[16]涙の酒
レイン達が去った後の、[雲の城]の王の私室。レインとリクの事を知った父は…
[雲の城]の王の私室ではズカーショラルによって情報がもたらされていた。
大きな岩をいくつも重ねて作った、重量感のある暖炉が目をひく部屋には、その中央に置かれた大岩を切り出し磨き上げたテーブルと、革張りのソファーが二組置いてある。
存在感のある暖炉やテーブルに決して引けを取らない面々が、この部屋を重苦しい雰囲気にしていた。
ズカーショラルの話を聞いてからと言うもの、黙ってソファーに身を預けたまま動く気配が無い雲の王。そんな王を気遣いながらも、何も言えず、王と同じように黙ったままのタナトシュ。王と友人のタナトシュを心配そうにみつめるズカーショラル。
この部屋に誰か別の人間が訪れたなら、直ぐに扉を閉めてしまうだろう程に空気は重かった。レイン達が夕日の中に姿を消してから数時間が経過していた。
探査の魔法によって、レインを含む人間5人と2頭の竜の姿が確認されていたが、身元の解らぬ二人の少年については、ズカーショラルがスカイに対して使った読心の魔術で得た情報だけが頼りだった。
少年達が異世界からやってきた兄弟である事、レインの帰還に手を貸してくれた事、スカイがシルバースノーが来ていたことを全く知らなかった事など、シルバースノーの城への攻撃が始まるまでに、ズカーショラルは全てではないにしろ、かなり多くの情報を掴んでいた。ズカーショラルのもたらしたどの情報よりも、レインとリクに関する情報が、王の心を深く傷つけていた。
情報を聞いてから、王はかなりの時間を眉間にしわをよせたまま無言で過ごしていた。重苦しい雰囲気の中、それに耐えかねたようにタナトシュが言葉を発した。
「陛下。ズカーショラルの心読みの情報だけで全てをお決めになられなくとも良いのではございませんか」
王はタナトシュをジロリと睨んだ。話そうと開いた口が片方だけつりあがる。今まで黙ったまま頭の中で色々な事を考えていた。何故こんな事になったのか、これからどうすれば良いのか、それら全てが、タナトシュの言葉を引き金に、王の口から飛び出した。
「フンッその様な事を言っても慰めにはならんわ。ケトゥーリナの次はレイン。ワシの娘達はどうしてしまったのじゃ。領域の事などどうでも良いのか。親の事など簡単に見捨てられるのか。異世界の人間に熱を上げるなど考えられん。運命じゃと……そんなものは、若さゆえの熱病にすぎん。そんなものの為に、全てを捨てて逃げたのか。馬鹿者が。やっと戻ってきたのじゃ、異世界へなど行かせはせんぞ。二度と会えなくなるぐらいなら、レインがどんなに嘆こうが、捕まえてこの城から二度と出すものか。監禁してくれるわ」
王の唇は、怒りと悲しみにブルブルと震え出した。心の中にあるものを言葉に変える作業は思いそのものを膨れ上がらせる時がある。大抵の場合、言ってしまってから、言わなければ良かったと後悔するのがこんな時のセリフかもしれない。
タナトシュが、そっと席を外した。その姿をズカーショラルは横目で見ていた。ズカーショラルは、気が重くなった。この様な状態で、王と二人きりにされるには互いをよく知らない間柄である。何かを言わなければと焦りながらも慎重に言葉を選ぶ。
「陛下もおっしゃられた通り、若い時の恋は熱病のようなものでしょう。レイン様も心がお変わりになる事もございましょう。ですが変わらぬものもございます。子を思う親の心、親を慕う子の心。それは変わらぬではありませんか。姫様方も必ずや陛下のお心の下にお戻りになられましょう」
王はズカーショラルの言葉に眉を寄せた。確かにそうかもしれない。だが、二度と会えなくなる可能性は残るのだ。
