第三話 蝕
午前五時を過ぎた。
相馬ひなは、銘消しの刀のみを持って、海を見下ろせる高台の上に立っていた。
東シナ海を吹き渡っていく風は湿り、肌にべたつく。
日の出の遅い空はまだ暗く、はっきりとは見えないが、雲が重たく垂れ込めているのは分かった。
森田と違って、これまでの人生において、自分には過去世の記憶を告げるような夢告はなかった。だが、自分にはそれでよかったような気もしている。
今、この時をどう撃ち抜き、どうやってこの時を切り開くか。それこそが自分に必要な感覚であり、判断であると思った。
だから、過去世のことは、分からなくてもいいと、思った。
ふっと、左手が動く。一瞬後に柄を掴んだ右手に力みはなく、刀身が自ら滑り出すように鞘から抜け出ていく。直後、わずかに、風を切る音。
(それが、あなたたちのためになるのなら。)
薄暗闇の中、滑らかな金属が白木の鞘に戻っていく。
(あたしは、あなたたちさえ、斬る。)
もう一度、暗い虚空を切り裂いた。
五人は、午前七時にはキャンプを離れた。三〇分ほどの道のりを歩き、クバの森のほとりまでやってきた。作戦は、夕べのうちに打ち合わせを終えていた。あとはただ、それを信じ、各自の役割を遂行するのみだ。
森田と時田がまず、森の中へと偵察に出た。状況によっては、作戦をアジャストする必要がある。ポイントは、森への侵入者にどう対処するかを確かめることにあった。昨日とは違い、途中の小道では何事も起こらず、ただウタキ中央の陣を、全式神が固めていた。
七時五五分。九条が夕べ言ったとおり、明灰からグレーへの詠唱交替があり、ドクター復活のための情報の縒り込みは、最終段階を迎えた。そのことを確認すると、時田と森田はウタキを離れた。
「びっくりするくらい何も起こらなかったな。」
ある程度の距離を戻って、背後を確認してから時田が言った。
「詠唱中の式神を攻撃する選択肢は、どうだったんだろうな。」
森田が問い返す。
「九条の話じゃ、式神は一柱でも残ればやがて全員が復帰するというし、まあ蝕まで時間のないところで仕掛ければ、多少は影響も出るんだろうが。」
「不確定要素の方が怖い、か。」
「そうだね。こればっかりは、ね。専門家の言うことを聞くしかないね。」
そんな会話をしているうちに、何事もなく二人は森の外へと戻った。空模様はさらに悪くなっている。南西の方角から、雨雲がすぐそこまで近づいてきていた。かなりの強い雨を伴うらしく、雲の真下は暗く滲んで見えた。
「降られそうだね。」
時田が帰還の報告がわりに言う。
「状況は?」
「九条さんの言ったとおり。詠唱交替も、予測の時間通りだったよ。のこのこウタキの端まで行って覗いてきたけど、一切攻撃なし。」
「そうですか。わかりました。……では、我々も、予定通りです。皆さん、よろしくお願いいたします。」
九条の言葉に、相馬ひなは無言のまま、きゅ、と下唇を噛んだ。そして、イエローのテープの貼られたマガジンを、MP5に装着した。
(あたしの仕事は、式神たちの動きを封じること。九条さんの術の行使を妨げる要因を排除すること。そして、)
時には微笑みを浮かべつつ、最終的な装備の確認をしている四人の大人たちをちらと見て、教誨師は心の中で呟いた。
(……みんなを連れて帰ること。)
背中の銘消しと肩から下げたMP5の重さが、相馬ひなに教誨師としての自覚を促していた。どんどん近づいてくる雨雲を睨む。
後ろから、九条由佳が声をかけた。
「ひなさん、まずは私にやらせてね。でも、その後は、」
「分かってます。何が起きても、あたしはみんなを連れ帰ります。」
「ええ。よろしくお願いします。」
八時五〇分。五人は森に入った。
天湧のウタキは、薄い表土の下はすぐに堅い岩盤となっており、樹木は大して根を伸ばせない。たとえ実が落ち芽吹いても、嵐が来れば倒されてしまい、元の、うっすら草の生える程度の、がらんとした空き地に戻ってしまう。
今そこに、一二柱の式神が陣を形成し、ただひたすら、ある者の到来と再生を待っている。式神たちにとっては生みの親、ドクターの通り名で呼ばれていたオリエンタル・マジシャン、賀茂秋善の、再誕を待っている。
八時五五分、最後の詠唱が終わった。このあとの二時間は、式神の一人である黒の体内で、ドクターの全情報の再構成が行われる。一二の式神の中に格納されていた、ドクターの遺伝情報と経験情報のすべてが、一つの人格を再現し、今一度この世界にドクターを存在させるために、縒り合わされ、結び直されているのだ。
