[66] 紋章の間へ
最上階のしたまできた、スカイとローショ。
二人が見たのは、なんとも奇妙な光景だった。
階段の壁に取り付けられているランプは、既に燃料の油もなくなったのか、消えてしまっている。明り取りの窓からは、晴れた夜なら月明かりでも入るのだろうが、今夜はそれを期待する事はできない天候だった。暗闇の中、スカイは、慎重に最上階の直ぐ下の階まで上がってきていたが、目の前の暗がりの中で起こっていることが、いまだにハッキリと理解できずにいた。
「何なんだ……」
そぐ横にいたローショにだけ聞こえるほどの小さな声で、スカイは呟いた。
「魔力を使ってご覧になった方がいいでしょう」
先にそれに気付いていたローショは、スカイに小声で言った。スカイは、自分の目が見えている現実以上の物を捉えられる様に、魔力を総動員した。
目の前には、空の城の近衛兵達が、階段に掛かった真っ黒な霞から出てきては向きを変え、また階段を上り霞の中に消えていく姿が繰り返し繰り返し見えてきた。
もっと魔力を高めると、真っ黒い霞の中が見えてくる。階段を上がった近衛兵は、その姿を魔物へと変えていた。ある者は、体中が溶けた様にただれ、口から出した紫色の舌は、物欲しそうにている涎を垂らしている。別の者は、大きな角を頭に生やし鋭い牙と爪を持って、それを打ち鳴らしながら笑っている。
動物のような者、昆虫のような者、爬虫類など様々な種類の生き物が混ざり合い、眼を血走らせて、紋章の間の扉の大窓の前まで行くと足を止め、少しの間中を覗きこみ、直ぐに下りて来る。そして、黒い霞から出てくると、人の姿に戻っている。
紋章の間に押し入るでも、攻撃を加えるでもなくそれだけを、延々と繰り返している。近衛兵達の中には、スカイやローショの顔見知りの者は少なくない、と言うよりも、ほとんどの者を知っているといった方が正しいかもしれない。黒い霞の外にいるときの表情は、普段の彼らとは全く異なり、虚ろで目の焦点は合っていない。意識があるのかすら疑わしい感じがする。
スカイは、唸るように小さな声で言った。
「どういう事なんだ、あいつらは何をしている」
ローショのグレイ掛かった青い瞳がユラリと揺れると、竜と人間の間に生まれた前世ミーシャの真っ赤な瞳に変わった。
「スカイ様、あれは闇の妖精の作った幻覚の霞です。おそらくは、紋章の間におられる陛下と側近達に心理的ダメージを与え続ける為かと……」
スカイは、小さく舌打ちした。
「あの霞に入れば、私達も同じになるだろうか?」
「そのまま入れば確実に、彼らと同じかと……」
スカイは、しばらく考え込んでいた。
その目は、目の前の黒い霞をじっと見つめている。
ローショは、真っ赤な瞳のまま、スカイの肩をそっと撫でた。
「スカイ様……私なら、大丈夫です。あの霞に耐えられます。ただ……」
ローショは、何かを言いよどんでいる様だった。
「どうした、ローショ……なにをっ!! 馬鹿者、何をすんだ!!」
小声で抗議するスカイを、ローショは横抱きに抱え込んでいた。小柄ではないスカイだったが、大柄なローショに横抱きにされると、細身なので女性のようにも見える。まるでお姫様の様に抱っこをされたスカイは、恥ずかしさにじたばたと暴れていたが、ローショの真剣な表情に、身体の動きを止めた。
「ローショ……何を考えている……」
ローショは、フーっと大きく息を吐いた。
「スカイ様、失礼は十分承知しております。が、私一人、扉の前に立ちましても、陛下のお目には、あの魔物達と変わらずに映るでしょう」
「……」
「私の翼で、必ずお守りいたします。このままこの階段駆け上がらせていただきます」
「駆け上がるって、近衛兵たちはどうするっ」
フンっローショは鼻を鳴らした。
「自らの意思ではなくとも、陛下を恐怖に陥れるなど、近衛兵の風上にも置けない。少しくらいの怪我は甘んじて受けるでしょう」
スカイは、ローショの腕の中でククッと笑った。
「奴らに聞かれても、誰がやったかは教えないでおくとしよう」
「では、参ります!」
ローショは、翼を大きく開くと、自分の腕ごとすっぽりとスカイを包み込んで、勢いよく走り出した。
ローショの顔は、既に金のウロコで覆われ、眼は今も真っ赤に燃えていた。
暗い夜空に、ゆっくりと羽ばたきながら、シルバースノーはその時を今か今かと待っていた。
背中に乗せている女王の動向には注意を払っていたが、それとは悟られぬように気も使っていた。
(スカイは、女王が、何をすると思っているのかしら……)そう思っていた時、女王から微かな魔法の気が漂い出たのを、シルバースノーは見逃さなかった。ほんのわずか、人間なら気が付かなかったかもしれない。現に、かなりの魔術の使い手でもある、ローショの父ティルズも気付いてはいなかった。
その微かな魔法の気は、ウィンガーへと真っ直ぐに向かっていた。シルバースノーは迷った。止めるべきなのか……それとも……
