[41] それぞれの時間
大地の領域へと旅立つ前の、ほんの一時です。
この夜の月は、ぽっかりと顔を出し、辺りを明るく照らし出していた。
レインは、ブツブツと呪文を唱えてから、小指を口元に運ぶと細くフーッと息を吹きかけた。
「これでいいわ。1時間後には出発できるでしょう」
レインは、満足そうに微笑むと、緑の魔術で作られたドームに入って出発の用意をしようとクルリと振り返った。
「きゃっ」
レインが振り返った直ぐ後ろに、リクが空を見上げて立っていた。
驚いた拍子に、後ろに倒れそうになるレインの両腕をしっかりと掴んで支えた。
「ねェ、レン何がこれでいいの?」
「え? あっ月を隠すための雲を呼び寄せる呪文。さっきローショに頼まれたの」
「ふーん、でも全然隠れてねージャン。失敗?」
レインは、ピクッと眉を上げると、ニヤリと笑った。
「あら、失敗なんてする訳ないわ。私はリクみたいな慌て者じゃないのよ。この呪文は、ゆっくりと効いてくるの。他の魔術師に見破られない種類の魔術を使う様にローショに言われたから、小さな雲を呼び寄せて、その雲の中に私の息を忍ばせたのよ。そうすれば、後は勝手に雲達が集まって月を隠してくれるの。これは、魔力の強い雲の魔術師しか使えない技で、相当力の強い魔術師以外には見破る事なんて出来ないんですからね」
レインは、自分の魔力が強く、魔術の高度さをリクに説明できた事が誇らしいのか、胸を張って微笑みながらリクを見つめグッとリクに身を寄せた。褒めて欲しそうにリクを見つめた。レインにはそんなつもりは少しも無かったが、レインの胸がリクの胸にかすかに当たる格好になった。ると、リクの顔が見る見る真っ赤になっていく。レインは、リクが真っ赤になった訳がわからず、首を傾げた。
「リク? どうしたの、ねェ私の話を聞いてくれたの」
「あっうんっきッ聞いた。スッ凄いなァレンは……うんっと……ごっごめん!」
そう言うと、リクはレインをギュッと抱きしめた。
レインはいきなりの事に、息を呑んだっきり声を出せなくなっていた。静かな空間の中、レインの耳には、リクの少し上がった息の音と、自分のものかリクのものか重なり合って分からない心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめん。俺……今すっげー頭おかしいかも。あのっさ、えっとキッキスしていい?」
唐突なリクの言葉に、リクの腕の中で、レインの身体が一瞬硬くなるが、間違いなく、レインはコクンと頷いた。
リクは、ゆっくりとレインから身体を離すと、そっとレインの顔に自分の顔を近づけていく。レインは、体中が心臓になってしまったような感覚に襲われた。ドクンドクンと鳴る自分の心臓の音に、身体はどんどん硬くなり、リクの息が顔にかかり近付いてくるのは分かるのだが、顔を上げていられない。
リクはリクで、初めてのキスはどうして良いかなど分かるはずもなく、緊張は高まる一方だった。同じ位の身長のレインの顔は、自分の顔からどんどん離れて低くなっていくようで、リクの初めてのキスはかなり難度の高いものになっていく。
二人には、時間は限りなくゆっくりと進んでいく様に感じられ、高くなりすぎた体温は、周りの空気まで温めてしまいそうだった。リクが少し身体をかがめて、やっと二人の唇は触れ合う事が出来た。お互いの唇の温かさと柔らかさを確認しあう様に、ゆっくりと唇を押し付けあう。
ほんの短い時間が、二人には永遠の様に思われた、その時バサッと大きな音と共に、フクロウらしきものが飛び立っていった。驚いたリクとレインは、慌ててパッと離れた。
ポリポリと頭を掻いてリクが笑った。
「ビビッタァ〜誰かに見られたかと思った」
