第六話 光の教会
※この部分、15禁要素が多めかもしれません(多少性的なシーンあり、くらいですが)。
都心にしては珍しく、からりとした空気が包む、七月下旬のとある午前。
リーザ・マクベリックLitha McBerwickは、来日早々敢行した秋葉原、原宿、渋谷の視察を終えて、今日は一人、滞在中の宿としている品川プリンスホテルのラウンジで、ひとときのゆったりとした時を過ごしていた。入国直後から、この国の公安や同種の組織の構成員とおぼしき人間が時折、彼女の周囲に接近した。だが、そうした人間と直接対峙することだけは警戒しつつ、ここ数日は精力的に動いた。お互い、まだ探りを入れている段階だ。紳士的に、互いに警戒しているというサインを交わすだけで十分だった。それに、彼女のスキルであれば、通常の人間の尾行など、いつでも回避することができる。
(これだけの人がいて、なかなかいい素材には出くわさないものね。スタッフは現地調達って、まったくCCLも面倒なことを押しつけるもんだわ。……どのスポットにも、思いの力が強いコはそこそこいるけれど、でも、人間性がちょっと雑ね、この国の人間は。ま、多かれ少なかれ、どこかでネグレクトされてきてるから、向こう側に落ちるんでしょうけれど……。いえ、こっち側、かしらね。)
マクベリックはそもそも、Children, and the Church of the Light専属のスタッフではなかった。だが、CCLが世界中からかき集めているオカルティックなスキルを持ったスタッフの一人として、ここ数年は活動していた。
(ま、そもそも気が進まないんだけどね、この仕事。)
マクベリックの今回のタスクは、昨年、CCLから逃亡したあるエージェントの行方の調査だった。
(あのコ、帰りたがってたらしいからね。)
明日の朝早くには、マツモトという地方都市に出向かなければならない。もちろんCCLの現地スタッフを呼びつけてもかまわないのだが、関わりのある土地は観ておかなければ気が済まないというのが、マクベリックの基本スタイルだった。
会計のためのサインを終えて、そのまま、ごちゃごちゃして狭苦しい品川駅西口方面を目指す。特に理由はない。スケジュールの都合で後回しにしていたが、たとえ数日でも滞在する土地は、一日でも早く、自分の目で観ておきたかった。
歩道橋を上がる。少しでも見晴らしを得て、その土地本来の有様を掴もうとする。それはマクベリックにとっては本能のようなものだ。手すりに手を載せ、足を停めて、辺りを眺め回す。だが、あるいはその姿が、気分を悪くし風に当たろうとしているように見えたのかもしれない。たまたま通りかかった、ワンピースにロングヘアの女性が、背後から流暢な英語で話しかけてきた。振り返りながら、マクベリックが少し慌てて気遣いへの礼を述べると、その女性は笑顔で歩み去った……。
遠ざかる、その女性の背中を見遣りながら、ふと、マクベリックは口角を吊り上げる。
(羽根があんなに見えてるなんて。予定外だけど、とりあえず、一人。)
一度見つけてしまえば、後は目を瞑ってでもトレースできる。数十メートルの間隔で、優雅に尾行を開始した。
都内に点在するセンターのオフィスの一つ、早稲田ブランチに戻ってきた時田治樹を待っていたのは、ランズエンドの上級エージェントが入国したらしいという情報だった。南の孤島から戻って休む間もなく次の仕事、というわけだ。
「やれやれ、バカンスに行ってたわけじゃないんだけどね。」
そうぼやきつつも、いつも通りの対応を開始する。
人材センターは、公安警察とも、かつて重なる領域で暗躍していた組織とも異なる動き方をする。外国組織の上級エージェントが入国したからといって、無差別に二四時間追尾はしないし、反対に、それが必要と判断されれば、直接接触することも辞さない。要は、フリーの情報屋的な動きが初動の基本となる。利害関係を敢えて作らず、ニュートラルに接することで必要な情報を得る。
これは、実際に何かの依頼が入った場合に備えての、言わば事前の市場調査だ。センターに仕事の依頼が入ってから動き出すのでは遅く、また、依頼主に情報をコントロールされてしまう可能性もある。そのための対策を常時、行っているのが、時田等インテリジェンス担当のスタッフの主務だ。
「ずいぶん焼けたのね。それに、めずらしく、怪我もされて。」
突然オフィスに、少し場違いな、甘ったるい女の声が響いた。時田は天湧ウタキを囲む結界の崩壊時に、腕や脚を数カ所傷めていた。大した傷ではないが、左腕にはまだ包帯の必要な箇所もある。その声に時田はコンピューターの液晶モニターから目を離し、座ったまま振り向いた。元より誰の声かは、相手がオフィス入口のセキュリティを解除した時点で分かっている。
