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第九話 使者の到来

「リーザ・マクベリック他、計七名の接近を捕捉。目的、武装状況他現状で不明。」

 その朝は、まるで至極ありきたりの家族が早起きして海にでも出かけようとするような、慌ただしい中にも沸き立つ昂揚が漂うような、そんな朝であった。相馬家の人間たちは皆、生き生きと戦いの準備をし、また楽しい友を迎えるような気分で、なにがしかの事態の到来を待っていた。

 夏の早い朝。肉眼でも辺りの様子が視認できるかはたれどきの時間帯を選んで、マクベリックたちは相馬の屋敷付近に現れた。式神すら使役する相馬家側に対して、可能な限り人目に付きにくく、かつ肉眼の使える時間帯を選択したらしい。だがその接近を誰よりも早く察知したのは、やはり黒、青、白、赤の式神たちだ。九条を経由して、屋敷中に伝令が走る。

「全く、ラジオ体操のお子ちゃまでももう少し遅いわよね。」

「お嬢様、ご存じですか?最近は治安悪化や保護者の負担などの理由から、ラジオ体操も毎朝集まっているわけではないそうですよ?」

「あら、そうなの。まあ、あたしなんてろくに参加したことなかったけどね。」

「お前たち余裕あり過ぎじゃないか?準備は大丈夫なんだろうな?」

 女たちの世間話に、背後から廻廊を早足で歩いてきた森田ケイが口を挟む。当然、そんなことを言われる必要は全くないくらい、教誨師と後見人の準備は整っていた。後は割り当てられた配置ポイントに向かうだけだ。二人が冷めきった目線で森田を睨む。

「うるさいわよ森田。今日の戦い、ま、男子は引っ込んでろって感じよね。」

「ほんとに。もうわたくしなんて九条さんやルーナさんのことを思うとムカついてムカついて、今日ほど引き金が軽い日はありませんのよ、って感じですわ。」

 さすがの森田ケイも、この二人のテンションにはやや怯んでしまった。そのすべては、夕べの水原環の言動に、起因していた。

 とは言っても、水原環は声高に何事かを訴えたりしたわけではない。公安課長と相馬嶺一郎に対し、自らも銃を取って戦いたいと、皆の前で、ただそう申し出ただけだ。心霊戦の経験はもちろん、銃火器の経験もある、動機もある、何より同じ巫女として、人として、敵の行いを許すことはできない。治療を委ねられた者として、ルーナさんは必ず治す、だがその前に、為すべきことがある、神社本庁のエージェントとしてではなく、一人の巫女として、為すべきことがある――。そういったことを、感情的なものを排した口調で、静かに告げた。冷静に、己の怒りを口にした。

 ずっと、北嶋姉弟の様子をモニターしている式神たちの一人、グレーが口を開いた。水原の申し出の背後にあるものを、つぶやくように伝える。

「偽物の神様を無理矢理植え付けられて、ルーナって人は壊れてしまったの。九条がいて、水原さんもいるのに、ほんとの意味でルーナを助けられるのは、もう、リヒトって人しかいないの。そこまで、ルーナは追い込まれてしまったの。」

「感情を動機に戦うことは、戦術としてはよくないことかもしれません。ですが、相馬様にとって、皆様にとって、足手まといになることはないと存じます。兵隊の一人として、私もお使いください。」

 そう再度申し出る水原環に向かって、相馬嶺一郎は笑った。

「まるで騎士道精神だな。」

 馬鹿にされたと思った水原が、初めて見せた明確な感情――怒りで顔を紅潮させつつ嶺一郎を睨み据える。九条や相馬ひな、そして青木はるみまでもが、今にも食いつきそうな目で嶺一郎を見る。一瞬で、屋敷中の女という女を、嶺一郎は敵に回したかのような有様だ。

 ゆらり、と嶺一郎の右手が上がった。皆のその勢いを押しとどめる動きだ。

「――勘違いするな。オレが、誰の父親か、みんな忘れたわけではあるまい?オレの娘は、ほら、そこにいる教誨師だ。感情を戦いの糧にすることを禁じるなら、娘はもっと違った人間に育っているはずだろう?」

 皆が一斉に、相馬ひなの顔を見る。このくそ親父、とか何とか悪態を付いてやろうと思ったが、止めた。父親のセリフに、ひな自身、納得してしまったところもあるからだ。「そう言えばそうだね」という顔で、式神たちも笑っている。場の空気が一気に変わる。

 嶺一郎は皆に宣言した。

「誰が感情を封じよと言った。力ある諸君に頼みたい。か弱き者を護れ、おのれの血と肉と心とで。我々にとってそれがそもそもの発端であり、目的地であるべきだ。おのれの純朴の、何を恥じることがある。何を躊躇うことがある。オレは、そういう諸君でなければ、共に戦う気はない。」

 嶺一郎は、広間に集う者を見回した。そこにいたのは、いつものこの館の主ではなかった。それは、この国の行く末を真剣に案じる、一人の憂国の士であった。

「これから起こる戦い、いや、現に始まっているこの戦いは、小さな戦いに過ぎない。だがその結果得られるものは、決して小さくはない。九条君の自由、北嶋姉弟の平穏、それだけではない。組織解体後のこの国を護るべき者が誰なのか、それを示す戦いなのだ。

 諸君は、センターの兵隊になったわけではないと思うかもしれない。国を護るために戦うわけではない、という思いを抱く者もあろう。だが、オレにとってそんなことはどうだっていいのだ。むしろセンターなど、解体してしまったっていい。本当に大事なのは、思いを込めて引き金を引き絞り、思いのこもった刃を振るって立ち上がる、君たちのような存在があることだ。

 だから頼む。遠慮せず、差し出せるものを差しだして、共に戦ってほしい。今のこの戦いも、これから起こるかもしれない、大きな戦いも、すべては君たち次第だ。オレも杉田も、ずっと長く、君たちが思うよりもずっと昔から、今日のような日を予期して戦ってきた。そして、君たちのような世代が現れることを、ずっと待っていた。

 まずは、明日だ。オレはもう、言いたいことは言った。後は、君たち次第だ。作戦の助言なら、非公式ながら杉田も答えてくれよう。必要なものは、青木に言え。そして明日の夜、全員で、ここで祝杯を挙げよう。」

