第七話 対ナードマスターファイアウォール
七月二七日から、二八日に日付の替わる頃。終電を気にしつつ帰宅準備をしていた吾妻ルカのモニターに、[akiがログインしました]という表示が現れた。
「ん?……こりゃ、終電関係なくなったかなー?」
そう、声に出して言ってみたが、誰からも返事はない。それもそのはず、比較的帰宅の遅い結城もすでに退庁済み、深夜のオフィスには自分以外誰もいなかった。
[どうしたの?残業中?]
そう、打ち返してみる。
[やっぱり、まだいましたね。公安ダミー、触られてますよ。]
[マジっすか?]
[夜一〇時くらいから。これまでにないタイプの印象。]
[ちょっと待って。チェックしてなかった。]
[だと思いました。]
そう入力してから、ふだんは定置網と呼んでいるダミーの公安サーバーに、アクセスログを取りに行く。もともとこのサーバーは、松本の神契東天教でのテロ事件をきっかけに、吾妻が押野に無理を言って設置してもらったものだ。データ自体は大半が本物だが、公開されているもの、および公開されても実害の出ない情報以外は格納していない。外部からの侵入者が見れば極秘情報を格納したエリアがあるようにも見えるが、実際その領域には、さも重要度があるように偽装され暗号化されたゴミファイルしか置かれていない。
[音声通話してくれる?]
[いいですけど。]
その返事を確認してから、携帯電話を取り出す。
「スカイプで、ってことかと思いました。」
「押野さんもケータイではあんまりお話ししない人種?」
「いえ、そんなことは。」
「これ、どこからかしらね?……と、お、出た出た。オーセンティック・グローブ本社サーバ、っておい、春にうちらで面倒見てやったとこじゃん。」
「あらら。恩知らずもいいとこですねー。」
「そうねえ。スキル的にはどんな印象?」
「それが、よくわからないんです。時間帯ごとに、少し厳密に言うと一五分から二〇分単位でできることが刻々と替わっていくようなタイプ、ですね。全体としては、まだまだ初心者から初級クラスですが、全体としては、伸びてます。」
「誰かが指南しつつ実習中、みたいな印象?」
「言われてみれば。ただ、ダミーとは言え公安のサーバでそんなことする輩がいるかどうか。」
「うーん、捨て駒なのか、実地研修なのか。他に、お宅の界隈で不審な動きは?」
「吾妻さんにお伝えしなきゃいけないレベルのものはありません。」
「とすると、これがシールドで、裏で別事象進行中、ってこともなさそうね。」
「ええ。……改めて私の印象を述べ直しますけど、急に力を得た誰かが、その力を確かめつつさらに急速に成長している、でもただそれだけ、というような気もしてきました。」
「力、か。力、ねえ。でも、ハッキングなんて、知識とスキルの量でしょ?力は要らないんじゃないの?」
「吾妻さん、ご自身の力に無頓着な方ですか?」
「無頓着も何も、あたしには力らしい力はないわよ。あるのは、知識とスキルと権限だけ。」
「世の中、その三つを三つとも持っていても、大した仕事しない人間もいますからね。結局手持ちの材料を使い切る力ってのが、必要な気がしますが。」
「そういうことなら、少し分かる気がするけど。」
この夜は結局、二人ともこのハッカーに対する検証は終えられなかった。手口自体はごく在り来たりの初心者から初級程度、良くても中級一歩手前くらいのハッカーであったが、目の前で成長するような挙動が、二人の印象に残った。
相馬邸に匿われているとは言っても、屋敷は外界からは遮断された空間を維持しており、式神たちも邸内ではさほど行動を制限されているわけではなかった。今日も、九条の指示の下、三班に分かれてのトレーニングを行っていた。
「インディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四人は、今日は携帯電話のデータの解析ね。」
「それ、もうできるけど。」
「あなたたち、個性を獲得してきてるでしょ?それは、私にはうれしいことだけど、でもそうすると、今までできていたシンクロが、成立しなくなる可能性があるでしょ?」
「それは、そうかもね。」
「だから、定期的に同じスキルを反復して業を磨いておく方がいいと思うのよ。」
「了解。で、どれを読めばいいの?」
「あ、ちょっと待って。」
インディゴが一瞬消え、少しして、また戻ってきた。
「これどう?」
手にしているのは――
「いたいたいた!ちょっと待ったー!」
相馬ひながそこへ駆け込んでくる。
「インディゴ、あたしの携帯どうしようってのよ!」
「対応早いわね。」
ベージュが少しだけ感心したようにつぶやく。背後から、「意外と地味ね」「スワロフスキーでギラギラとかじゃないんだ」といった声も聞こえてくる。
「今から中身全部読むところ。」
インディゴが事も無げに答える。がくりとすっかりうなだれてから、ひなは言った。
