第八話 戦争を待つ宵
CCL本部からの回答は、リーザ・マクベリックを落胆させるものだった。要は、相手の出方を見るためにもう一押しせよ、という指令が返ったのだ。本来は九条の所在を確かめてから招集するはずだった、日本駐在の工作員を急ぎ召集し、交渉相手に対して圧力を示せ、という。
(取引でも戦争でもかまわない。どちらかに決めてほしかったんだけどね。)
ホテル内で、最近ようやく馴染んできた和食中心の朝食を摂り、自分の部屋に戻ったマクベリックは、仕方なく、CCLの工作員を召集するメールを出した。
「上からの返事は来たの?」
唐突に、確かに昨夜聞いた声が室内に響いた。今回は銃は突きつけられていないが、十分に危険なサインをマクベリックは感じ取っていた。
「振り向いて、いいのかしら?」
そう確認する。
「ええ。」
ゆっくりと声の方向を見ると、式神が二人いた。
「あら、あなたたち、双子だったの?」
「夕べ来た者とは違います。」
「じゃあ、三つ子?」
ボーダーのタンクトップの上にゆったりしたベージュのTシャツを着た式神はにやりとし、バイオレットのTシャツを着た式神は特に反応しなかった。それ以上の返事はなさそうだと判断したマクベリックは、
「上からの返事は、もう少し押せ、だそうよ。」
そう答えた。
「それは、交渉決裂ってことではなくて?」
ベージュの方が問う。
「ええ。交渉に入る前にこちらの実力を見せよ、ってことね。」
「なるほど。了解しました。」
「身の安全、保証できなくなるよ?」
「仕方ないわ。仕事だから。」
「そうですか。」
「流れ弾には注意してね。」
その瞬間、部屋に備え付けの液晶テレビが突然奇妙な音を立てた。窓ガラスを先端の尖った硬いもので叩いたような音も、同時に聞こえた。
「流れ弾、ねえ。最近の流れ弾っていうのは、弾道が曲がるのかしら?」
元より、ヘリでも飛ばさない限り狙撃される可能性がない一角を選んで部屋を押さえている。テレビの位置、窓ガラスを弾丸が通過した位置を繋いだ直線上には、何もないのだ。
「そっちが力を見せる気なら、こちらも見せておかなきゃね。」
ベージュのシャツの少女がそう言う。
「交渉の席に着いてくれるなら、この損害の弁済は立て替えるって上が言ってる。」
バイオレットのシャツの少女はそう言った。
「まあ、ご親切に。ありがとう。ホテルの者が喜ぶわね。」
「また明日、同じ顔の者が来ます。」
「あなたがどこにいても、ね。」
「楽しみにしてるわ。」
「それじゃね。」
それきり二人の少女は忽然と消えた。室内には、腕組みをしたマクベリックが一人、立ち尽くしていた。
リーザ・マクベリックは、術の基盤となる体系は異なるが、やはり霊能力を持ったエージェントだ。このホテルに滞在するようになってから、周辺の霊的な状況も十分確認できている。なまじの移動であれば、移動の着地点は察知できるはずだった。しかしなぜか、マクベリックは、二人の少女の移動をトレースすることはできなかった。着地先も結界で囲ってあるのか、今目の前にいた二人の波長は、この世から消え去ったかのように、どこにも検出できなかった。あるいは、マクベリックが想定したよりも長距離を移動したのかもしれなかった。
(ふん……、これなら九条も、あの旧本部から脱出できるかもね。)
そう、気付いた。
「さて、どうしようかしら、ね。」
わざわざ声に出して言ってみた。だが、名案はなかった。
姉が連れ去られた翌日、北嶋リヒトは、若い女の侵入者が残していった番号に、時間通りに電話をかけてみた。呼び出し音は二回ほどでつながった。
「あの、」
「北嶋様でいらっしゃいますね?」
「はい。」
「今からお迎えに参上いたします。お一人で、そのビルを出て、インターシティ南端から海洋大方向に向かって歩いていただけますか?」
「分かりました。出るまでに数分かかりますが。」
