[69] 空の王の紋章
亡くなった空の王の傍らで、ティルズがなにやら始めた。
紋章の間に、長い沈黙の時間が過ぎる。ティルズは、空の王の遺体の傍らに跪くと、王のローブの胸を開き、中に着ていたブラウスのボタンも外していく。スカイは、ティルズの不可解な行動に眉をひそめるが、理解できぬまま、それでもティルズの恐ろしいほどの真剣な眼差しにただ黙って見つめることしか出来なかった。
父王の手を握り寄り添っていたウィンがーが、その手を放しティルズの手を掴んだ。
「ティルズ何をしている。父上を辱めるつもりなのか……お前がそんな事するなんて信じられない」
ティルズは、首を振りながら空の王の胸元に手を入れ、その肌をさらした。空の王の左胸、ちょうど心臓のあたりに、直径5センチ程の鋼色の紋章が埋まっていた。
ウィンガーは、思わず息を止めた後、恐ろしいものでも見るように、父王の胸を食い入るように見つめた。
「こんなの見たことない。父上の胸にこんなものがあるなんて知らなかった……何、これ……」
「これは、空の王の紋章。空の王は、その身を空の城に捧げて一生を送るといっても過言ではございません。これはその証の紋章……」
スカイが目を細めて見つめた。
「その王の紋章と、今起こっている事は繋がりがあると言うのかティルズ」
ティルズは、目を伏せ空の王に向かって何かを呟いた。まるで自分のしている事を詫びてでもいるように見える。
「通例では、空の王が崩御された場合、浮遊城は速やかに地上に下ろされるのです。空の王の葬礼は地上で行われ、次の新たな王が誕生した後、空の城として今一度浮上するのです」
スカイは、イライラしていた。話が中々さきへ進んでいかない。
「その事は、私も知っている。それが、何だと……」
スカイの顔色が変わっていく。
「まさか……父上が亡くなられたから……下層部は離れて行っているのか……」
ティルズが頷いた。
「それを詳しく調べる為に、秘密の書庫へ行って参りました。空の王の死は、空の城の死に繋がります。ですから、城が崩れる前に地上に降りるのです。新たな王が決まるまでの間……ですが、今回は降りることは出来ない……ならば……」
ウィンガーは、ティルズの手を握ったまま、その目に涙を溜めている。
「城は……死んだりしない、兄上がいるもの。新しい空の王がいるのだから、大丈夫でしょう。ティルズ、そう言って」
すがる様に言うウィンガーの視線は、硬いはずの形を歪ませ父王の胸から生き物の様に這い上がってくる鋼色の紋章に釘付けになっていた。その生き物のような紋章を、王の胸元からティルズが取り上げた。
その後には、もう動く事無い空の王の心臓が、ぽっかりと空いた穴から見えていた。
ウィンガーが、しりもちを付いたまま後ずさりした。
「いやだ……こんなの……こんな恐ろしい事……その紋章は生きてる……生きてて、父上の身体に入ってたんだ……」
「ウィンガー様、落ち着いて。大丈夫です。お父上は、この紋章と共に、この城を守ってこられたのです。恐ろしい事などございません」
ティルズは、魔法で取り出した絹の分厚い布の上に、紋章を丁寧に置いた。ウィンガーは、首を大きく振った。
「恐ろしいものは、恐ろしいよ。どうしてティルズは怖く無いの」
ティルズは、空の王の遺体を回って、ウィンガーの横に来た。
「ウィンガー様。どんなに恐ろしくとも、この紋章を受け継ぐのはあなた様なのですよ」
「違う。兄上がいるじゃないか。兄上の魔力だって戻ってる。空の王にふさわしいのは、兄上じゃないか」
ティルズは、スカイを見上げた。
「スカイ様……」
スカイは、何も答えず窓の外を見つめていた。ローショとシルバースノーがスカイの横をすり抜けて窓枠に手を掛けた。
「スカイ様、シルバー様と私とで、城の下層部が落ちる速度をゆるめるよう努力してみます」
「竜を集めるわ。私達の魔力で、少しは持ちこたえられるかもしれないから」
スカイは、二人に向かって頷いて見せた。
シルバースノーは、ゆっくり微笑むと銀の翼を広げ窓から飛び出した。ローショもそれに続き、金色の翼が窓枠に消えた。スカイの見つめる夜空に、銀と金の竜の舞う姿が見えていた。
「スノー、ローショ頼んだぞ……」
スカイは、窓から視線を外し、紋章の間の角まで歩いていくと、床に放置されたままだった悪魔を倒した誓いの剣を拾い上げ、ウィンガーの元に歩いてきた。
「ウィンガー……私は、とても恐ろしい。自分が空の紋章と誓いを立て空と大地の門を開けようとしている事に……そして、自分の使命が全うされないかもしれない不安に……恐怖を感じる。自分はこんなに弱い人間なのだと、思い知らされる……私は、ソラルディアの王にふさわしいのだろうかと、不安になる……」
「兄上……」
