[76] 雲の城
レインは自分の作った嵐雲と共に、雲の城に帰ってきた。
その嵐はすさまじく……
雲の妖精の作り出した雷雲に乗って、レインは自分の生まれ育った雲の城の目の前まで帰ってきていた。レインの呼んだ嵐雲は、間違いなく雲の領域に嵐を巻き起こしている。黒い雲は雲の城の最上階辺りを上に覗かせ、その範囲を広げていた。大粒の雨が激しく降注ぎ、強く吹き付ける風が、それを石つぶての様な凶器に変えていた。雷はいたるところに落ち、危険極まりない。
雲の上にいるレインの横に、ガウに跨ったユティが近寄ってきた。
「これまた、勢力大の嵐だな……。レイン姫、少し気持ちを鎮められたほうが良いかと思いますが……」
振り向いたレインの瞳は、この嵐と全く同じ色に輝いていた。黒い渦の中に、パチパチと爆ぜるような稲妻が走る瞳は、ユティにとって初めて見る、美しいものの一つだった。
「ユティさん。私は十分落ち着いています」
ユティは、自分をきつく睨むレインの嵐雲の瞳から、ほんの少しも目を逸らす事無く大きく首を振った。
「レイン姫いけませんよ。領域の魔術師たる者、己の領域を守るのが使命。己の思いに呑まれてはなりません」
レインの瞳が大きく見開いた。己のしている事を自覚したのかさっと目を伏せた。
「ごめんなさい、ただ父上の事が心配で……」
ユティは、レインの肩をそっと押さえると微笑んだ。
「お父上は、きっとご無事ですよ」
「ええ。でも……」
ユティは、首を振った。
「大丈夫です。こんなに美しい姫が帰ってきたのです。今頃、大騒ぎをして待っておいでだ」
「いえ、父は私が帰ることなど知らないわ」
ユティは、クスッと笑ってから、嵐雲を指さした。
「あっあ〜この嵐雲……」
レインは、両手で顔を覆った。それを見て、ユティは含み笑いをしている。
「レイン姫、こんな嵐雲を一気にここまで連れてこられるのはレイン姫ぐらいではありませんか。お父上は、さぞかしお怒りの事と思いますよ。早くこの嵐をおさめなければ、領域が破壊されてしまいます」
レインは、今度こそ素直に嵐の勢いを抑えるように、自分の心を鎮め始めた。レインの心が、和やかさを取り戻し始めると、嵐雲もその勢力を弱め、雨も雷も大人しくなった。
「ではレイン姫、これからは計画通りに。私は後から参りますが、私とあなたは知らない者同士、良いですね」
「ええ、なるべく早く来てね」
「分かっています、なっガウ」
ガウが、グルルル〜と唸った。
「それと、レイン姫……分かっておいでとは思いますが、城の中には闇の妖精に身体を奪われた者がいる事を、それも王の傍近くだと言う事を忘れないで下さい」
「ええ、分かっています。それが誰なのかハッキリするまで誰も信じられないと言う事ね」
ユティは、レインを励ますように肩を叩いた。
「じゃあ、行くわ」
そう言うと、レインを乗せた小さくなった嵐雲は真っ直ぐに雲の城に飛んでいった。
雲の城の最上階では、雲の王と執事でありレインの魔術教師でもあるタナトシュが、窓に張り付くようにして外を眺めていた。
「レインのやつめ。帰ってきたら懲らしめてやらねばなるまいな」
タナトシュは、雲の王の言葉を聞きながら黙って外の嵐を眺めている。雲の王は、言葉とは裏腹に、心の中では娘の帰還を心の底から喜んでいる事は、その細められた目を見ればよく分かった。
「そうでございますね。これほどまでに激しい嵐雲を連れてお戻りとは私も驚いております。そこで陛下、どの様なお仕置きをされるおつもりでございますか」
ちらりと雲の王に視線をやったタナトシュの目の前の窓が、勢いよく内側に開いた。危うく、窓にぶつかりそうになりながら、タナトシュはギリギリでそれをかわした。
「タナトシュ無事か」
雲の王は、タナトシュに駆け寄った。
「あぶない。ブハッ」
二人に追い討ちを掛けるように、激しい風と雨が、部屋の中に吹き込んできたが、一瞬のちにはシューッっと言う音と共に、風も雨も止んだ。
「お父様、ただいま戻りました。あら、お父様。タナトシュまでずぶ濡れじゃないの……」
「レインっ」
ゴンッ
「いった……」
このお転婆な娘にゲンコツを落としたのは何年ぶりのことだろうと雲の王は溜め息を付いた。
異世界から戻ったと思ったら、直ぐに城から抜け出してしまった娘を目の前の椅子に座らせて、長々とこれまでの話を聞いていた雲の王は、苛立ち始めていた。
