[59] 空の紋章
ウィンガーを癒し終えたリク。
次々に湧き上がる疑問に一行は戸惑う……
ウィンガーの額に手をのせたまま、身動き一つしなかったリクが、ピクッと眉を動かしたのを、レインは見逃さなかった。
「リクが戻ってくるわ」
リクの手が、ウィンガーの額からするりと落ちて、ガクッと倒れこんだ。レインがリクの身体を支え、ウィンガーの上に倒れこまないように踏ん張った。
「リク。しっかりして。大丈夫? ねェ? リク?」
リクが、レインの背中に手を回して、抱きしめた。
「だいじょうぶ? かな。ありがと、レン」
リクはレインに腕をまわしたまま、もう一方の手でウィンガーの肩をゆすった。
「レンの手を、俺の手に重ねて」
「ええ……」
レインがリクの手に自分の手を重ねて、同じ様にウィンガーをゆすった。
「ウィンガー、起きて。大丈夫だから、スカイも待ってる」
リクの声に反応するように、ウィンガーの瞳がゆっくりと開いた。
「んん〜……雨? 雨が……」
目覚めたばかりのウィンガーの身体を洗い流すように、いきなり雨が降り出していた。その雨は、ウィンガーとリクとレインを囲むように、そこだけに激しく降っている。ギャピーを癒し終わったスカイが、慌てて飛んできた。
「リク。何をしている」
リクが答える替わりに、ウィンガーの口から黒い油のようなものが途切れ途切れに吐き出された。それは、激しい癒しの雨に打たれて、どれも一瞬のうちに消えてしまう。
「何だ……これは……」
放心状態のスカイに、シルバースノーが寄り添った。
「闇の妖精の匂いがしたわ」
「まさか、ウィンガーの中に……? 身体を乗っ取られていたのか?」
リクは、眉間にシワを寄せて首を横に振った。
「いや違うみたいだ。少しずつ少しずつ闇の妖精がウィンガーの心に自分のかけらを植え付けてるところだったんだろう」
リクは、レインの腰に手を添えて、二人一緒に立ち上がった。
癒し雨は、霧雨の様に変わっている。
「ウィンガーの中のかけらは、洗い流した。もう大丈夫だって」
リクがスカイに向かって親指を立ててニッコリ微笑んだ。スカイは、リクの手を握ると、小さく頷いて、ウィンガーの横に膝をついた。
「ウィンガー? もう大丈夫だ。私と私の仲間達もいる。そして、闇の妖精はいない。安心して事の成り行きを話しなさい」
ウィンガーは、スカイの手を握り締めて、少し微笑んだ。
「兄上……。母上は父上に毒を盛っていたのです。私はそれに気付いて……止めたのです。でも、母上は聞いてはくれなかった……」
「そんな馬鹿な。お前の母がその様な事をするはずが……」
ウィンガーは、スカイの服の袖をグッと引っ張った。
「兄上だって、思っているのでしょう、母上が兄上の母君を毒殺したと……」
一瞬だけ、スカイは答えに詰まったように見えた。だが、大きく首を横に振って、ウィンガーの瞳をじっと覗き込んだ。
「……いや、あれはただの噂に過ぎん。お前の母は、そんな恐ろしい事が出来る人間ではない。そうでなければ、父が愛するはずがないだろう」
ウィンガーは、大きな目に涙を一杯に溜めていた。
「兄上……でも、今は優しかった母上ではないのです。空の城を我が物にし、父上を城の塔の最上階の部屋に追い込んでいます」
「最上階の部屋? あそこは、空の紋章が埋め込まれた部屋ではないか」
「父上を守るために、側近達が父上と共に籠城しているのです」
スカイは、拳を硬く握った。その拳にウィンガーはそっと自分の手を添えた。
「母上の狙いは、空の紋章。でも、なぜか自分では手を出せないでいたんです」
「自分では手が出せない?」
スカイは、眉を寄せた。
「だから、私を使おうとしているのです。私を思うがままに操ろうとしている。怖いのです、母上の思い通りに動いてしまいそうになる自分が」
リクが静かにウィンガーの横に座った。
「もう大丈夫だって。俺がお前の中の闇の妖精のかけらを掃除してやったからさ」
ウィンガーは、キョトンとした表情でリクを見た。
「あなたは?」
「忘れちまったか。さっき会ったのにな、お前の心の中でさ」
「あっ……心の癒し手」
ウィンガーは、微笑んでみせた。
