第二話 楽園の悪魔、夢の女
西から時折雲が流れて、一瞬の日陰を作る。
この春もすっかり鳴き慣れた、鶯の声が聞こえる。
左右から張り出した低灌木の小枝をかき分けるようにして、細い山道を登っていく。
せせらぎと言うには力強すぎるような、谷川の流れの音が背中に響いている。
自分のすぐ後ろを、同じように枝をかき分け、山道を踏み締めて歩いている女がある。それが何者であるかは、自分はもう、識っていた。
その女は、一人山で暮らす自分にとっては、得難い知人、いや、友の一人だった。褥もともにしてくれる、優しい友。
「ねえ、ずっとここに一人だったの?」
そう問われて、
「ええ。」
と答える。
「淋しくなかったの?」
と聞かれて、
「そうですね、あなたがいらっしゃるまでは。」
と答える。
「……ばか。」
そう、言われて、自分はふっと笑う。こんなにも正直になってしまった自分を笑う。
自分が、こんな夢を見るようになったのは、いつからだったろう。その後の場面の成り行きはまちまちだったが、不思議とこの場面だけは、繰り返し繰り返し、見た。そしてある夜、眠れぬまま迎えた明け方、ようやく微睡んで結んだ夢で、初めて自らの姿を知った。女に抱きしめられていた自分は、また別の女であった。
悪夢というのではない。淫らな夢というのでもない。自らの強い願望が像を成したものでもない。自らの世界の外から、啓示のように身勝手に送りつけられた夢。ひょいと、自分ではない誰かの夢を覗いてしまったかのような、決まりの悪い感覚……。
目覚めて、眼を開く。まだ見慣れぬ天井を見上げる。ベッドサイドの煙草の箱に手を伸ばす。火は点けず、ただ、一本をくわえ、天井を見つめる。鼻孔を、煙草の葉の甘い匂いがくすぐる。
「何年ぶりだ、今の……。」
森田ケイはそうつぶやくと、半身を起こし、ようやくオイルライターで煙草に火を点けた。
いつもの煙草の香り、オイルの匂い。
あの洋館の一階の、北向きの自室ではない、現代風の、ありきたりの部屋。常習的な喫煙者にはなじみの目覚めの儀礼の中で、まだ眠っていた脳が目覚め、突如、一つの警告にも似た気づきをもたらす。
(待て、夢の女、あれは……?)
森田の脳裏で、何ヶ月か前の、とある夜の記憶が再生される。開花間近の桜の下で、自分は夢の女に、出会わなかったか?
(……まさか、な。)
立ち上がり、浴室に向かう。今日は時田から、少しやっかいな依頼が入っていた。そのまま、一週間ほどの出張になるかもしれない。そのタスクを頭の中で整理しつつ、シャワーを浴びた。
相変わらず、天候はぐずついていた。行政上の区分では鹿児島県となるが、昭和三〇年代に全住民が離島してから、周囲一〇kmほどのこの島には、定住する者はいない。晴れていれば艶やかな葉を日に翻す木々も、今日は時折強く吹く西風に葉を揺らすばかりだ。
かつて、その島その島には島ごとの神がいて、人々の畏敬の念を受けていた。幾度か、島を治める勢力が交代した後、最後は本土から近代神道が持ち込まれて、一度はこの島の古い拝所にも神社が建てられた。だが、無人の島となって、また幾度か嵐が到来し、島を暴風とともに高潮が越えていくようなことが繰り返されるうちに、神社の境内はあっと言う間に、この拝所本来の姿に戻っていった。クバの林の中に忽然と現れる、直径二〇mほどの開けた空間。薄暗いクバの林の中にあって、そこだけに日や月の影が落ちる、はじめから聖化された場所。だが、ただそれだけの場所。
今そこには、一人の人間の女と、一二人の式神がいる。一人を中心に、一二人がその周りを囲む形で、陣を形成している。かつて島にあり今は失われたマツリを、再現している。だが、違う。本来のマツリどおりなら、陣主である女が中心となり、周囲を一二人の客神が囲むはずだ。それが、違っている。
陣の中心にいるのは、横たえられた一人の式神だ。頭を西に向け、仰向けで寝かされている。身長にして一二〇cmから一三〇cmほど、少女の姿をした、子供の背丈と言ってよい式神だが、陣の外周を形成する一一人の式神たちとは一点、異なっている部分がある。腹部が少し、盛り上がっているように見えるのだ。
陣主たるべき女の方は、陣の最も後方、方位の上では北に座している。その位置は本来、陣の中央で横たわる式神の座すべき位置であった。
人間の女も、式神たちも、地面に直接胡座をかいて座っている。装束の地面に近い部分には、泥や苔、葉の切れ端のようなものがべったり付着している。強い雨の中も、そこにじっと座っていたようだ。叩きつける雨が跳ね散らかした泥やごみが、彼女たちの袴や袖を汚している。
(まだなの?まだ、増援は来ないの?もうすぐ、蝕だというのに……)
女は常に、小声で何事かを唱えている。今は、陀羅尼だ。強き業により不正な転生を遂げたために悪鬼と化した者を封じる、長い長い禁忌の呪文。それは、転生する者すべてへの呪言となる、危険な言霊の羅列だ。もともと霊気の強いこの島でも、最高の霊気で遮蔽されたこの拝所でなければ詠唱できないような、荒ぶる言霊たち。それが、低く長く、この世界への恨み言をひたすら綴るように、続いていく。……だが、それより前、女が唱えていたのは、地蔵菩薩のマントラだった。釈迦入滅後の世界で、さまよえる魂をニルヴァーナへ誘う、柔和で淫らな菩薩の真言。二つをちょうど飴と鞭のように使い分け、女は生まれ来る何者かを異界に押し留めようとする。
(もう、判っているわ。ここに来たのは、間違い……。でももう、戻れはしない。そしてたぶん、私がどう足掻いても、この子たちはここに呼ばれていたわ……。
蝕が始まったら、……こんな陣は吹き飛ぶでしょうね。そのとき暗がりから立ち現れる者が、ほんとうにこの世界に害を為す者だったら、私は刺し違えて死ぬしかない。しかしそれでも抑えられない者であった場合には、……。)
ほぼ一昼夜、式神の少女・黒の体内に寄生した何者かの成長を阻害・抑制するために陣を張り、またその陣を引き絞り続けてきた九条由佳の顔を、疲労の色が色濃く覆っている。少しでもその者の成長を遅らせ、鈍らせ、不完全な顕現で終わらせる、そのための苦行だ。文字通り、魂を削る業。
(……私が倒れたら、お願いよ、教誨師。あなたの手でもう一度……。)
四人は、奄美大島の安木屋場の港で落ち合った。時田がすでに地元の漁協と掛け合い、日蝕前日の午後、島に渡る船を出してもらえることになっていた。三時間前後の船旅の後、島に上陸する予定だ。夏場の、日没の遅い地域でもあり、午後の出航でも、かなりの余裕を持って明るいうちに島に上陸できるはずだった。
港を見下ろす小高い丘の上の、漁協の事務所に四人が顔を出すと、組合長が怪訝そうな顔をしつつ応対してくれた。四人は、夏服の制服を着た女子校生とそれに付き従うメイド、七月も下旬になろうというこの季節になぜかスーツを着込んだ黒づくめの陰気そうな男、そしてアロハに麦わら帽子のチャラチャラした感じの男、という集団であったから、怪訝そうな顔をする方が常識的だ。
「ご多忙のところ、ご協力いただきありがとうございます。ご連絡差し上げた時田です。」
一応は常識的な話しぶりで時田が組合長に挨拶する。組合長とは言っても、しわしわの頑固そうなおじいちゃんじゃないんだ、と相馬ひなが少し拍子抜けしたくらいの、気さくそうな男だ。四〇歳くらいに見える。
「いや、端境期でね。漁もちょっと暇な時期なんだ。船出すくらいお安いご用さ。ただまあ、あいにくの天気で。」
「いや、うちのグループは日蝕だけが目当てってわけでもないんでね。海は凪いでた方がありがたいけど。」
「日蝕でないとすると、何しに行くんだ、あんなところへ?」
「ちょっとした野外体験実習、って感じです。」
ひなが適当に答える。
「へええ。お勉強の一環かい?」
「はい。キャンプだけではなくて、薩南諸島の歴史の勉強も兼ねています。」
ものすごい営業スマイルで、ひなは返事をした。
「ふーん。感心なことだねえ。」
微妙に納得しきっていないような表情でうなずきながら、組合長は事務所の壁に掛けられた時計をちらっと見る。予定の出航時間が近づいていた。
「さて、それじゃぼちぼち。とりあえず船着き場まで降りてくよ。」
「よろしくお願いします。」
森田ケイが笑いを堪えているらしいのに、ひなは気付いていた。きっと、今の営業スマイルのせいだ。
(何とかこの場をごまかそうとしてやったのに……。後でスネの一つでも蹴飛ばしてやるんだから。)
そう、心に決めた。
高速とフェリーを使ってここまで運転してきたインプレッサから降ろした荷物は、けっこうな量だった。実質、大人四名で行う二泊三日のキャンプのようなものだ。食料やテントの他に、武器もある。それを手分けして担いで、港まで下っていく。一度で運べない荷物は、男二人が往復して運び降ろした。
「肩の調子はいかがですか?」