 広間にいた者たちの受け止め方は様々だっただろう。だが、水原の言動を受けた嶺一郎のこの言葉は、そのまま、檄としての効果を持った。護りたい者をただ護りたい、その感情を恥じる必要はないと、嶺一郎は告げたのだ。

 そして、夜が明けた。

 戦いの朝が、やってきていた。



 相馬邸での戦力の配備状況は、完全に武力衝突を想定したものであった。南棟の屋根の上、東端と西端には、教誨師とその後見人が、アサルトライフル他を携行して待機、北棟にも同様に、二名のメイドが狙撃手として待機していた。邸内の庭園には、森田ケイと執事長西村をツートップとした二〇名ほどの人員が配置されていた。各自南門付近や北東側となる通用門付近を中心に、散らばって待機している。携行する武器はサブマシンガンクラスの銃器と、後は各自の得意とする武器やナイフ類だ。

 今回の作戦における敵の標的は、九条由佳だ。はじめは九条も先陣に立つ案も出たが、敵が生死を問わず九条を回収しようとする作戦に出た場合、リスクが大きい。したがって九条は、当人には不本意ながら、インディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四人と共に、館内部で北嶋姉弟を護衛する役割となった。

 黒、青、赤、白は、引き続き屋根の上からの状況監視、そして、濃紺、深紫、薔薇、明灰は、常にどんな戦場でもそうであるように、切り込み隊を志願した。ふだん教誨師も愛用しているH&K社のMP5を肩に下げ、相当量の弾薬を身につけて、四柱の小さき神は南棟前の芝生の上にいた。ふだんはからかわれ役の教誨師も、銃撃戦に関しては式神たちに一目置かれているらしい。迷彩服のデザインも、教誨師のそれと共通していた。

 薔薇が南棟正面の玄関の方を振り返る。

「たまき、準備はいい?」

「もちろん。」

 玄関から、迷彩服に防弾ベストを身につけ、後ろで長い髪を束ねた女性が歩み出てきた。昨夜、参戦を志願した、水原環だ。水原の装備はだが、デザートイーグルのみのようであった。要は手の中に拳銃が一つ、それだけだ。慣れた手つきで、作動の確認をする。

「ほんとにそれで?」

「ええ。これで十分。私は九条と同類だから。銃はサポートに過ぎないの。」

「了解。よろしくね。」

「こちらこそ。」

 屋根上の式神たちから、引き続き情報が届く。念話が受けられる者は直接、受けられない者は九条の無線を聞きつつ対応する。

「敵七名の他に不審な存在は確認されず。敵は現在南門まで七〇メートル、徒歩にて移動中。リーザ・マクベリック以外の者に霊能者・サイキック・シャーマン等の兆候は見えない。」

 やがて、マクベリックたちは式神たちの霊視圏から、さらに電磁波でのスキャンが可能な域にまで接近してくる。

「武装判明。全員、拳銃にナイフ程度の装備。また、体躯的に大柄な者が多い。格闘技等のスキルを警戒すること。」

「南門門扉まで、二〇メートル。作戦開始ラインに到達。相馬様、ご指示を。」

「諸君、よろしく頼む。」



 リーザ・マクベリックは、式神二人の来訪の際に銃弾を撃ち込まれたことを、そのまま本部に伝えていた。事の早い決着をマクベリック自身が望んでいたこともあり、敵が強く動いたことを、本部にも印象づけたかったのだ。また、それと併せて、敵がマクベリックの使役する妖精憑きを強奪したことも伝えていた。自らの失点ともなりかねない事態だったが、やはり事の早い落着を優先した。

 しかし、時差の関係もあってか、または他の要因が働いたのか、本部からの返事はなかなか届かなかった。日本国内の工作員の大半が品川に集結したのは、夕方六時過ぎであったが、その時点ではまだ、本部からの通達はなかった。

「リーザ、君がトレースしたというリヒト・キタジマの移動先だが、本当にここで間違いないのかね?」

 英会話学校の講師として二〇年近く日本にいるジョセフ・リープスティーンという初老の男が、地図上の一点を指さしつつ、そう尋ねた。

「場所は、間違いないわ。ただ、レーイチロー・ソーマというこの家の主の正体を含め、この家がどんな家かはまだ調べられていない。本部からの連絡待ちね。」

「そうか……。もし間違っていたなら申し訳ないのだが、私の記憶では、その相馬家は旧華族の家柄で、戦前戦後を通して日本の防衛に力を尽くしてきた、そういう存在のはずだぞ。」

「愛国者の家ってこと?」

「少なくとも、私の知っている相馬家は、そういうファミリーだ。」

 それを聞いて、マクベリックはすぐさま国際電話を掛けた。相手は、CCLの超ハッカー、サッカーだ。

「……あたしよサッカー。頼みがあるわ。CCLで極東の情勢に詳しい人物を教えて。それで、何あなたまだ寝てたの?そっちだってもう昼近いでしょ?……そう、それで、いい?日本のソーマ・ファミリーと繋がりがあるメンバーを探し出して、ソーマ・ファミリーの正体を聞き出して。……そう、このちっぽけな国の元貴族っていう話よ。関連しそうな属性情報は、第一にorganの元メンバー、次が公安、その次は、そうね、念のためだけど、centreね。その辺りのメンバーにソーマという人物がいるかも、併せて調べて。これはあんたが直接調べてくれたっていい。……よろしく。」

 やがて、日本時間の午後九時を過ぎた頃、サッカーから連絡があった。

「追って本部から正式に連絡が行くはずだけど、本部は戦争を選んだ。もう、事はクジョーを奪還するかどうか、というだけのレベルではなくなっているんだ。」

「どういうこと?」

「レーイチロー・ソーマは、我々CCLとも繋がりや協力関係を持つ、centreの上級幹部だったのさ。それが正体を隠して取引を持ちかけるなど、うちの上層部が許すはずがないだろ?中で何か揉め事があったのかもしれないが、所詮ソーマはcentreの人間だ。organの解体と同時期に弱体化したと言われている、先達ても重要度ランクがまた引き下げられた、あのcentreなんだよ。だから、戦争さ。まずは手始めに、連中が縋りつくA級サイキック、ユカ・クジョーを奪還して来い、その上で、しかるべき時期に、しかるべき方法で叩き潰す。そういう話になるだろう。こちらの戦力分析から見て、怖いのはクジョーくらいだからね。」