「かまいません。」
北嶋リヒトは自らのパーティションから出て、オーセンティック・グローブの側近の一人に、小声で話しかけた。
「今から、出かけなければならなくなった。」
数ヶ月は外出していない社長の言だ。声をかけられた男も多少は慌てる。
「誰かを随行させましょうか?」
「いや、これは社長ではなく、教祖としての責務だ。一人で行く。」
思わず、側近の背筋が伸びる。
「……承知いたしました。どうかお気をつけて。社のことは、」
「頼んだぞ。」
ぽんと一つ、肩を叩く。側近たちは皆、同時に天界人羽教の信者でもあったが、年齢だけを見ればそれは奇妙な光景だった。側近は二〇代の北嶋より、一回りも年上なのだ。それでも、社を託された男は深々と礼をした。北嶋リヒトは、教祖と言うには実務的なカリスマだった。
長いエレベーターを地上に降りる。姉は、昨夜の侵入者と共に、どこかへと消えてしまっていた。社は側近に託してきた。文字通り、今、ほんのひととき、北嶋リヒトは一人だった。建物を出て、インターガーデンに足を踏み入れると、容赦ない日差しと夏の東京の熱気とがリヒトを襲った。
(さすがに、眩しいな。)
思わず、辺りの光景に目を細め、足を止めてしまう。直射日光を浴びるのも、ずいぶん久し振りだった。何か、長い長い午睡から、ほうと目覚めたような気もする。
真夏の容赦ない日差しの中、このまま、自分の方が消えてしまったらどうだろうかと、そんなことを考えつつ、そんな発想をもうずっと抱いていなかったことに気づき、少し自分で驚いてしまった。
(自由というのは、おかしなものだな。変に期待しない方が、毎日は充実するらしい。)
なぜかにやりとして、鼻歌でも歌いたいような気分になって、それからリヒトはてくてくと歩き始めた。さすがに姉のことを思えば、鼻歌どころではなかったが。
路上に出てすぐ、背後に一台の車が接近したことは分かった。振り返ると、車高の低い、黒のスポーツカーだった。立ち止まり、車が横付けされるのを待つ。運転席から現れたのは、リヒトよりは少し若い印象の、一人の女性だった。夏物の地味なスーツを着ていたが、スタイルの良さは一目で分かった。
「狭くて申し訳ございませんが、後ろにお乗りください。グレーさんも。」
そう言われて振り向くと、身長一二五cmくらいの少女が一人、立っていた。薄手の白いパーカーを右手に緩く巻き付けるようにかけているが、その中にはおそらく拳銃が握られているのだろう、とリヒトは思った。突然の侵入者に銃口を向けられたのは夕べ、文字通り昨日の今日だ。そう警戒し、僅かに体を強ばらせても、何の不思議もない――。
「ハズレです。お茶どうぞ。」
「こら、悪戯しないの。」
「おじさん、偉い人なんだね。」
苦笑と共にふっと息をつきつつ、リヒトは問いかける。
「君が警護に就いていてくれたのかい?」
「うん。」
「それでは、参りますよ。申し訳ありませんが、一応決まりですので目隠しを。」
「分かった。」
「事件解決後には、我々はお互いに、名乗り合えるはずですが、それまではあなたの自由は制限させていただきます。」
「かまわない。姉は、どうしていますか?」
「もう少しで、お会いになれますよ?」
車は滑らかに発進した。それなりの速度で移動しているようだが、頻繁に方向が変わった。自分に行き先を察知させないために、おそらくは複雑なルートで移動しているのだろう、とリヒトは判断した。都内など、街中を数回曲がっただけで、慣れない者には方角すら分からなくなることがある。
やがて、車が停止した。
「北嶋様?」
「寝てるみたい。」
「あらあら、お疲れだったのでしょうね。北嶋様?」
そっと肩に手を触れ、北嶋を起こす。
「ん、ああ、すまない。目隠しもされていたせいか、眠り込んでしまったらしい。」