森田が声をかける。ひなは、食料の入った段ボールを抱えた上に、両肩にかけた方が楽そうなバックパックを、右肩にかけて歩いていた。
「もうちゃんと、くっついてるはずなんだけどね。あまりまだ、直接重量はかけたくないっていうか、怖いって言うか。」
「お嬢ちゃん、怪我でもしてんのか?」
「いえ、ちょっと前に、自転車で転んで鎖骨を……」
「ああ、鎖骨かあ。あれはぽっきり行くもんな。」
「はい……。」
そして小声で、
「筋力的にはもう前と同じだから、使うときは使うつもりよ。」
と森田にだけ告げた。
ぽつりぽつりと、雨滴が顔に当たるようになってきた。船はややうねりの大きくなった海上をひたすら進む。離岸してすぐの頃こそ、ひなと青木はるみは船上で遠ざかる景色を眺めていたが、やがて、少しずつ、ひなの様子がおかしくなってきた。
いわゆる、船酔いだ。
気付いた青木はるみが、船室内に作り付けのベンチに毛布を敷く。
「だいじょうぶ、もう少し揺られてれば順応するから……。」
「お嬢様、ともかく横になるか、ここにお座りになってください。お立ちになっていると消耗してしまいます。」
天井の低い船室内で、不安定な姿勢で立っていては、確かに消耗が進んでしまう。
「そうね。向こうに行くまでは、体力温存しないとね。」
「はい。」
「そうだ、ただじっとしてても時間の無駄だから、ここでブリーフィングしちゃわない?あたしもたぶん、何とかなりそうだし。仕切りがあるから、一応組合長さんには聞こえなさそうだし。」
「そうですね。二人に聞いてみます。」
やがて、時田から聞いた事態は、予想外に深刻なものだった。
「まずね、あの九条ですら、抑えるのが限界という状況らしい。なぜ、九条ほどの人間がそんな状況に自ら飛び込んでしまったのかは判らないが、念話を受けた水原さんが伝えてくれた話では、式神の一人に何者かが憑いた、その結果らしい。」
「でも、この手の案件なら、水原さんが適任じゃないの?」
「あいにく、水原さんは国外だ。念話を受けてうちに連絡をくれただけでもありがたい、って状況。」
「そっか……。」
「それで、明日の日蝕に合わせて、その式神に寄生した何者かが顕現するというんだが、そのとき、九条はそいつと刺し違える覚悟だという。」
「ん?……そうか。それじゃ、足りない可能性があるんだな?」
「そ。九条が命を張っても抑えきれない可能性がある、だから、九条は援護、というより助力を求めている、そういう話だ。」
「そんな……。」
空を覆う雲が徐々に厚くなり、午後二時過ぎだというのに、船室の中は日暮れ間近のような暗さだ。自分が負傷したときに、命を安く投げ出すなと、あれだけ叱ってくれた九条が、その命を投げ出す覚悟で対峙しても封じきれない相手、そんなものを、これから相手にするというのか。
だが、問題の本質はそんなところにない、ということに、ひなは気付いてしまっていた。日蝕が顕現の原因やきっかけになるのなら、日蝕の起こらない場所に「方違え」すればいいだけの話だ。それすらできず、後戻りできない状況まで、あの九条が追い込まれた、その理由を考えることの方が、重要だ。そして、その理由なら、心当たりがある……。
「外れてるかもしれないけれど。」
そう前置きして、ドクター・賀茂秋善と九条由佳のことを、相馬ひなは語った。教誨師として、その死の直前のわずかな時間接した、ドクターについて語った。
「外れてない、だろうね。」
一番ドライそうな時田が、そう、言った。
「そもそも九条一人で通常のサイキック数人分の戦力なんだぜ。それを一二の神将が護っているんだ。なまじの敵に寄生なんかされるはずがない。」
「ドクターの錬成した式神なら、たとえ九条にいっさいの隙がなくても、ドクターの命令に従うだろう。」
森田もそう、言った。
「ええ。だから、今回の件、ドクターがらみだと思うのよね。」
一同を重い沈黙が包む。
「ドクターの質の悪い置きみやげか、それとも、ドクター本人の復活か、」
時田が、重たいことを軽い調子で言う。
「いずれにしても、生まれてくるコは、ダメなコ、でいいのよね?あのドクターがまた、……」
「お嬢様、」
森田と青木の声が重なる。時田も首を横に振っている。
「ごめんなさい、分かっているわ。幼稚な感傷だって。あの九条さんが、始末を依頼するほどだもの、ね。」
教誨師・相馬ひなは、一番それを望んでいるはずの九条の判断を、信じるしかなかった。
(そう、あの優しいドクターは、もう、いないんだ。あたしがこの手で、殺したんだもの。)
教誨師の世界は、相馬ひなには優しくなかった。そこにあるのは、ただの事実の積み重ねだ。
「で、今回の我々の備えだが、」
対象の特性というよりも、その「規模」に過ぎないが、それはある程度、明らかになった。続いて、機内に持ち込めない一切の装備を、高速とフェリーを使って奄美大島まで車に積んできた森田が、装備の確認を始める。梱包は解かず、口頭でのチェックだけだ。
「弾丸は、それぞれの銃に合わせて三種類ずつ。ノーマルが青テープ、銀の合金弾が黄テープ、これは品川事件他で実戦投入の実績があるものだ。そして、それぞれ一マガジンだけ、射出できる限界まで銀の含有量が高いものがある。これが赤テープだ。」
テープの色は、なるべくなら使いたくない弾丸がどれであるかを、自ずと示している。
「ナイフ類は、預かったものをすべて持ってきている。望遠鏡もな。」
「了解。こんなケースじゃ、望遠鏡が決め手になるかもしれないからね。」
「望遠鏡の中身はあれなんだろ?よく許可が出たな……」
森田が青木はるみに訊く。
「それがね、秩父の大叔母様が、お嬢様に持たせるようにって電話してきたのさ。」
すっかり「仕事モード」の口調で、青木が答える。タメグチと敬語の落差が大きい人だ。
「お嬢様に、か?」
「ええ。あたしが使うとは限らないけどね。」
「中身は何なんだい?」
答えたひなに時田が尋ねる。
「この春に大叔母から渡された日本刀よ。」
「教誨師ちゃん、使えるの?」
「実戦ではまだ、試してないわ。ただ、左肩のリハビリも兼ねて、トレーニングだけはやり込んであるけれど。」
「そうか。まあ、守り刀なら出番はない方がいいんだろうね。」
「それが、守り刀の方は必要ないって言われて……。」
「じゃあ、それ、小太刀じゃなくて太刀、ですか。」
「ええ。大叔母様の先読みが正しいなら、これ、どこかの場面で誰かが必ず使うわ。戦いの道具として。その心積もりだけはあった方がいいと思う。」
「了解。ま、みんながどう思ってるかは知らないけど、一応僕は、仲間の奪還作戦のつもりなんだよね。」
「珍しいな時田。入れ込むと怪我するぞ。いつものお前で十分だ。」
「勘違いしないでおくれよ。メンタルでってことじゃなくて、作戦としてってことさ。九条が奪還できれば、それでいいとも思ってるんだ。つまり、」
「顕現する何者かの処理については優先度を下げておく、ということか。」
「そ。化け物退治は後日、救出した九条と水原で、っていうシナリオもあり、さ。」
「ただ、問題は、」
「そうだね。ヤツを倒さずに九条が奪還できるかどうか、だね。」
時田の言葉は常にドライに響く。自分の命も他人の命も、同じように天秤に掛けている。そこから来る計算高さを隠さないから、軽くも聞こえる。だが、その計算こそが、多くのエージェントの活動を支え、生命を護ってきた。自分はまだまだウェットで、ナイーヴで、品川で露呈したように土壇場での判断力にも問題があり、自分でも歯がゆいとしか言えない。しかも戦場に、自分の男とメイドを連れてのこのこ登場する有様だ。珍しく、教誨師はそう、自嘲した。
「船酔いはどうなの?教誨師ちゃん。」
「あ、大丈夫です。もう、だいぶ落ち着きました。」
「そっか。」
時田はひなと会話しつつ、小型のGPSを確認する。
「さて、島まであと一時間ちょいってとこだね。食べられる人は買ってきたサンドイッチとか食べて、そのあと着替えかな。」
「そうだな。そろそろ上陸準備を始めておこう。上陸後の展開は分からないから、今のうちに食べておいた方がいい。お嬢様、お召し上がりになれそうですか?」
「大丈夫だけど、……。」
ほんとうは、「お嬢様」という呼び方は止めてもらいたいのだが、今の相馬ひなにそれを言い出す覚悟はなかった。では何とお呼びすれば、と訊ねられるに決まっているからだ。それに、当分はほんとうにお嬢様なのだ。教誨師が独り立ちして、ほんとうの名もなきエージェントになるまでは。
(悔しいけど、今はそれでいいわ。お嬢様でも、教誨師ちゃんでも、みんな、呼びたいように呼べばいい。でもいつかは……)
そう心の奥で噛みしめるようにつぶやいて、教誨師は上陸準備を開始した。食欲はないが、何とかペットボトルのお茶でサンドイッチを飲み下した。
「なあ、あんたら、」
「ああ?」
「ほんとは、あの島に何しに行くんだ?」
女子チームが着替えている最中、船上に出た時田と森田に向かって、組合長がふと訊ねてきた。
