[81] ガウの決断
闇の妖精は、タナトシュの苦しみを味わい、舌なめずりをしている。
この状況をどうやって切り抜ければいいのだろう……
ドーリーの顔が、ニタニタと笑っている。口元は歪み、そこから出し入れされる舌は、何かを味わうかのようにペチャペチャと音を立てる。
『人間とは何と愚かでひ弱な生き物だ。少しの事で、こんなにも苦しむ。痛い、苦しい、悲しい、妬ましい。どの味も格別だよ』
レインは、その光景をじっと見つめながら、自分の横から少しずつ離れていくユティとガウの気配を感じていた。闇の妖精に気付かれぬように、そっと手を横に振った。呪文は唱えることはできない為、確実にユティとガウを隠せる魔術を使えるかは自信がなかったが、やってみるしかなかった。
だが、さっきタナトシュが掛けた時は大丈夫だった隠し身の呪文は、今度はガウにしか掛かっていなかった。ユティの母親の守りの呪文が邪魔をしていることに、レインは今更に気付いた。(さっきは、私達に掛かっていた呪文の影に隠れていたのね)
ユティは、ガウの姿が消えたことに気付いた。レインを見て、小さく頷く。
(だめ、ユティ。あなたには呪文が効いていないの。気付いて、動かないでお願いよ)
『さァ、姫、雲の紋章を取ってもらおうか。そして、私と共に来てもらおう』
レインは、闇の妖精がユティに気付かないように、わざと反対側から玉座に近付いた。
「いいわ、取ってあげる。でも、この紋章を持っている私に触れる事も出来ないくせにっどうやって連れて行くつもりかしら。私は、お前などの言いなりにはならなくてよ」
挑みかけるように、ドーリーを睨んだ。
『ついて来るさ、この女の為にな……そうだろう』
レインは、言い返すことが出来なかった。闇の妖精は、ドーリーの身体を乗っ取ったまま人質にするつもりなのだ。それに、ドーリーの腕には、タナトシュまで抱えられている。レインには、ドーリーも、タナトシュも見捨てる事など出来るはずもなかった。ドーリーは、レインにとって、母も同然の人、タナトシュは師として仰いだ人なのだ。
「卑怯者」
その言葉を聞いて、闇の妖精がせせら笑う。レインは、ドーリーを睨みつけた。睨んでいると、ドーリーの手が、包み込むように優しくタナトシュを抱きしめているのが感じられる。
(ドーリーが、目覚めてくれたら……もしかすると……)
「ドーリー目を覚まして。あなたの腕の中にタナトシュがいる。愛しているのでしょう。タナトシュを守って。お願い目を覚まして」
ドーリーの手がピクッとわずかに動いた。
「タナ、ト、シュさま……」
紅かったドーリーの瞳が、いつもの色に戻っていく。
『勝手に出てくるんじゃないよ。お前など、殺してしまったっていいんだからね』
闇の妖精がドーリーの声で叫んだ。それは、身体の中にいるドーリー自身に対する脅しだった。
その時、ユティが一気に闇の妖精に近付いた。
『動くんじゃないよ』
ユティは、目を大きく見開いて、レインを見た。ユティの目は、なぜと問いかけていた。レインは、首を振るのがやっとだった。ユティは、その時になって初めて、自分に魔術が効いていなかった事に気付いた。その上、ガウの姿も捉えることができない。
『早く紋章を取りな』
レインは、玉座の後ろの壁に埋め込まれた紋章に手を掛けた。ドーリーが少しずつしか削ることのできなかった紋章は、レインが触れるとあっけなくレインの手の中に落ちてきた。
『やはりな、アタシの思ったとおりだ。王家の者なら、紋章は直ぐにでも手に入ったのだな。しかし、この城にはあの厄介な老王しかいなかった。無駄な時間を使ったものよ』
「どう言う事なの」
レインは、雲の紋章を握り締めながら叫んだ。
『お前の父親はアタシを跳ね除けたのさ。淋しさと、悲しみを奥底に持っていたのに……このアタシを跳ね除けやがった。忌々しい奴だ』
「お父様……」
レインは、雲の紋章を見つめた。
『ああいう人間は嫌いだ。匂いも嫌いだ、きっと身体の中に何か飼ってるね、あのジジイは』