「あら、裕子さんじゃない。珍しいね馬場に来るなんて。」
「わたしも引きこもりおばさんではありませんので。はい、時田くんにお手紙よ。」
にっこり笑って、ハンドバッグからありきたりの茶の封筒を取り出す。受け取りながら時田は尋ねた。
「え、メールでなくて?」
「そうよ。相馬さんから。」
「ああ、了解。ありがとう。」
「副都心線、初めて乗れてよかったわ。」
「へ?新しいだけで、ただの地下鉄でしょ?……裕子さん、ひょっとして電車好き?」
「そうね、鉄ってカミングアウトしてもいいレベルだと思うわ。」
「意外過ぎ。」
「そうかしら。」
そんな会話をしつつ、手紙の封を開ける。
内容は、予想通りランズエンド関連だ。九条由佳回収のための指令が出たことを、ランズエンド内にいるセンターの協力者が伝えてきたという。要は、そちらのフィールドにうちの工作員が行く、という挨拶があったというのだ。
九条由佳は、神契東天教内の「組織」からランズエンドにレンタルされていた。レンタルとは言っても本人の意志や同意の上の契約に依るものではなく、したがって、逃亡を避ける監視は常時付いていた。それが、組織のエージェントだったドクターが放った式神たちによる奪還作戦の結果、九条はランズエンドを脱出、そのまま消息不明の扱いとなっていたのだ。
手紙には、九条由佳が現在センターにいることを、ランズエンドが察知しているのかどうかは不明、とあった。大方、CCLから届いた元々の通達には、とある逃走エージェントの調査を行う、というくらいの情報しかないのだろう、と時田は思った。
「時田くん、それじゃね。」
「ありがとう裕子さん。」
「また、汐留にも遊びにいらっしゃい。」
「……遊びで汐留に行ったことはないんですけど。」
「それじゃね。」
何か謎めいた笑顔を残して、裕子さんと呼ばれるセンターの「第六セーフハウス管理人」はオフィスを出ていった。
携帯に、森田からメールが届いた。
「ケイくん、やっと都内まで戻ってきたって。」
「やっぱり奄美大島は車で行くところではありませんね。」
「そうね……。フェリーで鹿児島まで一泊、その後は陸を走るか、また関西くらいまでフェリーに乗るか……。」
「東京まで九州から直接運航してるフェリーもありますけど、森田は自分で走る方が好きでしょうからねぇ。」
「武装満載のインプを船内に長時間停めておくのも不安だろうし。」
「そうですね。」
相馬ひなと青木はるみは、久しぶりにのんびりした気分で、午後のお茶を楽しんでいた。
あの日、組合長の船で奄美大島に戻ると、ひなたちはすぐに奄美空港に向かった。鹿児島行きの最終便に間に合えば、羽田行きの便に乗り継いで、その日のうちに都内まで戻ることができる。だから屋敷には、一昨日、二三日の夜遅くには帰ってきていた。しかし昨日は、午前中早くから病院で主治医のチェックを受けるなどした後、久しぶりのリハビリテーション病棟行きとなった。左肩間節を中心とした機能、特に筋力と柔軟性の回復具合のチェックメニューが中心であったが、それでも昼食を挟んで数時間が潰れた。筋力の使いすぎを指摘され、また全身の各所にある生傷や打撲による痣の理由も聞かれたが、例のごとくはるみさんとひと芝居打って誤魔化した。表向きは、はるみさんに合気道を習ったら気合いが入りすぎたということになっている。もちろん、相馬の家の主治医であるから、事件絡みと知っても外部に漏らすようなことはないのだが、正直にすべてを話せば顔なじみの医者に要らぬ心配をかけることになる。
そうして、帰京後最初の一日はあっと言う間に過ぎた。
だから、今日は一日を屋敷で過ごす久しぶりの日となった。
あのとき、ひながわがままを言えば、もしかすると誰も、森田ケイと二人で、車で都内まで帰ってくることに反対しなかったかもしれない。だが、おそらくただ一人、森田だけはそれを許さなかっただろう。武装を積んでいることもあるが、ドクターとの対決直後の体力では、夏の長距離ドライブは優しいものではない。教誨師にはフェリーでの船酔いの恐れもあった。
九条由佳とは、奄美大島で別れた。式神たちにとって空間的な隔たりはそれほどの障害でもなかったが、九条とともに移動するとなると、一度の移動距離もそれほど大きくはできない。フェリーでひとまず鹿児島へ渡ってから、後は気分任せで移動して帰ると言っていた。
搭乗間際、空港のロビーの片隅で、数個ずつ並べられたスツールの一つにぼんやり腰掛けていると、ベージュが話しかけてきた。