「……全部は話せないけど、そうだね、どうだろう森田。組合長には帰りもお世話になるんだ。多少は、お話ししておいた方がいいと思うんだけど。」
「かまわない。」
「うん。それじゃ、かいつまんでお話するけれど、組合長さんはこの件、手出し無用ということでご納得いただけますか?」
「ああ、あんたらの邪魔はしない。ただ、いやに熱心に話し込んでたからな。ただ事じゃあないんだろうとは思ってな。」
「ええ、まさにただ事じゃなくてね。我々はあの島に、仲間を助けに行くんですよ。日蝕騒ぎに便乗してね。」
「誰かが、いるのか?あの島に。」
「ええ。ちょっと訳ありで、帰れなくなってるのが一人、ね。」
「そうか。……あんたら、あの島の伝説、知ってるか?」
「いや、無人島になって数十年経ってることもあって、情報は古いのと最近の地図以外ほとんど入手できてないんだ。」
「それじゃちょうどいいや。教えといてやるよ。まあ、そんな大げさな話じゃない。あの島の真ん中には拝所、まあ琉球風に言えばウタキがあるんだが、そこで視えないやつはどこに行っても視えない。あの島は、奄美が琉球領になったり島津領になったりって歴史の中で、どういうわけか琉球風の習俗が色濃く残っててさ。その中心がアマワキのウタキさ。で、無人島になるまでずっと、琉球からも奄美や薩摩からも、それなりに聖地の扱いをされてた。だからあの島の中心部は、とびきりの聖地さ。そこで視えないやつは、どこへ行っても視えない。特に、女はな。」
「いやに詳しいね、組合長さん。」
「そりゃそうさ。じーさんもオヤジも、あの島の生まれだからな。オレが生まれたのは、奄美大島に移ってからだけどな。」
「あの島の関係者だったとはね。島にウタキはいくつある?」
「そうだなあ、大小さまざまあるけど、無人になった今でも聖地と言えるようなのは、やっぱり天湧のウタキくらいじゃないかな。島出身の人間は今も恐れてて、たまに上陸しても、用がなけりゃ近寄らないくらいだ。」
「そうか。貴重な情報、助かった。そのウタキへの道順なんかも分かるとありがたいんだけどね。」
「あれ、そう言やあんたらこういう話平気なのかい?たいてい本土の連中はバカにしてにやにやするか、必要以上に神格化してうっとりして勝手な解釈を始めるもんなんだが。」
時田と森田が顔を見合わせる。
「オレたちが救出しに行くのは巫女さんと呪術師の兼業者みたいなヤツなんでね。信じるも何も、もう何度も見てるんだよそういうの。」
「そっか。今時珍しいねえ若いのに。だけど、そいつぁいよいよ、厄介だな。……明後日、無事全員、仲間も連れて戻ってこいよ。ちゃんと迎えに行くから。」
「済まないな。あんたには関係のない話だった。」
「いいって。たまたま、祖の産まれた島の名前を出して、船の調達を依頼してきた若いヤツらがいた、まじめそうな連中だった、役目を果たして、元気に帰ってった、それで十分だよ。まあ、燃料費に人件費は約束通りいただくけどな。」
そう言って、屈託なさそうに組合長は笑った。
「それよりそうだ、ウタキへの道順だったな。持ってる地図出してみな。道順を書き込んでやるよ。」
(お腹、痛いな。)
黒は、神契東天教の実働部隊「組織」に属していた東洋魔術の使い手で、ドクターという男が最後に錬成した一二人の式神のうちの一人だ。気が付いたら自分の担当色は北の聖獣玄武に当たる黒となっており、北は智を司る方位だからと言われ、以来一二人の少女たちのリーダー役を務めてきた。覚醒後数週間で、仕える主人はドクターから九条由佳に変わったが、そのときもリーダーという自分の役割は変わらなかった。
品川事件が終わって数日が経ったある日、黒は自らの身体の異変に気づいた。そう重いものではなかったが、理由の分からない鈍い腹痛に見舞われただけでなく、体の一部が女性らしく成長し始めていた。一週間くらいは他の者には内緒にしていたし、また、他の者に同様の変化がないか観察もしていたが、身体に異変が生じているのは、自分だけのようであった。
この日も、朝からきつめの腹痛があり、微熱もあるような、だるい感じだった。幸い、特に式神たちの出番となるような仕事はなく、九条は打ち合わせがあるとかで、一人でセンターの人間に会いに出かけていた。式神たちは一二人で、九条のマンションで留守番だ。式神だけでも結界は当然形成できたし、一般の人間に気づかれぬまま行動することもできたが、面倒は面倒なのだ。それなりに霊力も消費する。だから今日は、テレビやDVDを視る者、ゲームをする者、雑誌を読む者、本を読む者、めいめい勝手なことをしながら、一日を過ごしている。互いに持っている服を交換し合い、鏡の前ではしゃいでいる者もいる。もちろん見た目は同じアルビノの少女たちだから、服を交換しても他人には違いなど分からないのだが。九条に呼ばれれば、いつでも空間を超えて集結できる式神たちであったから、かえってオフの状態は緊張感のないものになりやすかった。
そんな少女たちの中で、黒は一人ソファに座り、ぼうっとしていた。服を交換する白と明灰の二人を自然と目が追うが、彼女たちには胸が育ってきているような様子は認められない。
(この体、どうしてしまったのだろう……。それにしても。式神が風邪を引くなんて、聞いたことがない。何かメンテナンスが、要るかもしれないな。体のこともあるし、夜になって、九条がセンターから帰ったら相談を……)
そんなことを考えながらぼんやりしていたら、ソファに飛び込むようにして、深紫が背後からいつもの調子で抱きついてきた。
「痛っ……」
思わず大きな声が出てしまう。
「黒、おっぱい……」
「触るな、痛い。」
「ご、ごめんなさい。痛いんだ……。」
深紫が驚いた様子で手を離す。
「あ、いや、大丈夫だけど。」
「どうしたの?」
黒と深紫の様子がおかしいのに気づいた他の式神の少女たちが数人、集まってきた。ベージュが心配そうに尋ねてくる。とっさにどう答えていいものか分からず、黙っていると、
「黒、おっぱいあった。」
と、深紫が言ってしまった。
「バカ、余計なことを言うな。」
そう言って、ソファから慌てて立ち上がってその場から離れようとしたら、なぜか激しい腹痛と目眩がして、黒は倒れてしまった。意識が飛んだわけではないが、立っていることができない。床の上でくの字に体を折り曲げて、痛みを堪える。みんなが心配そうに自分の顔を覗き込んでくる。
「済まない。お腹がちょっと、痛いだけ。ただ、そうだな。……誰か、トイレまで、肩を貸してくれないか。」
おろおろする深紫を押しのけるように、ベージュとバイオレットが黒を助け起こし、両脇から抱えるようにして、そっとトイレまで連れて行く。バイオレットが少しむっとしたような、困ったような顔で、扉の付いた作り付けの棚を指さす。
「確か九条は、そこに仕舞ってたはずだから。もしそうだったら、借りれば?」
きょとんとする黒に、ベージュも言う。
「黒、女の子になったんじゃないの?人間みたいに……」
「まさか……。」
「私たち、風邪なんか引かないし、お腹も壊さないでしょ。他に思い当たる理由ある?いいから、ちょっと見てみて。あ、バイオレットはそこで待ってて。三人じゃちょっと、狭いから。」
「そうする。」
ぱたん、とトイレの扉が閉められ、そして、黒は自分の絶望的な状況を確認した。
通常の式神に、生殖機能は持たせない。式神が勝手に繁殖したり、人間と交雑したりするのを避けるためだ。だから、式神は成長しても、自然と子供の姿にとどまり、大人の姿形にはならない。
それが、自分はそうではなかった。
乳房が、育ち始めた。
そして、月経が、来た。
ベージュが隣にいるから耐えられたが、一人であれば、ドクターへの呪詛を叫んでいたかもしれない。
(この身体を、このあたしを……、どう造った?ドクター……)
屈辱感に、唇を噛む。情けなさに、涙が出そうになる。
「今は、いろいろ考えちゃダメ。とりあえず、あ、そうだ。バイオレット?」
少しだけドアを開けて、声をかける。
「何だ?」
「替えの下着、持ってきてあげて?」
「ああ。」
やがて、リビングのソファの周りに一二人の式神が集合した。リーダーである黒の異変に、戸惑った様子も見られる。やがてベージュが、状況確認を始めた。
「黒、恥ずかしいかもしれないけど、みんなに話すよ?」
「ああ。頼む。」
いくらか落ち着いた様子で、黒が応える。
「それじゃ。今日はっきりしたことだけど、私たちの中で黒の体だけが、成長しはじめたの。人間の大人の女と同じように、なってきてる。」
「それは、つまり、」
インディゴが、少し慌てた様子で答えを求める。
「そう。繁殖行為が可能になるということ。」