「ちょうど部屋に入ろうとしたら、インディゴ、あんたがあたしの部屋にいて、携帯つかんで消えたもんでね。見当つけて走ってきたのよ。」
「あー、そうか。全部ステルスモードで行けばよかった。」
「そういうことじゃないでしょう?」
さすがに九条が事態を収拾する。
「ごめんなさいひなさん。あなたたち、悪戯が過ぎるわ。きっとその携帯には、誰にも見せられない恥ずかしい情報が満載なのよ?ケイさんへのメールとか、ケイさんの画像とか……」
無言のまま、バイオレットがインディゴの手の中からひなの携帯をつかんで走り出す。「ケイさんの画像」という部分に反応したに違いない。
「由佳さん、あなた、楽しんでるでしょ?」
九条由佳は、めずらしくとびきりの笑顔を浮かべ、そして宣言した。
「相馬ひな様、トレーニングへのご参加、歓迎いたします。今から、ひなさんの追撃を振り切り、一五分以内に、その携帯で一番古いメールの着信時刻を読みなさい。読めたら念話で連絡を。移動に際しテレポテーションは禁じます。答え合わせにはひなさんもご協力くださいな。」
「き~さ~ま~ら~!」
北棟のさらに北側、屋敷の裏山と言ってもよいような、植物に恵まれたエリアに、相馬ひなと式神の少女たちの嬌声が響く。その声を聞いた屋敷の者たちは皆、これまで自分たちの屋敷に欠けていたものを、如実に思い知らされた。そして思わず、皆一様に、微笑みを浮かべた。
「次は、濃紺、深紫、薔薇、明灰。」
「はーい。」
九条が呼ぶと、四人の式神の少女が現れた。
「これから、相馬のお屋敷の地下室を借りて、射撃訓練をします。青木さんがお待ちだと思うので、今から移動します。」
「りょうかーい。」
相馬邸の本館は、北棟と南棟、そしてそれをつなぐ東西の廻廊から成り立っている。したがって中央部には中庭があることになるが、この中庭の下に、広大な地下空間が設けられていた。人目には触れさせられない武器類を格納するスペースだけでなく、基本的な訓練なら十分可能な射撃場も、備えられている。
九条はまず、南棟の執事らの執務室に行き、これから地下へと降りることを告げた。
「青木より聞いております。どうぞ。」
そう言って執事長の西村が九条たちを地下へ降りるエレベーター前に案内する。階段でも地下には下りられるが、武器庫や射撃場には、このエレベーターからしか降りられない造りになっていた。
「今日の射撃訓練、あなたたちは、まず曲げる役目よ。」
ドアが開くと、九条がそう告げた。
「ちょっと待って。飛行する金属を曲げるなら、ベージュたちが適任じゃないの?」
薔薇が問う。
「ええ、今まではね。でもこれからは、あなたたちが攻撃し、あなたたちが護る日も来るかもしれない。それに今回のトレーニングは、」
「お待ちしていました。あれでよろしいですか?」
話しながら射撃場に足を踏み入れると、ちょうど青木はるみが、射撃レーンの一つの中央付近に人型の標的を設置し、戻ってきたところだった。
「青木さん、ありがとうございます。」
そのレイアウトを見て、濃紺が尋ねる。
「これ、もしかして、弾道を曲げて背後の標的に当てるってこと?」
「そう。防御ではなくて、攻めの業として、弾道を制御するのよ。」
「要は、一人目を迂回させ、背後の標的に当てるってことね。」
濃紺ののんきな返事に薔薇が口をとがらせる。
「音速超えてるんだよ弾丸て、無差別に一定方向に曲げるだけならまだしもさあ……」
「そう、まずは一方向に曲げるだけでいいの。」
「……ああ、そうか。……九条、右端の標的狙って。眉間でいいわ。」
薔薇が言う。九条由佳の正面を南に見立て、背後に濃紺、正面側に薔薇、左に深紫、右に明灰が立つ。青木が準備していたヘッドセットを全員が着ける。
「レンズ。」
薔薇、深紫、薔薇三人の眼球が虹彩ごと回転し、僅かに盛り上がる。日常の焦点距離から、精密狙撃用のレンジにシフトしたことが見て取れる。
「距離、銃口から右標的まで四九・二七メートル。正面標的まで四八・一三メートル。」
合計で六つある眼球からの情報を、九条の背後の濃紺が演算する。九条がスコープを調整し、照準する。
「弾道矯正開始。」
濃紺が言う。直後、間を置かず発砲音が響く。
一発、二発、三発。
「案外難しいわね。一発目は掠りもしなかった。」
薔薇が言う。二発目は心臓付近、三発目は喉元を掠めた。本来は、眉間に当たらなければいけないものだ。
「電力って言うか、要はパワー不足よね。発射から着弾までちゃんとコントロールするには。」
「あたしたち、電撃戦慣れてないし。」
「でも、こんなこと全員とか八人とかでやってたら実戦じゃどうにもなんないね。」
「ごめんなさい、ちょっと待って。」
九条がディスカッションを中断する。裏庭で追いかけっこしていた班から念話が入ったのだ。
(二〇〇九年一月七日、一五時〇七分。発信者、吉田紗幸。教誨師に確認します。答え、合ってる?)
