[88] 忘れ去られし書
大地の城へ入っていくリクとレインの周りには、癒しの雨が降り注いでいます。
タナトシュは、それに感嘆の声を上げた。
大地の城に戻ろうとしたところを、大門の所にいた門番に通行証を見せるようにと呼び止められた。
その門番は、リクとタカが二人で此処を通った時にもいた男で、その時は闇の妖精に支配されていた為、リク達二人の事ははっきりとは覚えていなかった。
しかし、タナトシュが門番の前に立つと、彼は素直に門をくぐる事を許してくれた。何かの魔術を使ったのだろうが、誰にも呪文を唱える声も素振りも見えなかった。ユティだけが、タナトシュの握る古めかしい書物を見つめていた。
大門を入ると大通りがあり、多くの露天商がテントを張り商売に精を出している。城下町は、門番や城に関係する者以外は闇の妖精の被害にあっていないのか、活気があった。城下町を過ぎ、城がある城壁の前に立つと、その全容が見えてくる。まるでピラミッドのような形をした大地の城は、空に向かってそびえ立っている。リクは、大地の城の入り口まで行くと、レインの手を握った。
「レン、城の中はまだ闇の妖精の影響が残っている人たちがイッパイいる。俺たちで癒してあげないと」
レインは、リクに握られた手をそのままに体ごとリクにピッタリとくっついた。
「レン……あんま、ひっつくな……ちょいマズイ」
レインはリクの言葉に怪訝な表情になったが、お構い無しに歩き始めた。
「何言ってるのよ。早く癒してあげないと可哀相だわ」
「俺も、可哀相ジャン……」
レインにしがみ付かれたリクは、自分の腕にしっかりと触れているレインの胸の感触が気になるのか、真っ赤な顔になっていた。フーミィが可笑しそうに笑っている。
「あっ降りだした。リークは真っ赤な顔して恥ずかしくっても、やることはちゃんと出来るんだね。偉い、偉い」
リクは、フーミィをギロッと睨んだ。城の外から中まで、リクとレインが歩いていく先には、ずっと癒しの雨が降り続いた。タナトシュが、雨の降ってくる大地の城の玄関ホールの吹き抜けの天井を見上げている。
「この雨はどこから降ってくるのだ」
フーミィがタナトシュの横にやってきた。
「タナトシュおじ様。この雨は、リークとレインにしか降らせることの出来ない癒しの雨だよ。ほら、おじ様の心も癒されるでしょう」
タナトシュは、感慨深げにリクとレインを見つめた。
「そうか、癒しの雨……こんな素晴らしい魔術を見たことがない」
「おじ様、これは魔術じゃないよ。リクとレインの愛から生まれる生命のリズム。これが、悪魔と戦う最大の武器になるんだ……きっと」
タナトシュがフーミィに目を移す。タナトシュの目には、己の前に立つ青いウロコの戦装束に身を包んだ美しい女性が輝いて見えていた。短く真っ黒な髪は、光に透けると青みを帯びてきらめき、大きな二つの瞳は黒々としていてクルクル回って愛らしかった。フーミィの父と母とは友人で、小さな魔法の生き物だった頃のフーミィをよく知るタナトシュは、感慨深げに息を吐いた。
「そなたが、あの魔法の生き物フーミィとはな……ズカーショラルがこの姿を見たら、きっと驚くだろうな……」
フーミィの目が悲しそうに俯いた。
「もう会えない……僕はタカとリアルディアに行くんだ。そして、使命を果さないと……だから、もう会えないんだよ。おじ様が僕の姿を覚えていて……お父さんとお母さんに伝えて……」
タナトシュは、震えるフーミィの身体を優しく抱きしめた。
「ああ、しっかりこの目に焼き付けておこう、約束だ」
タナトシュとフーミィの肩にも、癒しの雨はずっと降注いでいた。
大地の城の王の執務室には、リク達一行と、大地の王に皇子ガイダンと執事ハモートが、大きなテーブルに乗った水盤を囲んでいた。
そんな中で、タナトシュはスカイに瓜二つのタカを、食い入るように見つめていた。タカも、その視線には気付いていて、どう対処すればよいのか迷っていた。取り合えず今はリクの話を聞くことの方が先決だと、タナトシュの視線は無視することにしていた。
部屋の角に羽をたたんでくつろいでいるガウは、水盤の上に浮かぶ魔法で作り出された大地の城をチラリチラリと見ながら、タナトシュとタカを交互に観察していた。
皆が見守る中、リクは、大地の紋章を持つ手を、水盤の上に浮かぶ大地の城の下に差し入れた。
「レン、城の東側に雲の紋章を持ってきて。フィーナは西側」
レインとフィーナは、リクの指示通りに移動して、城の東西に紋章をかざした。
「あとは、スカイが来るのを待つだけなんだ。スカイが来た時に、この位置関係になってないとダメ。空と大地の門が開かない、この位置は覚えておいて欲しい……これで良いはずなんだけどな」
タナトシュとハモートが声をそろえるように抗議した。
「なんだけどな。とは、どう言う事かな」
タナトシュが、ハモートに頭を下げた。
「失礼いたしました。つい、気が急いてしまいました」