目隠しを外しながら、ちょうど仮眠から覚めた人のように暢気な様子で北嶋は伸びをした。北嶋の視線の先を、助手席側から車内を覗き込む姿勢だった女はその体で塞いだ。苦笑混じりの声で告げる。
「大胆な方ですね。それでは、申し訳ありませんが、目隠しはもう一度着けていただいて、降りていただきましょうか。頭をぶつけないようにお気をつけください。」
手を取って、RX7の狭い後部座席からリヒトを降ろす。そのまま手を引いて、建物内まで案内した。
案内された部屋は、地下の一室らしい。エレベーターに乗せられ、やがて通された部屋は、まるで病室のような匂いのする部屋だった。実際、目隠しを外されてから室内を見回すと、姉は部屋の中央付近でベッドに寝かされ、その周囲にはメイド風の若い女性が一人、そして、車で一緒だった少女と同じ顔の少女が四人、立っていた。
「いかがですか?ご様子は。」
リヒトをここまで案内してきた女性が聞く。
「まだ眠ってらっしゃいます。ご容態は特に変わりはございません。」
「そうですか。北嶋様、どうぞ。」
現実ではあるはずだが、どこか非現実的な光景――それは、合計で五人いる同じ顔の少女たちに起因するのだが――の中、北嶋リヒトは、姉ルーナと対面した。多少やつれたような印象はあるものの、寝顔はいつものルーナのそれであった。安堵の念を覚えつつ、礼を言おうとエスコート役の女性の方を振り返ると、
「北嶋様には、ここでお姉さまの付き添いをお願いしたいのですが。」
と、先に声をかけられた。
「こちらも、そうさせてもらいたいと言おうとしたところだった。」
「精神的に拘束された状態のお姉さまを強引に奪還した、その余波のようなものがありまして、今現在は眠ってらっしゃいます。外傷等は一切ございませんが、精神的にはほぼ眠ったままの状態で昨夜から過ごされています。明日までには専門家がお姉さまを診察される予定ですが、それまでにお目覚めの場合には、近くに北嶋様がいらっしゃった方がお姉さまにもよろしいのではと存じます。」
うなずきつつ、リヒトは問い返す。
「姉は、姉の意識は、必ず戻ると考えていいのか?」
「わたくしは専門家ではないので確かなことはお答えできませんが、敵勢力のこれまでの手口とこちらのスキルを考えますと、特段の問題はないものと理解しております。」
「分かった。ところで、姉は、自分の姉だから利用された、ということは……?」
「北嶋様にこうしたことを申し上げるのは、あるいは失礼に当たるのかもしれませんが、その可能性はない、と我々は見ております。それよりも、敵にとって、お姉さまは純粋に利用価値の高い個体だった、そういうことであろうと思います。」
「そうか。」
少しほっとしたような、だが微かな不快感もほの見えるような表情で、北嶋リヒトはうなずいた。そしてさらに、
「それで、敵とは?」
そう尋ねた。
「敵が何者であるのか、今はお話することはできません。また今後もお話できないかもしれません。大きな組織同士の揉め事に、たまたま居合わせたお姉さまが巻き込まれた、そうしたご理解でご容赦いただければと。」
「……そうだな。了解した。ありがとう。」
もちろん納得はできないが、現状では仕方のないことなのだろうと、リヒトは諦めておくことにした。
そこへ、若いメイドが二人、北嶋のために二人掛け用のサイズのソファを運んできた。よく見れば内装は現代風だが、部屋の作りは古い洋館風であった。メイドの複数いる、大きな屋敷に自分はいるらしい、そんなことを漠然と理解した。ソファを運んできた二人が下がると、入れ違いに若いメイドがワゴンを押して部屋に入ってきた。目隠しを外された際、姉のそばに着いていたメイドだ。
「わたくしはこれで失礼いたします。お姉さまや北嶋様の身の回りのことは、この桜井にお言いつけください。それでは。」
そう言って北嶋を案内した女は会釈をして退室した。
「桜井と申します。」
「北嶋です。お世話になります。」