(え、ひなですけど聞こえてるのこれ。ちょっと待って。ほら、携帯返しなさいってば。あー、……あ、うん、正解です。紗幸ちゃん、一月七日、一五時七分。ていうか、もー勘弁してください。)
ひなの声は、式神たちの聴覚を経由して聞こえている。
(お疲れさま。あなたたち、ひなさんにありがとう、と伝えなさい。そうしたらひとまず四人は待機。しばらく自由行動よ。追って次のメニューを伝えます。)
(りょーかーい。)
「お待たせ。自由落下の分を計算しつつ曲げるのって難しいかしら?」
念話から戻った九条が、四人とも腕組みをして話し込んでいる式神たちに訊く。
「弾道が曲がって距離が変わる分の調整もあるけれど、この距離ならわずかなものだと思う。それよりそもそも力の加減が難しい。弾道のイメージが掴みきれないから、つい四人のバランスも悪くなる。」
そう、濃紺が答える。
横で話を聞いていた青木はるみが手を挙げた。
「あの、発言してもよろしゅうございますか?」
「ええ、お願いいたします。」
九条が応える。
「曳光弾をお使いになってはいかがでしょうか。お嬢様も、傾斜地や距離のある射撃のためのトレーニングでは、ずいぶんお使いになりました。通常の弾丸と挙動が少し違うところもありますが、基本は掴めるはずです。」
「なるほど。ご助言ありがとうございます。」
「それでは、在庫の弾丸を持って参りますので、少々お待ちください。旦那様から、皆様の必要なものは可能な限りお渡しするようにと仰せつかっております。」
やがて、9mmパラベラム曳光弾の箱を数箱抱えて、青木はるみが戻ってきた。射撃レーンの照明を少しだけ落とす。スコープ付きのサブマシンガンに弾丸を装填し直し、九条が言った。
「ではもう一度。」
人類の認知能力を遥かに超える式神たちの視野に、曳光弾の明晰な軌跡が描かれる。四人のイメージが同調すれば、難しいことでもないのだろう。三〇分と経たないうちに、弾丸は標的の眉間に集まるようになった。
「それじゃ、次は、濃紺が射撃手で同じことをできるかやってみて。試行回数は三発ずつ一〇セットだけど、右からを五セット、左からを五セットに割り振るようにして。それができたら、射撃手を交替して同じように続けなさい。」
「了解。」
「通常弾でも試してみて、全部終わったら念話で呼ぶのよ。」
「はい。」
式神たちは、この新しい「遊び」に熱中しているらしい。九条への返事もそこそこに、トレーニングを再開した。
「青木さん、おつきあいいただいてしまって済みません。」
「いえ、これもわたくしの仕事のうちでございます。終わるまで、ここで見学しております。」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
九条は青木に後を託し、地上へと戻った。
東の廻廊中央付近のドアを開け、中庭に足を踏み入れると、黒、青、赤、白が九条由佳を待っていた。
「待たせたわね。あなたたちのメニューは、トレーニングではないわ。」
「屋敷の防御?」
「結界を張って?違うわ。そんなことをしたら、ここにあたしたちがいます、って言ってるようなものよ。そうではなくて、警戒していることを誰にも気取られずに、周辺を監視するの。」
「分かった。溶け込めばいいのね?」
「そう。場所は……」
「屋根の上はどう?」
「そうね。それで、まずは現状をよく把握し、周囲のマップを作りなさい。ひとまず、二時間でできるところまで広げてみること。でも、無理は禁物よ。」
「分かった。」
「それから、今日はまだテストだから、二時間経ったら監視を解除、レポートすること。いいわね?」
「諒。」
時刻はそろそろ、昼食時となっていた。空を見上げ、九条は北棟を抜けて屋敷の裏庭に向かった。
夕方、姉の様子が心配なこともあり、北嶋リヒトは今日も早めに仕事を切り上げた。まるで柔らかい命を割れたガラスの山に叩きつけるようにして求め合った夜から一転して、昨日、夕方まで眠っていた姉が求めたのは、電子の世界であった。これまでほとんど触ってこなかったコンピューターに、ルーナは突如興味を示したのだ。
リヒトは、何でまた?と問い返したいのを堪え、二人の居住スペースにある私物の端末に、姉用のアカウントを設けてやった。姉が質問してこない限りはそっとしておいたが、昨夜はずいぶん遅くまで端末に向かっていたようだ。
(初心者とは言え、ルーナのやることだ。様子を見て、アクセス先くらいは確認しないと。)
そんなことを考えたのは、リヒトの心の中に、どこかしら、何かしらの不安があったからだろう。だが結局、姉の作業中に邪魔をすることもできず、また前日眠っていないこともあり、日付が変わる頃にはリヒトは眠ってしまっていた。