元々、インディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四人は情報戦・電子戦向けにチューンされた特性を持っている。他の式神よりは、人類のネットを流れる種々雑多な情報にも敏くなっている。こうした話題への反応は早い。残りの七人も、「繁殖行為が可能」という部分で話題に追いつき、ざわついた空気になる。
「けれどね、問題は別に、繁殖行為自体がどうの、ってことじゃないの。するしないを選べることだったら、どうするかは私たちが決めればいい。そうじゃなくて、大事なことは、黒に起こった変化が偶発的なもので、私たちにも起こり得るものなのか、それとも、最初から仕組まれていたことなのか、それを確認することがたぶん、一番重要なの。」
「最初からって、ドクターが仕組んだってこと?」
薔薇が尋ねる。
「そう。その可能性もあるかもしれない、ってこと。」
自分たちの親を疑う。その重さに一瞬、しんとした間ができる。だが、
「……これは、かなり推測が入っている話だけど、」
そう前置きして、白が話し始めた。
「たぶんあたしたちを錬成したとき、ドクターはもう、死ぬ覚悟を決めていたと思う。我々一二柱ものデーモンを錬成・凝結させ、短期間で成長させた上、最後はイギリスまで飛ばしたでしょ?さすがのドクターにも余力がないのは分かっていたはずだし、彼の絶望も、十分深かった。だから、教誨師による死を受け入れたんだと思う。」
「ちょっと待って。何の話?」
青が訊く。
「ごめん。私が言いたいのは、死の覚悟を終えていたドクターには、我々に、その、愛玩用や、繁殖用のオプションをつける動機も理由もなかったはずだ、と言いたいのよ。」
愛玩用、繁殖用、ということばを少し言いにくそうにしつつ、白はことばを区切り、他の少女たちの顔を見回した。
「それじゃ、黒の成長は、偶然なの?」
少しほっとしたような様子で、青がまた訊く。
「いいえ。私はもっと、悪い事態を想像している。」
白がそう言うと、ふだんは冷静な黒の白い顔が、見る見る青ざめていく。深紫は、ぺたんと床に座り込んでしまった。それ以外の者は、皆、事態の深刻さを受け止めきれないような様子で、ただ、黙り込んでしまった。
「ドクターの真の狙いは、」
「やめてよ。」
赤が叫ぶようにして、言った。
「赤、どうしたの?現状を把握しなければ、打開策が見つからないじゃない?」
青が尋ねた。赤が、震える声で言い返す。
「ドクターの狙いがそれなら、打開策なんてないわよ。」
「ちょっと待って。」
薔薇と濃紺が同時に声を上げた。
「私たちにも分かるように言ってよ。」
薔薇がそう、少し怒っているような声色で言った。少女たちには珍しい、ぎすぎすした空気が満ちる。
「そうね、少し、整理していい?」
ベージュが間に入るようにして、落ち着いた声でその場を引き受けた。
「これは九条が帰ってからもう一度、確認しなきゃいけないことだろうけど。おそらく黒の成長は、ドクターの復活のためだろう、というのが白の推測ね?」
ふだんは気のいい、戦場ではいつも戦士役の薔薇も濃紺も、明灰も、このベージュの台詞を聞くと、はっと息を飲んだようにして目を見開いた。そしてそのまま、ただ黙って俯いた。
「そう。他に何か動機がある?こんな手の込んだことをするような……。」
「そうね。これがドクターの錬成の際のエラーやバグでないとすれば、こんなことをする理由は思い当たらない。」
白とベージュは、きっと顔を上げたまま、さらにそんな台詞を吐いた。
黒は、ぐったりとソファに埋もれるようにして、大事な仲間たちの会話を聞いていた。そのまま、皆の沈黙が深くなったのを確認し、そっと、口を開いた。
「みんな、ごめんなさい。今夜、九条に事情を話し、あたしの結び目を解いてもらうわ。依代がなければ、復活は阻止できる。」
「無理よ。」
赤が言った。
「知ってるでしょ?あたしたちは全滅しさえしなければ、再生する。一人だけ始末することはできないし、全員を始末することは、九条にはできない。九条のレベルが、ドクターを超えるまでは。」
さらに重苦しい空気が皆の上に降りる。それを振り払うように、バイオレットが言った。
「不正な復活を遂げた者は邪神と化す、ドクターは当然、そんなこと、知っていたはずだろ?だったら、答えは簡単だよ。復活させてやってから、九条にそいつを始末させればいい。それにまだ、黒は女の子になっただけで、に、妊娠とかしたわけじゃないんだ。うまくすれば、……」
白は首を横に振った。
「後半はダメ。もしこれがドクター復活のためのシステムの起動を意味するなら、受胎は必ず起こる。だが、前半はいい考えだと思う。復活したドクターを、復活したての不安定な状態のまま始末してやればいい。黒には負担が大きいが……。」
「受胎が避けられないなら、受胎後にあたしを一度解いてくれたっていい。」
「それは、どうかな。成功した例があるかどうか、九条に調べてもらった方がいい。」
「そうね。まずは九条に相談するところから、ね。黒、辛いこと続くかもしれないけれど、みんなついてるから。だから、」
ベージュがそう言うと、黒は頷いた。
「分かってる。みんな、ありがと。」
「黒ねえ様、」
黒に一番懐いている深紫が、目を真っ赤にして黒の側に膝立ちになる。その頭を黒が撫でる。
「深紫、おかしいよ?あたしたちみんな、一緒に生まれてきたんだ。ねえ様も妹もない。」
そう言って、そっと黒は微笑む。
「ねえベージュ?バイオレット?黒ねえ様のお世話、私にできることはさせてくれる?」
深紫は、何か毅然とした態度でそう言った。
「もちろんみんなも、黒が心配だってのは分かってるよね?」
ベージュが深紫に確認する。
「うん。分かってる。」
「よし。それじゃ、黒とみんなの言うことよく聞いて、がんばってね。」
「うん。」
少女たちはこうして、苦難の始まりと向き合った。
やがて事情を知った九条は、センターの職務の傍ら、対処法の調査を進めていった。黒も、これまで通り、必要な作戦には参加した。
だが、五月の終わり。
黒を悪阻が襲った。
島には時折、先祖の霊の弔いに訪れる人がまだある。そのため、無人島となった今でも、小さな船着き場が生きていた。リーフの隙間を縫うようにして近づき、組合長がそこへ船を横付けにする。島に近づくにつれ、天候はやや持ち直したが、明日には雨となる予報だ。雲の切れ間から時折のぞく太陽はだいぶ西に傾いていたが、まだ日没は遠かった。
「あー、なんか地面が揺れてる……。」
迷彩服に着替えてぽんと船から下りたひなは、独り言のようにつぶやいた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
組合長が船上から声をかける。
「はい。……ありがとうございました。」
「明後日、迎えに来るから、しっかりがんばれよ。」
その言葉が、相馬ひなの背筋に力を与えた。ぐっと地面を踏み締める。
「がんばります。ありがとう。」
「お嬢様、荷物、受け取っていただけますか?」
「ええ、こっち寄越して。」
数分で荷降ろしが終わり、上陸が完了した。時田が組合長に話しかける。
「お世話になりました。明後日も、よろしくお願いします。一二時にはここにいます。」
「おお。了解だ。気をつけてな。」
「ええ。これ、謝礼です。明後日の分も入ってます。」
「ん、そうか?」
組合長は袋を受け取ると、ろくに中身も見ずに一万円札を二枚取り出し、時田に渡す。二万円を抜き出したと言うよりは、たまたま指で摘んだ金額が二万円だった、というような無造作加減だった。
「とりあえず、これだけまだ預けとくよ。明後日、あんたからちゃんと、渡してもらう。」
「知りませんよ、取りはぐれても。」
時田が笑って言う。
「大丈夫さ。だってみんな無事に、帰るんだろ?」
「もちろん。」
「じゃ、いいじゃねえか。」
「そうですね。」
その会話を聞いていた森田が、ふん、と鼻で笑うようにしてほほえみを浮かべた。この男なりの好意の表現らしい。
「大丈夫だよ、組合長さん。うちには、こいつがいるんでね。」
そう言って、相馬ひなの背中をぽんと叩く。
「ちょ、ちょっと、気易く触らないでよっ」
「わはは、その様子じゃ、大丈夫そうだな。じゃ、おれはこれで大島に戻るから。」
「お気をつけて。」
「おお、メイドさんも気いつけてな。」
「はい。」
森田が繋留用のロープを甲板に投げる。組合長は片手を挙げると、ゆっくりとした操船で島を離れていった。
「何か、いろいろご存じだったようですね。」
「ああ。女子チームのお着替えタイム中に聞かれたので、仲間を助けに行くってくらいのことは伝えてある。明後日のこともあるしね。」
「やっぱり。」
「じゃ、あたしの営業スマイルは無駄だったってことね……。」
ひなが少しだけうなだれる。
「ま、あの場はああ言うしかなかったけどね。」
時田が慰めてくれたが、森田はまた、笑いを堪えている様子だ。
(くそっ)
とりあえず、元執事の脚を蹴飛ばしてみた。
(え、空振り……?)