レインも恥ずかしそうに微笑む。
「あら、リクは誰かに見られると困るの?」
「いっいや、そうじゃねーけど……恥ずかしい……だろ?」
少し俯いてレインが答える。
「うん。恥ずかしいわ」
『そりゃあ恥ずかしかろうて。見ているこっちはもっと恥ずかしいわ』
ドームが湾曲していて、リクとレインからは死角になっている暗がりからブルーリーの声が聞こえてきた。リクが声のした方へ駆け出した。
「ババァ! 他人のキスシーン隠れてみてんじゃねーよ!」
暗がりから、ぬっとブルーリーの首が持ち上がり、開いた瞳が月明かりにキラリと光った。その瞳の色は、深い藍色ではなく、ほんのりと赤く染まっている事に、怒りで頭に血を上らせたリクは気づいていない様に見える。
『たわけが! 私が寝ている所にやってきて、密会などしおったのはお前ではないか。迷惑しているのは、こっちの方だわ。ハナタレの逢引など見たくもないわ。私はこの後の旅の為に休ませて貰うよ。あっちへ行って続きでも何でもおし』
ブルーリーは、そう言うと眼をつむりゆっくりと首を下ろした。
「食えねーばーさんだな。くそっ」
リクは、拳を作って振り上げる素振りをしたが、直ぐに下ろしてレインの隣へ戻った。
「レン。中に入って出発の準備しとこーか」
「え、ええ……」
レインは、何かが気になる様子で、しきりにブルーリーの寝ている辺りをじっと見つめている。
「ねェ……リク、今ブルーリーの瞳が、赤かった様に見えたのだけど」
レインの言葉に、リクはチラリとブルーリーの方を見た。
「そうかな? ん〜レンに嘘は言えないけど、でも何も言えない」
首を傾げて、何も無かったように自分を見つめるリクに、レインは少し苛立ちを感じた。
「何か知っているのね。そうでしょ。何故教えてくれないの? リクは私を信用できないの? 何も言えないって、そう言う事?」
リクは、レインの手を取ると首を横に振った。
「いいや、そうじゃない。俺は色々な未来の予言を見る。だけど、それが何を意味しているのかハッキリとは分からない場合がほとんどなんだ。ブルーリーの目が赤くなる時があるのも、予言の中には出て来る。でも、その意味が分かってても、分からなくても、誰にも言ってはいけないんだ。聞けば何かをしたくなるのが人間で、それがどうにも出来ない事なら、苦しむのも人間だろ。俺は、レンに苦しんでは欲しくないし、他の誰も惑わせてはいけないんだ」
穏やかに話すリクを、レインは黙って見つめた。レインには、リクが自分などよりもずっと大人に見えた。羽目を外してはしゃぐ姿、不安と悲しみに震える姿、人を思いやる優しい顔、危険な事にも立ち向かおうとする勇気ある姿、どれとも違う、リクであってリクでは無い様な今の様子に、戸惑いを感じながら、レインにはその理由が理解できる様な気がした。
「リク……あなたは時の預言者だったわね」
リクが、人懐っこい笑顔になった。
「そう! カッコいいだろ」
いつもの様に自慢げに笑うリクを見て、レインも笑った。
「ええ、カッコいいわ。だから、もう何も聞かないし、誰にも何も言わないわ。だって、私は時の預言者のお嫁さんになるんだもの」
リクがニッコリ微笑んで頷いて、レインの手を引いてドームの入り口へ歩いていった。
その様子を見ていたブルーリーが、赤い瞳を細めて小さく頷いた事には、気付かない二人だった。
月は、半分ほど雲に覆われ、その輝きを今にも隠されてしまいそうだった。少し前から、月を隠すように少しずつ濃さを増していく雲を、スカイとキートアルはドームから少し離れた大きな木に背中を預け、並んで見上げていた。
キートアルは、自分が仕出かしてしまった事をどうしてもスカイと二人だけで話し合い、謝罪したいとスカイを呼び出し、随分と長い間、ここで話をしていた。