「……分かったわ。全く私も損な役回りね。これで彼女を奪還できなかったら、全部私の責任になるんでしょ?最初から、向こうの言うとおり金銭トレード話にしてくれればよかったのに。そうすれば、事態はここまで拗れなかったわ。」

「その嘆きは分かるけど、あっさり君にトレースされるような連中なんだろ?」

「罠、だったら?」

「それは、……我々の負け、かもね。」

「気楽に言ってくれるわね。……まあ、いいわ。とりあえず、ユカを連れて帰れば今回のタスクは終了ってことにさせてもらうわ。後のことは、知らない。」

「作戦はあるの?」

「ふふ、正面突破かしらね。」

「罠なら?」

「あたしが聞きたいわ。」

「補足だけど、クジョー奪還に際して、その生死は問わないってことになるかも。」

「……分かったわ。ま、他人の命より自分の明日よ。情報ありがとう。」

 相馬家側の戦力の詳細が不明な現状では、通常の火力や武力のみに頼る方法では、マクベリック側に確実と言える作戦はなかった。だが、マクベリック自身、戦場にも何度か身を置いたことがある身であった。武力では確実な答えは得られなくても、己の知力と霊力とで、状況などいくらでも変えられる。そうした自信はあった。

 そして、相馬家側がこの件について、まずは交渉を求めていたことも、この厳しい状況の中での作戦上の選択肢を増やしてくれていた。

(正面から乗り込んでも、問答無用で射殺、ということは、相手はできない。なら、私の能力が使える。あの式神でも、誰か別の人間でもいい、こちらから制御してしまえば……。)

 そう考え、CCLのメンバーに作戦を告げた。本部の指示は絶対だ。可能性があるなら、それに賭けるしかない。早々にメンバーの意志は束ねられた。



「確認だけど、銃は抜かないで。ぎりぎりまで、向こうが反応するまで、このまま歩いていくわよ。第一の狙いは、邸内への穏便な侵入だから。よろしい?」

 鉄製の、時代がかった門扉の向こうに、相馬邸の庭園と南棟の建物が見えていた。当然相馬家側は、何らかの備えをしているに違いない。その中を歩いていくことは、極度の緊張を強いることであった。もちろんここにいるのはCCLの強者たちだ。それだけで取り乱したりすることはない。

「でも、奇妙ね。」

「ん、どうした?」

「普通なら、見張りを立たせるでしょ?それが、見あたらない。」

「君の眼で視てもそうなのか?」

「ええ。屋敷の敷地内で人間が動き回っているのは分かるわ。でも、敷地の外には誰もいない。監視カメラも、地域が設置したもの以外、設置されていない。」

「まさか、ソーマファミリーのところへリヒト・キタジマが移動したのには、何か別の事情が?単なる交遊目的とかの?」

「そんなはずは。式神の少女に銃を突きつけられ、目隠しをされていたわ。第一姉のルーナが連れ去られているのよ。」

「そうか。ならばリヒト・キタジマもソーマファミリーも、自分たちが事件の渦中にあることは当然、理解しているはずだね?」

「ええ。そして、シキガミの姿や顔立ちからすると、私の部屋に鉛玉を撃ち込んでいったのも、リヒト・キタジマを連れ去ったのもすべて、同じ連中よ。」

「分かった。ではなぜ警戒をしていないんだ?」

「……それは、連中に聞いてみましょう?」

 マクベリックたちは、相馬家南側正面の門扉の前に到達した。誰も現れないため、呼び鈴を探そうとしたところで、七人の背後に気配があった。

「あなた方、懐に拳銃をお持ちですね。そんな武器を持たれた方が、この屋敷にどのようなご用ですか?」

 そう、女の声が響く。リーザ・マクベリックがその声の方に振り返ろうとすると、後頭部に硬いものが押し当てられた。

「勝手に動かないで。こちらも当然、武装しています。」

 そろりと手を挙げた七人の正面に、サブマシンガンを提げた四人の式神たちが回り込む。リーザ・マクベリックに背後から銃を突きつけているのは、水原環だ。

「あらあなたたち、四つ子だったの。」

「これまでにお会いした者たちとは違いますが。それで、ご用件は?」

 マクベリックの問いに答えた明灰以外の式神たちは、遠慮なく工作員たちの懐に手を入れ、手際よく拳銃や武器を取り上げていく。空中に放り投げるようにして、どこかに飛ばしていく。

「そちらから申し出のあった件について、取引に参上したってところよ。上に、伝えてくださる?」

「了解しました。少々お待ちください。」

 水原が無線で連絡を取り、一度、式神たちと視線を交わした後で、マクベリック等に答えた。

「許可が出ました。お入りください。」

 式神たちによって門扉が開けられた後、七名の来訪者は、相馬家の敷地へと足を踏み入れた。このとき七名に向けられていた銃口は一〇以上。始末する気なら瞬時に始末できる状況で、皆、待機していた。九条の今後を考えれば、やはり取引が成立した方がよい。相手がそれでおかしな振る舞いをすれば、そこで改めて、戦争を始めればよい。それが相馬家側の作戦の第一段階であった。

 屋上の式神たちは、細心の注意を払いつつ、新たな敵勢力の出現の有無を監視している。屋根の上の狙撃班は、その式神たちの余った霊力によってマスキングしてもらいつつ、もうずっと、マクベリック等に照準している。庭園内に配置された人員も、物陰から常に照準している。