「そんな悠長なことを言っていては手遅れにならんとも限らん。異世界に行かれてからでは遅いではないか。新しい扉を見つけあちらに行ったとしてじゃ、帰ってきたいと思う頃にはその手段が無いかもしれんではないか。ワシは、レインと二度と会えん等、考えるだけでも恐ろしいのじゃ。レインを連れ戻したい。ワシの傍に置きたい、それだけじゃ」
王は掌で顔を覆ってうつむいた。ズカーショラルは王が泣いていると思った。この二日間で、娘を失う恐怖を二度も体験している王が、哀れに思えた。
だが同時に、自分よりはまだましだとも思った。二度と娘から愛される事も無く、親であることを拒絶された自分よりは幸せに思えた。
「陛下。領域の事、城の者達の事を思えば、レイン様の今後はこの城の女王として過ごさせねばならないかもしれません。ですが、陛下の娘と、ただの子供とお考えの時その心が父を忘れなければ幸せとは思えませんか」
ズカーショラルの言葉は、レインを失いたくない一心の王には届かないどころか怒りを買ったようで、掌で顔をぬぐって見上げた王の目はきつくつりあがっていた。
「ズカーショラル。そなたに何が解る。何をふざけた事を申す。レインはこの[雲の城]の王位継承者じゃ。領域や城と切り離して考えるなど出来るはずも無かろう。それに、心がワシを忘れねば幸せじゃと。子も持たぬそなたに何が解るというのじゃ。そんなに簡単に納得など出来はせん。出きるとすれば、それは親ではないわ」
ズカーショラルは王を見つめていた目を逸らし俯いたまま黙ってしまった。王は、目の前で俯いてしまった男を、目を丸くして見つめた。付き合いは深くないものの、何度も会っているこの魔術学校の校長は、いつも冷静かつ自分を曲げぬ性格だと思っていた。己の言った事に絶対の自信があるように見えた。その事から考えても、必ず反撃にあうと思っていた王は次に言う言葉を失ってしまった。
その時、タナトシュがトレーに琥珀色の液体の入ったクリスタルの瓶とグラスを三つ載せて戻ってきた。
「陛下。ズカーショラルには娘が一人おります。ですが、今はいないに等しい。私などより、陛下のお気持ちは、彼の方がよく解るかと存じます。この男は、彼と彼の妻の苦悩の日々を語らせるにはあまりにも辛すぎる現実を今も生きております」
タナトシュは、三つのグラスに琥珀色の液体を注いだ。
「陛下のお好きな古酒をお持ちいたしました。これを手に入れる為にこの度もかなり苦労いたしました。何分、この酒を造っている[雲の精霊]のミトーとマーサの老夫婦は気難しい事この上ない。この前に酒を渡してから一月も立っていないと言われ渡すのを渋られました。とうとう以前から頼まれても断り続けていましたのに、夫婦の孫息子の為に雲の家を作る事を約束させられてしまいました。孫息子夫婦は、嵐雲の季節が終わった頃に子供が生まれるんだそうです。あの精霊の家族は、子供は皆ミトー爺さんとそっくりなイカツイ顔なんです。孫もそっくりに生まれるなら男の子であるのを祈ります。それにしても不思議な事に、あの家族は、ミトーの妻のマーサもそうなんですが、嫁は皆とても器量良しなんです。何処で見つけてくるんでしょうな」
雲の精霊の家族の話を長々と続けた後に、タナトシュは自分も元の場所に腰を下ろした。そして、グラスを王の方に持ち上げる。
「陛下、いつもの様に早く乾杯をして下さらないと飲めないではないですか」
王は、何事も起きていないような素振りのタナトシュにニヤッと笑って見せた。タナトシュの、この態度が王自身に本来の自分を取り戻させていた。こう言う気の使い方をタナトシュはよくする。と言うよりも、王に直接、冷静になって下さいと頼んだところで、聞く耳を持ってくれない事をタナトシュが知っているだけの事なのだが。
さっきはあまりの重圧に、つい要らぬことを言ってしまったのだ。