「お嬢様、私も執事時代であればあえて受けていたのですがね。」
「え、マジで……」
「森田は、はるみの蹴りもかわすくらいですからねぇ。お嬢様、本気でやらないといけませんよ。」
「く、いつかマジ蹴り入れてやるから!」
「教誨師ちゃん、微妙に負け犬キャラ。」
「う、うるさい~!」
この三人が相手では、相馬ひなと言えど勝ち目はない。三人は皆、ただの大人ではないのだ。
「それじゃ、行こうか。」
時田がそう言って、四人は無人の島を歩き始めた。
船着き場から急な崖を上り、さらに数百メートル進んだ平坦な土地にひとまずキャンプを設営することになった。組合長の話では、無人島となってから徐々に表土の後退が起こり、今でも地面らしい地面が残っているのは、島で唯一の小学校があったこの辺りと、後は九条たちがいると推測される拝所のみだという。その他の土地は、植物が生える土地には植物が生え、そうでない土地は島の骨格を形作る石灰岩が露出した、荒れ地となっていた。当時は人が暮らしていたはずの家屋の跡や、奇跡的に家の形を留めている建物も確かにあったが、何割かの住居跡は、その痕跡すらなくなっているかもしれない。
「南の島だって言うからジャングルみたいなのを想像してたけど、違うのね。」
「水がありませんからね。人が手を入れないと、どうしても荒れていきます。」
船着き場からここまで、一往復と半分。片道数百メートルの距離だが、足元が悪い箇所もあり、四〇分以上かかった。校庭だったらしい場所に荷を集め終わると、作戦開始となった。
「それじゃ聞いてくれる?まず、教誨師ちゃんと森田は、予定通りこれから偵察に出てもらう。九条たちを確認し、状況を報告してほしい。」
「差し入れ、持って行っていいんですよね?」
「うん。九条たちが受け付けるかどうかは分からないけどね。術の行使の真っ最中かもしれないから。」
「はい。」
「青木さんと僕はここで設営を完了させてそっちが戻るのを待つ。緊急時の連絡はこれ。」
そう言って時田がジャケットの胸の通信機を指さす。
「テストしてみて。」
森田が通信機を操作すると、時田の通信機の方でオレンジ色のLEDが点滅した。試しに通話してみるが、問題はなかった。
「で、この通信機は、通話しない時間帯が続くと、一〇分に一回、互いを探すように設定してある。相手機が見つからなければ、赤のLEDが点滅しっぱなしになるから。」
「了解だ。バッテリはどのくらい保つ?」
「通話なしで六時間、ってとこ。ただ、三時間経過したら、今日のところは何があっても撤退しておくれよ。」
「分かった。装備のチェックが済み次第出発する。」
「よろしく。」
ひなと森田はカモフラージュしてここまで運んできた武装を解き、時田と青木はるみはキャンプ用の荷を解き始めた。
「森田、あたしはMP5と刀でいい?」
「そうですね。刀を背負って移動する訓練にもなりますし。」
「この刀、名前はないのかしらね。」
「無銘と言いますか、銘を削られた様子があるとのことでしたが。」
「銘消し、じゃ何かかわいそうなんだよね。」
そんな会話を交わしつつ、教誨師は日本刀を背負うためのベルトを装着していく。移動時はほぼ縦に背負う形になるが、戦闘時には左手で体側に構え、右手で抜けるように伸縮する非金属のチェーンが、ベルトには備えられていた。弾薬を収めたポーチを腰につけ、森田に手伝ってもらって背中に日本刀を装着すると、サブマシンガンのストラップを肩に掛けた。
「ふん、気持ちが引き締まるわね。」
「少し、嬉しそうですが?」
背後から森田が声をかける。
「そうね、九条さんや式神ちゃんたちには悪いけど、教誨師再生、って気分にはなるわね。」
「……無茶は、するなよ。」
森田がそう、小声で言った。ひなは一度うなずいてから振り向いた。
「分かってるって。それより、変な甘やかしはなしにしてね。」
「承知しました。」
森田がどんな顔でいるのかと、ひなはそれを確かめたかったのだが、そこにいたのはいつも通りの森田だった。
(あれ、ケイくんモード一瞬で終わりか。ちょっと残念だけど、ま、今はそれどころじゃないけどね。)
一度は肩にかけたサブマシンガンを、荷解きのために地面に広げたシートの上にそっと降ろした。そして数歩、誰もいない方向へ後ずさると、辺りを確認した後、右手で背中の鞘を弾くようにして刀を回転させた。ほぼ水平になった刀の鯉口近くに左手を添え、体の左側に引き寄せた。チェーンが延びる軽い音がして、ひゅぼっ、という空気を斬る音が聞こえた。
森田も時田もその瞬間は見ていなかったが、音でだいたいのことを把握した。教誨師は、使える。時田がふっと視線を教誨師に向けると、そのときには刀身は鞘の中に戻っていた。教誨師が手を離すとチェーンが巻き取られ、刀は元通り教誨師の背中に戻った。
「才能、ってやつかな。それとも、ずっと努力してたのか。ともかく、何が出るか分からない仕事だ。ありがたい戦力になりそうだね。」
そう小声で、側にいる青木に聞く。
「才能と努力の両方ですよ。最近も、リハビリメニューかアスリートのトレーニングメニューか分からないくらいにトレーニングされていましたし。」
「そっか。そうだろうねぇ。」
青木に向かって、笑顔でそう返事をしたら、なぜかMP5を拾い上げたばかりの相馬ひなが時田の側に駆け寄ってきた。
「時田さん、ちょっといいですか?」
「え、何?」
「いいから、ちょっとこっち、」
きょとんとした様子の青木はるみと、特に何の反応もない森田ケイを残して、時田とひなは何事かを話し合っている。途中、
「マジで?」
という時田の声が聞こえたが、それきり、後はどんな会話をしたのか、青木にも森田にも分からなかった。
「じゃ、行こっか。準備はいい?」
内緒話を終えて戻ってきた教誨師は、そう、森田に声をかけた。
教誨師にはリハビリ後、最初の仕事であった。左肩に銃弾を受けた三月中旬からこの七月下旬まで、四ヶ月強のブランクがある。しかも、教誨師の主戦場は主に、都市部であった。無人の離島での野外戦など、訓練以外ではほとんど経験はない。
だが、そんなことは全く気にならなかった。ドクターの復活を期待する自らの幼い感傷を押し殺し、今はそのドクターを一番思っていたはずの人の気持ちに応えたい、その一心で、この無人の島の白い地面を踏み締めた。
明日は日蝕だというが、天候は相変わらずだ。今にも降り出すのではないかという重苦しい雲がまた、空をすべて覆ってしまった。島に上陸したときこそ薄日も射していたが、今は夕刻が迫ってきたこともあり、足元はどんどん暗くなっていく。だが、都内であればとっくに日没を迎えそうな時間帯だということに気づいて、ひなは後ろを歩く森田に話しかけた。
「こんな時間でも、思ったより明るいのね。ま、単純な地理の問題なんだけど。」
「そうだな。」
(やった、ケイくんモードだ。)
そう思いつつ、何気ない様子を装って歩いていく。
「この道、なんでなくならないのかしらね。他はみんな荒れ放題なのに。」
「地質的なものもあるんじゃないか?表面は欠けた珊瑚の砂で覆われてるけど、このすぐ下は石灰岩とも違う岩盤みたいだからな。」
「じゃ、この道は尾根伝いの道ってことね?」
「ああ。推測だけどな。珊瑚がついてなだらかな地形になったが、元はここが島の尾根だった、と考えれば、つじつまは合いそうだ。」
やがて二人の目の前に、鬱蒼としたクバの森が現れた。
「こちら森田。聞こえるか?」
「聞こえてる。どうぞ。」
「組合長の話にあった森のはずれまで来た。ここまでは特に移動上の問題はない。これから、森に入る。」
「了解。まだまだ余裕はあるけど、タイムリミットは忘れないでね。それから、組合長の助言も忘れるなよ。」
「ああ。それじゃ、また連絡する。」
森田が通話を終えるのを待って、教誨師が質問した。
「組合長の助言て?」
「小さなものから言うと、この森の入り口は道の突き当たりから少し西にずれた辺りにある、そこから先はしばらく身を屈めての獣道、というのが一つ。」
「まだあるの?」
「ああ。拝所はそこだけ森が切れた、広場状になっている場所で、感覚としては森の中央だが、きちんと測量したことはないはずだ、というのが一つ。」
「それから?」
「拝所、ウタキはこの辺りの島々でも聖地扱いされているとびきりの場所で、ここで視えない者はどこに行っても視えない。」
「それは土地自体がデーモンビジョンみたいな力を持ってるってこと?」
「そうだ。」
「訓練してないけれど、大丈夫かな。」
「そうだな……。何かあっても、何があっても、オレがそばにいる。忘れるなよ。」