シルバースノーは、気の量から考えて、ひどく危険があるとは思いにくいと判断するしかなかった。スカイの頼みは、女王のすることは、危険が大きすぎなければ放っているおくこと、だったのだから。
気がウィンガーに注がれた一瞬、ウィンガーの体がピクッと動いたが、先程までと変わりなく見えた。
それからは、女王とウィンガーの両方を見張っていなくてはならない事になってしまった、シルバースノーは、心の中で、フーッと溜め息をついた。
階段を駆け上がるローショは、左右を上り下りする魔物たちにぶつかりながらも、スカイをしっかりと抱え込み、幻覚の霞をスカイにかからない様に細心の注意を払っていた。
魔物たちは、元々普通の人間であるため、ローショの勢いに次々と階段の下に消えていった。最上階の扉の前まで着いた時には、魔物たちは一匹も残っていなかった。それもそのはずで、動こうとしても怪我を負っているものばかりで、起き上がっても階段は上ってこられなかった。
ローショは、そっと後ろに目をやると、黒い幻覚の霞を振り払うように翼を広げた。広げた翼は、一瞬にして黄金色に輝き、幻覚の霞を吹き飛ばしていく。
階下で怪我を負ってもまだ闇の妖精の魔法によって動かされようとしていた近衛兵たちは、吹き飛ばされた幻覚の霞の中に入ってしまい、蠢く魔物と変わってしまった。
ローショの腕の中から立ち上がったスカイは、階下を見下ろした。
「ローショ、かなり恨みを買いそうだぞ……」
「結構です。それよりも、スカイ様……陛下がこちらをご覧になられています」
スカイは、紋章の間の扉の窓に手をついて叫んだ。
「父上っ! ここをお開け下さい。スカイが戻って参りました」
空の城の王は、瞳を大きく見開いて、スカイとローショを交互に見つめている。
ローショは、慌てて普段の姿に戻った。
「陛下は、私の事を疑っておいでなのです。魔物だと……」
「父上っこれは本物のローショです。ご心配には及びません。早くここをっ」
スカイが言い終わらぬ間に、静かに扉が内側に開いた。
紋章の間の中央にある、白い石の台座に埋め込まれた空の紋章が、独りでに浮かび上がって光を発した。
それと同時に、スカイの身体が同じ光に包まれる。
『お入りなさい、空の魔術師』
スカイの頭に、何者かが直接話しかけてくる。
『誰だ……』
『わかっているでしょう』
『空の紋章?』
『……』
『返事をしてくれ』
『……』
頭の中の会話は、どれ程スカイが問いかけても、それ以上は進まなかった。スカイは、ローショと連れ立って紋章の間に入った。
「父上、遅くなって申し訳ございません。父上と紋章を守るため、このスカイ、只今戻りました」
スカイが、深々と頭を下げている間に、ローショはスカイの横に跪いていた。扉が、誰の手も借りず、勝手に閉まった。空の王は、側近の者2人と共に、閉まった扉と紋章、スカイにローショと忙しく目を動かしていた。
「スカイ……魔物どもを倒し、よく戻ってくれた。しかし、ローショそなた、先程の姿は? そなたも、魔物かと思ったぞ」
「いいえ父上、ローショは古の竜人なのです。魔物などではございませんし、外にいた魔物どもも、闇の妖精の幻覚の霞が生み出したものにございます」
空の王は、まだ疑い深げにローショを見つめていた。
「そうだったか……騙されていたとは口惜しい事よ。じゃが、スカイ、これは? どういうことなのじゃ……」
空の王が指したのは、宙に浮かぶ空の紋章。その輝きは、既にスカイと繋がっていた。
「それは……私が空の魔術師である証拠かと思われます」
空の王は、大きく手を広げるとスカイを抱きしめた。
「そうかっ! ワシは昔からそう信じておった。お前はいつか空の魔術師になってくれると……そのお前が、魔力を失うことになって……どんなに……」
「魔力は戻りました。いえ、前以上に強くなりました」
父王は、スカイの顔を見るために、自ら抱きしめていた腕放した。
「戻ったか。ならば、この城の王位継承権はお前のもの。お前は空の王となるのじゃ」
嬉しそうに微笑む父王に、スカイは表情を崩す事無く言った。
「空の王になるのは、ウィンガーです。私ではない。さァ、ウィンガーも戻っております。窓から入れてやってください」
スカイは、紋章の間の窓に手を掛け、空の紋章の方を見た。スカイが力を入れるまでも無く、窓は大きく開いた。慌てた空の王は、窓に駆け寄ってきた。
「あやつはイカンのだ。闇の妖精に取り込まれておる。女王とぐるなのじゃ、ワシを殺そうとしおった」
「父上、ウィンガーの中の闇の妖精はもう居ないのです。大丈夫です、私を信じてください」
空の王は、極度の緊張と恐怖の為か、プルプルと小刻みに震えていた。
空の王は、心身ともに弱っている。
この状態の父に、事の次第を分からせる事ができるのだろうか?