月を見上げたまま、キートアルが呟いた。
「スカイ、この世界の王になると言うのは、どんな気持ちだ? 失敗など許されない使命を課せられて王となるのは……押し潰されそうではないのか……」
スカイは、キートアルと同じ様に月を見たままフッと微笑んだ。
「私は、一度……自分にとって全てだと思い込んでいたものを失った。そう、全て。唯一つ残されていると思っていたシルバースノーさえ、手の届かないものになってしまった。それがだ、今度はソラルディアの王になる運命と共に、一番大切なものを与えられた。俺はそれを守りたい。シルバースノーと過ごす世界を守りたい、それだけなんだ。重圧がないなんて言わないが、その重さと同じだけの、充足感がある。自分の力を全て使って、世界を危機から救いたい。使命の重さと、使命を果そうとする熱い気持ちが、空っぽになった私を満たし、シルバースノーが、それを温めてくれる」
穏やかに微笑むスカイの表情に、キートアルは安堵の溜め息を漏らす。
「そうか、お前の中心はシルバースノーか。私の中心がケトゥーリナであるのと同じ。ならば、私も世界を救うために、ソラルディアの王に忠誠を誓おう。お前が王となる時は、一番に駆けつける。何処にいようともな」
スカイがキートアルの肩に手を置いて軽く揺さぶる。
「おいおい。どうしたんだ。緑の領域の王子、いや今はこの大地の領域との西境一帯の領主でもある君が、簡単に私などに忠誠を誓っては、緑の王は黙ってはいないだろう。軽はずみな真似はするな。まだ私に負い目を感じているのか」
「いや。そんな事では無い……お前がソラルディアの王として名乗りを上げた時、父上は、緑の王は、反旗を翻すかもしれない。いや、反旗を翻すのに決まっている。だが、私には、王が間違いを犯すのが分かっていて、それに従う事など出来ない。ユーリエン兄様とは違う!」
キートアルの話しに、スカイの顔が曇った。
「何の事を言っている。緑の王が反旗を翻すなど決まった事ではないはずだ。君の父上には何度かお目に掛かっているし、その人となりは分かっているつもりだ。物事の道理をわきまえた立派な王ではないか」
キートアルは、小さく首を振ってうな垂れた。
「ここ一年ほどの間に、父は人が変わってしまった様におかしな事を始めた。他の領域や人民に知られぬよう、兄上が必死に取り繕っているが、限界に来ていると思う。父は別人……そうだ別人なのだ」
肩をガックリと落とし、歯をくいしばる様に口を固く結んだキートアルの肩を、スカイがグッと握る。
「それで……君は炎の民に対して、あれ程こだわっていたのか。緑の王は、君の父上は、炎の民に乗っ取られている。そう思っているのだな」
「それしか考えられんじゃないか」
「ヒルート殿は、その事を知っているのか?」
キートアルは、スカイの方へ顔を向けると、一度だけ首を振った。
「兄上には言わないで欲しい。兄上は、生を受けてからずっと重い枷をはめられ、最果ての森に幽閉されていた様なものだ。今更、領域の為になど心を痛めさせるわけにはいかない。あの人には、あの人の想いがある。これからの使命も重いものだ。何も言わず、兄を助けてやってくれ。頼む」
スカイは、考え込んで眉間にしわを寄せる。
「自分が何も知らなかった事を、ヒルート殿は良しとするだろうか。緑の領域で起きている事が、世界の崩壊の一部分であると私は考える。ならば、ヒルート殿に力を借りねばならぬかもしれん……彼に何も伝えないと言うのは愚かな考えではないだろうか。キートアル、聡明な君の事だ、冷静になれば分かる事ではないか?」
キートアルの瞳が見開かれ、肩の力が抜け、大きく溜め息をつく。