 五メートル、一〇メートル、一五メートル。

 一行はまっすぐ、南棟の正面玄関を目指して進む。表向きは何事もなく、異様に静かな夏の朝の庭を、七名の訪問者と水原環、そして四人の式神が歩いて行く。

 やがて、南棟玄関前の、石造りの階段まで五メートル、あとほんの数秒で、先頭の者が建物内に入るというところまで、一行は進んだ。そこで、異変が起こった。

「ぎ、がはぁ……」

 隊列の最後尾、水原のすぐ前を歩いていたリーザ・マクベリックが、叫びとも呻きともとれない声を発して地面に倒れ込むと、そこから起きあがることもできず、地面を這いずり始めた。必死に両手の指を突き立て、めちゃくちゃに地面を引っかくが、焦れば焦るほど、パニックが進行して行く。北欧系の血の入った端正な貌が、醜く歪む。

「どうしたリーザ!?」

 リープスティーンが駆け寄ろうとするが、式神の少女に阻まれる。しかし少女たちも、事態の急変に戸惑っているような表情を浮かべている。すると、皆の疑問に応える声があった。

「――ふん、どうしたもこうしたもねえよ。おっと、オレの英語、通じてるか?」

 答えたのは、マクベリックではなかった。その声の発信源は、水原環だった。だが、恐ろしく低い声。その場に居合わせた者たちが、一斉に水原の方を振り返る。

「その女が、環ごと、オレを使役しようとしやがったんだ。このオレをだぜ?」

 一歩、また一歩、声の主がマクベリックに近づく。マクベリックは泣き叫びながら、その場を離れようと、必死に地面を這いずる。だが、式神たちすら、もはやその声の主――水原環でありながら水原環ではない何者か――には、近づけなかった。そこに異常な何者かが、顕現していた。

「大方、相馬と交渉する振りをしてここに入り込み、屋敷内の連中を使役して状況を逆転、九条を奪還する腹だったんだろうが?違うか?環でもいい、そこの式神でもいい、そういう作戦だから、銃も簡単に渡したんだろう?」

 また一歩、そしてさらに一歩、水原がマクベリックに近づく。

「どうだ?それで合ってるか?」

 地面にしゃがみ込み、マクベリックのウェーブのかかった、金髪と言うには少しだけ暗い色合いの髪を掴み、ぎりぎりとつるし上げる。

「合ってるかと聞いてんだぜこっちはよ。」

 涙と鼻汁で顔をぐちゃぐちゃにしながら、リーザ・マクベリックは何度も首を縦に振った。実際にはマクベリックにしか聞こえないはずだが、頭皮から髪が引き抜かれる音が、周囲の者にも聞こえた気がした。

 水原は立ち上がり、右手に掴んでいたマクベリックの髪をいきなり離した。そして、べしゃりと崩れ落ちたマクベリックに、語りかけた。水原の無線は、門扉の前のやりとり以降、ずっとONのままだった。屋敷中の人間が、聞いていた。

「お前自身、妖精憑きじゃねーか?なのに何故、同類をあれほど痛めつけることができる?オレの家主のこの女は、本気で怒ってたぜ。――オレはその思いに応えるために、ちょっと出てきてやったってわけさ。

 親切に教えといてやるよ。そうさ、これでもオレは慈悲深い方なんだぜ。お前のワザは、子供だましなんだよ。相手の霊格が、自分の妖精の霊格より低くないと、どうにもならないんだろ?それに、だ。お前は自分自身を修練しようって発想は持っていないらしいが、この女は、環は違うんだぜ。未熟ながら自らを鍛えて、このオレに応えよう、渡り合おうとしてるんだ……。確かに結構な格の妖精様らしいが、憑いてるもん頼みのお前とは、心がけが違うんだっての。勝負しようにも、端からお前に勝ち目はなかったのさ。

 さて、もうこの辺にしとこうか。しゃべりすぎたぜまったくよう。たかが妖精憑き相手に親切過ぎってもんだ。こっちはよう、ちょっとした怨霊クラスなんだぜ?

 今から、お前の背中の羽根を、毟る。それで、終わりだ。」

 水原が、いや、水原に宿る荒御霊そのものが、顕現し、行動していた。水原が長年封じ続けてきた荒ぶる魂が、水原のナードマスターに対する怒りをきっかけに、そして相馬嶺一郎の言葉を触媒として、解放されてしまっていた。

「おい、そこの男。お前、爆薬か何かでどうこうしようとしてるだろう?人間だもんなあ。頭使って、どうにかしたいよなあこの状況。だがな、無理だ。素直に、武装解除した方が身のためだぜ?――さて。」

 水原環がリーザ・マクベリックの背中を右脚でとんと踏みつける。そして、その左右の手のひらで、リーザ・マクベリックの背中を、すうと撫でた。

 マクベリックの絶叫が、辺りに木霊した。

 それは、生きながら、気も失えぬままに腕をもがれるのと同じ、激痛だった。

 式神たちの中には、眼を閉じ耳を塞ぐ者がいた。霊視のできる者が視た光景は、肉の眼しか持たぬ者の見た数倍の、地獄であった。

 邸内の誰もが、あまりの出来事に、金縛りにでも遭ったように身動きがとれなかった。

 だが、その中で、たった一人。

 CCLのジョセフ・リープスティーンだけが、行動を起こした。彼は、CCLにおいては一傭兵に過ぎないマクベリックとは異なり、生粋のCCLメンバーだ。己の信仰心に懸けて、リープスティーンはその身に巻き付けたプラスチック爆薬に起爆装置を挿す。本来は、相馬家を撤収する際の担保として持ち込んだ爆薬であった。ボディアーマーの外観だけを残し、内部を総て爆薬で充填したものを、リープスティーンは装着していた。最初から、防弾効果など捨てている。それをそのまま、身に纏ったまま、恐れに言うことを聞かぬ自らの脚を叱りつけ、水原へと、いや、厳密には、水原の姿をした悪霊へと突進する。

 後は、スイッチ一つのみ。

 スイッチに指がかかっている以上、狙撃はできない――。

「かはは、いいねえ、信仰者ってのはそうでなくっちゃな。だが、屋敷を護るとなると、環が危ないな。さて――」

 ごどん、という鈍い衝撃波が、辺りの大気を震わせた。誰もが、甚大な被害を覚悟した。



 南棟の窓ガラスのあるものは砕け散り、またあるものは窓枠ごと外れた。衝撃波が屋敷内を抜けていく。だが、その後に襲い来るはずの爆風は、いつまで経っても来なかった。そして、最初に口を開いたのは、濃紺ら、庭にいた式神の少女たちだった。