「レイン。その何度も出てくるリクとやらは、お前にとってそんなに大事な人間なのか」
父王の言葉に、眼を丸くしながらレインが答えた。
「お父様ったら、いったい今まで何を聞いてらしたのですか。私の話を真面目にお聞きになれば、リクが私にとって掛け替えの無い存在だと理解してくださって当たり前だわ」
分かって当たり前という態度が父王を余計に苛立たせる事に、レインは気付いていなかった。
「何が掛け替えの無い存在じゃ。お前のような未熟者が言うようなセリフではなかろうが。それに、お前はこの雲の城を継ぐ者。何処の馬の骨とも分からぬ男に嫁がせるわけがなかろうが。くだらん、くだらん、聞いておれんわ」
「お父様あんまりだわ。私は一生懸命にお話ししました。リクは大地の魔術師にして心の癒し手であり、時の魔術師でもあるのです」
「ああ、そうだろうとも。だが、それがどうしたのじゃ。わしの娘を嫁にすることに何の関係もありはせん」
レインは、半ば呆れ始めていた。父王が、ただたんにヤキモチを妬いているだけだと気が付いたからだ。姉のケトゥーリナの時もそうだった。緑の城の第3皇子キートアルの元に行ってしまってから、緑の城からの使者を何度も追い返し、娘は誘拐されたと騒いでいた。
どうにもならないヤキモチが、この父王の最大の欠点なのかもしれなかった。早くに最愛の妻を亡くし、娘二人に愛情の全てを注いできたのだから無理もないことかもしれなかったが、大人になりきっていない多感な年頃の娘にとっては、なかなか理解しがたい父の気持ちだった。
「お父様ったら、ヤキモチを妬いてらっしゃるのね。そんな曲がった眼でリクを見ないで頂きたいものだわ。そんな曲がった目で見るお父様よりも、彼の方が立派な男性だわ」
レインの無礼な言葉に、雲の王は拳を握った。
と、その時、二人の間にあるテーブルの上に、銀のトレーが現われた。カップを載せたソーサーを二人の前にそれぞれ置いて、ミントティーを注ぎながら、乳母であり侍女頭のドーリーがレインに微笑んだ。
久しぶりに見るドーリーの顔は、心なしかくすんでいて疲れているようだった。
「ドーリー、私が帰ってきたってタナトシュに聞いたの」
「いいえ、聞く前から分かっておりました。それよりもレイン様、陛下に謝られてはいかがですか。今の言葉は、娘が父親に言う言葉ではありませんでしょう。いかがですか」
レインは、ドーリーの微笑む瞳から目を逸らした。
「陛下は、レイン様にとって素晴らしいお父上ではございませんか。私が見る限り、どの男性よりも立派であらせられます」
ドーリーの言葉に、雲の王は赤面してしまった。先ほどから言っている事は、どう贔屓目に見ても、立派な男のセリフではない事は、自分でも分かりすぎるほど分かっていた。ドーリーは、微笑を絶やさぬまま、レインを見つめ続けた。
「さァ、レイン様。あなたの大切なリク様は、きっと素敵な方なのでしょうね。でも、陛下のお気持ちを察する優しさのないレイン様では、その殿方はどう思われるのでしょうね」
「ドーリー……」
やっとドーリーと眼を合わせたレインは、眉間にシワを寄せ、情けない顔になっていた。
「お父様、申し訳ありませんでした。でも、私……お父様が立派でないなんて、思っているわけではないのです」
レインの言葉を遮るように、雲の王は手をあげた。
「もう良い。ドーリーお前の勝ちじゃ。娘の恋人にヤキモチを妬くなど、雲の城の王のやる事ではないわなァ……降参するしかないようじゃ、リクでもソラでも連れて来い」
ドーリーと視線を交わしながら、レインはフッと微笑んだ。小さい頃から、こうやって何度もドーリーに助けられてきた。母親代わりのドーリーは、いつでもレインの心強い味方であり、怖い存在だった。
「ドーリーただいま。心配ばかり掛けたわね。ごめんなさい」
レインは、ドーリーを抱きしめようと腕を伸ばしたが、ドーリーが立ち上がるほうが速かったため、その腕は宙に浮いたままになってしまった。何となく淋しさを感じながらも、腕を下ろすしかないレインだった。
「では、私はレイン様のバスタブの用意をして参ります。少ししましたら、お迎えに参ります」
いつもの優しい笑みを残して、ドーリーは部屋を後にした。
雲の王の周りにいる人間達、いままでレインにとって大切にしてきた人たちばかりだ。
この中に、闇の妖精に身体を乗っ取られている人間がいるのだろうか?