「いいの?フェリーに乗らなくて。」
特に姿を隠すこともなく、ベージュはひなの隣に座る。
「え?森田と九条さんのこと?二人なら、二人きりにしたって別に平気だと思うけど?」
「ううん、そっちじゃなくて。森田ケイとうちのバイオレットのこと。気にならないの?」
「ん、ああ。そうね、大丈夫。それに、森田は森田、だもの。ちょっと心配なこともあるけど、でも、独立した人間どうしだし、さ。」
「それは、何かあっても仕方ない、という意味だと受け取っていいの?」
「違いまーす。何かあったらそれまでだぞコラ、って意味。」
ひなが笑ってそう言うと、ベージュもにやりと笑った。
「ん、それじゃあたしたち一一人で一致団結して、バイオレットが森田ケイにかわいがってもらえるように応援しても、それは別にいいのね?」
「う、うん。いいよ?あたしが口出すことじゃないし。まだまだバイオレットには負けないつもりだし。」
ベージュはさらに笑顔になった。ただそれは、姉妹を思いやって、という優しい笑顔ではない。何か新しいおもちゃを見つけたような笑顔だ。わざとひなにも聞こえるように、念話を声に出した。
「みんな、許可が出たわよ。はいはい、バイオレット騒がない。あなたを応援してあげるって話なんだから、文句言わないの。」
フェリーは午後九時過ぎに奄美大島の名瀬港を出て、ほぼ一晩をかけて鹿児島に渡る。その間の格好の暇つぶしを、式神たちは見つけたらしい。一番の被害者はバイオレット、その次が森田ケイだろう。一応はステルスモードで行動しなければならないこともあって、式神たちも退屈なのだ。気の毒に、とひなはバイオレットを憐れむ気持ちになった。
「バイオレットに伝えておいて。ああ見えて、森田は天然よ。鈍いって言ってもいいわ。」
「余裕ね。でも、そう伝えておくわ。……ところで、前から聞こうと思ってたんだけど、なんで森田氏なんかと?自分の下僕だったんでしょ?女子校ってそんなに出会いないの?」
どうもこの手の話題が気になるのか、ベージュが少し早口で訊いてくる。
「それは由佳さんに聞いてもいいんじゃない?」
「ああ、そう言えばそうね。今度聞いてみる。」
「あと、森田は下僕じゃないわ。執事よ。」
「どう違うの?」
「……下僕は主人の教育係にはならないわ。」
「そうね。」
青木はるみが、出発の時間が近づいたと告げに来た。今行きますと応えて、それまで腰を落ち着けていたスツールから立ち上がる。
「……それじゃ、またね。次は、都内で会えるかしら?」
「また遊びに行ってもいい?」
「もちろん。」
「友達、少ないの?」
「あんたねえ……。まあそうねえ。たぶん少ない方だと思うけど。でも、足りないと感じたことはないわ。」
そう言って、右手を差し出す。
「これからも、よろしくね。」
ひながそう言うと、ベージュも右手を差しだした。
「ええ。それじゃ。」
そんな会話と握手を交わして、自分は式神たちと別れた。今はどのあたりにいるのだろうとぼんやりしていると、屋敷の若いメイドが一人、手紙を届けにきた。応対したはるみさんが開封し、内容を確認する。何の手紙だろう、と思いつつまだぼんやりしていると、
「お嬢様、森田のことをお考えになるのもいいのですが、」
そう、はるみさんが絡んできた。
「残念でした。考えていたのは式神ちゃんたちのことよ。」
「そうですか。いえ、失礼いたしました。その式神さんたちにも関わる仕事のようです。」
「そう……。あのコたちも、大変ね。」
「はい。」
「じゃ、打ち合わせね、後見人さん。」
「はい。教誨師様。」
翌日、日曜の夕方、相馬の屋敷を公安課長の杉田律雄が訪れた。相馬嶺一郎の指示で、屋敷までは森田ケイが運転手を務めた。車入れでは青木はるみ等が出迎え、南棟二階にある嶺一郎の執務室に案内する。
「杉田さん、わざわざご足労済まない。」
「いえ。我々としても、センターの判断をお伺いせねばと考えていた案件があります。」
「うむ。まあ、座ってください。はるみ君、お茶を頼む。」
すでに準備は整っていたものと見え、間を置かずお茶が運ばれてきた。青木は嶺一郎付きのメイドとともに用意を済ませると、退室した。室内には当主嶺一郎と、客人である杉田の二人だけとなる。
「さて。こちらの用件から話させてもらっていいだろうか?」
「はい。」
「用件というのは、そちらからお預かりしている九条由佳君のことだ。彼女はCCL本部を脱走したまま、現在はうちにいるわけだが、どうやら九条君の回収のための指令が、向こうで出たらしい。」