「……桜井、顔が赤いよ?」
ずっと黙っていた少女たちの一人が、そう発言した。
「そ、そんなことないですよ何言ってるんですか式神ちゃんはもー」
その場を誤魔化そうとでも言うのか、桜井というメイドは急に慌てふためいたような様子になった。もしかすると、北嶋リヒトという人物のことを知っていて、有名人に会ったということで頬を紅潮させたのかもしれない。あるいは単に美形の男性と対面してのことであるのかもしれない。
いずれにせよ、リヒト自身には慣れっこであるはずの、むしろ煩わしいはずのそんなささいなやりとりが、リヒトをいくらかリラックスさせた。
夕刻、森田の運転する車で、公安課長の杉田と神社本庁の水原環が相馬邸を訪れた。見る者が見ればぎょっとするような、そんな不穏な顔ぶれが、相馬邸に集ったことになる。
屋敷の主にして通称人材センターの束ね役の一人、相馬嶺一郎。
警察庁警備局公安課長、杉田律雄。
新興宗教天界人羽教教祖、北嶋リヒトと、その姉、ルーナ。
海外での任務から戻ったばかりの神社本庁霊能局のエージェント、水原環。
人材センターのエージェント、森田ケイ、九条由佳。
そして、教誨師とその後見人、相馬ひな、青木はるみ。
さらには、十分戦力としてカウントできる屋敷の使用人たちと、一二柱の式神たち。
嶺一郎と杉田、そして北嶋リヒトが一緒にいるところを写真に撮られるだけでも、大きな問題になりかねない。そんな危うい顔ぶれだ。だがそれでも、彼らには集う理由があった。
理由の一つは、九条由佳。もう一つは、北嶋ルーナであった。
相馬の屋敷で一番大きな応接室は、南棟二階の中央部にあった。もっぱらそこは単に「広間」と呼ばれており、一〇〇名くらいのパーティなら十分こなせる広さがある。そこに今、主立ったメンバーが集まっていた。北嶋ルーナは別室で水原と九条による「診察」を受けており、リヒトはそれに付き添っている。式神の中でも黒、青、赤、白の四名は姿が見えなかったが、その他は皆、応接室に運び込まれた食事をにぎやかに平らげていく最中だった。ベージュとひなが笑い合い、森田はかつての同僚である相馬家の使用人たちと、何やら小声で会話している。にぎやかな、まるで何事かの記念の式典のような様子だったが、テーブルの上にはアルコールの類だけが欠けていた。
「なあ杉田。向こうはこの後、どう出るだろう。」
応接室の中央付近に立っていた相馬嶺一郎が、傍らの杉田に話しかける。
「それは、公安の情報収集力と私の判断力を試されているのですか?」
「すまんすまん、まあ、そうだな。オレの中にも答えはある。だが、立場の違うお前なら、どう答えるか、そのことに純粋な興味がある。」
「お答えしてもよいのですが、一つ取引があります。」
「何だ?」
「うちのサイバーテロ対策チームにも、独自に、ということですが、参戦させてやってもらえないでしょうか。少なくとも対象の本国側の状況は確認できるでしょうし、合わせて向こうのサーバを」
「分かった分かった。お前がそんなことを言うのは珍しいな。黙って戦力を投入したって、こちらは何も文句は言わないんだが。」
「いえ、昨夜の北嶋ルーナ氏回収作戦で、私の部下は自分のヤマをそちらに差し出したかたちになっています。部下たちは何も文句は言いませんが、たぶん、かなりの不満を感じていると思いますので。」
「くっくっく。そうやって部下思いの上司の振りなどしなくていいんだ。……試してみたいのだろう?お前の部下を。」
「私は組織の中で動く人間であって、組織を使う人間ではありません。」
「ふん。相変わらずだな。そういう話なら、こちらからもお願いしたい。存分に、と伝えてくれ。」
「ありがとうございます。」
そう言うと、さっそく杉田は携帯電話を取りだした。