そして、今夜。
姉は夕方から、ふたたび端末に向かっていた。
吾妻ルカは、昨夜の不思議な挙動のハッカーが再来したのを確認すると、課長の杉田、情報通信局サイバーテロ対策技術室所属の長谷川里香子、そしてiゲート社の押野亜紀に連絡を入れた。これは日中、すでに打ち合わせ済みの対応だ。特に押野は、ダミーの公安サーバーの設置者として、特別の参加を杉田にも認めさせている。
「長谷川君、だったか。」
S班のオフィスに入ってきた杉田課長が、声をかけた。
「はい。情報通信局の長谷川里香子です。よろしくお願いします。」
「よろしく頼みます。……どうだ、学習者の挙動は?」
「学習者」というのは、このハッカーに対して吾妻が名付けた、とりあえずの呼称だ。吾妻が答える。
「今夜はいきなり中級程度のスキルからご披露中。こちらの設置したセキュリティホールを通過した際にスキル判定しています。」
「そうか。問題は、いつ品川に圧力をかけるかだが、品川の方のサーバは代理またはダミーという可能性はないか?」
これには長谷川が答えた。
「その線はないと思います。オーセンティックのサーバは吾妻が以前一時掌握した際に設置したしかけを使って監視していますので、サーバへの不正アクセスがあれば、確実に検出できます。」
「了解した。早めの介入と様子見、吾妻ならどっちだ?」
「そうですね、自分なら確実に様子見です。」
「理由は?」
「こう言うと不謹慎ですが、まず第一におもしろい挙動を持ったハッカーですし、現時点でハッキングの目的も不明です。ちゃんと立件まで持っていけるかどうか、という点からしても、もう一段階泳がせて、犯行の目的まで掴んだ上で押さえたい、というのが正直なところです。」
「時間的猶予を与えて、こちらに被害が出る確率は?」
「不明です。ただし、今の体制であれば、そうそうダミーの公安サーバーを全部見られてしまうことはないと思います。もちろん、我々の本体サーバに影響はありません。」
「分かった。ひとまず今夜はその方針で行く。明日午後また、方針を検討する。」
「承知しまし……」
「ん?どうした?」
「いえ、例の民間の協力者から情報のようです。少しお待ちいただけますか?」
「かまわないが。」
[どうしたの?]
押野に対し、吾妻が問いかける。
[ハッキング犯が検索しました。キーワードは、あ、音声通話します?]
[そうね。一応警戒して。]
五秒後、吾妻の携帯に着信があった。
「まあ、こっちも危ないと言えば危ないけど、」
「でも、たぶんこのキーワード、文字コードが送信された時点で、あたしがそっちの網にかかっちゃいますよ。」
「そうなの?それじゃ、よろしく。」
「はい。キーワードは現状六語の組み合わせです。いいですか?――九条、由佳、瀬田、松本、ランズエンド、CCL」
「……ほんとに?」
「ええ。間違いないです。」
「分かったわ……。敵の正体が分かるまでは、十分注意深く触ってね。いえ、退避した方がいいかも。あなた、そのキーワードの意味、分かってるわよね?」
「お答えしなければいけませんか?」
「その答えで十分よ。ありがとう。」
「しばらく、音信不通になります。」
「そうして。それじゃ。」
「はい。お疲れさまです。」
吾妻の声のトーンから、事件の性質は伝わったらしい。厳密には、この件が事件となったことが、課長にも、長谷川にも伝わったと言うべきだろう。二人とも、じっと吾妻の説明を待っている。一瞬考えた後、吾妻は言った。
「里香子、あなたはこの話、まだ聞かない方がいい。」
「……分かったわ。」
「今後何かお願いすることがあれば、私から正式に依頼します。」
課長も長谷川に声をかける。
「承知しました。失礼いたします。」
オフィスには、吾妻と杉田の二人だけになった。
「キーワードですが、」
「頼む。」
「はい。民間の協力者によれば、九条、由佳、瀬田、松本、ランズエンド、CCLの六語の組み合わせ、とのことです。すでに当該の協力者には退避させました。」
「そうか。協力者氏と長谷川君を外したのはいい判断だった。だが、今夜は一人で大丈夫か?」
「そうですね……。もし急激に成長するようなことがあれば、結城さんを呼び出します。」
「分かった。ただし、無理や深追いはするな。この件、キーワードがその通りの意味なら、センター主導となる可能性がある。観察と情報収集だけで十分だ。」
「何か事前情報でも?」
「まあ、な。ひとまずこれから、センターの上層部に連絡を入れる。」
「了解しました。」
「では、よろしく頼む。」
そう言って、杉田はオフィスを出ていった。
(さてと。それじゃ行きますか公安密着二五時~!)