「こちらの用件というのもまさにその、九条君の件でした。こちらでも、ひとまずの情報は掴んでおります。」
「ならば話が早い。それでは結論を先に言うが、我々センターとしては、当然ながら九条君を手放したくない。金で解決するものであれば、そうしてもよいと考えている。」
「はい。」
「それで、現在日本に滞在中の向こうのエージェントとの接触を図ろうかと考えているが、できればそれは、なるべく穏便に済ませたい。そちらには、我々のこの意向を含んでおいていただきたいのだ。」
相馬は杉田に対し、公安として動きたい理由があるかもしれないが、この件まずはセンターに委ねてくれないか、と申し入れたのだ。
「承知しました。こちらとしては、武力衝突以外のケースで介入する予定はありません。」
「それはありがたい。そうしていただければ助かります。それで、こちらの持っている情報だと、今来ているのは九条君の行方を探る先遣隊、行方が判明次第数日以内に回収班が編成される、ということだ。CCL自体からは漠然とした情報しかもらっていないが、それでももらえただけましだった。幸いにして向こうはまだ、九条が我々センターの預かりとなっていることを知らないらしい。」
嶺一郎の言葉に杉田は頷いた。
「こちらで入手した情報ですと、入国中のエージェントはすでに都内数地点の視察を終えて、昨日の朝から松本に移動しているとのことです。松本の件は予測可能ですが、都内の視察の理由が我々には確認できていません。」
「その点は、九条君に訊いてみた。彼女が言うには、スカウトだろうということだ。」
杉田とて、素人ではない。たいていのエージェントの行動理由など推測可能でなければならない。しかし今回は、都内視察の理由が掴めなかったばかりか、この「スカウト」という言葉には、全く知識の持ち合わせがなかった。それを素直に問う。
「スカウト、というのはどのような?」
「うむ。これは、九条君の話の受け売りだが、望質の人材が集まりそうな土地に行き、手順は不明だが兵隊として使役する、そんなスキルを持ったエージェントが数名、ランズエンドにはいたそうだ。」
「なるほど。」
「それで、スカウト先の地点からすると、今回来ているのはそうしたエージェントの一人、通称ナードマスターであろう、というのが我々の現状での結論だ。」
「ナードマスター、ですか。」
「そうだ。ナードと呼ばれるような気質を持った者を、強制的に巫化し、使役する。」
「それは、穏やかではありませんな。」
杉田の表情が険しいものになる。組織間の、いわばプロどうしの攻防に留まらず、民間人が「スカウト」され巻き込まれる可能性があることを、杉田も、そして嶺一郎も憂慮していた。
「ああ。我々としては、エージェントが兵隊を集め本格的に回収作戦を始めるまでに、そのエージェントと接触したい。その期を逃せば、事態は収拾しにくいものになろう。」
「使役される者に実害は?」
「分からない。だが、巫化の際に巫病を発症するケースはあるという。」
「自己同一性の喪失による諸精神疾患、ですか。」
「そうだ。もちろん我々も詳しいことは分からない。さっきも言ったが、この分析の基本はほぼ、九条君からの受け売りだ。」
「そうですか。ところで九条君は今、どちらに。この状況では、九条君の身の安全も……」
杉田がそこまで言うと、なぜか唐突に、相馬嶺一郎は微笑んだ。
「それが、実はな。」
そう言って立ち上がり、隣の応接室に続くドアを開けた。
「あ、課長だ!」
「あなたたち、もうだいぶ成長したんだから、敬語くらい使いなさい。」
てへ、という顔で、薔薇がはにかむ。他の式神たちも、次々に頭を下げ、挨拶する。
「そうですか、こちらでしたか。」
「無理を言って、今日来てもらったのだ。ここなら、多少の防護はできる。娘も喜んでいる。君が九条君をセンターに預けてくれたおかげで、娘には友人が増えたらしい。」
杉田と嶺一郎が笑い合う。九条が二人に頭を下げる。
「このたびはいろいろご面倒を。」
「気遣いは無要だ。私は、必要なものには必要な投資をする、それだけだ。」
「九条君、久しぶりです。状況が安定するまで、こちらにご厄介になるといい。相馬さんは、頼れるお方です。」
「なあ杉田、目の前で煽てないでくれ。昔からこいつは、オレをうまいことよいしょして利用してきたんだ。」
そう言って、普段の嶺一郎とはどこか違った、若々しい声で笑った。九条が少し訝しそうな表情を浮かべると、嶺一郎が説明した。
「こいつはな、大学のときの山岳部の後輩なんだよ。わずかな間だったが、ずいぶんしごいたもんだ。オレも若かったからな。今は互いに、立場を弁えて話をしているが、正直に言えばオレは落ち着かない。でも、当時のように喋ろうとすると、杉田に叱られるんだ。」