人は、人の生きる時間と理の中で、肉を持つ人と人との間に、生まれ落ちなければならない。再生するドクターはしかし、ドクターという人の情報を父とし、式神の少女を母胎として生まれてくる。仮に情報自体が全く瑕瑾のない無謬の情報であったとしても、それに肉を与えるのは、本来肉を持たないはずの、式神である。したがって、そこに生まれてくるのは、人の遺伝情報と知識を持ち、霊的な肉を持つ、邪神であった。
邪神が、人類と共存できるか、かつて試した者はいたのかもしれない。長く生きた者もいたようだ。だが、あまりに長命のため、記録の方が途絶してしまっている。邪神の力を利用せんとして、大きな争いが生じた歴史もある。
少なくともこの千年、九条や賀茂のような職種の人間たちは、その場その場の各自の利害を超え、邪神の誕生を防いできた。邪神は、人類以上の存在だ。制御することはできず、人にできるのはただ、邪神が邪神として大きな災いをもたらし始める前に、その存在を抹消することだけだ……。
そうしたことを、教誨師も今は、知っている。夕べ、九条が話してくれた。
(問答無用、か……。)
かつて、そうしたやり方に疑問を感じたために、相馬ひなは、自らがこれから始末する者の話をなるべく聞くようにしてきた。その中には、親子ほども歳の違う相馬ひなに対して、懺悔や感謝を述べてから逝く者さえ、現れたこともある。そうした中でいつの間にか与えられた渾名が、「教誨師」であった。
(もちろん、納得は行かないわ。でも、……)
教誨師の脳裏を、昨日の式神たちの姿が過ぎる。何発弾丸を撃ち込んでも、休む暇なく再生させられ、また撃たれにやってくる。しかも、彼女たちは、自らの意志であえて撃たれようとしていた。己の覚悟を身の内に繰り返す。
(ドクター、あなたのことばはもう、要らない。死ねないならまた、殺してあげる。)
「さて、ドクターさん、とりあえずこっちはこっちの仕事をさせてもらうよ。あんたはのんびり、復活の準備でもしてな。」
天湧のウタキに着くと、時田が式神たちに向かってそんなことを言った。その刹那、濃紺、深紫、薔薇、明灰の四人が弾かれたように陣を離れ、攻撃態勢に入る。だが、先頭の時田に向かって大きく跳躍した直後、森田と教誨師の放った銃弾に皆撃ち落とされた。
「昨日とは、違うの。あたしも今日は全弾、銀の弾丸よ。再生には、それなりに時間がかかるでしょ?」
教誨師が、冷たく言い放つ。撃たれた式神たちは、陣に戻ろうとして地を這いずる。
「だから言ったろ?あんたはのんびり復活してなって。こっちも、復活した後のあんたにしか興味はないんだ。」
一度は、ドクターの復活前に式神全員の抹消を図る案も検討された。それが実行されたとしても、式神の回復能力は侮れず、確実にドクターの復活を回避できるかは分からないが、当然ながら、それを試してみる価値は十分にあったのだ。しかし、九条が白紙委任を、ひなが議決からの棄権を早々に表明し、また、時田が式神たちのセンター内での重要性を述べた。これに森田と青木が賛同したため、最終的に式神を抹消する案はキャンセルされた。
(あたしは、みんなを連れて帰る。「みんな」には当然、式神ちゃんたちも入っているわ。だから、もう少し、我慢してて。)
声にはしない絶叫を、教誨師は叫ぶ。
「じゃ、行こうか。」
時田の合図とともに、森田ケイ、時田自身、青木はるみと教誨師がウタキの東西南北に走る。一瞬遅れてインディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四人が自分の持ち方位に近い相手へと対応するが、一対一の勝負では武器を持たない式神たちには分が悪い。易々と四方を教誨師たちが押さえ、皆、片手で銃を構えつつ、六〇cmほどの金属製の杭を地面に突き立てる。元々はキャンプ用のテントを地面に固定するための杭だが、今朝方九条が術を施し、今は急拵えの呪具へと変わっている。ロープを固定するはずの輪の部分に、ややデフォルメされたように見える星座の書き込まれた木片が、針金で結びつけられている。
星座は、大熊座。この場合は北斗七星と呼ぶのが正しいだろう。
それは、占星術の家である九条家の、主神であった。蝕の数分間、太陽神の隠れる時間帯を守護する紋章として、九条は迷わず、北斗七星を選んだ。