「……どうして……?」

 次は、水原に宿る者。

「く、余計なことを。――何?お前、邪神か?面白いな。」

 式神たちと、水原の眼差しの先に、一人の少年が立っていた。

「やれやれ、何とか間に合いましたね。――初めまして、水原環さん。いえ、ここは」

「おい邪神、気安くオレの真名を呼ぼうとするな。その意味くらい分かってるんだろう?」

「申し訳ありません。そうでしたね。それと、自分は邪神ではありません。元邪神、ではありますが。」

「そうか、なるほどな。ま、オレにはどっちだっていいんだがな。」

 この状況にはまるで似合わない、不気味なほどの和やかさで、水原に宿る者と、どこからか現れた少年とが会話する。自らを怨霊だと言う者と、元邪神だと言う者とが対峙している。だが、そうしたことは、当人たちにはどうでもいいことのようだ。まるでふつうの人間どうしの日常の会話のような気安さで、怨霊はさらに話しかけた。

「そうそう、そろそろオレは帰らなきゃならねえ。あと、頼めるか?」

「それはこの館の主におっしゃればよろしいのでは?」

「そうじゃない。環がこれ以上消耗しないように、うまく導いてやってほしいんだよ。お前なら、簡単だろう?」

「お優しいことで。」

 元邪神だと告げたその少年は、「簡単だ」ということは否定しなかった。ただ、荒御霊の気遣いに、少し呆れたような様子を示しただけだ。

「任せたぜ。」

「さて、どうしましょうか。」

「ふん。」

 どさり、と音を立てて水原環の体が崩れ落ちた。そこで初めて、屋敷中の人間の呪縛が解けた。

 リープスティーンは、確かに爆発したはずの爆薬や起爆装置の破片を前に、へたり込んでいた。爆発の瞬間、その爆心から僅かにテレポートさせられ、その上で爆発のエネルギーをさらにどこか別の次元に飛ばされた。言葉にすればそれだけのことだが、それはまさしく奇跡だった。リープスティーンの信じる神ではなく、異教のデーモンが起こした奇跡――。

 森田と執事長とが中心となり、速やかに七人を拘束していく。この作戦の中心となるエージェント、リーザ・マクベリックはすでに使い物にならず、長老格のジョセフ・リープスティーンも腑抜けたような状態だ。拳銃すら取り上げられている残り五名に、もはや抵抗するすべはなかった。

「さて、ここには見知った顔がたくさんありますねえ。」

 少年はにこやかにそう言うと、だが、その場で水原の体を抱き起こし、額に右の手を添えた。それは、洋の東西を問わず古今を問わず、癒しの光景として描かれる姿だ。その周りに、やがて一二人の式神と九条由佳、そして教誨師とが集った。

「賀茂くん、なの?」

 九条由佳が問う。

「ええ。たぶん。」

「たぶんて何よあんた。」

 思わず教誨師が口を出す。

「私はもはや、人間でも邪神でもなくなってしまいました。何と名乗ればよいのか、少し戸惑いがあるのですよ。」

「ふうん。別に、記憶が繋がってるなら、あんたはあんたでいいんじゃないの?……でも、やっぱり復活してきたわね。」

「ええ。教誨師さん、あなたのおかげです。」

「勘違いしないで。あたしはあんたごと、邪神を斬ったつもりだったんだから。」

「まあ、そういうことで結構ですよ。実際、これでもほんとに滅しかけましたから。」

「……どういうこと?あのとき確かに、教誨師の鬼斬りで、……」

 九条由佳は、未だドクター――賀茂秋善の復活できた理由が分からない。

「ま、ね?邪神のコアは斬ったんだけどさ。ドクターの方は、あたしトドメ刺した記憶がないんだよね。……ドクターって、式神ちゃんたちと同じなんでしょ?体のつくり……。あのときはどさくさで、その後もあたし、すごく、その、落ち込んだりもしてたから、しばらくすっかり忘れてたけど。こっち戻ってきてから、もしかしたらって、ちょっと思ってたんだよ。……未練がましいって思われたくないから、黙ってたけどさ……。」

「だって、何もなかったじゃない?あのウタキには。何も、残ってなかったじゃない。」

 九条の声には戸惑いが、感情のぶれが直截に現れている。教誨師が、それを受け止めるように頷く。

「そう。でもそれ、おかしいでしょ?」

 そう言われて、九条由佳はようやく、事の次第を理解したらしい。

「全く、どんだけ人のこと、って言ってやりたいくらいなんだけどさ。あたしとしては。」

 教誨師はそこまで言って、くるりと賀茂や九条たちに背を向けた。

「ま、これ以上はあたしの出番じゃないと思うから。」

 そう言って片手を振りつつ、南棟で割れたガラスの片づけをしているメイドたちの方に向かって、歩き出した。

「あれでもかっこつけてるつもりみたい。」

「きっとまた、泣いてるわよ。」

 ベージュと薔薇がそう言うと、遠くの方で「うるさい」という声が聞こえた。

「それにしても、どうやって戻ったの?」

 九条が尋ねる。

「要因は三つですね。一つは私という存在が式神たちの再生ネットワークに繋がれていたこと。二つ目は、私の再生と言いますか、邪神化が完全に終わる前、融合し終わる前に教誨師が斬ってくれたこと。これは、由佳が陣を張って、再生を遅らせてくれたからでもありますね。最後の一つは、あのウタキがまさに聖地中の聖地だったことです。私のような者でも、いのちを差し出せば再生できる、そんな声が、ウタキの下から聞こえた気がしましたよ。……っと、私の話はこれくらいで。水原さんがお目覚めです。」

 水原環は、夏の朝の青い空の下、見知らぬ少年の腕の中で目覚めた。その自分を、同じ顔が一〇以上、覗き込んでいる。騒ぎが終わってようやく目覚めたかのように鳴き出した蝉の声が、耳に届く。

