[73] 緑の王の部屋
ばばさまの木は、フーミィにお願い事をしますよ。
ユウリィエンを優しく抱きこむ大きな木は、さわさわと葉を揺らし、何かを語っているように聞こえる。フィーナもフーミィも、驚いて息を呑む。
「この木は何なのですか」
フィーナの問いに、キートアルが柔らかい微笑み見せながら木を見つめている。
「この木は、ばばさまの木と言ってね。私達の祖母の生まれ変わりなんだよ。私が生まれる前からここにいて、私達を見守ってくれている。本当に困ってしまった時には、相談に乗ってくれる」
「へェ、素敵だね。ばばさまかァ、いいなァ、後で僕も触ってみたいな」
キートアルは、フーミィに微笑みかける。
「兄上とばばさまの話が終わったら触ってごらん……ばばさまは、きっと君を気に入ると思うよ」
「どうして。どうして、ばばさまは僕を気に入るの」
キートアルは、フーミィの光を受けると青みを帯びる短い髪の毛をクシャッっとかき混ぜた。
「私の生まれ持った魔法の力は、人の属性を見抜く力なんだ。君からは、穢れも汚れも無い清い水の匂いがする。ばばさまが気に入らないはずがないじゃないか」
「ねェばばさまは、どうして此処に生まれ変わったの……」
キートアルは、優しい眼差しで、ばばさまの木を見つめた。
「ヒルート兄上が生まれた時、恐ろしい予言を伝えて直ぐに亡くなった緑の魔術師がいたんだ。それが、ばばさまだった。この城を建て直す前には、この部屋の下は母が兄上達を産んだ部屋だったんだ。そしてそこで、ばばさまは亡くなった……」
フーミィもフィーナも、キートアルの話を真剣聞いている。そんな二人の様子に、笑みを漏らしながらキートアルは続けた。
「ばばさまはね、この領域を治める女王でもあったんだ。祖父は大地の領域の男爵家の次男だった。緑の城の王は、亡くなるとその身体を木に変えて国を見守るんだ。だから、ばばさまは此処にいる。王の死と生まれ変わりについては、詳しい事は限られた人間にしか明かされない、私が知っているのはここまでなんだ」
キートアルが話し終わったと同時に、ユウリィエンが、ばばさまの木から離れた。
黙って目を瞑っているユウリィエンの顔は、穏やかに微笑んでいる。
「ばばさまが、フィーナに力をくれた礼を言ってる。そして……ヒルートを救えと、連れ戻さねばならぬと言っている。ヒルートが戻らねば、緑の領域は死んでしまう……フィーナ、緑の紋章はお前に預けよう」
ユウリィエンは、緑の紋章をフィーナの手に握らせた。
「ヒルートを頼むぞ」
フィーナがユウリィエンに礼を言おうとしたその時、客間のドアがコンコンコンっとたて続けに激しく打たれた。
「誰だ」
ユウリィエンの質問に答える前に、勢いよくドアが開いて衛兵が飛び込んできた。
「ユウリィエン様、陛下が急変でございます。早く陛下の元へおいで下さい」
年の頃は50代ほどの立派な制服に身を包んだ衛兵の顔の真っ青になっていた。二人の皇子は、脱兎の如く走り出した。フィーナは、付いて行こうかどうしようかとフーミィを見た。フーミィは、ばばさまの木に抱かれていた。
「フーミィ……王様が……」
フーミィはばばさまの木から離れ、フィーナの手を取って歩き始めた。
「ばばさまがね、王様を助けて欲しいって。王様が此処だって言う所まで連れて行ってやって欲しいんだって……それは、僕にしか出来ない事みたいだよ」
「そうなの。それって、フーミィが心の癒し手だからなのかしら」
「うんん、さっきキートアルが言ってたでしょう。僕は水なんだって……それが大事な事みたいだよ」
フーミィは微笑みながら、緑の城の人々が心配そうに見つめる方向へ走り始めた。
フィーナとフーミィは、緑の王の寝室に向かう途中に、衛兵に呼び止められた。それは、先ほど客間に来た年齢を重ねた衛兵だった。ユウリィエンが呼んでいると言って、王の寝室までの案内をしてくれた。
「ここだ。しかし、普段ならお前達のような者が入ることの出来ぬ場所。心して入るように……、陛下は今、危険な状態であらせられる。お前達が陛下を救ってくれることを願っている」
衛兵は苦い顔をしたまま大きな木作りの扉を開いてくれた。王の寝室は薄暗く、天蓋付きのベットはより一層闇の中にあるようだった。
ベットに身を乗り出すようにして、ユウリィエンとキートアルが父王を見下ろしていた。その横には、床に膝をつき王である夫の手を握り締める妻の姿があった。
ユウリィエンが、父王の肩にそっと手を置いた。
「父上、心の癒し手が参りました。父上、しっかりなさって下さい。このユウリィエンに、今、何をすれば良いのかお教えください。まだ私には父上が必要なのです……お願いです、父上……」
フィーナは入り口に立ち止まってしまったが、そのフィーナの背中をフーミィが押すようにして、緑の王のベットの脇に連れて行った。
女王がフィーナとフーミィに気が付くと、力なく微笑んだ。
「あなた達が……陛下を救ってくれるのですね……」
そう言った女王の瞳には影が落ち、救いの手をあまり信用しているようには見えなかったが、それでもフィーナとフーミィに向かって少しだけ頭を下げて見せた。
緑の王の傍まで来ると、フィーナの手の中にある緑の紋章が輝きを増した。それに呼応するかのように、緑の王の胸の辺りが緑色に輝き始めた。
ユウリィエンがそれに気付いた。