「吾妻か?……ああ、そうだ。許可を取り付けた。お前の判断でやってみろ。対象はCCLサーバ、メンバーは……ああ、それでかまわない。四人でチームとして動けるかどうか、……そうだ。それを試してみる時期だ。……タイミングは二四時間後、遠慮なく行け。通信局の方は後で話を通しておく。以上だ。」
「……お前、ずいぶん恐ろしい男に育ったもんだな。相手はあの、CCLなんだぞ?」
通話を終えた杉田に、嶺一郎が話しかける。
「我々には、この国にノイズをもたらすような選択肢は選べません。ただ、こうして事件や衝突の起こる可能性が生じた場合には、精一杯事の抑止と解決に当たるのみです。」
「ふん。」
不満そうな声を上げながらも、嶺一郎はうれしそうな様子で笑みを浮かべている。そこへ、九条由佳と水原環が戻ってきた。式神たちのうち濃紺、深紫、薔薇、明灰の四名が、入れ違いにルーナの「病室」の警護に行く。
「どうですか北嶋ルーナ氏は?」
杉田が水原に尋ねる。
「強制的な巫病の上に強迫神経症的な要因を強引に与えられたようです。おそらくは、性的な劣等感のような。もちろんそれだけではありませんが、それで、精神を縛り上げられて、使役されたもようです。今は、その縛めを祓いましたので、徐々に本来の精神に戻るはずです。ただ――」
「何か問題でも?」
杉田が問う。
「これは、九条さんと私の推測に過ぎませんが、どうやら、ルーナ氏はすでに一度、巫化のステップを踏まれた経験がおありのようなのです。したがって、縛めを解いて、どこまでお戻りになるかは……」
「なるほど。少し注意が必要な状況、ということですね。」
「はい。」
そのとき、広間にいた式神四人のうちの誰かが「あっ」と声を上げた。そしてそのまま四人ともが、なぜか頬を赤く染めた。
「どうしたの?」
と九条は声に出したが、その途中で事情が分かった。病室で、ちょっとした「事件」が起こっていたのだ。式神たち経由で、その光景が脳に流れ込んでくる。
「水原さん、一緒に病室へお願いできますか?」
「承知しました。」
「君たちが夕食を食べそびれないよう、申しつけておくよ。人手が要るなら、娘でも誰でも使うとよい。」
背後から嶺一郎が声をかけた。小走りに走りながら、九条と水原が半身振り返り、軽く会釈した。ぞんざいな挨拶だが、その程度には緊迫した事態であるらしい。二人を見送ったこの館の当主は、再び傍らの杉田に話しかけた。
「それで、さっきの続きだが。取引には応じたぞ。」
「はい。ではお答えいたします。明日、CCLはここに乗り込んでくるでしょう。」
「――つまらない答えだな。それではこちらの……」
「そうです。セッティングの通り、明日の未明から日中にかけてが、タイミング的には最も確率が高くなります。」
「なぜ、ここに?と聞いていいか。」
「改めてお答えするまでもない気もしますが。今日の日中、北嶋リヒト氏をわざわざ「尾行を巻くような振りをしつつ拉致」してきたのは、北嶋リヒトの行動を監視する相手を、ここまで辿りつかせるためでは?しかも、霊能を持った者だけに追跡可能なルートで移動したのではありませんでしたか?」
「さすがだな。正解過ぎて面白くない。だが――」
「そうです。明日ここに来るのがCCLの使者なのか、それともCCLの部隊なのかによって、状況は違ってきます。」
「お前の考えを聞きたい。」
「私の答えは、私がここにいる、ということで、示しているつもりですが。」
「ふん。答えは、戦争ということだな。」
「少なくとも、後数時間は。――推測の域を出ませんが、CCLはこの相馬家まではたどり着きましたが、相馬家とセンターの関係までは照合できていないと思います。現地スタッフがどこまで本部に伝えるかは分かりませんが、ここを日本の非合法組織の一つ、人材センターの上級幹部の屋敷と知らないまま、本部から襲撃指令が出る可能性は少なからずあります。」
「うむ。」