 その声を聞きながら、再び、眼を閉じた。涙が、目尻から流れ落ちる。

「私、何て失態を……。」

 自らの使命を理解してからというもの、水原は常に冷静沈着であり、その微笑みも真摯な眼差しも、すべては完成された人格の現れであるかのようにして振る舞ってきた。実際、巫病を克服したいつかの春以来、一度もそれが破綻したことはなかったのだ。海外での活動の際も、もちろん国内のどんな作戦においても、水原環は水原環であった。それが今回、あっさりと破れた。気が付けば、負傷者こそ出なかったものの、相馬家の建物には、南棟を中心に被害が出たし、今自分を抱き抱えてくれているこの少年が到来しなければ、敵・味方を含め、死傷者も生じていたかもしれない。荒御霊にも何か手はあったのかもしれないが、いずれにしても、相馬家側の人間を危険に晒してしまった事実は、もはや消し去りようがなかった。

 荒御霊の支配下で、その荒御霊自体の考えによるものか、状況の把握だけは強制的にさせられていた。手も足も出ない、出せない状況で、見守ることを強要された。だから、事の顛末のすべては、水原自身の知るところでもあった。

「水原君――」

 そう、声がした。水原にはその声が誰のものか、すぐに分かった。閉ざしていた瞼を開き、ドクターの腕の中から身を起こし、姿勢を正そうとする。それを、ドクターと九条が押しとどめる。声の主も言った。

「まだ無理するな。そのままでいい。」

 目礼の後、横たわったまま、水原は言った。

「相馬様……。私、自らの制御もできず、皆様にご迷惑をおかけしてしまいました……。昨夜、足手まといにはならぬと申し上げたばかりでしたのに。」

 相馬嶺一郎は、水原のすぐ脇に片膝を着き、顔を覗き込むようにして、にこやかに語りかけた。

「何か勘違いされているようだが。あなたの御霊ごりょうが語ってくださいました。誰が敵のエージェントに使役されても、何ら不思議はない状況だったと。それがそうならず、敵の狙いを未然に封じられたのは、あなたが志願してくださったからだ。銃を握り、式神の皆さんとともに、最前線に立ってくださったからだ。私はそのことの礼を言いたくてここにいます。いいですか?」

 水原環は、何も応えられなかった。相馬嶺一郎の気遣いが、痛いほど伝わった。

「ありがとう。」

 そう、嶺一郎は言って、右手を差し出した。水原が戸惑っていると、九条が小声で「ほら」と促した。水原がそっと右手を差しだし、二人は固く、握手した。そして、その握手に左手を添え、ゆっくりと頷くと、嶺一郎は立ち上がった。

「それから、こちらは、」

「賀茂秋善と申します。お嬢様にはいろいろとお世話になっております。」

 横にいた九条由佳が一瞬はっとするほどの会話だが、嶺一郎も賀茂もにこやかに笑っている。

「ドクター、という名をお持ちの方ですね、たしか以前は、組織に属していらした。」

「はい。」

「こちらこそ、娘がお世話になったと聞いています。不思議と言えば不思議な巡り合わせですが、この度のご来臨、感謝申し上げます。水原君を始め、皆を無傷で救ってくださり、いや、お礼の申し上げようもないくらいです。」

「相馬様のお考えと、私の望みとが、一致しておりましたので、僭越ながら参上いたしました。」

「九条君のことですね?」

「はい。」

「CCLがどう出るかはまだ分かりませんが、これでもう一度、金銭による取引を持ちかけようと思います。今度は、いくらかはこちらの言葉も、聞いてもらえることでしょう。」

「よろしく、お願いいたします。」

「あなたのような霊格の方が、私のような者に頭を下げられることはありません。ですがそのお気持ち、ありがたく受け止めさせていただきます。――ところで、」

 そう言って相馬嶺一郎は、賀茂秋善に、客分としてしばらくこの屋敷に逗留することを持ちかけた。

「お言葉、ありがとうございます。先のことは何とも分かりませんが、私も、できれば九条さんや式神たちと少し、語り合いたいこともあります。」

「何よりです。いや、無理にお引き留めするわけではありません。お望みの時には、いつでもお発ちください。」

「お気遣い、ありがとうございます。」

「いえ、それでは私はこれで。水原君、ほんとうにありがとう。今日の戦いは、君の戦いだったよ。」

 そう言って、もう一度、微笑みを浮かべ、相馬嶺一郎は立ち上がった。

 執事長西村がそこへ歩み寄り、何事かを主に耳打ちする。一つ頷くと、嶺一郎は厳しい顔に戻った。ここから先は、言わば大人の戦い、CCL上層部との直接のネゴシエーションが待っている。歩きながら指示を出す。

「娘に、水原君らをねぎらうように言ってくれ。家の者たちも、昨夜から緊張の連続だったと思う。交替で、休憩を取るように伝えてくれ。もう皆、同志だ。広間で一緒に、朝食を摂ってもらおうか。娘にそう、言ってくれ。杉田の送迎と、それから、向こうのエージェントの管理は、お前が手配してくれるか?」

「承知いたしました。」

「しばらく執務室には、誰も入れるなよ。」

「はっ。」

 西村は頭を下げると、まずはメイドたちに混じってガラスの破片を片づけていた、この屋敷の娘の元へ、小走りに駆けよった。



 事後の処理は、日本時間の正午までに、ほぼ決した。

 今回の作戦の損害について、相馬家側は一切補償を求めないこと、作戦に関わったCCLのメンバーは、即日、都内で解放すること、そして、九条由佳の移籍に関しては、五〇万ポンドでの金銭トレードとすること、この三点が処理の基本方針となった。これではまるで敗戦処理のようだが、と、嶺一郎は後に苦笑したと言うが、確かにそれはそうに違いない。結果として相馬家は、八〇〇〇万円近い金を九条の移籍金として払うのだ。

 しかしそれと同時に、相馬嶺一郎とセンターが得たものも大きかった。

 実際のところ、九条由佳にはそう簡単に値は付かない。場合によっては九条一人に数億円の値が付いても仕方のない人材だ。それを、その貴重な人材の流出を、抑えることができた。九条由佳もいつかはセンターを離れるかもしれないが、少なくとも現時点で、CCLのような国外のやっかいな組織に回収されることだけは避けられたのだ。それを思えば、この移籍金は破格の金額とも言えた。