この南海の孤島でどれほどの霊力を発揮できるか、それは未確認だ。だが、九条が単独で発揮できる最大の力を保証する、それは絶対の回路であった。
四人は、地面に杭を打ち込む。ハンマーが足りず、森田と時田はキャンプで手頃な石を探して持ってきていた。
「準備オッケー。九条さんよろしく!」
相変わらず、というよりはふだんより少しテンションが上がった口調の時田が告げた。ウタキ南端のクバの間から、九条がふっと湧き出るように姿を現した。南の方位担当の青木のすぐ脇をふわっと舞うようにして進み、無造作にウタキ内部へと足を踏み入れる。両肩に張り付けてあった紙の札が、その瞬間に弾け飛ぶ。防御のためと言うより、結界を潜るための手形のようなものだ。禊ぎのプロセスを飛び越し、シャーマン特有の精神状態まで、一気に自身を引き上げる。
杭を打ち込んだ四人の手元まで、その衝撃がびりびりと伝わってきた。
臨戦状態の九条由佳を見たことがある者は、このメンバーの中にはいなかった。ランズエンド脱出後の九条には、式神が常に付き従っており、単独で戦う必要性はなかったのだ。
「悪くないわ。」
ウタキを囲むように形成された陣の「張り具合」を確かめるように、九条は呟いた。そして、叫んだ。
「皆さん、二の杭を!」
この杭はいわば駄目押しだ。教誨師たちは時計回りに四五度移動し、北東、南東、南西、北西に、次の杭を打ち込んだ。ある程度はドクターも折り込み済みなのだろう。もはや式神たちも動かない。ぎりぎりと、ウタキ全体をドーム状に締め上げるように、見えない何かが引き絞られていく。九条の両眼が、いくらかつり上がっているようにも見える。九条が片手を挙げ、四人はまた、元の位置に戻る。
九条由佳は、正真正銘のシャーマンだった。占星術の家系の生まれながら、ただ世界を読むだけでなく、神を降ろす力を有していた。陣を作り力を呼び込むだけでなく、そこに自ら力を供給し、励起させる力を有していた。
「それじゃ、始めさせてもらうわ。」
ぱん、と一つ柏手を打つと、九条は自らを囲む八方に、瞬時に竹篦のようなものを投げた。それらは正確に地面に突き立ち、九条を中心とした八角形を形成する。一枚の竹篦には、一つずつ、小さな黒い星形が記されている。五芒星そのものが呪符だが、九条が用いるものは意味が違う。
それは、北極星だ。北斗七星とともに、北天に常に在る星。北天の中心を知らしめる北辰の星。その力を刻んだ竹篦八枚で、自らを囲む。そうすることで、この南海の孤島に、北天の要素をさらに刻みつける。
式神たちがウタキ内につくるドクター復活のための陣、ウタキを囲む北斗七星の陣、そして、このウタキ、森、この島。それらすべてが、震えていた。九条自身を囲む、最小の陣の出現に合わせて、島の結界が、揺らいでいた。島を護る珊瑚礁に、外海からではなく、島からの波が到達する。
「島の神よ、島主よ、吾は、汝等の聖域を踏み荒らす者なり。許されざる者なり。ただ願わくは、やがて立ち現れん邪なる者とともに、吾を葬り給え。」
九条由佳は小声で繰り返しそう唱えつつ、陣の中を舞うように踏みしめる。
「北天の主よ、七つ星よ、吾は、汝に帰依する家の者なり。汝の影を踏み歩く者なり。願わくは、やがて立ち現れん哀れなる者とともに、我を御もとへ還らせ給え。」
覚悟の、舞踏であった。覚悟の、祈願であった。九条の足跡は、北斗七星の形になった。
九条の陣は、ウタキの南端に近い場所に設けられた。南の警護に当たる青木はるみは、だから、九条由佳の祈りを間近に聞いていた。今朝、教誨師がキャンプを離れた隙に、九条由佳は、青木はるみの前に額付いて、二つのことを依頼した。一つ、自らが陣に入ってからの祈願の内容を、教誨師に伝えないこと、一つ、自らに何があっても、作戦の遂行を止めないこと……。
これか、と青木はるみは思った。九条は最初から、覚悟を定めていたのだ。
ウタキを囲む結界は、復活したドクターを逃がさないためと九条は言った。だがそれはきっと、自分たちを入らせないためでもあるのだろう。やがて陣はそのまま閉じ、北天の異界へとシフトする。そのとき、邪神として復活したドクターは、九条や式神たちとともに封じられる……。
青木はるみは、九条由佳の覚悟を妨げないことにした。あり得ないほど歪んでいるとは言え、これは賀茂秋善と九条由佳、そして一二人の式神たちから構成される、一つの「家族」の問題なのだ、そう、青木はるみは納得することにした。そして、なぜかふっと、微笑みを浮かべた。