「それはそうです。相馬さんは名実ともに重要な立場におありですが、私は一公僕に過ぎません。そのあたりは、ぜひ弁えていただかなければ。」
そう言いつつ、杉田も自然と笑顔になっている。九条はその二人の様子を見て、何故だかふと、自分と教誨師の未来を思った。
「やっぱり、ケイくんか。」
正門近くの来客用の車入れに、こっそり、という様子で相馬ひながやってきた。屋敷南棟の東端には、来客に随行する運転手らのための控室が設けられていたが、森田ケイはそこには行かず、車入れに停めたままのインプレッサにもたれて、一人たばこをくわえていた。漆黒の車体に、相馬の屋敷の夕景が映り込んでいる。その夕景に溶け込むように、森田はただ、佇んでいた。長く住んでいた、この屋敷の景色を懐かしんでくれているのか、それとも、何か別のことを思っているのか、それは、ひなには分からなかった。ただ、自分の彼氏ながら、かっこつけすぎで声かけにくいんだよね、と思ったことと、声をかける前、うっかり数秒間見とれてしまったことは確実に内緒だ。
一応は平静を装って声をかけたひなに、森田ケイは、特に挨拶もなく顔だけを向けて返事をする。執事とお嬢様ではない、二人の時間だった。
「ああ。旦那様に、杉田さんをお連れするように頼まれた。」
「用件はきっと、九条さんのことね。」
「九条がどうかしたのか?」
「……回収指令。ランズエンドが出したの。」
その言葉に、森田の目つきが険しくなる。背中をインプレッサから離し、ようやくひなの方に体ごと向き直ると、少し横を向いて、ため息のようにたばこの煙を吐き出した。
「そうか。ついに出たか。」
「ええ。組織が崩壊したこともあって、向こうでは九条さんをとりあえず消息不明としていたみたいだけど、今回の指令ではっきりさせるみたい。もう、エージェントが入国して活動してるわ。」
「組織の次はCCLが相手、か。九条も苦労が耐えないな。」
「CCLって、どんな組織だった?」
「いや、オレは直接は知らないぜ。イギリスにはずいぶんいたし、多少はやり合ったこともあるが、基本的にはCCLと向こうの公安機構は利害が一致していた。」
「そっか。大きい組織だから、情報もずいぶん出てるのかと思ってた。」
「知ってるか?CCL本部、今はランズエンドにはないんだぜ。」
「あ、そうなんだ。」
「今は、オランダ国内のどこかに本部を移したって話だ。移転の原因は、」
「もしかして?」
「そう、九条だ。内部に詳しい者が一人逃走しただけで、確実に対応してくる、そんな組織だということだ。」
「……まだ、島から帰ってきたばかりなのに。九条さん、大丈夫かな。」
「オレは昨日帰ってきたところだけどな。」
ケイは、答えをはぐらかした。大丈夫であってもなくても、おそらく、九条は闘わなければならない。
「あ、でもね。今回はお父様が本気出してるからね。」
「取引か戦争か、だな。」
「そ。あたしも一応臨戦態勢を維持するようにって。護衛としてね。」
「護衛?」
「そ。もうはるみさんと交代で護衛開始してるわよ。まだまだ警戒レベルは低いけどね。」
「……なるほど。ここでか。」
「ええ。ここでよ。お父様の本気ぶり、分かるでしょ?」
「そうだな。」
「悔しいけど、九条さん単体でも、教誨師の数倍の価値があるわ。だから、当然の対応だと思うけど。」
「……お前、ちょっと変わったな。」
「そう?」
「視野が少し、広く持てるようになりつつある。」
「単に、友人たちに甘いだけかもよ。」
「それもだ。世界の中に、自分とターゲット以外の人間がいても、教誨師としての判断ができるようになってきている。自分の甘さも含めて計算できてる。まあ、今回は別に、甘い判断だとは思わないが。」
「ふーん。」
気のない返事をする相馬ひなを見ながら、森田ケイは、教誨師にとってその後見人は同性の方がよかったのかもしれないと、ふと考えた。異性の自分が後見人だった頃、教誨師は状況よりも自分の言動の方を優先していた嫌いがあった。気づかぬふりをしたことも、正面からそれを退けたこともあったが、やがて避けられぬ事実となったように、教誨師はその後見人であったケイに対し、単なる異性に対するもの以上の感情さえ、抱いてしまった。だが仮に、そうした感情の問題を抜きにしても、教誨師のパートナーは、同性の人間の方が良かったのかもしれない。