 さらに、今回の一件については、「相馬家の客人を護るためのやむを得ない行動であり、センターには一切関わり合いのないものである」という一言を、CCL側に認めさせた。このことにより、センターとCCLの協力的な関係は継続し、センター内部で非難や不満が生じることも回避できた。

 そしてもう一点、この小さな戦いでセンターが得たものがある。

 神契東天教下にあった「組織」壊滅以降空席となっていた、この国の民間勢力による霊的な防衛網の中心は、この小さな戦いにより、センターの預かるところとなった。もちろん往時の組織と比べれば、センターの霊的な戦力はまだ、大きくはない。だが、事の次第はともかく、CCLの送り込んだエージェントが手も足も出ずに倒され、その上、邪神級の守護者を召還したとなれば、センターの実力は、CCLも認めざるを得ない。元々、武力的な工作や暗殺、情報の収集と集積の分野では、センターの評価は高いものであった。そこに、オカルティックなスキルを備えたメンバーが加わり、同様の海外組織のエージェントを撃退したとなれば、今後、この世界での、センターのプレゼンスは増してくる。

 相馬嶺一郎の思い描く、霊と武の両面に渡ってこの国を防衛する新しい組織、公安にも、宗教界にも強い繋がりを持つ、民間人による新しい組織がここに、生まれ出ようとしていた。



 その日、北嶋ルーナは、昼過ぎから再度、水原環のケアを受けた。水原自身、一時的に暴走状態にあったわけだが、さすがに日頃の研鑽が違う。昼前にはすっかり復調し、ルーナやリヒトと談笑しながら、マクベリックに痛めつけられたルーナに対するカウンセリングと霊力の補充とを、難なくこなした。神懸かりの痛みと悲哀とを十分知る者どうし、まさにこれ以上のケアはなかった。

 やがて北嶋ルーナとリヒトの二人は、青木はるみに連れられて、この館の当主と対面した。相馬嶺一郎は、北嶋ルーナがどんな争いに巻き込まれたのかを簡潔に語り、また謝罪した。そしてもはや危機は去ったこと、いつでも自由にこの屋敷を発ってよいが、できれば晩餐には出席してほしいことを伝えた。

 北嶋ルーナとリヒトはともに、相馬や水原等への感謝の意を述べた。また、桜井というメイドに対して暴力を振るってしまったことを詫びた。嶺一郎が青木に確認すると、桜井はもう、いつも通りの様子で晩餐の支度に携わっているとのことだった。

「わたし、あの、恥ずかしいところをお見せして、と水原さんにお話ししたんです。そうしたら、あなたのあれが恥ずかしいのだったら、私なんて舌を噛んで死ぬか喉を突いて死ぬか、そんなことになりますね、とおっしゃって。」

 ルーナがそんなことを、嶺一郎に語って聞かせた。あの苦しみと恐怖を分かり合える人と出会えて、うれしかった、そんな気持ちを伝えたかったのだ。嶺一郎が応えた。

「そうです、あなたは恥じる必要は全くない。あなたのその悲しみを救いたい、あなたや九条君のために戦いたいと言った水原君に、この屋敷の女すべてが賛同し、立ち上がったと言ってもいいのです。あなたがもし、笑顔でこの屋敷を後にできるなら、また多くの者が喜ぶことでしょう。」

 相馬嶺一郎のこの言葉には、嘘も誇張もなかった。それがそのまま、北嶋リヒトの胸を打った。ただそのことに、リヒトは頭を下げた。

「リヒト君、とお呼びするのは僭越ですが、今だけは許していただきたい。」

「はい。」

「いいかリヒト君、君は、組織を束ねる立場だ。おいそれと頭など、下げてはいけない。君が頭を下げていいのは、教団と社を背負い、それを護るため、そんな場合だけだ。だが、信者の方にも、会社のどなたにも相談できない、たとえば今回のような問題が起こったときは、遠慮なく私を頼ってくれていい。リヒト君がどう思っているかは分からないが、私はそんな風に思っています。」

「ありがとうございます。」

 頭は下げず、顔を上げたまま、北嶋リヒトはそう応えた。そう、それでよい、というように、相馬嶺一郎は笑って頷いた。嶺一郎の執務室を下がった後で、旦那様は、女性に優しくてまっすぐな若い方に弱いんですよ、そう青木はるみは耳打ちをした。ルーナがそれに、微笑みで応じた。



 九条由佳と賀茂秋善、そして一二人の式神たちは、広間で賑やかに朝食を摂った後、初めて、そう、全員が初めて揃った状態で、ゆっくりと話をすることができた。相馬邸の裏手、こんもりとした樹木の中に設えられた四阿で、二人と一二人は、ゆっくりと語り合った。夏の午前の木陰を渡る風の中、再会の時を皆で噛みしめた。

 後で教誨師がベージュからこっそり聞いたところによると、ふだんはほとんど感情を見せない黒が、ずっとぐすぐす泣いていた、という。錬成されていきなりリーダーだと言われ、親であるドクターを体内に宿しもした。ウタキではそのドクターを産み落とすために、自らの体を内側から破られた。それでも、親であるドクターをどこかで、慕っていた。もちろんそれは、式神全員同じことではあったが、その中でも黒は特別、ドクターに対して複雑な想いを持っていたらしい。

「黒ったらさ、ドクターに頭撫でられて、苦労をかけたねとか言われたら、それだけでもう泣いちゃってさぁ。」

 そう、ベージュは教誨師に言った。不満そうな声だった、

「やきもち?」

 そう聞き返すと、ベージュはにっこり笑って、

「ええ。悪い?」

 そう、言い返した。

「悪くないわよ。あたしだって、あんな親父だけど、たまに誉められるとうれしかったりするし。」

「そうなんだ。」

「うん。きっとそんなもんなんだと思うよ親子なんて。ただ、あたしは……」

「どうしたの?」

「ううん。いつかはきっと、親父とは衝突すると思うんだ。親父はほら、何ていうの、現実主義で実務的な国粋主義者っていうか、まあ、とりあえず、愛国者だからね。」

「あなたは、違うの?」

「うん。少なくとも、あたしが護りたいのはあたしの世界。この国じゃないし、たぶん、この国の文化とか伝統とかでもない。そんなあやふやなもの、護りたいとか思えないしね。あたしは、……そうね、もしこの国が、たとえばあなたを排除しようとするなら、あたしは国を敵に回す。そのとき、親父がどう判断するかは分からないけど、親父に銃口を向ける覚悟も、いつかはしないといけないかも。まだ、今は無理だけどね、そんな覚悟なんて。あ、ごめん。こんな話、つまんないね。」

