぞれに皆が、自分の成すべき事を知っていた。
スカイは、大地の城の上空の浮遊城から、その光景を眺めていた。
「今、こうして何の垣根も無く働いている者達が、それぞれの領域に帰って一つになることの尊さを伝えてくれるだろう……私は、ソラルディアが一つになることに、この身を捧げる……スノー、私に付いて来てくれるか」
シルバースノーは、首から下を銀のウロコで覆われたままの姿で、スカイにそっと寄り添った。
「どこまでも……私達はつがいなのだから……」
「ガウ、何を探してるの。いつまで飛ぶつもり」
ガウが、竜の鳴き声を上げた。ユティには、何を言っているのかさっぱり分からなかった。戦いが終わってから、ガウはユティを乗せて空に舞い上がったまま、何かを探し続けていた。
ユティが、うんざりしたように欠伸をした瞬間、ガウが急降下を始めた。慌ててガウの背びれにしがみ付き、下方を見つめたユティの目に、狼の群れが見えてきた。
「まさか、ガウ食べるつもり……」
ガウは、大きく首を振って、否定しているようだ。ぐんぐんと降下して、狼の群れの前に着陸する事に成功した。大きな竜を目の前にした狼の群れは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。その中で一頭だけ、食い入るようにガウを睨みつけ、群れの仲間を守るように前に出ている雄の狼がいた。
ガウは、その狼の目をじっと見据えた。一瞬のうちに、ガウは狼の身体を手に入れていた。今まで、身体を借りていた竜の背中にガウはひらりと飛び乗ると、ガルルルルルっと小さく鳴いた。竜もそれに応えるように、キュルルルルっと小さく鳴くと、ふわりと舞い上がった。
上昇する竜に向かって、狼の群れが遠吠えをしている。きっと群れのボスが連れ去られたと思っているのだろう。
「ガウ、お前はやっぱり狼がいいのか」
ガウは、何となく笑ったような……変な口元をしながら、グルルと唸った。
ヒルートは、自らの手で弔いの火を熾し、それを絶やさず燃やし続けていた。
それは、計画の一部であったとはいえ自分自身を見失い悪魔にその心を捕らわれ、この仲間たちを死に追いやった責任を感じていたからだった。
闇の世界から帰ってくる方法は、あれしかなかったと分かっている。だが、心の底まで取り込まれてしまうなど考えてもいなかった。自分なら、きっと取り込まれたりしないと、どこかで軽く見ていたのかもしれない。その傲慢さが失敗を呼んだのだ。フィーナに守られなければ、自らの手で、何人の人間を殺していたのだろうと思うと、背筋に寒いものが走る。
「ヒルート様……ずっと、魔術を使われてばかりでは、お疲れになりますよ。少しは休まれないと……お怪我もなさっているのだし」
フィーナが、言いにくそうにしながら、傍によってきた。ヒルートの左目はえぐり出され、傷をそのままに閉じられている、残された右目の金色が、フィーナを愛しそうに見つめた。
「フィーナ、私の心配はいらないよ。それよりも、お前は休まなくてはいけない。緑の城にも行ってくれたのだろう。フーミィの背に乗って行ったそうじゃないか、怖かったのではないか。戦いの後で疲れてもいるだろうし、ゆっくりしなさい」
フィーナは、小さく首を振った。
「ずっと離れていたのですもの。ヒルート様のお傍にいたいです」
ヒルートは、そっとフィーナの真っ白になった髪を撫で、その頭を引き寄せた。
「心配を掛けてすまなかった。これからは、お前を一人にしたりしないから」
そう言って、ヒルートはフィーナの白い髪に口づけた。
「リク、雲の城には来てくれるんでしょう」
レインの言葉に、リクはビクッと肩を揺らした。
「リク、どうして怯えているのかしら……私、何かいけないことでも聞いた」
リクは、さっとレインの方に向き直ると
「いや、違うって。怯えてません……てかさ、俺って大地の魔術師じゃん、雲の城にいていいのかな。なんて思ったり……いや、決してレンのパパに会うのが怖いとかじゃないんだけどさ」
レインがリクの目の前で腕組みしている。
「怖いのね。怒られるから。それとも……一緒に居たくなくなったとか……」
レインの真っ黒な大きな瞳から大粒の涙が零れた。
「ちっ違うから。一緒にいたいに決まってる……でも、タナトシュもズカーショラルも、雲の王は怖いってさ……レンを連れて出たの、思いっきり怒ってるかもじゃん……俺って、苦手なのよ、怒られんの……」
「弱虫ね」
リクは、一人頭を抱えた。
「兄ちゃん……助けて。って、もういないんだった……」
リクは、少し肩を落とした。
「タカお兄さまの替りに、私がいるわ……リク、泣かないで……」
リクは、顔を上げてレインを睨んだ。
「泣いてねーよ」
「泣きそうよ」
レインの口づけが、リクの唇に降りてきた。
リクの心臓は、自分が此処にあるっと、今まで以上にはっきりと認識できるほどに、飛び跳ねた。