「なァ、ウィンガーのお母さんって、闇の妖精に身体を乗っ取られてんじゃネーカ?」
リクのストレートな物言いに、ウィンガーの口元がわなわなと震えた。
「母上が、闇の妖精に。そんなっ……ひどい……」
リクが優しくウィンガーに微笑んだ。
「ごめんな、こんな言い方しかできなくて。でも……話は早く済ませたいんだ、かんべんな」
ウィンガーは、スカイの腕の中に倒れこんだ。まだ幼い弟を支えながら、スカイは目を細めて、何かを思い出そうとしている。スカイの隣に来ていたタカが、そんなスカイの姿を見つめていた。
「闇の妖精は、空の紋章が欲しい、でも手が出せない。何故だろうな。スカイ、心当たりはないのか?」
スカイが顔を上げてタカを見た。
「そうだ、闇の妖精や悪魔は、空の紋章、大地の紋章、緑の紋章、雲の紋章、水の紋章の全てに近付く事はできないんだ。だから……」
ウィンガーが不安げにスカイの袖を握り締める。
「だから、私を?」
スカイは、ウィンガーを宥めるように自分の袖を握り締める弟の手を摩ってやった。
「だが、何故? 闇の妖精が紋章を欲しがる。何のために……」
「兄上……母上が言ってました。この城を思うままに動かしたいでしょうって、大地の城へ行くのよって……」
「大地の城に? そんな事、許されない。他の領域を侵すことは、ソラルディアの秩序をを歪めてしまうことになる」
リクは、首を傾げた。
「それが狙いか? 何かひっかかるなー」
「闇の妖精は、悪魔の指示で動いているはずだ。悪魔の狙いなど、分かるはずも無い」
リクの横に座ったレインが思い出したように言った。
「悪魔は、リアルディアの崩壊も狙ってる。二つの世界の全ての者が苦しみに満ちる事を望んでる。あの方はそうおっしゃった」
レインが言う、あの方が生命の女神である事は、ウィンガー以外皆が分かっていた。
「悪魔は、何らかの方法でリアルディアの崩壊を早めようとしてる。それが何なのか……」
タカの言葉に、誰も何も言えなくなった。タカが、空を見上げて背をそらせたまま、数分が過ぎた。
「ソラルディアで、領域間の戦争が起きたら? リアルディアにエネルギーは送り込まれる余裕などなくなるんじゃないかな……」
リクは、タカの言葉に納得していないように、俯いて小さく首を振っている。
「もっと大事な……何かが……あるはずなんだ……」
タカは、溜め息をついた。
「時の魔術師の能力が、お前に何かを伝えるのか……」
「分からないんだ……」
リクとタカのやり取りにも、誰も何も言えないでいた。誰にも、悪魔の計略など解るはずもない。事の重大さを知らないウィンガーだけが、何かを思いついたようにそわそわしている。
「リクさん、お願いがあります」
リクは、小首を傾げてウィンガーを見た。
「なに?」
「私の母の心も癒して下さい。元の優しい母上に戻れるように。兄上と共に空の城に来て、助けてくれるでしょう」
スカイも、じっとリクを見つめた。
「リク……もしも、ウィンガーの母が闇の妖精に乗っ取られているとしたら、癒す事は可能なのか……」
リクは、目を閉じて黙って空を見上げた。
「スカイ、俺は行けない。ウィンガーのお母さんの事は、闇の妖精に身体を乗っ取られてる時間にもよるから、分かんねーけど……」
「なら、速く行って母上を助けて!!」
リクは、ウィンガーの訴えにも、目を開ける事無く空を見上げている。
「無理だ。俺は大地の城に行かなきゃなんねーんだ」
スカイが、鋭い視線をリクに向けた。
「リク、それがお前の答えなんだな……」
「ああ、わりーな、空の城で戦うのは、スカイあんただっ、俺じゃネーよ」
「リアルディアとソラルディアに関係する事か?……」
「ん?」
「理由を聞いても、教えてはくれんのだろーな」
「ああ……」
タカが、ぽつりと言った。
「俺の弟は、隠し事が多いんだ、すまんなスカイ……」
「いや、俺にとっても弟の様なものだから……」
リクの見上げる空は、いつの間にか夕日に染まり始めていた。
リクは、空の城にはいけないと断言した。
スカイとウィンガーを助ける事よりも優先させる大地の城に行かなければならない理由? それは?