一つ伸びをしながら、そんな意味の分からない台詞を心の中で叫びつつ、吾妻ルカは学習者の監視を再開した。
(そうね、いい調子。サッカーの言ってた「スキルのあるコアなネチズン」ってやつを確保できなかったのは辛いとこだけど、私が中継すればひとまず用は足りそうね。ま、あのおしゃぶり野郎とお話しするのは正直しんどいけど。)
(リーザ、何か言った?)
(いーえー?何にも。ただ、今回の妖精憑きは優秀だって言っただけよ。)
(妖精憑き?オタクでしょ?)
(いいえ、今度のは正真正銘の妖精憑き。つつかなくても羽根が見えてたわ。)
(相変わらず意味不明だね。)
(お互い様。さて、しばらく今の妖精憑きちゃんの視覚を送るから、またチュートリアルよろしくね。)
(了解。正直あんたを繋ぐのは歓迎なんだ。ハーブっぽいいい匂いもするしな。)
(相変わらずぞっとするわねその共感覚。どうでもいいけど仕事はしっかり頼むわよ。行くわ。)
(はーい。ちょっと電極刺さった頭皮が痒いけど、増感機も電圧高めで元気いっぱい待機中。いつでもどーぞー。)
リーザ・マクベリックのスキルは現在、品川とスキポール近郊のとある施設とを繋いでいる。地理的に近接しているとは言え、妖精憑き――北嶋ルーナがいるのは品川駅東口のビル群インターシティB棟の最上階、マクベリック自身は西口の品川プリンスホテルだ。直接ではなく、霊的に、かつ強制的に接続し、使役している。それと同時に、対象が協力的であり、増感機も使えるという条件付きながら、オランダCCL本部の通称サッカーとの連携も実現している。
(こんなことでもなかったら、お友達になれたかも、なんて小狡い感傷は持たないわよ。さあ、サッカーの言うまま働きなさいルーナ。その資質、ついでに伸ばしてあげるから。弟を蹴落として、あなたが教祖になれるわよ。)
相馬嶺一郎が公安の杉田課長から連絡を受けたのは、二八日深夜一一時を少しばかり回ったころだった。
「杉田、それではそのオーセンティックのサーバを経由して、九条君の情報を集めているヤツがいるんだな?」
「ええ。ただしその人物がナードマスター本人なのか、それともナードマスターに操られている人間なのかはまだ未確認です。」
「承知した。実は昨日今日と、ナードマスターがホテルに隠りきりで状況を読み切れなくなっていた。助かった。」
「いえ。こちらこそ、この件お任せするかたちになり申し訳ありません。」
「気にするな。お前がセンターを見込んで託してくれた、九条君を巡る案件だ。まずはこちらで対処させてもらう。こちらの動きは、定期的にそちらにも伝えるようにしよう。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
杉田と相馬嶺一郎のやりとりはそれで終わった。一分ほど、嶺一郎は口元に手を当て、じっと考え込むような表情になった。
「奇襲、か。」
そうつぶやくと、邸内の内線電話を手始めに、次々と指示を入れ始めた。
二九日、午前一時。
学習者は公安ダミーサーバー内のドキュメントやテキストの類を端から検索していた。その速度は、吾妻が知る限り、長谷川里香子がプログラムのコードを読む速さに匹敵していた。おそらく学習者の画面では、画面上を大量の文字が流れ続けているだろう。
(それがフェイクでないのなら、あなた、物凄い体力ね。)
吾妻ルカが思わず感心してしまうほどの処理速度だった。マシンの方ではない。読み解く人間の処理速度が尋常な部類ではないのだ。
(それにしても。今夜は気楽だなー。リミットまで泳がすだけだし。リミットはまだまだ先だし。)
狭い椅子の上で器用に膝を抱え込み、丸くなって座りながら、何かやや不満そうな表情で伸びをした。そして、缶ビールになんかつまみでもあると最高だったな、と思っていると、背後から声がした。
「ナイター見てるオヤジですか?」
びくっとして振り返ると、とっくに退庁したはずの結城舞が、腰に手を当てて立っていた。服装こそそれなりだが、眼鏡の下の顔はすっぴんだった。髪も乾かした後無造作にまとめて止めただけらしい。
「え、どうしたの舞ちゃん。ていうかどうしてあたしの心の声が?」
「心の声って、普通に口に出して言ってましたよルカさん。缶ビールにつまみでもって。」
「うへーマジで?まあおねえさんこの時間帯は独り言多いかも。ところで、」