「世界の崩壊か。緑の領域だけの問題ではないのだな。私は了見がまだまだ狭い様だ。ソラルディアの王がお前で良かった。私なら、世界はとうに崩壊している」
キートアルの無理に作った笑顔に、スカイはプッと噴出した。
「キートアル、あっは……無理して笑わなくていい。心配しなくとも、ヒルート殿には私から話そう」
そう言うと、スカイはキートアルの肩に腕を回し、がっちりと組んだ。
キートアルもスカイの肩に腕を回して、ぎこちなく笑った。
とその時、二人の前に黒い影がスーッと下りてきた。
「世界の崩壊と、緑の王の乱心は、そんなに面白い話なのか?」
片方の口角をクッと上げて、ヒルートが二人の前に立った。
スカイは、フーッと息を吐くと、皮肉そうな笑みを浮かべるヒルートを真似るように笑った。
「ヒルート殿も人が悪いですね。いつからここにいらしたのですか」
「いつからかな? キートアルがスカイ王子に謝罪している辺りかな」
キートアルが、憤慨したように立ち上がった。
「兄上。それでは私達が、此処へ来て直ぐではありませんか。人の話しを盗み聞きするなど、兄上らしくも無い……」
ヒルートが、また無言で笑った。
「兄上らしくも無い、卑劣な行為だと言いたいのか? そんな事はないぞ。盗み聞きも盗み見も、実に私らしい行為だ。私は結構知りたがりなんだ。多くの事を知り、それについて考えるのは、私の趣味の様なものだ。だが、今回は違う。お前達が、また愚かな真似をするのではと気になったのだ。許してくれ。まあ、それが故に、重要な情報を手に入れたがな。そうだろう、キートアル」
父王の事を言っているのだと気付いたキートアルは、唇を噛んで俯いた。キートアルよりも、頭一つ分背の低いヒルートは、自分の顔よりも上に手を上げてキートアルの頭に手を置いた。
「世界の崩壊に関係がなくとも、父上の事は話して欲しかった。今までの様に、私だけ蚊帳の外に置かないでくれ。お前が私を、兄と慕ってくれるのならな」
キートアルは、ピクリと肩を震わした。
「……」
「何も言わなくても分かっている。スカイ王子との話は全て聞いたと言っている。全て聞いた上で、意見を言わせて貰うなら、もしかすると、炎の民の仕業と思い込むのは性急かもしれんぞ。まだ他に可能性は残っている」
キートアルは、ハッとして顔を上げた。
「そうなのですか? 兄上……申し訳ありませんでした。どうして良いのか見当もつかず、焦ってしまいました。兄上に一番に相談すれば良かったのですね。で、他の可能性とは、いったい…」
ヒルートの眉間にしわが寄り、表情を険しいものに変えた。
「今直ぐにとはいかないが、私が城に行かねばならんだろうな。私が案ずる通りだとすればの話だが」
キートアルとスカイが驚いて顔を見合った。
「兄上が、城に来られるのですか? 何故そんな事まで」
スカイがヒルートと視線を合わせた。
「ヒルート殿、もしかして闇の妖精の仕業だと思っているのではありませんか」
ヒルートは、キートアルに背を向け、夜空を見上げて頷いた。
「まずは、炎の民の村。それから大地の城。その後まで、父上には待っていただこう。大地の領域はかなり前からおかしくなっている。先に大地の城に行かなければならん。キートアル許してくれるか」
キートアルは、しっかりした声ではっきりと答えた。
「勿論です。兄上がいらっしゃるまで、持ちこたえてみせます。兄上は、ご自分の使命を優先させて下さい」
ヒルートは、自分の弟を振り返るといつもの皮肉そうな笑みを浮かべた。
「レイン姫の魔術の腕は確かなようだ。出発の時が来た。さらばだ、キートアル」
ヒルートは黒いマントをひらりと翻し、歩き始めた。
「しばらく空の上だ。ドームまでは歩いて帰ろう」
レインの隠した月夜の中、新しい旅が始まります。