「うん……。」
(いいセリフ吐きすぎだよケイくん。)
「それじゃ、行くぞ。」
「はい。」
教誨師たちが島へ上陸したのを、天湧のウタキで陣を張っていた九条は、察知していた。
(ようやく、来たわね。でも、少し、遅かったようよ――)
どさり、と音がして、九条由佳は前のめりに倒れ伏した。九条を案じているはずの式神たちも、金縛りにあったように動かない。それどころか、陣中央に横たえられていた黒が、ぎくしゃくとした動きで体を起こした。ゆっくりと瞼を開く。色素の欠けた朱い瞳が、さらに赤く、灼けるような輝きを放っている。腹部が、不気味に盛り上がっている。
「供物……。」
そう呟くように言うと、黒は気を失っている九条の腕を掴み、ずるずると陣の中央まで引きずった。
「ここまでか、由佳。夜が明けて、日輪が隠れれば、吾は復活するぞ。」
そう、また呟くように言うと、黒は九条が座していたスペースへと座った。
「これより再構築の儀礼を開始する。十と二つに分かたれた吾、賀茂秋善の全情報を展開、結合。詠唱終了予定時刻、明日午前八時五五分、誤差±一分。詠唱開始。」
黒の口からそれだけの言葉が発せられると、それまで微動だにしなかった一一人の式神のうち、濃紺の体がもぞりと動いた。そして、人語ですらない、人間の耳には意味不明の音声が、濃紺の喉元から放たれた。裏声とも違う、あえて言えば超高速で歌うホーミーのような音声だ。倍音の中の特定の周波数が強調されて、しかも歌詞があるかのように細かに分節されている。おそらくは非可聴域にまで何らかのコードが織り込まれており、ドクターの復活に必要な、膨大な情報が格納されている。
その声を黒、厳密には黒の体内に宿るドクターの原体が受信し、己の欠落のある遺伝情報と経験情報とを縒り直していく、その儀礼が、まさに今、始まったのだ。黒の内部にはセーフモード程度の情報しか格納していない。そこへ、式神一人に付き一時間ほどの情報再生を繰り返していき、概算で一一時間後には生前の全情報が、一つに縒り合わされるはずだ。
(邪魔者は、再生順序の遅い式神に対応させる。問題ない。)
ぼんやりと、目の前に横たわる九条由佳を眺めながら、そう判断した。判断したのは黒であったか、それともその体内の原体であったか、それはもはや、定かではなかった。
足元はクバや他の植物の根が張り巡らされ、表土がほとんど見えないほどだった。昼でも鬱蒼と暗いはずの森の中を、教誨師とその元後見人は進んでいく。自然に形成されたものか、人の手が入ったものかは分からないが、獣道のような、トンネル状の小道が続いている。その行く手の方から、明らかに威圧感のある空気がどろりと流れてくる。
「なんか、凄いわね。聖地と言うよりも。」
「前後を替わろう。」
「大丈夫。このまま行くわ。ん、あれ?」
「どうした?」
「今、式神ちゃんが」
そう言おうとした刹那、森田が教誨師の腕を思い切り引いた。完全に戦闘態勢に入った明灰と薔薇が、教誨師のいた空間で衝突する。森田が後ろに引いてくれなければ、二人の式神のコンボで、教誨師は致命的なダメージを追っていたことだろう。衝突した式神どうしが変形するほどの勢いだった。
森田はあくまで事務的に応戦を開始した。すでに数発を、式神の足元に打ち込み、若干の間合いを生じさせる。だが、教誨師はまだ状況が飲み込めない。
「どうしたの二人とも?あたしだよ、ひなだよ!」
「無駄だ。すでに始まってやがる。」
「そんな……」
相馬ひなは、式神たちのために、気温のことも考えて、チョコチップの入ったクッキーを用意していた。飲み物も背負ってきた。まるで、妹たちの世話をするような気分で、再会を楽しみにしていた。術の行使の最中でなければ、差し入れをして、みんなを元気づけるつもりだった。それが……。
琉球の神女風にも見える装束の袖口を飾る梯子リボンの色以外、ほぼ完全に個性を喪失した明灰と薔薇とが、植物の根に足をかけて加速しながら、森田と自分とをめがけて跳躍してきた。
(これが、ドクターが復活するってこと、なのね。)
正確に、明灰の頭部に通常弾を撃ち込んだ。ほぼ同時に、森田も薔薇の腹部を撃ち抜いた。
「このくらいじゃ、このコたちは死なない。痛みで覚めるとは思わないけど。森田は先にウタキまで。このコたちの相手はあたしが。」
教誨師の眼が、相馬ひなの怒りと決意とを露わに映していた。
「イエローは持ってるな。」
「ええ。ただ、一マガジンだけね。レッドは置いてきたし、最後まで温存しておくわ。牽制しながら後を追うから、先に行って。」
「わかった。」
走り出した森田と早くも再生を終えつつある式神たちの間に立ち、教誨師はMP5の引き金を引いた。
復活のための情報を式神たちに詠唱させている間は、現実世界の状況変化への対応は多少難しい。そもそも黒の体内の原体は、己の復活にその能力の大半を集中しなければならないし、黒は黒で、その聴覚は他の式神の詠唱にリンクさせなければならなかった。
(ちょっと、甘い。)
誰かがそう呟いたことに、原体に宿るドクターは気づいた。その誰かは、黒かもしれないし、九条かもしれない。あるいは他の式神かもしれない。
「そうか、成長していたか、教誨師。」
少しだけ感情が宿るようなつぶやきが、黒の発声器官から漏れた。
「ならば。」
式神をあと二人、差し向けることにした。グレーと白とがぎくしゃくとした動きで陣から離れた。
第二波となるその二人の式神を撃ち落とし、再生するタイムラグの内にさらに前進した森田は、ようやく天湧のウタキのほとりまでたどり着いた。可能な限り気配を殺して辺りを窺うが、見えたのはほぼ予想通りの光景だ。完全に何者かの制御下に置かれた式神たちが陣を構成し、九条がその中央で倒れていた。どの式神かは定かではないが、なにごとかの詠唱も聞こえる。高周波が含まれているらしく、鼓膜の奥のどこかがそれを感じ取り、耳鳴りに似た小さな悲鳴を上げる。
(予定変更だな……。とりあえず、九条は、もらって帰りたいが。)
青いテープが貼られたマガジンを、黄色のテープのマガジンに交換し、森田は陣西側から突入した。ベージュと赤が森田に襲いかかる。だが、森田が正確に二人を撃ち落とすと、式神たちのフォーメーションが変わった。
「弾丸に細工を?」
式神たちの誰かの声が響く。と同時に黒と、二人目の式神として詠唱中のインディゴとを他の四人の式神が囲んだ。九条と森田の間に邪魔者はいない。一気に九条のそばまで駆け寄る。銃口は式神たちに向けたまま、九条を抱える。
(これなら、行けるか……)
その刹那、女の声が聞こえた。
「そこの人、伏せて!」
(あなたたち、そんなになっても……!)
教誨師は、ウタキに向かって移動しながら、時折振り返って、再生を繰り返しつつ追ってくる明灰と薔薇に弾丸を撃ち込んだ。二人の式神の動きは、滑らかなものではない。ぎくしゃくとした、出来の悪い特撮映画の合成シーンのような動きだ。
(ごめんね、早く解放してあげるから。もう少し、待っててね。)
式神たちの戦闘能力を、教誨師はある程度知っている。その経験からして、彼女たちが全力で戦っていないことに、教誨師は気づいていた。
ドクターの指示があって、全力を出していないというのでは、ない。
ドクターの制御下にあってなお抵抗する、式神の少女たちの意志が、一瞬一瞬の動きの中に割り込むようにして、式神たちの動きをぎくしゃくとしたものにさせているのだ。
教誨師はそのことを、ほぼ正確に理解していた。自分たちを止めてほしいという、式神たちの思いを、正確に受け止めていた。
教誨師は、もはや揺るがなかった。相馬ひなの怒りが、教誨師の判断と行動を裏打ちしていた。
ウタキの方向から、新手の式神が飛び出してきた。
(グレーと、白ね。止めてあげるから、我慢して。)
一瞬先に飛び込んできたグレーに向かって教誨師は踏み込むと、MP5の銃床辺りを思い切り叩きつけた。そしてそのまま、後ろにいた白も一緒に弾き飛ばした。森の地面に横倒しになったところに、容赦なく弾丸を撃ち込む。
(あなたたちが今日まで、どんなにこの日を恐れていたか、あたしにも伝わってくる気がする。……ドクター、教誨師はもう、あなたの懺悔を聞かないわ。このコたちは、きっちり返してもらう。)
自分の歯ぎしりが聞こえた気がする。ウタキまで、一気に駆け抜けた。
クバの森が突然切れて、まだうっすらと夕景の明るさが残る空間に出た。天湧のウタキだ。式神たちと、女が二人、対峙していた。一人は九条由佳らしいが、もう一人は、後ろ姿でもあり誰であるかは定かではない。
(ケイくんがいないけど……!)