「いやいや、気が急いているのはお互い様。大地の魔術師殿は、どうやらはっきりとは根拠がない方法を取ろうとされているようですのでな……」
リクは、タナトシュとハモートをふてぶてしげに見た。
「はっきり分かってる奴なんているのかよ。俺は時読みの瞳が見せる映像を分析してだな」
ユティが、リクの肩にそっと手を置いて、ポンポンと優しく叩いた。
「リク殿の言われている事は、多分、間違いないのではないかと思います」
ハモートが、片眉を上げてユティを見つめた。
「賢者ユティと聞き及んだが、そう言われる根拠は何処におありかな」
「はい、それはソラルディアのそれぞれの城の位置関係にあるかと思われます。大地の城は領域の中心にございますが、緑の城は、大地の領域を囲むように存在し、しかも城は大地の城の西側にございます」
ユティは、自分の懐から小さく折りたたんだソラルディアの地図を出し、それぞれの城の位置関係を指し示した。タナトシュが後を継ぐように呟いた。
「雲の城は、大地の領域の南端と緑の領域の東端に隣接している。大地の城から見れば、東側にあると言うことだが。しかし……」
ユティは、頷くとタナトシュの手に握られた古い書物を指さした。
「しかし、確証が欲しいのですよね。ならば、その本をお使いになられれば良いのではないですか」
タナトシュは、ユティを愕然とした表情で見つめた。
「何を言っている。この本がなんだというのか」
ユティは、タナトシュの手にある本を穏やかに見つめている。
「生きているうちにその本に巡りあえるとは思いもしませんでした。あなたがお持ちだったのですか。永い時を行方知れずになっていたのに、私も石版の解読をしていなければ存在すら知らなかったでしょう……名前すら忘れ去られた魔術書」
タナトシュは、ユティの言葉に大きな溜め息をついた。
「若き賢者は、60年の時を無駄に過ごしたわけではないのだな……そうだ、これは『忘れ去られし書』持つ者に全ての魔法を与える、使えぬ魔術などなくなる」
リクがタナトシュの前に来て、タナトシュの手ごと本をを持ち上げた。
「そりゃあ、恐ろしい本ジャン。んで、タナトシュさんはこれをずっと使ってたのか」
タナトシュは、リクをまじまじと見つめた。
「いや。この本は雲の城の奥深く隠されていた。陛下と私だけしか知らぬ事。私よりも魔力の強くなってしまわれたレイン様を連れ戻す為には、これに頼るほかないと持ち出しはしたが」
リクが、ニヤッと笑った。
「この戦いで、必要になる。今は、そう思ってるんだろ」
タナトシュは、眉間にシワを寄せ、リクに嫌な顔を向けた。
「大地の魔術師殿は、どこまでご存知なのだ……まるでつかみ所のない」
「どこまでって、あんたがこの部屋の中の全員の心の中を覗いてたって事くらいかな……どお、覗いてみた感想は」
リクの言葉に、タナトシュの顔色はどんどん悪くなっていった。レインは、タナトシュの腕をつかむときつく握り締めた。
「タナトシュ。どう言う事なの。あなたの様な人が他人の心を覗くなんて、そんな事。してないわよね。タナトシュ、何か言って。リク、あなたはタナトシュを知らないから、そんな酷い言いがかりを付けるのよ。タナトシュはそんな人じゃないわ」
レイン必死の擁護に、タナトシュは眼を伏せた。
「いいえ、レイン様。あなたの愛しい方は間違っておられません。私は、皆さんの心を覗いたのです。言い訳はいたしません」
レインは、呆然とタナトシュを見つめた。
「……そんな、なぜ……」
リクが、タナトシュの手に握られた『忘れ去られた書』を指さした。
「コイツのせい。コイツは意思を持ってるみたいだ。自分を持つのにふさわしい相棒を探してる」
ユティが、その後を引き受けた。
「その書は、自分の相棒を見つけるために手段を選ばない時があるのです。時にそれは、運び手の心を蝕み魔法の力を吸い取ってしまう。だから、古の時に誰かの手によって雲の城の奥深くに隠されたのでしょう。雲の妖精は、物を隠すのが上手ですから」
リクが、タナトシュから本を取り上げた。
「もう、持っているのも辛いんだろ」
リクの声を聞いたとたん、タナトシュはガクっと膝を折った。平気なふりをしていたが、タナトシュはかなり弱っているようだった。
「タナトシュ」
レインが慌ててタナトシュの腕を引き上げ、ゆっくりと後ろの椅子まで歩かせ座らせた。
「レイン様、申し訳ありません……」
リクが、タナトシュの前に屈んで、その手に自分の手を重ねる。
「あんたの中の魔法は、まだ十分残ってる。心もしっかりしてるよ。悪い事に使おうって考えてなかったからなぁ。本にも結構気に入られてたりしてさ」
タナトシュが、ほんの少しほほ笑んだ。
「なあ、タナトシュさん。この本は誰を選んだ」
タナトシュは、震える手を前に伸ばし始めた。
忘れ去られし書、その相棒となるのは誰なのか?
悪魔との戦いに、その書は本当に役立つのだろうか?