「どうしたのだ。父上の胸が輝き始めた……フィーナ、お前が緑の紋章を持っているからなのか……」
フィーナは、分からないとでも言う様に首を振った。緑の王が、枯れ木の如く痩せ衰えカサカサになった皮膚は所々こぶの様になっているのを見て、何も言う事が出来なかった。その瞳には、大きな涙が溜まっていた。
「フー……ミ…ィ……」
フィーナは、直ぐ後ろにいるフーミィの肩に顔を埋めた。
「フィーナ。ほら、緑の紋章が、王様の身体に力をくれてるみたいだよ。ここからは僕がやるから」
フーミィは、緑の王の枝のような腕にそっと触れた。
「……あっ……うァ……」
目を閉じたままの緑の王が、声を発した。その時、王の体の下から黒い影が這い出てきて女王の影に入り込んだのをフィーナは見逃さなかった。
「女王陛下、失礼いたします」
そう言うと、フィーナは女王の肩に手を置いた。またもや黒い影が這い出してきたが、今度はフーミィが素早く足で踏みつけた。
「フィーナ、これって闇の妖精だよね。僕が捕まえてるからフィーナがやっつけてよ。ヒルートが力を貸してくれるよ、きっと」
フーミィの言葉に応えるが如く、いきなり緑の紋章が輝きを増した。それをしっかりと握ったまま、フィーナはフーミィと同じように黒い影を踏みつけた。一瞬にして影は消えた。
「すまぬ、な。あの影を捕えておく力は残っていない……ありがとう」
囁くように言った王は小さく震えている。
ユウリィエンが、父王の顔を覗き込んだ。
「父上、父上、しっかりして下さい」
みなの目の前で、今まで閉じられていた王の瞳がゆっくりと開いた。
その瞳は、以前は美しい緑だったのかもしれない。
今は、白く濁った薄いウグイス色になっていた。
「聖なる水の者よ……我が為に、いらしてくれたか……すまぬ……あの影までも退けてくれた。感謝する」
「ううん、いいんだよ。僕に出来る事は何でもしてあげるよ」
フーミィは、緑の王の腕を摩りながら、優しく微笑んだ。
「王様は、闇の妖精が城にいる自分以外の人達悪さをしないようにって、自分に縛ってたんだよね。だからこんなに疲れ果ててしまった。でも、間に合ってよかったね。フィーナと僕がいるからもう大丈夫だよ」
「ありがとう……聖なる水の者……そなたと緑の紋章の力を借りて……ワシもほんの少しの猶予を与えられたようじゃ……ならば、頼みが……頼みを聞いて欲しい……」
王の傍らで手を握り締めていた女王が、涙声を出した。
「あなた、頼みごとなら私におっしゃれば良いではありませんか……さみしゅうございます」
緑の王は、自分の妻を見つめると、その手をしっかりと握った。
「お前には無理な事……何も妬く事はない。聖なる水の者は竜じゃ……人間の女ではない……」
「まァ、竜なのですか。あなたは、何でもよくお分かりなのね……でもあなた、わっ私は妬いてなどおりません……」
「ほおう……それは淋しいのう……」
女王は、泣きながら夫の手を握った。
「……妬いておりますとも……どの様な者にも、あなたを取られるのは嫌です……」
緑の王は、慈しむように瞳を細めて妻を見つめた。
「死に際に妬いてもらえるなど……男冥利につきるではないか……」
「ばかな。あなたを、まだ何処にも行かせはしないわ」
父と母のやりとりに、二人の息子は目を見合わせた。
フーミィが、緑の王の額に手を置いた。
「他の頼みごとは何。時間がないんでしょう……それとも、此処でいいの」
緑の王は、フーミィをじっと見つめた。
「ワシの頼みが分かるのか……」
「うん、僕、心の癒し手なんだ。だから、大体は分かっちゃう」
緑の王は、何かを考えるように目を閉じ、再び開いた。
「ワシの頼みが一つ増えた……ワシが逝ってしまった後、わが妻を癒してやってはくれんか」
「いいよ、任せて……大丈夫だから」
緑の王は、うんうんと頷いて見せた。
「さァ、ここでは城も領域もワシの目には見えん。城と領域が一番よく見える、あの丘まで連れて行ってくれぬか……あの丘に眠りたい」
緑の王は、大きな両開きの窓から見える城から少し離れた丘を指差した。
「わかったよ。じゃぁ行こう、時間切れになる前にね」
言うが早いか、フーミィは緑の王の布団の中に手を入れ、背中に両腕を差し込むと、抱上げた。
バサッという音とともに艶のある翼が広がった。少し浮かび上がったフーミィは、すーっと開いた窓から飛び立っていった。飛び立ったあとには何故か霧が城を覆った。それは、一瞬の出来事で、あまりの突拍子のなさに、誰もが固まったままだった。二人を呼ぶ声が、響き渡る。ユウリィエンとキートアルは移動の魔法で、父王が指さした丘を目指したが、女王は、あまりの事に動く事が出来ずにその場にしゃがみこんでしまった。
「女王陛下。私が、陛下の元にお連れいたしましょう」
先ほど、フィーナとフーミィを案内してくれた老齢の衛兵が女王の横に跪いて支えていた。
「ええ、お願いするわヤズアー。あの人の元へ連れて行って……」
立ち上がり歩き始めた二人にフィーナはついて行った。
「ご一緒させていただけないでしょうか、あの……」
女王は、やつれた顔で微笑む。
「ええ、おいでなさい……」
フィーナは、女王が差し出した手を、自然に握ってしまっていた。その間、誰も気づいてはいなかっただろうが、緑の城を覆った霧が黒い影を消し去っていくのをフィーナだけが見ていた。
城の見える丘……緑の王は、そこを自らの永眠の場に決めていたようです。