[89] 月明かりに見守られて
『忘れ去られし書』が選んだ人物は?
そして、何を見せてくれるのか?
大地の王の執務室の中で動くものは、タナトシュの伸ばされた腕だけだった。ゆっくりと上がっていく腕は、指先をピンと伸ばし小刻みに震えていた。震える指先にいるたった一人の人物は、真っ直ぐにタナトシュの瞳を見つめていた。
「僕ですか……」
タカが、静かに言った。タナトシュは、ぱたりと腕を落とし、その表情も何か重い荷物を下ろしたようにホッとして見えた。
「ええ、あなただ……『忘れ去られし書』は、リアルディアの王を選んだ」
リクは、『忘れ去られし書』を持って、タカの前に歩いた。
「兄ちゃん。こいつ、かなり危ない奴みたいだぞ。ダイジョブ」
タカはリクの手を、『忘れ去られし書』ごと握った。
「俺は……」
リクは、ニヤッと笑った。
「兄ちゃんがいらないんなら、俺、もらっちゃおっかなぁ」
「……お前なあ、なんでも自分のものになるって思うな。コイツは俺を選んだ。俺もコイツを選ぶ。『忘れ去られし書』だか何だか知らないが、俺とコイツの立場は対等だ」
リクの手から、『忘れ去られし書』を引き抜くと、タカはニヤリと笑った。
「やっぱ兄ちゃんは、俺の兄ちゃんだわ。怖いもの知らずちゅーか、ただのバカちゅーかさ」
タカは、空いている方の手でリクの頬をひねった。
「お前と一緒にするな」
その様子を椅子に座ったまま見ていたタナトシュが、小さく頷いた。
「『忘れ去られし書』は、自分と対等に付き合って余りある魔術師、その度量のある者を探していた」
ユティも頷いている。
「リアルディアの王となる者を選んだと言う事は、今この時に、この場に現れるのは『忘れ去られし書』にとって運命だったのでしょう。この時を逃がせば、タカ殿には永遠に出会うことは叶わないのですから」
ユティの言葉に、タカは改めて『忘れ去られし書』を見つめなおした。
「よろしくな、相棒」
タカがそう言うと、本はタカの手の中で勝手に開き、ぱらぱらとページをめくり始めた。じっと見つめていたタカは、その視線を水盤の上に浮かぶ大地の城に向けた。部屋の中の誰もが、同じ様に水盤の上の大地の城を見つめた。大地の城の下部に小さな大地の紋章が現れ、続いて東に雲の紋章、西に緑の紋章が現れ、最後に大地の城の上部に大きな空の城≪浮遊城≫が現れた。空の城の尖塔には空の紋章が輝いていた。
タカは、ぱらぱらとめくられ続ける『忘れ去られし書』の上へ掌をかざした。その瞬間、それぞれの紋章が光を放ち繋がっていく。
その光の輪の中央に、虹色の渦が巻いたと思った瞬間、その周りに闇が現れた。その闇は、この世のものではなく心の奥底まで凍らせるほどの冷たい闇だった。
誰もが、息を呑んで見守っている。リクだけが、目を細めて見ていた。ユティが、声を震わせた。
「闇の門だ。大地と空の門の周りに現れるのが、闇の門……なのですね……」
「ああ、絶対に悪魔には空と大地の門を潜らせちゃダメなんだ。でも、すっげー難しいって事」
部屋の中には、誰の溜め息なのか分からない溜め息があちこちから聞こえていた。
リクとレインの癒しの雨によって回復した大地の城の住人達の賑やかな声や音とは対照的に、部屋の中はまた、静まり返っていた。
月明かりが大地の城を白く浮かび上がらせていた。昼間の喧騒が嘘の様に、今、城の中は静かだった。
これから始まる戦いに備えて、大地の王は、城内、城下町、全てから住人達を退去させていた。大地の軍と衛兵を残し城にいるのは、大地の王と皇子、ハモートとその弟子達数名、それにリク達の一行のみだった。
静かな城の客間の窓辺に、リクとレインの姿があった。
「リク……スカイは今、どの辺りかしら」
リクは、夜空を見上げたまま答える。
「さあ、何処だろうな。でも、スカイが来たら戦いも始めなきゃならない……」
レインが頷いた。
「そうね、空の城が大地の城の上空に到着すれば、磁石の様に引き合ってしまう……さっき、『忘れ去られし書』が見せてくれた……、雲の紋章と緑の紋章でバランスを取らなければ、二つの城は破壊されてしまうんですものね……」
「4つの紋章でバランスを取れば、空と大地の門が開き、闇の門が開く……戦いは避けらんねーってこと」