「魔力を失い、雲の城のケトゥーリナ姫を失い、王位継承権も失った時、絶望のどん底にいると思った。けれど、その時よりも、どんな時よりも、今が一番恐ろしい……」
ウィンガーは、首を傾げながらスカイを見上げた。
「この肩にのしかかってくる命の重さに、潰されそうになる時がある。私がしくじれば、世界が崩壊する。私の仲間の誰かがしくじれば、やはり世界は崩壊するだろう。それ程の重圧に、私はくじけてしまいそうだ……」
ウィンガーは大きく首を振った。
「いいえ。兄上はそんなに弱い人間ではないはずです。私なんかよりずっと強くて、ずっと大人だ。兄上が怖いものなんて、あるはずがない」
「ウィンガー、人の強さとは弱さの上にあるものだと私は思う。私は弱い、それでも愛する者を守りたいと願っている。愛は、時に弱さを強さに変えてくれる。私の弱さが、必ずこの世界の崩壊を防ぐ力となってくれると信じる」
スカイの手に握られた誓いの剣が、青白く輝いた。ティルズが、スカイの空いている片方の手に、空の王の紋章を握らせた。誓いの剣と、空の王の紋章が共鳴すかのように音を奏でた。
「私は、ソラルディアの王になる。この剣と共に」
その時、空の紋章も輝きを増し、音を奏ではじめ紋章の間が3つの音色に満たされる。
ティルズは、その厳かな音色に耳を傾けていた。
「スカイ様、やはりあなた様はソラルディアの王となられるのですね。さすれば、その紋章は空の王にかわりに、あなた様のお考えのままに……この私には、あなた様にお教えすることも、申し上げる事もございません。ソラルディアの王よ」
ティルズは、微笑みながら静かに膝を折った。
「ありがとう、ティルズ……」
スカイは、空の王の紋章を持上げると、その手をゆっくりと開いた。その時、城の外で闇夜を切り裂くように、竜の咆哮があがった。何度も、何度もあがる咆哮は、一頭のものではなく、シルバースノーとローショの二人のものだと、スカイには直ぐ分かった。
「ウィンガー、スノーとローショが竜をソラルディア全土から集めようとしている。何のために、何のために彼らはそうするのだろう……」
ウィンガーは震えながら、スカイを見上げていた。
「父上は、何を守るために命を掛けられたのだろう……そして、ウィンガーお前は、何のために、母の身体を乗っ取った悪魔を私と共に、この剣で貫いたのだろう……母への愛。それだけでも十分だろう……しかし、それだけだったのだろうか……」
ウィンガーの瞳の中に、何かが煌いた。
「母上の身体を貫いてまで守りたかったもの……」
「ああ、お前が真実守りたかったものは何だ」
ウィンガーは、震えながら立ち上がった。その瞳に、大きな涙の粒を溜めながら、それを零さないように下瞼を震わせている。
「兄上……私は、父上と母上が愛した空の城の全てを守りたい……私に出来るでしょうか……この命に代えても……守る事が……私に……」
スカイは、空の王の紋章をそっとウィンガーの方に差し出した。
「その答えは、お前が先程見せてくれた……強さが証明しているじゃないか」
ウィンガーは、空の王の紋章をじっと見つめた。それは、ふわりと浮き上がり輝き始めた。
ウィンガーの身体が一瞬にして強張る。
「何……」
ウインガーの戸惑いもよそに、空の王の紋章はぐんぐんウィンガーに近付いてくるが、ウィンガーの身体は何かに捕らえられたように動く事が出来ない。ピタリとウィンガーの胸の上に張り付いた空の王の紋章は、熱せられたが如く赤くなり、ウィンガーの服を焼いた。
「こっこわ…い……あにっうえ……」
ウィンガーはスカイに向かって手を伸ばした。スカイがウィンガーの手を取ったときには、空の王の紋章はウィンガーの心臓目掛けてめり込んでいった。
「ウィンガー」
スカイはウィンガーをその腕の中に抱きとめ、胸に入り込んでいく真っ赤になった紋章に手を伸ばす。
ピリッと電気が走るような痛みを感じて、スカイは手を避けた。
「ウィンガー、ウィンガー」
ウィンガーは、スカイの呼びかけに答える事無く、そのまま意識を手離した。
ぐったりとした弟を腕に抱いたまま、立ち尽くすスカイの手には、誓いの剣が握られていた。
「ティルズ……ウィンガーを頼んだぞ……」
ティルズは、音も無く二人の前に跪き頭を下げた。
「承知いたしました。新たなる空の王のお傍にお仕えいたします。この命尽きるまで」
「頼む……まだ幼いのだから……しっかり、育ててくれ」
「はっ」
外から、竜の咆哮が聞こえてきていた。それはだんだんと数を増している様だった……
スカイは、空の紋章を見つめた。何も話しかけて来ない紋章は、やはり空の城を止めるつもりも、降ろすつもりも無いようだった。
空の城は、このまま崩れるのか……新たな王は意識をうしなったまま……