作戦行動時、最終的には自らの判断で教誨師は行動しなければならない。そもそも「後見人」に対して指示を仰ぎつつ行動することになっている現在の教誨師は、意識的であれ無意識的であれ、常にその後見人に対する心理的な依存を抱え込みやすい状況にある。しかし、後見人が同性の人間となれば、依存は完全には払拭できないとしても、その発想を共有し、さらには自分自身で判断をする際のモデルとすることも、より容易になるはずだ。ケイはそう思い、教誨師の成長の兆候と新しい後見人の仕事ぶりに、ひとまずの安堵の念を覚えた。
「そうだ、望遠鏡は無事?」
昨日都内まで戻ったケイは、相馬家の装備をすべて、執事長の西村に託してから帰宅していた。その中には、銃器や青木はるみのナイフ類だけでなく、ウタキでの戦闘で邪神を斬った「鬼斬り」も含まれていた。
「ええ、昼間、秩父の大叔母様のところに届けてきたわ。」
「大叔母様は、何かおっしゃっていたか?」
「いいえ。ただ、刀は相馬ひなのものとする、って一筆くださったわ。手入れが終わったら連絡くださるそうよ。」
「他には何も?」
「久しぶりにお会いしたってこともあって、いろいろ喋ったりしたくらい。……ただ、ちょっと怒られた。」
「ん?」
「……ケイくんは、別に知らなくていいこと。」
「まさか?」
「気にしなくていい。謝らなくていい。」
「すま、いや、そうか。」
「ケイくんがいるから、教誨師になれる、戦える。そう、クチゴタエしてきた。」
「……照れるな。」
「多少は照れてもらわないとさ。こっちも……」
「あ、あの、お取り込み中?」
ひょっこりと、インプレッサの後ろから式神の少女が現れた。
「えっ?あ、ああ。えーと、赤ね。」
「うん。二人を嶺一郎さんと課長さんが呼んでる。」
この夕暮れの光量の中で、教誨師はいったいどうやって式神の少女の個体識別を行ったのだろうと、森田はかすかな疑念を覚えた。傍から見ている限り、目の前の式神の少女には識別用のカラーリングも何もなかった。しかし、当人たちにはその状態でも識別できるのが当たり前のことのようで、二人の会話はごく日常的に進んでいく。
「分かったわ。一緒に行きましょう?赤。森田もほら、さっさと……」
「呼び捨てはいけないんだよ。」
「……赤、あなたわざと子どものふりしてない?」
「え、バレた?」
「ええ。バレバレよ。」
「これでも気を遣ったつもりなんだけどな。さっきまでケイくんって呼んでたのに、急にモリタ、って言うから。」
「ちょ、ちょっと、あなた、いつから聞いてたの?」
「厳密には、「あなたたち」って言うべき。」
「みんなでリンクしてたのね……。」
ひなが両手で頭を抱える。
「大丈夫、九条は聞いてないし。バイオレットは拗ねてるけど。」
「拗ねるくらいならリンクしなきゃいいじゃん!」
だん、と足で地面を踏み鳴らす。対する式神の少女がしれっと言い放つ。
「その辺の乙女心、あなたには分からないの?」
「……!」
最近すっかり式神たちのおもちゃ役が定着した相馬ひなだった。
思えば金曜の夜くらいから、姉ルーナの様子はおかしかった。ふだんは居住スペースに隠りきりで、絶対に姿を見せないオフィスに現れ、残業部隊と夜勤シフトの班に夕食を気前よく振る舞ったりした。恐縮する社員たちを前に、ひとまず社長であるリヒトも姉の言動に話を合わせ、ルーナのおごりなんて滅多にないんだ、遠慮してるともう一生食えないぞ、などと笑いつつ、一緒に料理をぱくついた。もちろん、その辺の出来合いの品ではない。北嶋ルーナが、自らの名前を出して、懇意の店に作らせ、届けさせたものだ。
「ねえさん、どうしたの?」
小声で尋ねてみる。
「え?ちょっと今日は気分がいいだけよ。あなたも仕事が終わったら、早く上がってらっしゃい。二人で飲みたいワインがあるのよ。」
完全に、普段の姉ではなかった。世間一般の姉弟関係からすれば、ずいぶん奇妙なところのある二人だったが、それでも、普段の姉と今の姉とがまるで違うのは、月の半分は同居している状態のリヒトには、はっきり分かった。
(まさか、またあれが?……もうずっと、何ともなかったのに……。)
北嶋リヒトは、とある一つの記憶に行き当たった。
それが起きたのは一二年前、北嶋ルーナ一七歳、北嶋リヒト一四歳の夏だった。
当時はまだ今ほどは、ストーカー被害も当たり前の話ではなかったのかもしれない。高校二年になろうという春くらいから、北嶋ルーナはストーカーに付きまとわれていると訴えるようになり、軽いノイローゼのようになっていた。だがそのことを訴えるルーナのことばを、周囲の大人たちは皆、教師、警察、そして実の親さえも、信用しようとしなかった。今となってはもう、そのストーカーの存在を立証することも難しいのだが、ともかくルーナ自身は、何者かの監視下にあることを繰り返し訴え、しかし周囲は取り合わないという構図が続いた。その結果、ストーカー被害自体よりも、そんな大人たちの態度によってルーナはさらに追いつめられていくことになった。