(まあ、それでは絶対納得しない方が一名、いらっしゃいますので。結末は、その方にお任せすることにいたします。)
そしてまた、青木はるみは南の方位の警護に集中した。
やがて、九条由佳は静かに自陣の中央に座した。北天の要素で標しづけられた自陣は、幾重にも防護されたドクター復活の陣に打ち込まれた、楔のようなものだ。その楔の先端に、九条自身がいる。
(さあ、準備はできたわ。賀茂くん、日蝕まで一時間よ。……待ち遠しいわ、愛しい人。)
五人と一二人が対峙するウタキにも、ついに、雨が落ち始めた。
午前一〇時を過ぎ、厚い雲の上では第一接触を迎えた。日輪の一部が欠け始めているはずだが、まだ地上の明るさに影響するほどではない。しかし、地上では、皆既日蝕となる一〇時五五分を前に、少しずつ、新たな術の影響が蓄積されていた。
はじめ九条は、自陣の中を北斗七星の形に踏み歩き、それを百度繰り返した。その後、少しずつ勢いを強める雨の中、地面に静かに座し、島の神と島主、そして守護神たる北斗七星に捧げる祈願を、唱えていた。雨音と、九条の祈願の声だけが、ひたひたと満ちてくる潮のようにウタキを満たす、不思議としんとした時間もやがて終わり、九条は両の手を合わせ、数種の印を繰り返し繰り返し、結んだ。
そして、今。九条は印を解き、立ち上がり、一歩目の脚を、とんと降ろす。足は、北斗七星の柄杓の端を踏む。
「アルカイド。」
突如、加速度の塊のような力が、ほぼ垂直にウタキの地面に衝突した。直径一メートル、深さ五〇センチメートルほどの窪みができる。激しく地面を叩き始めた雨が、その加速度に蹴散らされて、白く弾ける。
また九条が一歩、足を踏み出す。
「ミザール。」
今度は、ウタキのほぼ中央で陣を張っている式神たちのすぐ側に、同じ大きさの穴ができた。九条はそろりと脚を降ろした。
「賀茂くん、聞こえてる?砲台の用意は出来たわ。あと、五発残っている。まさか、この九条由佳には攻め手がないなんて、思っていないわよね?もう私も、単なる占星術の家の娘じゃないのよ。……だから、早く復活なさい。復活したときが、あなたの死ぬときよ。」
九条由佳は、笑っていた。
(何なの今の、もしかして、あれで試し撃ち?)
ウタキの北側で警戒に当たっていた教誨師は、九条の術のサイズの大きさに戸惑いつつ、今の二発の目的を正確に把握していた。九条の踏んだのは、自陣内に刻まれた北斗七星の星二つだ。その配置がそのままウタキに拡大・転写されるのではなく、着弾点はウタキの中心に近づくように抉られた。つまり、自陣内の座標とウタキ上の座標の対応を修正しつつ、九条は二発目までを試射に用いた、ということになる。
三発目からは当てる、そう意思表示したのだ。
式神たちが陣を解き、立ち上がる。黒が、口を開く。
「蝕まで、あと三〇分といったところか。もうすぐ会えるな、由佳。」
九条は、答えない。ただ、無言のまま、自らと同じ顔をした式神一二人と、向き合っている。
ウタキ中央で、深紫が、黒を背後から抱き抱え、地面に腰を下ろした。その周りを、式神たちが五人ずつ、大小の円をつくって囲む。星形の呪符を、形作る。荒天の中、雲上の太陽もかなり欠けてきたらしく、辺りは徐々に、薄暗くなってきている。日暮れ時の、夕立のような明るさだ。
九条は片手を挙げた。教誨師たちに、いよいよだと告げるサインだ。ここから先は、復活したドクターを確認し次第、九条が攻撃を、残りの四名はその援護をすることになっている。それ以上の打ち合わせはない。状況に不確定な要素が多く、打ち合わせ様がなかったのだ。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。叫びと言うよりも呻きに近い声を挙げて、深紫の腕の中で、黒がその身を捩る。仰け反り、叫び、深紫の腕をかきむしる。だが、深紫の表情は、変わらぬままだ。ただひたすら、圧倒的な力で、跳ね回る黒の肩の辺りを、押さえつけている。
教誨師の位置からは、その二人の表情は見えなかった。だが、時折聞こえる黒の声が、届いていた。見なくても、分かっていた。もうすぐ、黒の体内から、ドクターが復活する。その産みの苦しみが、襲っているのだと。
見守る女たちにも、男たちにも、長い、ほんとうに長い、三〇分が過ぎた。
そして黒の、長い長い絶叫が、ウタキと、ウタキを囲む森に木霊した。
土砂降りの中、すうと、潮が引くように闇夜となった。
何か、湿ったものが弾ける、ぐちゃ、という音が響いた。