レインは、リクの腕に自分の腕を絡めた。
「…………リク……」
リクは、レインの頭を自分の肩に引き寄せた。
「怖いか」
「少し……」
ククッとリクが笑った。
「少しかあ。レンはスゲーな。俺なんか、ものスッゲー怖い。だって相手は悪魔だぞ。レンは強いんだなァ」
レインは、頬を膨らませると、リクの胸を小突いた。
「もう、リクは意地悪だわ。私だって凄く怖いに決まっているわ……でも」
リクは、レインの額に優しくキスをした。
「分かってるさ。スッゴイ怖いって言ったら……もっと怖くなるから言えなかったんだよな」
「ええ……分かってるなら、言わせないで……」
「いやっ、怖いって認めちまうほうがいい。そしたら、俺がレンを守るって約束できるからっ! 怖かったら、俺が一緒だって思い出すんだ。俺は絶対にレンを守るから」
「リク……」
レインは、リクに抱きついて背中に手を回した。
レインの耳に、リクの鼓動が伝わってくる。
ドクドクと力強い音は、レインの恐怖を薄れさせてくれる魔法だった。
「レンの髪の毛の匂い……好きだ……」
リクは、レインの髪に鼻先を埋め、思いっきり吸い込んだ。
甘い香りが鼻腔に広がり、気持ちを落ち着かせてくれるのを感じていた。
ふとリクは思った。
つい最近まで、普通の中学生だった自分と兄のタカ。
今、自分の腕の中にいるレインとの出会いが、全てを変えてしまった。けれど、それは偶然の出来事ではなく、全てはこれから始まる戦いと世界を救う使命の為の必然だったのだと今更ながらに感じていた。
ヒルートとフィーナ、ローショの前世ミーシャの父トワィシィと母ルビーアイ、炎の竜と巫女、ユティとガウ、全てのもの達との出会い。
今日、強い魔力を持った『忘れ去られし書』が目の前に現れ、兄のタカをパートナーに選んだ事。全ては、これからの為にあった。
それにしても、あの本は、普通ではない、生きていて意思を持っている。とても危険な生き物だと感じる反面、タカならきっと、あの本を使いこなせるとも思った。絶大な魔力を待たない者、あるいは絶大な魔力を持っていたとしても、己の為に本を用いようとする者は容赦なく本自体に喰われてしまうだろう。
リクは先ほど、タカの事が気掛かりで、誰にも気付かれないように時読みの砂を使って『忘れ去られし書』の過去を追っていた。
『忘れ去られし書』は、何千年も昔、一人の大魔術師の手によってその中に封じ込められた若い魔術師見習い、生きている人間だった。大魔術師は、本の中に自らの弟子を生きたまま封じ込めることによって、魔力と魔術の全てを集められる究極の魔術書を作ったのだ。
だが、師である大魔術師に裏切られたと知った若い魔術師見習いは、自分が封じ込められた本に魔力が満ちるのを待って、大魔術師を喰らい尽くす戦いを挑んだ。果たして、魔力と魔術を吸い取られた大魔術師はこの世を去った。
その後、何人もの魔術師がこの本を手にし、死んでいった。それは一重に、誰もが、魔術書を物としかみなさず、私利私欲の為に本を使おうとしたからに他ならない。最後に本を手に取ったのは雲の魔術師だったが、彼は、己の手に負えない品として雲の妖精たちの力を借り、城の奥深くに隠したのだった。
今、『忘れ去られし書』はタナトシュを運び手として選び、タカの元にやってきた。
これは運命。本自身にパートナーとして選ばれたタカは、やはり大丈夫だと思えた。
そして、共にリアルディアで使命を果たすのだろう。
「…………」
「リク、何を考えているの」
黙ったまま物思いに耽るリクを、瞳を見開いてレインが見つめていた。
「あ、兄ちゃんのこと……あと少しで帰っちゃうなってさ」
レインは、リクの頬にそっと両手を添えて、唇に触れるぐらいの優しいキスをした。
「リク……淋しいのよね、ごめんなさい、あなたの心を癒してあげられなくて……」
リクは、レインがしたのと同じ様に、そっと優しくキスを返した。
「謝んなくていいって、何も癒しの魔法だけが心を癒す方法じゃない。レンが俺の傍にいてくれたら……それだけでいい」
二人は、何度も何度もキスを交わした。
見ているのは、雲に見え隠れする月だけだった。
優しい月明かりは、今から始まる戦いの前の、少しの癒しなのでしょうか?