「あたしですか?昼間、学習者の件打ち合わせたじゃないですか。それで、何となく今夜辺り来てるんじゃないかなって。」
「それってマズくないですか舞さま?仕事中毒だよ?」
「かもしれないです、っていうかルカさんにだけは言われたくないです。で、どんな状況ですか?」
結城が吾妻のモニターを覗き込む。ふわりとシャンプーしたてのいい匂いがして、吾妻の煩悩は容赦なく揺さぶられる。
「え、あ、ほら、今は九条さん絡みのキーワードで検索して、ヒットした情報を端からチェック中。ただ、速度が尋常じゃないわ。」
「え、これ、自動チェックじゃないんですか?」
「使用端末のスペックからすると、それはないわね。スクロールさせつつ、気になる箇所は眼で読んでる感じ。……ほら、ときどき止まるでしょ?」
「だとすると、人間業じゃないですよね。」
「プログラムのコードの画面だったらこれができる人、知ってるけど。でもまあ、普通じゃないわね。……ちょっと見ててくれる?」
吾妻がいきなり立ち上がる。
「トイレですか?」
そう問い返す結城に、
「え、あ、ええと、うん。そう、かも。」
そう、すっかり挙動不審な返事をして、吾妻はいったんオフィスを出ることにした。
「なんか変ですよ?」
「ごめん、まだこの職場辞めたくないから。」
はぁ?という表情できょとんとしている結城を置き去りに、何かどたばたと吾妻はオフィスを離れた。
(うー、やばかったよ仕事中なのに。自分の煩悩が情けない。直撃過ぎだよ舞ちゃん。でもまだセクハラとかで辞めたくないもんなぁこの職場。ううむ。)
オフィスルーム近くのトイレに駆け込み、ざぶざぶと顔を洗う。いろいろが剥がれ落ちるが仕方ない。
(朝までにまた直せばいいか。)
そう思って、せめて口紅だけはと思ったが、一切合切オフィスのデスクに置いてきてしまったのを思い出した。
(ま、向こうもすっぴんだし。夜だし。平気だし。たぶん。)
吾妻はなぜか少ししおらしい歩調でオフィスに戻った。
今夜は、学習者のスキルはさほど伸びてこない。ハッキングの技術としてはまだ上があるし、サーバー自体を掌握するような、あるいは全データを削除するような権限を求めることも、一般の向上心、いや向上欲の強いハッカーならあり得ることだが、学習者にはそうした様子が見られない。
「せっかく学習者って名付けてあげたのに、今夜はあんまり成長しない……」
「そうですね。覗き見したい情報に出会えたから、もう後は情報を読むだけ読んで、みたいな展開に感じますね。もうずっと、検索情報のチェックしかしてないですよ……ん?あれ?ルカさん、」
「……ああ、気付いている。……午前一時四七分、学習者の活動、消失。」
「これ、端末前の人が倒れちゃったとかですかね。」
「分からないが、緊急介入の必要もあるかもしれない。」
吾妻は携帯を取りだした。コール先は、公安課長だ。
「夜分恐れ入ります。学習者、不自然なかたちで作業途絶、活動はネット上から消失しました。」
「了解。ご苦労だった。センターから何らかのルートで連絡があるかもしれん。一時間状況監視の後、動きがなければ今夜は上がってくれ。」
「……承知しました。」
(そう言えばルカさん、今、最終お仕事モードだったな。)
結城はそんなことを思いつつ、通話を終えた上司の方を見た。
「一応、これから一時間様子見になる。」
「それだけですか?」
「ああ。課長の指示だ。推測だが、学習者に対して実効的に対応した組織がある。だから、今夜はもう学習者はやって来ない。」
吾妻はそう言って、不愉快そうに一つ息をついた。
「ひょっとして、……実はかなりムカついてます?」
結城にそう言われて、吾妻は少し驚いたような顔をしてから、ふっと笑った。
「……そうね。元々はこっちの案件だと思っていたから。」
「ルカさんのお仕事モード、一瞬ですけどひさびさに拝見してしまいました。」
結城はそう言って、無邪気な微笑みを浮かべた。一瞬で赤面した吾妻ルカが、それでも平静を装って答える。
「あ、いや、面目ない。こんなことでいちいちムカついてちゃダメね。それに、まだやるべきことがあるわ。」
「何ですか?」
「学習者の背中を押してたヤツが動いたら?あるいは、学習者が使い捨てのコマだったら?」
「まだ次があるってことに?」