「また、ここがセンターの関係者の屋敷と分かっていて、襲撃の指令が出る可能性も十分あります。おそらくCCLは、センターの全容をまだ正確には捉えていません。対外的には一時期、神契東天教下の組織瓦解と連動したように、センターからもエージェントがずいぶん流出したような噂が流れました。」
嶺一郎が不思議な苦笑いを浮かべる。実際、この春先にセンターは公安寄りの方針を採用し、またそのため一部のエージェントが脱退することも確かにあった。しかし、外部にそんな噂が流れたとすれば、それは嶺一郎らセンターの幹部たちが何らかの意図を持ってリークした、戦略的な情報操作の一環であるはずだ。杉田はそれを知りつつ、それには触れずに語っている。
「その背後で公安に食い込んだこと、組織構造のスリム化を成功させたことなどを知らなければ、センター幹部の屋敷にも、CCLのエージェントは差し向けられることでしょう。」
「そうで、あろうな。また、そうでなければ困るのだ。」
「……相馬さん、ほんとによろしいのですか?この美しい屋敷を傷つけるようなことに、」
「それ以上は言うなよ杉田。気持ちはありがたいが、これは、センターにはどうしても必要な戦いなのだ。CCLに下に見られていては、組織なき後のこの国をいいようにされてしまう。」
杉田は、公安の人間だ。当然、この発言は、それなりの計算をもって受け止めなければならない。しかしそれ以前に、杉田と相馬の間には、何かしらの、だが強い結びつきがある。
「ご覚悟、承知致しました。我々公安としては、あるいはそのご覚悟を邪魔立てせねばならないこともあるやもしれません。」
「構わない。」
「公安の実働部隊は、この屋敷での発砲等、武力行使を確認し次第、出動いたします。」
「……済まない。面倒をかける。」
相馬嶺一郎が、頭を下げた。事が起これば参加するということに対してではなく、事が起こるまでは介入しないという、杉田の最大限の配慮に対してだ。
その二人の様子を、広間にいた全員が、見るとはなしに見ていた。この屋敷の中では頭を下げる必要の一切ない当主、相馬嶺一郎が、自らの後輩に当たる杉田に頭を下げた。このことは、今回の件の重大さを示すに余りある光景だった。
(九条さんがほしいだけじゃないってことね。)
食後のコーヒーをベージュたちと飲んでいた教誨師は、その様子を見て、そう判断した。相馬嶺一郎にとっては賭にも似た、一つの勝負の夜なのだった。
「ところでさっき、あんたたち何で赤い顔してたの?」
「それは、さすがにあたしでもちょっと、言いにくいかも。」
「あら、ベージュでもそう言うってことは、よっぽどなのね。」
「ベージュはこう見えて、意外と口ばっかりだからね。」
そう言うバイオレットに、ベージュが言い返す。
「そうね、あんたみたいに見た目も中身もウブな純情ヤンキー系とは違うわね。」
「見た目なんてみんな同じだろ?」
「ねえインディゴ、何があったの?」
相馬ひなは言い争いを始めた二人を諦め、とりあえず近くにいたインディゴに尋ねてみた。
「耳貸してくれる?」
そう式神の少女は答え、そして次は教誨師の顔が赤くなった。その横でグレーがにやりと笑った。
九条由佳に指示されて、夕食もそこそこに病室の警護に向かった濃紺、深紫、薔薇、明灰の四人を待っていたのは、床に倒れて気を失っている桜井と、壁を背にした北嶋リヒトの前にひざまづき、リヒト自身を一心不乱に口に含んでいる、その姉の姿だった。その手には、桜井が夕食の果物用に用意したと思われるナイフが握られており、リヒトの脇腹に押し当てられている。すでにいくらかは流血もしているらしい。カーペットの上に転々と、血が滴っている。
「済まない、桜井さんを助けてやってくれ。オレは大丈夫だ。」
式神たちに向かって、北嶋リヒトはそれでも威厳を保ってそう言った。
「分かった。今、九条と水原も来る。」