一瞬立ち止まった教誨師の頭上を、今まで牽制してきた四人の式神が超えていった。
(まずっ)
式神たちは教誨師ではなく、ウタキ中央の女たちに標的を変更させられたようだ。
「そこの人、伏せて!」
(撃たれるよ?)
(うん。)
そんな会話が聞こえた気がした。四人の式神は、教誨師とウタキ中央の女たちの間に一度着地した後、足並みを揃えるようにしてまたジャンプした。何の変化も工夫もなく、ただ真っ直ぐに跳躍した。
(ありがと。ごめん。)
一発ずつ指切りで、式神たちを撃ち落とす。式神たちはドクターの支配下にありながら、全力でその命令の隙をついて、教誨師たちにプラスになるように動いてくれている。以前の相馬ひなであれば、あるいは以前の教誨師であれば、仕事にならない状況であったかもしれない。だが今は、違う。護りたいものを護るという信念と、ドクターに対する怒り、そして、リハビリ期間にも研ぎ澄ましてきた、エージェントとしてのスキル。そうしたものがすべて、今の教誨師を駆り立てている。
思えばもう、日没の時刻であった。上空はともかく、足元は夜の明るさに過ぎない。しかし教誨師は、その心眼を意図せずして開いていた。薄暗闇の中、風を切って跳躍する式神たちの動きが、滑らかなスローモーションに見えた。聖地である天湧のウタキの磁場に引きずられて、感覚器官のレンジが跳ね上がっていた。
「そこの人、九条を抱えて走れますか?」
九条を抱えて伏せている人影が片手を挙げる。教誨師と後見人がやりとりするサインが見えた。
(OK、仕切れ、のサインね。誰だか分からないけど、通じてるってことで。)
マガジンを新品に交換する。テープは、今度もブルーだ。
「カウントします!」
女たちにも、式神たちにも聞こえるように叫んだ。
(協力して、式神ちゃんたち。まずは九条を脱出させる。)
(任せる。)
また、誰かの声が聞こえた気がした。
「3、2、1、NOW!」
九条を抱えた女が跳ね上がるような動きで駆け出し、教誨師の方に走ってきた。その一瞬だけ、すべての式神たちの動きも、止まっていた。だが、九条と女がウタキを出た瞬間、黒とインディゴを除くすべての式神が教誨師に向かって跳躍してきた。
(一〇人。一人四発。あなたたちはあたしを恨んでもいい。それでもあたしは、あなたたちを救いに戻る。)
声にはしなかった。心の中で、絶叫していた。全弾を撃ち尽くし、ゆっくりした手つきでマガジンを交換すると、暗い森の中を教誨師はかけだした。
クバの森の中の小道を戻るに従って、足元の暗さが気になりだした。だがすぐに、九条由佳を抱えて移動する森田ケイの後ろ姿が、その暗さの向こうにゆらりと見えた。
(あれ、あの女の人は?)
そう思ったが、脚を止めての周囲の確認は避けた。今はこの場からなるべく早く遠ざかることが重要だ。
「森田、今追いつくわ。」
後ろから声をかけつつさらに接近した。黙って接近することで、味方同士の銃撃戦になることを避けるためもあったが、後ろ姿の人物が誰であるのか、はっきりと確認しておきたいという思いもあった。
「ひとまず、森を抜けるぞ!」
いつもの森田の声が返り、教誨師は少しほっとした。背後を確認すると、式神たちは追っては来ていないようだった。そもそもドクターは、自身の復活が最優先事項のはずだ。ウタキを囲む森の外まで、邪魔者を追う理由はないはずだった。
森を抜けると、ほぼ新月の夜だった。濃厚な闇が、辺りを呑み込んでいた。ウタキから離れたことで、五感が日常のレベルに戻ってきている。森から一〇メートルほどのところで二人は一度、立ち止まった。森田はしゃがみ込み、相変わらずぐったりしている九条由佳の背を片方の膝の上にもたれさせた。軍用品のようなごつい懐中電灯をジャケットから外し、点灯した。
「九条さん、大丈夫かな?」
「衰弱が激しい。意識も混濁があるようだ。ひとまずキャンプまで連れ帰るぞ。背負って移動する。」
「それじゃ、ライトと無線は預かるわ。」
「頼む。ついでに時田に報告を入れてくれ。」
人一人を抱えて走ってきた分の荒い息を吐きつつ、森田は教誨師に通信機を手渡した。
「わかったわ。……時田さん、聞こえますか?」
「教誨師ちゃんか。大丈夫か?」
「ええ。細かい説明は省くけど、九条さんを連れて戻ります。もう森の外なので、あと四〇分くらいで戻れると思います。」
「了解。九条と一緒ってことは、一戦交えてきた感じ?」
「ええ。」
「分かった。十分気をつけて。」
通信を終えた教誨師は、少し戸惑いがちに、並んで歩く森田に尋ねた。
「あのウタキでね、知らない女の人を見たんだけど。……あれって、ケイくんだったのかな?」
「どんな女だった?」
「ふつうの巫女さんっぽい服を着てたわ。神社で見かけるような。」
「そうか。その女、「仕切れ」のサインを出したか?」
「ええ。」
「……それじゃ、間違いない。そいつは、オレだ。」
「やっぱり……。あのサインはうち独特のもの、って聞いてたから、そうじゃないかとは思ったけど。なんでケイくんが、女の人に見えたんだろう。」
森田ケイは、ウタキで教誨師とすれ違ったとき、実は教誨師を見なかった。森田が見たのは、夢の女だ。いつも、谷川の音が聞こえる山道で自分に話しかけてくる、自らの夢の中の女の姿をそこに、見出していた。そして、その女は、品川の夜、開花間近の桜の下で、デーモンビジョン越しに見た女でもあった。
夢の中で自分は、巫女装束を身に纏っていることが多かった。ただそれが本当に自分自身であったのか、それとも誰かの過去世の記憶の混淆であるのか、区別はできていなかった。だが、教誨師が見た自分の姿は、巫女の姿だったという。
「単純な、ことよ。」
森田の背中で、九条由佳が呟くように言った。
「あ、由佳さん、大丈夫?」
「ええ、何とか。また、あなたたちに助けられたようね。」
「でも、あなたは世界を護ろうとしてるんでしょ?だから、助けてもらうのはきっと、こっちでしょ。」
「そのつもり、だったけど。……やっぱりまだ私は、賀茂くんを超えられない。」
「らしくないって。」
「でも、蝕の開始まで、持ちこたえることも、できなかったのよ、私は。どんどん、霊力を吸われるような状況で、ほぼ何にも、できなかった……。」
教誨師は、ふう、と溜息を吐くようにしてから、言った。
「らしくないって、言ってるのよ。あたしにお説教してくれた由佳さんは、もっと毅然としていたわ。それに、」
教誨師はなぜか、無性に腹が立った。
「式神ちゃんたちはね、必死で抵抗していたわ。ドクターに支配されている状況下で、動きの合間合間に隙を作って、あたしたちに、止めさせよう、撃たれようとしてた。あなたなら、分かるんでしょ?それがどんなに難しくて、辛いことか。……いいわ。あなたが諦めるなら、それでもいい。勝手に諦めてなさい。あたしが、あのコたちを連れ戻しに行ってくる。あたしは、みんなに約束したもの。」
それだけのことを言って、教誨師は黙り込んだ。無言のまま、三人は闇夜の無人島を歩く。やがて森田が、少し困ったような響きもある口調で、背中の九条に、静かに語りかけた。
「九条さん、この状況だ。あんたの助言がなければ、ドクターへの対処は正直難しい。それに、お嬢様が式神たちを思う気持ちには、一切の嘘も妥協もないと、オレは思っている。もう一度立ってくれとは言わないが、あんたも望みは捨てないでくれ。でないと、オレたちがここへ来た意味が、なくなってしまう……。」
森田の背中で、九条は小さくそっと、深呼吸をした。そして、笑った。
「ふふふ。ごめんなさい。あなたたちの顔を見たら、安心して、柄にもなく弱音を吐いてしまったようね。……ひなさん、うちの娘たちを心配してくれて、ありがとう。ほら、泣かないで。」
「泣いてない。」
ぼろ泣きだった。九条が、式神たちごと、この世界を諦め投げ出した気がして、それがひなには、たまらなく悔しかったのだ。
「……あなたって、どんどん成長してるのに、まだちゃんと泣けるのね。」
「うるさいです。どうせあたしは子どもで、本当に大事なものがなんだかも分かってないですよ。」
涙を堪えようとした嗚咽の中で、何とかそれだけを言い返した。九条はゆっくり、ひなのことばに答えた。
「よく聞きなさい。あなたの成長は、認めてるのよ。私は式神たちとリンクできるから。あなたがどんなに気遣って、いえ、自分の思いを噛み殺して式神たちと戦ってくれたか、分かっているつもり。あなたは、撃たれる痛みも知ってるでしょ?その上で、式神たちを止めてくれた。私だけじゃなくて、あのコたちも、それはちゃんと分かっているはずよ。」