「ええ。黒幕自身もダミーの様子はもう分かっているはずだし。だからダミーと本サーバーのセキュリティ再チェックして、その後ダミーの方にファイアウォールの新型置いてみるわ。」
「ああ、あのえげつないヤツですね。」
「そう。あれ。」
「サイバーテロ対策技術室作製のシリーズの中でもかなり傑作の部類だと聞いてますけど。」
「そりゃそうよ。長谷川里香子謹製だもの。」
「ああ、ルカさんの彼女さん、ですよね。」
「え、ああ、まあ、あの、」
「いいですよ別に、取り繕わなくても。ご自分で昔の話だけど、って教えてくださったじゃないですか。」
「あはは、そうだったっけ。人生ダダ漏れだなー。さてとそれじゃ、お姉さんは作業再開かしら~」
「お手伝いしますよ。」
「優しくしないで~」
「何か今夜、変ですよ?」
心の中で精一杯シャンプー眼鏡舞ちゃんのせいでーすと叫んでから、吾妻ルカはモニターの中の世界に戻っていった。
「何だと!」
ハーブの香り漂う薄暗い部屋の中で、リーザ・マクベリックは激しく毒づいていた。テーブルに八つ当たりし、その上に放置されていたルームサービスの食器や銀器が遠慮のない音を立てて床に散乱する。
(どうした?中継エラー?妖精憑きちゃんの視覚情報見えなくなったけど?)
サッカーが尋ねてくる。
(済まない、物理的にってだけじゃなく、心霊的にも妖精憑きが強奪されたらしい。あたしからも視えなくなった。)
(ほんとかよ……、CCLのリーザ・マクベリックを出し抜くヤツがいるっての?)
(ごめんサッカー、今日はもう無理みたい。また連絡するから。)
(ん?今までの情報だけでも今のサーバのチェック終われるかもだけど?)
(そっちからってこと?)
(そ。もうだいたいのことは分かってるから、別に僕が直接いじったっていいわけ。それを普通やらないのは、足が付くのを避けるためでね。技術的にできないわけじゃ全然ない。まあ、日本語はあまり読めないから、さっきのルーナの真似をするだけになるけどね。)
(そう……。無理しないでね。今回どうも、先手を取られている気がする。)
(誰に?)
(分かっていればこんな屈辱!)
(ごめんごめん。また、連絡してくれ。それじゃ。こっちは危なくない範囲で作業してみるから。)
(ええ、こちらこそごめんなさい。よろしくね。それじゃ。)
強制的に切断された北嶋ルーナとの接続に続き、スキポールのサッカーとの接続も解除した。通常の五感が戻ってきたリーザ・マクベリックは、自分が照明の抑制されたホテルの一室にいることを確認し、ふっと息を一つ吐いた。その刹那、かちり、と音がして、首筋に硬く冷たいものが触れた。マクベリックが「戻ってくる」のを待っていたかのようなタイミングだ。
「ナードマスター、だな?」
「そのあだ名は、あまり好きではないの。リーザ・マクベリックよ。」
「その名前も把握している。本人で間違いないようだな。」
「あなた、九条の手の者ね。」
「いや、今夜は違う筋からの依頼で動いている。お前とお前の上司に、伝えたいことがある。そのまま聞け。」
「何かしら。」
「とある人物が、九条由佳を買い取りたいと申し出ている。今はなき組織とCCLの間に取り決めがあったこともその人物は知っているが、それでも買い取りたいという申し出だ。」
「あら、ずいぶんなお金持ちなのね。」
「そうだ。その交渉のテーブルに、まずは着いてもらいたい、というのが、こちらのメッセージだ。」
「ルーナは、ルーナ・キタジマはどうしたの?」
「霊的防護を施した上、とある場所へ移した。お前からは見えないはずだ。」
「そのようね。九条も一緒に?」
「その問いには答えないが、とある人物は九条の身柄も確保している、とだけ答えておこう。」
「彼女は元気?」
「その問いにも答えないでおく。」
「まあ、いいわ。その英語、独特の癖があって、あたしには懐かしい響きよ。」
「……。」
「ふん。それで、こっちが取引を拒絶すれば?」
「戦争だ。」
「分かったわ。上に伝える。」
「明日また使いを寄越す。おそらく、自分と同じ顔の者がやってくるだろう。」
「顔、見てもいいのかしら?」
「ゆっくり振り返れ。」
銃を構えたまま、黒い服の少女が一歩後ずさる。マクベリックが、振り向く。そして、呆れたような表情で、ふっと微笑む。