やがてルーナは、ストレスから完全な登校拒否、ほぼ引きこもりの状態となり、五月下旬以降は全く登校できないままに過ごした。そしてそのまま迎えた、夏休みの初日。両親のいない昼。リヒトは、二人でお昼ご飯を食べようと姉の部屋の前で声をかけたのだが、返事がない。いつもなら少なくとも、リヒトには断りの返事くらいはするはずだった。何となく嫌な感じがして、慌ててドアノブを捻り、部屋に飛び込んだ。
鍵は、かかってはいなかった
姉の匂いのこもった室内には、誰もいなかった。
ただ、白いレースのカーテンがかすかに風に揺れていた。
そして、その向こう、夏の日差しの落ちるベランダに、白い人影があった。
姉は一人、全裸のまま、ベランダの手すりによじ登り、そこから飛び降りようとしていた。
「ねえさん危ないよ、うち一〇階!」
慌ててベランダに飛び出し、背後から抱き留めると、ルーナは特に抵抗はしなかった。何とか室内まで連れ戻し、急いで窓を閉め鍵をかけたリヒトの顔を見つめて、姉はただ、にっこりと微笑んだ。こんな晴れやかな顔の姉は、もうずっと、見ていなかった。そしてそれからリヒトは、青空の覗く明るい夏の窓を前に、姉が何も身につけずに立っていることを思い出した。
一七歳の姉の肢体を、もうここ数年見ていなかったルーナの体を、リヒトは隈なく見てしまった。豊かに成長した胸も、細くくびれた腰も、そして、その下方にうっすらと生じたやわらかな翳りも、すべて、見てしまった。すべて、小学生の頃見た、記憶の中の姉の身体とは、もはや、まるで違っていた――。
そう言えばさっき、抱きかかえたとき、慌てて胸も触ってしまったかもしれない。自分の腕の内側にその感触が残っている気がする。ようやく姉の体から目を逸らし、そのことを詫びようと思ったとき、
「空を、飛ぼうと思って。」
あまりの台詞に、リヒトはそのまま硬直してしまった。いったい姉は、どうしてしまったというのだ――
「だから、飛んでいい?」
ルーナが、さらに問う。
「だ、ダメだよねえさん。」
何とか、掠れた声でそう答える。
「どうして?」
「落ちたら死んじゃうよ!」
「あたしは飛ぶのよ?落ちるのではないわ。」
「ダメ、絶対落ちるって。」
「そうかしら。……リヒトがそんなに言うなら、そうかもしれないわね。」
「うん。だから、飛んだりしないで、ここにいて?ぼくといっしょにいて?」
「いいわよ。でも、どうして?リヒトはあたしに、そんなにいっしょにいてほしいの?」
からかうような目で、姉はリヒトを見ている。
「そんなの、……いて欲しいに決まってるじゃないか。」
思ってもみない問いに、何とか姉を踏みとどまらせようと、弟はそう答えた。すると姉は、最近背が伸びて、自分とあまり身長の変わらなくなった弟を上目遣いで見つめ、少しだけ、頬を紅潮させて、言った。
「リヒト、ねえさんのこと、好き?」
――思えば、どうしてあのとき、好きだと答えてしまったのだろう。あのとき、あの瞬間から、二人はふつうの姉と弟ではなくなった。姉を失いたくなかったのは本当だ。だが、他にも応えようがあったのではないか。姉を踏み留まらせる、何か別の方法が、あったのではないか……。
姉は、その存在そのものを叩きつけ、むしろ自分自身を痛めつけるように、弟を求めた。お互い初めての者どうし、初めはぎこちなくもあったが、弟も姉の求めに、真摯によく応えた。大人たちが二人のただならぬ関係に気づいたのはその夏の終わりであったから、それまでの数週間、二人は大人たちの目を盗んでは互いを求め合った。
たぶん、自分は本当に、姉のことを好きだったのだろう。肉親としてではなく、一人の女として、心のどこかで求めていたのだろう。そうでなければ、――。
最近はもうずっと、最後までは求め合わない約束になっていた。ルーナは自身のサイクルに合わせるように、月の半分は毎朝の日課のようにリヒトを求めてきた。だが、それは一方的にリヒトのものを摂取するための行為であり、以前のように二人してつながり合うことまでは求めなかった。
金曜の夜は、特に何事も起こらなかった。土曜も、姉は終始機嫌がよかったが、それだけだった。特に何事もなく、週末を乗り越えられそうだと思い、ほっとしてまどろんだ頃、それはやってきた。
気配を感じて、眠りに落ちそうだった瞼を開くと、ベッドサイドにルーナが立っていた。