「別に、分かってもらいたくて、戦ってるわけじゃない。あたしは、」
「ありがとう。私たちは、いい友人と出会ったみたいね……。大事なのは、世界を護ることじゃない。誰かを護ることでもないの。ほんとうに大事なのは、自分も含めて、自分のいる世界を護ること。それを護るには、自分を投げ出しちゃダメなのよ。恨まれても、誰かを少しは傷つけても、最後はみんなで、自分も一緒に、笑って帰ってくる、その覚悟が必要だって、私はあのとき言いたかったのよ。……今は弱音も、吐いちゃったけれどね。」
「……それは、ドクターのことを?」
「そうね。……ドクターはもう、あのとき、心身ともに疲れ切っていたわ。死の間際にあなたに会えたことを喜んでいたと思うけど、たぶんきっと、それは本心だったんだと思う。あなた、おもしろいし、かわいらしいから。でも彼は、自分の命を差し出すべきではなかったと、私は思っている。だって、私自身が、自力でランズエンドから脱出する日が来たかもしれないでしょう?」
だが、それは間に合わなかったのだ。九条の脱出も、ドクターの気力も、間に合わなかったのだ。それでも、九条はドクターに、待っていてほしかったのだろうと、ひなは思った。
ドクターは、九条を救い出したが、九条の望んだ世界、九条だけではなくドクターもいる世界を、九条に与えてやることはできなかった。そして九条はそのドクターを、絶望の中から救い出せなかった。ひなには想像できないような後悔がきっと、そこにはあるはずだった。
それでも九条は、笑っている――。
「……ねえ、ドクターはなぜ、今度のことを?」
「それは、……明日の作戦を立てるときに話すわ。メイドさんと、時田もいるんでしょ?推測の域を出ない部分もあるし、このあと五人で考えた方がいい。それより、」
「それより?」
「ウタキで森田さんが女性に見えたって話の続きはいいの?」
「あ、忘れてた。それっていい話?それとも、怖い話?」
「そうね、どちらかと言うと、いい話のはずだけど。確認ですけど、森田さんはもう、だいたい見当が付いているんですね?」
「まあ、何となくは。」
「え、何それ。分かってないのあたしだけ?」
「ひなさん、あなた、自分の前世に関わりそうな夢って、見たことある?」
「前世?ないと思うけど、まさか、」
「そう。あたしは専門家じゃないから、はっきりとは分からないけれど。でもあなたたち、いつかの時代で、ずいぶん縁が濃かったようよ。女どうしだったようだけれど。」
「姉妹とか?」
「いえ、恋人どうしだと思うわ。似てなかったし。」
「へ?女の子どうしで?え?」
「どうも、そうらしい。」
森田が口を開いた。どんな表情でそう言ったのか確認したかったが、暗くもあり、ひなの位置から森田の表情は見えなかった。
「品川で、デーモンビジョンでお前を見ただろ?」
「うん。」
「あのときビジョン越しに見えたのは、お前じゃなくて違う女だったんだが。そのとき見た女が、さっき、ウタキにいた。MP5を持ってな。」
「え、ケイくんもあたしが別人に見えてたの?」
「ああ。ただ、オレには馴染みの女だったから、特に驚かなかった。」
「馴染みのって、どういうことよ?」
「一〇代の頃、よく夢で見たんだ。」
「……あたしは、そんな夢、見てない。ウタキにいた女の人は、見覚えがない顔だった。」
少ししょんぼりとした様子で、ひなは言った。
「いいのよ、それで。過去世のことは、過去世のことなのよ。それは、忘れないでね。ただちょっと、ロマンチックでしょ?自分の彼氏と、性別はともかく、過去世でも一緒だったなんて。」
「ちょっと待って、何よ彼氏って?」
「あれ、違うの?」
九条由佳が、少し笑ったような口調で言った。
「そ、それはえーと、その、違わない、と思うけど……。」
森田は何も言わない。ただ、何事かを考えているようだった。
「それにしても、女の子どうしのカップルだったの?あたしたち。」
森田からの助け船を諦めて、ひなは話題を少しだけ変えてみた。
「たぶんね。ちょっと言い方はあれだけど、いくら天湧のウタキとは言え、ひなさんみたいな素人さんが霊視できるのは、自分とよほど何か強い縁があった存在くらいなのよ。デーモンビジョンで森田さんがひなさんの過去世の姿を視たのも、ほぼ同じ理屈。で、姉妹でもなく親子でもなく、女性どうしで強い縁と言えば、たいていはそういうこと。」
「も、もしかしてあたし、そっち方面の素質がある?狙われやすい体質とか?」
ひなの脳裏を、去年クラスメイトだった吉田紗幸の顔が過ぎった。
「それは分からないわ。言ったでしょ?過去世のことは過去世のことだって。」
「そっか。」
「でもそうね、そっち方面のことが知りたかったら、公安の吾妻さんに聞いてみるといいわ。」
「えええ?あ、あのお姉さん、もしかして、そっちの人なの?」
「有名な話だぞ。」
森田が言う。
「なんだー……。」
「お前、本気で疑ってたもんな。」
「うるさいわね。そうならそうと、」
「言ったところで、信用したか?」
「う、信用できなかったかも……。」
九条が、森田の背中で笑い出した。
「あらあら、ほんとに二人は恋人どうしになっちゃったのね。もう少し時間がかかるかと思ってたのに。」
「もう少しって、どういうことよ!」
「水原さんも同意見だったわよ。あの二人、ずいぶん時間がかかりそうって。」
「森田!」
ひなの口調が突然、以前の、自らの執事であった頃の森田に対するものに戻っていた。森田も、それが当然であるかのように応じる。
「なんでしょうか、お嬢様?」
「背中の人を降ろしなさい!もうその人は元気そうよ!」
「ふふふ、森田さん、まじめな話、おかげさまでだいぶ回復してきました。もう、歩けると思います。」
「大丈夫か?今さら無理に歩いてもらう理由もないんだが。」
(森田、元執事のくせに、あたしの言うことを聞かないのね?)
「大変ならあたしが肩を貸すから、ともかく森田から降りなさい!」
「ほら、ひなさんもああおっしゃっていますから。」
「いや、それがな。もうキャンプなんだ。このまま進んだ方が早い。」
気が付くと、青木と時田が、びっくりしたような顔ですぐそこに突っ立っていた。キャンプまであと数十メートルというところまで、いつのまにか、三人は戻ってきていたのだ。
「あのー、相馬のお嬢様、よく分からないのでございますが、それはヤキモチでいらっしゃいますかぁ?」
妙な抑揚をつけて、時田が聞いてきた。
「心配してお待ちしていたのに、ずいぶんいつも通りなご様子ですね?お嬢様。」
はるみさんまでが、呆れた様子で笑っている。
「く、あーもう!何とでも言いなさい!どうせあたし一人がお子さまですよー!」
そう叫ぶようにして言いながら、相馬ひなは皆を置き去りにして、のしのしとしか言い様のない様子で歩いていった。
「なあ、いったい何があったんだ?」
森田の背中から地面に降りた九条に、時田が尋ねる。真剣なトーンの声だ。
「復活前のドクターに、式神たちの制御をほぼ、奪われたわ。ウタキに近づいた森田さんとひなさんを、式神たちに襲わせるくらい、完全にね。これで、何もしなければ、明日の日蝕に合わせて、邪神となったドクターが復活する。」
「実現可能な作戦はあるのか?」
「あるわ。ただしそれは、ドクター自身も知っているはず。」
「わかった。ま、作戦が一つでもあればいいんだ。今はともかく、」
「晩ご飯、ですわね?」
青木が笑う。
「そういうこと。」
そう言った時田も、ゆっくりと歩き出した九条も、笑った。森田はようやく、たばこに火をつけた。テントの方から、
「早く来ないと食べちゃうよー」
という、半分やけっぱちのような相馬ひなの声が聞こえた。
「私が言うのもおかしいのかもしれないけれど。」
大人三人が、歩きながら九条の方を向く。
「こんな壮絶な状況だけど、あのコがいると、笑えてしまうのよね。」
「本人はあれでけっこう、まじめに悩んだり落ち込んだりしてるんだけどな。」
「でも、お嬢様は、お逃げにならないから。」
「そうだね。だから周りの大人たちもつい、気合い入れて応援しちゃうんだろうね。」
まるで昔からの知り合いどうしのように、四人は笑い合った。だが、テントで待っていた相馬ひなは膨れっ面だ。
「またあたしのこと笑ってたでしょ?」
「いいえ。たった今、ひなお嬢様ファンクラブが設立されたところよ。」
「ま、入会資格が怪しいヤツも一人いるけどね。」
「な、なに訳の分からないことを言ってんのよ。晩ご飯食べて、作戦会議でしょ!」