「なんだかもう、ほんとに懐かしい顔だわね、ユカ。どうせあなた本人も聞いているんでしょ?同じ顔のシキガミ?変わった趣味ねえ。」
「またいずれ会おう。」
「そうね。」
「食器に八つ当たりするのは、よくない。」
「……!」
マクベリックが何かを言い返そうとした瞬間、かつての同僚と同じ顔をした少女は虚空に消えた。
その夜、教誨師は品川にいた。薄手の夏物のジャケットの下に白いブラウスとタイトスカート、夜間にも関わらず大きめのサングラスをかけ、髪も、いつもの顎くらいの長さのストレートヘアではなく、今夜は肩辺りまで緩やかに巻いている。もちろんウィッグかエクステンションなのだろう。胸元と耳には、ピンクゴールド系のアクセサリー。いつもの彼女らしさはと言えば、ややゴツい印象のブーツを履いている辺りに垣間見えるくらいで、会社帰りの、地味でも派手でもない、ごく普通の若い女性のような姿をしていた。変装と言うほどのものではないが、見た目の年齢をこれで数歳はごまかせる。もともと教誨師は、物腰のせいもあって大人っぽく見えやすいのだ。一年近く前のとある仕事では、それで標的から偽物の女子校生かと疑われ、思わずその標的を銃で殴りつけてしまったこともあった。
「ここに来るのは、事件以来だわ。」
いつもより赤い唇でそう呟く。
「何かトラウマがあったり?」
「いいえ、全然。」
ふん、という様子で応える。
「ならいいけど。」
「任せて。まあ、あたしの仕事は「弟の牽制」だけだしね。」
「そうね。数分間置いてけぼりになるけど?」
「それくらい何ともないわ。弟とおしゃべりしててもいいんだし。」
「ついでに始末したりしないでね、教誨師。」
「そういう冗談は嫌いだな。」
「ごめんなさい。」
「いえ、気にしないで。……それじゃ、飛ばしてちょうだい。」
そう言って手の中の拳銃をコッキングした次の瞬間、教誨師はリビング風の部屋の真ん中で、バスローブ一枚の北嶋リヒトと対面していた。サングラスの下の片方の眉をぴくりとさせ、慌てて尻もちを着いたリヒトに銃口を向ける。
「お、お前、誰だ?いったいどこから?」
「答えると思う?それよりまずは、前、しまいなさい。」
銃口が下腹部に向けられたこともあり、社長であり教祖でもあるはずの北嶋リヒトは、酷くみっともなく慌ててバスローブの前を合わせることになった。
「驚かせて悪かったわね。あんたにメッセージよ。聞きなさい。」
「?」
何とか立ち上がったものの、依然ぽかんとした表情のリヒトに向かって相馬ひなは告げた。
「あんたの姉、北嶋ルーナは今、ある組織によって霊的に拘束されている。精神をハッキングされていると言ってもいいわ。で、お節介ながら我々がお姉さんを預かり、匿わせてもらう。問答は無用、あなたにできることは二つ。」
「二つ?」
「一つ、姉の無事を祈ること、」
リヒトが素直にうなずく。
「一つ、夜が明けて、午前一〇時になったら、この番号に電話すること。」
相馬ひなが小さな紙切れをリヒトに見せた後、床に無造作に落とす。手を伸ばそうとしたリヒトに銃を向け、低い声で制止する。
「拾うのは後よ。」
反射的にリヒトは両手を顔の脇まで挙げた。
「だいじょうぶ、そう簡単には撃たないわ。仕事が終わればすぐ消えるし、あんたの姉さんは必ず助けるし。」
「信じて、いいのか?」
「いいわ、と言って、信じられる?」
「無理だ。信じる材料がない。」
「それでいい。我々にとっては、あんたのお姉さんがハッキングされたままの状況は好ましくない。それを解消させるのが目的なの。単なる被害者に過ぎないお姉さんに危害を加えるつもりも、他から加えさせるつもりもない。まあ、美学みたいなものよ、仕事の上でのね。」
「わかった。その美学ってやつに期待させてもらおう。」
「ふん。あんたたちを護るのは、これで二回目よ。一応あんたにも最低限の警護が付くわ。あんたは警護されていることも、分からないでしょうけどね。」
「二回目?」
「時間のようね。迎えが来たわ。それじゃ。」
北嶋リヒトは、突然現れた女が突然消えた空間を、しばらくただ呆然と眺めるしかなかった。
ブログの方でアップしている縦書きpdfバージョンから、数カ所(誤字脱字以外での)修正が入ってしまいました。原則としてあまり修正しないでアップしていますが、この部分、ちょっと手抜かりがあったようです。そのうちブログの方も修正します。