レインには、父王がなぜ闇の妖精を撥ねのける事ができたのか、全くわからなかった。でも、そんな父王を誇りに思い、それが、父王ででもあるかのように、雲の紋章を胸に抱いた。
その一瞬、レインの胸の上で、雲の紋章が輝き始めた。
『おやめ。その光は嫌いなんだ』
そう言ったとたん、ドーリーの腕からタナトシュが転がり落ちた。レインがタナトシュに駆け寄ろうとした時、ガウの唸り声が聞こえた。ガウは、ドーリーの背中から飛び掛ると、その肩を噛んだ。
『ギャーーーーー』
大きな叫び声に、レインはドーリーに駆け寄っていた。幼い頃から育ててくれた母親代わりのドーリーへの思いだけで、レインは無意識に動いていた。
それは、あっと言う間の出来事だった。ドーリーの肩に牙を立てたまま、ガウはレインの瞳を見つめた。レインは、ガウの行動に驚いて、ガウの瞳を見つめてしまった。ドーリーの耳から、闇の妖精の黒い影が這い出してくると、ガウの耳の中に消えた。ガウはドーリーから牙を抜き、前足で突き飛ばしながら、自分の体制を立て直した。
ガウの瞳が、赤く燃える、レインの瞳が黒から灰色に変わる、ドーリーはタナトシュの上に倒れていった。
「タナトシュ様……タナ……ウグッ」
ドーリーは、一声うめいた後、気を失った。レインは、腰に下げていた短剣を抜いた。レインとガウが円を描きながら間合いを取っている。どちらも慎重に相手の動きを読もうとしている。
ガウが動いた。大きく跳躍すると、レインの喉元めがけて大きく口を開いた。レインがガウの口の中に皮の甲冑をはめた拳を叩き込み、そのまま短剣でガウの喉笛を切り裂いた。血しぶきが、辺りを紅く染めていく。その一瞬の間に黒い影がオオカミの体から抜け出した。レインの拳に食い込んだガウの牙は、力なく外れ身体が床にドサリと落ちた。
「はァはァ……」
ユティが、レインに走り寄ってきた。
「ガウ。なんて事を。お前レイン姫に怪我をさせるなんて」
「よく分かったな、ワシだって。しかし、今は説明してる暇はねえ」
レインの中に入ったガウは、雲の紋章を持って走っていた。闇の妖精の影を追って、謁見の間の扉に向かってジャンプした。闇の妖精の真っ黒な影が、雲の紋章の下敷きになり、霞の様に消えてしまった。
「よっしゃっ」
ガウは立ち上がると、その容姿には似つかわしくなく、首をぐるりと回して、肩をほぐしながら、袖をちぎって怪我をした拳に巻きつけた。
「さあ、早くこれを持ってリク達を追いかけねェとな」
顔をしかめながら言うガウを、ユティが睨みつけている。
「ガウ。レイン姫から出るんだ。そんな事は許されない。やってはいけないことだ……お前は炎の民ではないかとは思っていた。でも、そうであったとしても、そんな事、平気でして欲しくない」
レインの顔のガウが、ユティを厳しい表情で見つめている。
「ユティ、この方法しかなかった。このお姫様では、あのご婦人を傷つけられねェ……」
「だからって、こんな酷い……ドーリーさんだって、酷い怪我じゃないか……」
ガウは、首を振った。
「それが、最悪だと分かっていても、それしかなければ決断せんとイカン事もあるんだ。ユティ、どんなに辛かろうとナ」
ユティの目に涙がにじんだ。
「泣くな。幼子でもなかろうに……」
ガウが、ユティの肩に手を置いた時、謁見の間に誰かが飛び込んできた。
謁見の間に入った雲の王は、その場に仁王立ちになった。
「レイン。どういう事だ……雲の紋章の呼び声に慌ててきてみれば……お前は何をやって……こ、れ、は……」
雲の王は、一目で謁見の間の惨状を見て取った。
「タナトシュ、ドーリー」
二人に駆け寄って、様子を見ていた雲の王は、いまだ胸から大量の血を流しているタナトシュの胸に手を置いた。チラリと喉笛を切り裂かれ、血まみれになって死んでいるガウに目をやった雲の王は、嫌なものでも見るように、顔をしかめた。
「タナトシュ。直ぐに癒してやろう……レイン、紋章を元に戻して直ぐにドーリーを頼む。何があったのだレイン。狼は、お前が倒したのか……この釈明はしてもらうぞ」