「そうか。姉を殴り倒しでもすればいいんだろうが、オレにはそんなことはできないらしい。」
誰に聞かせるというわけでもないように、自嘲を込めた独り言のように、リヒトはそう言った。
深紫と薔薇が桜井を引きずって部屋の入り口付近まで戻る。そこへ、九条と水原が戻ってきた。
「リヒトさん、そのままで構いません。状況を教えていただけますか?」
水原が問う。ルーナはきっと二人の方を睨みつけたが、二人がそれ以上そばに近寄ってこないのを確認すると、それで安心したように、また元の動作に戻った。
「ああ、そうだな……。君たちが退室した後、桜井さんに給仕してもらって夕食をいただこうとしたんだ。雑談なんかもしつつね。どうやら姉はその辺りから意識が戻っていたらしく、オレと話をしている桜井さんを、敵視したらしい。いきなり起きあがって、ワゴンの上にあったナイフを掴むと、それを奪い返そうとした桜井さんを突き飛ばした。その姉を宥めようとしたんだが、あっさりナイフを突きつけられてこの有様さ。」
「お怪我の程度は?」
「大したことはない。姉と争ったときに腕を切ったくらいだ。」
「そうですか。そうなってからのルーナさんは?」
「……徐々に落ち着いてきたような気もする。」
水原と九条は視線を交わし、お互いにうなずいた。
「失礼ですが、お二人はそういう?」
「否定はしない。」
特に感情の伴わない声で、リヒトは答えた。
「それはよかった。監視はつけさせてもらいますが、ルーナさんの望むようにさせてやっていただけませんか?」
水原は、リヒトの答えに頷くと、そう言った。
「そんなことでいいのか?何か解決策があるんじゃないのか?」
「今は、リヒトさんの存在ほどの、確実な解決策はありません。ルーナさんが今回敵に操られたのも、おそらくはリヒトさんを思うお気持ち故。そこに付け込まれた、と言ってもよいと思いますので。落ち着かれたら、またケアさせていただきますが。」
「私たちがお願いするのもちょっとおかしい気もするけど、その人のこと、しっかり受け止めてやってもらいたいの。それが彼女の一番の、快復方法だから。」
何故か、水原環も九条由佳も、北嶋姉弟には優しかった。九条は式神たちに、二人を見守るように指示した。
「九条、怒ってる?」
そう、小声で薔薇が訊く。
「ええ。怒っているわ。ルーナさんをこんな目に遭わせた連中にも、そして、この件の発端になった、私自身に対してもね。……そうね、濃紺、いい?」
こくりと頷いた濃紺は、一瞬消えると、血液の付着した果物ナイフを手にしてすぐに戻ってきた。リヒトに向かって、軽くナイフを振ってみせる。ルーナの手の中から刃物は失せており、それを確認したリヒトはそっと、ルーナの頭を撫でてやった。緊張に支配され、それまでずっと、文字通り何かに憑かれたような目つきだったルーナが、初めてそっと、目を閉じた。
水原も九条も、少女と呼ばれる時期に、己のうちに神と呼ばれる何者かが宿り、暴力的なまでに己を支配された経験を持つ、本物の巫女だった。シャーマンにはある意味当たり前のことであるとは言え、その経験を思うと、ナードマスターと呼ばれる女、リーザ・マクベリックの行ったことは許せなかった。今の北嶋ルーナの哀れさは、かつての自分たちの哀れさでもあった。かつての同僚の仕業ということもあり、そして、今回の件のきっかけに自分がいることも手伝ってか、九条はマクベリックだけでなく、自分自身までもが許せなかった。
だが、そうした後ろめたさのない水原は、実は九条よりもストレートに怒っていた。その怒りの深さを、周囲の者は遠からず知ることになる。
二人の巫女は、病室を後にした。壊れても、壊されてもなお実の弟を求め続けた姉の悲しみを背負い、戦場へと戻るために。
更新ペースががたがたですいません(どなたも困っていないとは思うのですが。周りの特殊なキャラに埋もれっぱなしの主人公、今回も埋もれています。