「ううん。でもそっか。――そういう日が、来ないといいね。」

「うん。……ありがと。」



 夕刻、晩餐の席。広間に現れた相馬嶺一郎は、九条の移籍が正式に認められたことを告げた。その契約の内容は一切告げず、ただ、にこやかに、我らの勝利だと告げた。水原と九条とが抱擁する。それを北嶋ルーナが笑顔で祝福する。荒ぶる優しい女神たちが、ひととき平穏に包まれる――。

 だが、まだ一人。溜飲を下げていない女がいた。納得をしていない女がいた。もちろんその女とは、リーザ・マクベリックではない。彼女はすでに、相馬家を襲撃したCCLメンバーとともに、都内で解放され、消息を絶っている。壊れた精神が戻るのかどうか、それすら分からない状態のはずだ。

 相馬家の大広間ではまだ祝勝の宴が続いていた、同日、午後八時過ぎ。

 その女は、千代田区の合同庁舎内の一室にいた。女は友を集い、酷く快活に、報復の爪を研いでいた。そして、女の元に集った女たちも、酷く陽気で残忍であった。

 女たちは、新しい時代の巫女だった。



「それじゃ改めて紹介するわね。いや、面倒だから自己紹介でいいか。」

「なんですかそれ、いきなりぐだぐだじゃないですか。まあ、じゃあ、あたしからです。結城舞と言います。公安課のS班所属で、吾妻さんの下働きやってます。」

「あああー。」

 四人のうち二人が完全に同じ反応を示した。くっきりと哀れみの響く声だった。

「んん?何か言いたいことでもあるのかな君たち?」

「いいえ。でも結城さん、吾妻になんかされたりしてない?大丈夫?」

「失礼ね。これでもちゃんと仕事の場とプライベートの区別はしてるわよ今は。」

「今は、ねえ。」

「はい次!」

 仕切り役の女が強引に進行する。

「じゃ、私かな。長谷川里香子です。情報通信局のサイバーフォースにもう何年?てくらいいます。吾妻とは同期の腐れ縁です。いろんなツール作ってるので職人さん呼ばわりされてます。」

「失礼ですけど、吾妻さんの好みって分かりやすいですね。」

 まだ名乗っていない一人が問題のある発言を行った。

「あのね、まるで私が好みのタイプ集めてチーム作ったみたいに言わないでよね?」

「え、違うの?」

「見え見えじゃないですか?」

「あの、それじゃ、もしかして、あたしだけ、好みじゃないとか……。」

 問題発言の女はそう言うと、うつむいて黙り込んでしまった。さっきから突っ込まれつつも仕切り役を務めていた女――吾妻ルカが、猛烈におたおたし出す。

「あの、亜紀ちゃん?亜紀ちゃんたら?どうしたのかしら?」

「だってルカさん、うちの秘書課の網島さんとはデートしたのに、あたしを誘ってくれたこと、ない……」

「あ、あれはだって、向こうから、ほら、……って、おい、ちょっと待った。亜紀ちゃん、あんたそんなキャラだったっけ?」

 吾妻を除く三人が、一瞬顔を見合わせ、そして大笑いした。

「ルカってほんといつでもルカだよねぇ。」

「亜紀さんお見事でしたー!」

「あんたたち、何か打ち合わせでも?」

「全然してないていうかあんた網島てどんなコよ?」

 ずん、という感じで長谷川里香子が身を乗り出す。吾妻が分かりやすくたじろぐ。しれっとしたコメントが、亜紀という女から返る。

「いわゆる美人ちゃんですねえ、性格もよくてナイスバディ。」

「ああー。で、長続き、しないんでしょ?」

「なんかそうみたいです。」

「ルカは、ちょっと変態入ってるしね。普通のかわいこちゃん相手だと、満足しないんだよね。」

「その辺り、ぜひ経験者のお言葉を赤裸々に!ツイッタでお仲間に報告しますんで!」

「やめてください勘弁してくださいお願いだからもう仕事の話に入りましょう?」

 土下座でもしそうな勢いで吾妻が頼み込む。それを見てまた三人が大笑いする。

「その前に!」

「何でしょう押野様。」

「私自己紹介してませんでしたー」

 あははははー、と今度は四人して笑う。

「改めまして、iゲート社の押野亜紀です。先日秘書課の主任になりました。権限も増えてやりたい放題ですが、でも何をしてるかは言えません。想像してくださいうふふふ。」

「うふふふふ。」

 全員で妙な笑いを共有する。そもそもこの連中がやっていることは、外で大っぴらにできるようなことはほとんどない。

「さて。じゃ、行きますか。このメンバーが、私が召集できる最強最悪のメンバーです。上司から、今回うちのダミーサーバにオイタした敵さんをやっつけていいと言われましたので、やっちゃうことにしました!ご協力よろしく!」

「おおおー!」

 すべてはすっかり妙なテンションで進んでいた。

 ――数時間後。

 突如、正体不明の複数のハッカーによる同時攻撃を受け、オランダ・スキポール空港近くに本部を構えるとある組織――CCLのメインサーバーが陥落した。すべては、その組織のとあるハッカーが、直接公安課のダミーサーバーに触ったことへの報復だったが、報復対象となった組織であるCCL側に、そのことを知り得た者はいなかった。

 さらに数時間後、スコットランドの宗教結社を名乗るR∴M∴L∴A∴というグループがネット上に犯行声明を出したが、CCLがどんなに調べても、そのような組織は、イギリス国内はおろか世界のどこにも存在しなかった。サーバーに蓄えられた情報がどこに行ったのか、一切は闇の中であった。

いろんな意味で濃いお姉様方の中で、ヒロインはまだ埋没中……。この後一話挟んで、第二部の第三パートに入ります。

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