レインの姿のガウは、ユティの手を取って、その懐から雪鷲の羽根を取り出すと、大きな窓に向かって駆け出した。
「ガウ。このまま放っていけない」
「大丈夫だ。王様がきちんとしなさる」
その言葉に、雲の王が振り返った。
「ガウだと。レインでは無いのか。キサマ等、レインと雲の紋章をどうするつもりだ。レインの身体を奪ったな。その様な事を出来るとは炎の民か。必ず後悔させてくれるわ」
雪鷲の羽根を持ったレインの姿のガウは、ユティをしっかりと抱いて、既に空に舞い上がっていた。
「大地の領域へ。リクのところへ連れて行け」
ビュッと風が吹くと、二人を乗せて運んでいった。
「陛下、申し訳ございません。またしても私の失態にございます……」
タナトシュは、雲の王の前にひれ伏していた。その横には、同じ様に王によって癒されたドーリーがひれ伏していた。
「陛下、私が、私の愚かさが闇の妖精を引き寄せたのでございます。タナトシュ様に非はございません、私を助ける為にご尽力くださっただけでございます。罰せられるなら、この私にしてくださいませ」
必死に訴えるドーリーの顔を見ながら、雲の王は首を振った。
「追手は差し向けた。あの者達の思うようにはさせん。レインも連れ戻す、必ずじゃ。しかし、あのユティとやらとレインが友人とはな。あの狼も、炎の民であったか」
「否定しておりましたが、ガウは炎の民だと思われます。ですが、あのような事になるとは、ユティと言う青年も、好人物と見ましたが。申し訳ございません。全ては私の失態にございます」
雲の王は、タナトシュをジッと睨みつけていた。
「申し訳ないと思うなら、早くレインを追え。今は雲の妖精に後を追わせているが、妖精だけでは心許無い。雲の紋章を奪われた今、雲の王の紋章を持つワシはこの城を離れるわけにはいかん」
タナトシュは今一度、床にひれ伏した。
「ありがたき、ご命令。このタナトシュ命に替えましても、レイン様と雲の紋章を取り戻して参ります」
「お前にしか頼めぬからな。直ぐに出立いたせ」
「ははっ」
タナトシュは、謁見の間を後にした。直ぐにでも、レイン達を追わなければならなかったが、レインの魔力とユティとガウの存在を考慮して、自分の魔力を増幅させる必要を感じていた。
呪文を呟き魔術を掛けて、秘密の書物庫に入ると最奥にある小さな扉を開いた。
雲の王と、城の魔術師であるタナトシュにしか明かされていない、秘密の書物庫の小さな扉。そこには、茶色に変色した古い魔術書がしまってあった。
「持つ者に魔法の全てを授ける書とはな……知らぬ魔術も使えぬ魔術もなくなってしまう」
タナトシュは、その古い書物を懐に収めた。
「使うには私の力量では無理があるか。もしかすると、二度と魔術は使えぬようになるやも知れぬな……はて、このような書物、使える者などおるのだろうか……」
ふっと微笑を漏らしながら、タナトシュは入ったときとは違って、何も言わずにその場から消えた。
雲の城のタナトシュの仕事部屋の窓が開いた。
「さあ、出掛けよう」
タナトシュが、両手を広げた。
「タナトシュ様。お待ちくださいませ」
部屋に、ドーリーが駆け込んできた。
「ドーリー……」
「タナトシュ様……どうか、ご無事にお帰りください……わたくし、お待ちしています……こんな、こんな歳を取った女でよければ、お待ちしています」
タナトシュは震える手でドーリーを引き寄せ、きつく抱きしめた。
「こんな年寄りでよければ、待っていて欲しい。だが、レイン様と一緒でなければ、帰る事はないだろう」
タナトシュの腕の中で、ドーリーが泣いていた。
「あの、おてんばな姫様をお願いします。とても、愛しているのです……レイン様も……そして、あなたも……」
「ああ、分かっているよ。私も愛しているから……レイン様も、そなたの事も」
そう言ったタナトシュの姿は、巻き上げられた雲と一緒に消えていた。
「タナトシュ……」
ガウとユティ、レインと雲の紋章を追って城を出たタナトシュ。
行く先は? リク達の向かう大地の城?