「タナトシュ。この酒を手に入れるのにそなたが苦労するのは当たり前じゃ。いつもそなたが飲みすぎるのじゃからナ。今宵は飲みすぎるでないぞ。まだ相談せねばならん事は山積みじゃ。さあ、ズカーショラルも飲まんか。先程のことは、知らぬゆえの事と許してくれぬか。侘びの酒じゃ。飲んでくれ」
タナトシュの意味の無い会話に、ズカーショラルも落ち込んでいた自分を元の状態へと戻す余裕を与えられていた。グラスを持ち上げ、頭を下げながらズカーショラルが答える。
「勿体無いお言葉です。ありがたく頂戴いたします」
王の乾杯を合図に、それぞれが酒を口にした。それは、ほろ苦い味がしたが、喉を通った後は不思議と舌の上に甘さが残る。残ったほんのりとした甘さを味わっていると、またほろ苦さがよみがえってくる。
古酒を味わう三人は目を瞑っていた。そして其々に、ほろ苦く甘い思い出を心に浮かべていた。
ズカーショラルが目を開けた。
「これは、[雲の精霊]にしか作る事の出来ない、涙の酒と呼ばれるものですな。珍しいものをいただきました。たしか、嵐雲のなかに溜まった雫を蒸留して酒造りに使うと聞いています。飲めば、あらゆる思い出が心地よいものに感じると聞いておりますが……」
タナトシュが、優しく微笑みながら答えた。
「今の陛下には、何より必要かと思ってナ。お前には辛かったのではないか」
ズカーショラルが、戸惑ったように返事をする。
「ん、いや、思い出は辛くなどないさ。現実の方が余程辛いかもしれん」
「そうか。それでは、今回の追手に細君を出したのは構わなかったのか。離れているのは、あの件以来初めてではないのか」
「いや、離れた方が良かったのかもしれんさ。妻も、それを望んだからこそ追手として自分自身を指名したのだろう」
タナトシュは、ズカーショラルから目を離すと、王の方に向き直って頭を下げる。
「陛下。レイン様の後を追いましたのはこのズカーショラルの細君アキルなのです。彼女は、魔術学校で追尾の魔法を教えております。追尾に関して彼女の右に出る者はございません。ご安心下さいませ。ただ、夫婦の間に多少の問題がございますゆえ、気になっているだけなのです」
王は、困ったような、心配するような顔になった。
「ズカーショラル。そなた達夫婦にとって離れることが良くないのであれば正直に申せ。他の者に替わらせれば良いではないか」
王の気遣いに、ズカーショラルはありがたいと言う様に頭を下げたが、その後、首を横に振って寂しそうに笑った。
「陛下。アキル程の追手はこの世におりません。陛下の大切な姫を追うのは彼女以外にいないでしょう。私でさえ彼女からは逃れられないのです。今まで、彼女の追尾の魔法が叶わなかった逃亡者は、我が娘のみにございます。皮肉なものです」
王は、この先を聞いてよいものか迷っていた。個人的に質問したとしても、王の質問に変わりは無い。答えを強制する事になるのは避けたかった。しかし、レインを追っている者の事を知りたいとも思っていた。そんな王の気持ちを察するように、ズカーショラルが申し出る。
「陛下。私達夫婦の問題をお話ししても宜しいでしょうか。今、陛下にお聞きいただくことは、避けて通って良いものではございますまい。レイン様を追っているのは我が妻なのですから」
タナトシュが王を見つめて頷いた。王も頷き返す。
「そなたが話してくれると言うなら……」
王の控えめな物言いに、ズカーショラルはフッと微笑む。
「はい、陛下にお話しせねばなりません」
王に下げた頭をゆっくりと上げたズカーショラルは、瞼を閉じて、何かを思い出しているかのような表情を浮かべていた。
「涙の酒のせいでしょうか、良い思い出ばかりが浮かんできます。ですが、この思い出は、涙の酒の力を借りても、快い思い出には変わらないでしょう」
ズカーショラル夫妻には、どんな過去があるのでしょうか?