「どうしたの?ねえさん。」
半身を起こし、部屋の照明を少しだけ明るくすると、ルーナはナイフを握りしめ、おのれの喉元に押し当てていた。
「何してるんだ!」
そう言って、リヒトがナイフを取り上げようとすると、ルーナはつぶやくように言った。
「抱いてくれなければ、ここで死ぬ。」
そしてさらに、つぶやいた。
「死にたいの。でも、死にたくないの。」
「ねえさん……。オレが抱いたら、死なずにいてくれるの?」
「リヒトがあたしに飽きたら死ぬわ。」
「飽きないよ。絶対に。ねえさんは、オレの女なんだ。たった一人の、大事な人なんだ。」
「ありがと……。」
北嶋ルーナは、泣き始めた。
「ねえリヒト、助けて。またあの日が、あの日が戻ってきちゃったよう……。」
「分かった。分かったから。ね、まず、ナイフを放して。うん、そう。それから、抱きしめさせて。ルーナ、手が冷たいよ。温めてあげる。ほら、泣かないで。ルーナ。ねえさん。」
「ねえ、キスして?」
「……うん。」
「……ん、あ、リヒト、リヒト。今から、いっぱい、して。ねえ?あたしの全部に、全部、ちょうだい?」
北嶋リヒトは、一四歳の夏と同じように、謹厳に、ルーナの求めに応えた。求められた場所には、すべて与えた。それでもルーナは、繰り返し求め続けた。求め続けたまま、リヒトを迎え入れたまま、朝方ようやく、眠りに落ちた。
(何があったの?ねえさん……。)
そっとルーナの長い髪を撫で、北嶋リヒトはシャワールームに向かった。後数時間もすれば、社長としての仕事が始まる。
(重役たちには、姉の異変は伝えておかなければ。……幸いここは、天界人羽教の城だ。教祖の姉が神懸かりになっても、何の不思議もないんだ。)
そう思うと、心が少し、軽くなった。
(そう言えば、ねえさんの中、久しぶりだったな……)
そう、ちらと思うと、それだけで、打ちのめされ尽くし果て切ったはずの自分自身にも、力が戻ってきた。
(ねえさんは、護らなきゃ。)
疲労の極みにある己に鞭打ち、北嶋リヒトの一日がまた始まった。
日付は、七月二七日に替わっていた。品川プリンスホテルの一室、そのバスルームで瞑想する女が一人。
(あらあら、あの羽根つきのコ、もう跳んじゃったのね。そうか、経験者だったのね。知ってる分、恐怖も大きかったか。)
結局マツモトでは一泊しただけだったが、めぼしい成果は得られなかった。ただ、神契東天教の教祖ルツコが九条を匿っているわけではないことは、確認できた。一月の事件でCCLとも関係の深かった神契東天教防人衆――通称「組織」は崩壊、組織の中心人物は殺害された。教祖ルツコは事件沈静化後、全国行脚を開始し、教団の建て直しに尽力したが、その行脚の途中から病を宿し、今はマツモトの奥の院で療養している。そばには二人の部下がついているが、どちらも九条の年齢とはかけ離れた、高齢の人物だった。CCLのスタッフの情報も、自身が潜入した成果でも、そうした情報を覆す要素は見あたらなかった。つまり、ルツコの周辺に、九条らしい人物の陰も痕跡も、見出せなかったのである。
(元組織の線は消えたわね。後は、考えられるとすれば、公安かしら……。結局事件の首謀者は不明というけれど、九条自身が乗り込んだと考えれば、一応は辻褄が合う話だわ。その首謀者を隠蔽できるのは、当然公安よね。それにしても、)
リーザ・マクベリックはお湯を張りハーブを投入したバスタブの中に鼻のすぐ下まで浸かりながら、小首を傾げた。
(九条単体であの規模の神殿を攻略したのかしら。隠遁・潜入系の業ばかりで、攻め手の印象がほとんどないコだったからなぁ。ん、ああ、凄いわね、このコ。生けるサキュバスのようよ。あああ、もう、どれだけ精を喰らいたいの……?)
どうやら、何者かの知覚に便乗して、その者の五感が受ける刺激を勝手に共有し始めたらしい。マクベリック自身の四肢も、その快楽の波に応じて淫らに蠢く。
そのさなか、ふとマクベリックは、オーセンティック・グローブおよび天界人羽教、そして北嶋リヒト・ルーナ姉弟に関するCCLスタッフのレポートを思い出した。
(彼女は、使えるわね。環境もいい。明日から、働いてもらうわ。でも今夜は、二人でゆっくり、楽しみなさい?背徳の、東方の姉巫女。)
やがてマクベリックは、知覚の便乗にも飽きたらしく、ざぶりと立ち上がりハーブの入ったサシェをさもつまらないものを扱うように始末すると、お湯を払いつつシャワーを浴びた。
北嶋姉弟の受難が、始まった。
第一部後半で出てきた姉弟がまた、事件に巻き込まれます。脇役好き(?)な作者のせいで、一度登場した脇役がけっこう使い回されます。