第一五話 嘔吐、あるいは旅の始まり
教誨師シリーズ第二部の最終話です。よろしくお願いします。
八月二〇日。
教誨師は、麻布第一病院を退院した。手続きも全部、自分で済ませていた。全治二週間の怪我だが、残りの一週間は自宅で療養することになっている。しばらくは、車椅子のやっかいにもなる。
「はるみさん、吉田紗幸の身柄は?」
退院時に迎えに来た青木はるみに、開口一番、教誨師はそう尋ねた。
「お屋敷の地下にて拘束しております。」
「わかったわ。ありがとう。明日の午前中、直接会うことにするわ。」
それだけの確認をして、後は一切、教誨師は吉田紗幸の件に触れなかった。
何度も、イメージした。自分が、拳銃に弾丸を装填し、その銃身を吉田紗幸の口にねじ込み、引き金を引く瞬間を。引き金を引くときの角度次第で、あるいは頭蓋が破れ、あるいは首の後ろが裂けるだろう。背後の床や壁には、吉田紗幸の血でできた豪奢な花が、咲くだろう。
丁寧に、イメージし、そして嘔吐した。泣いて助けを求める吉田紗幸をはじくのだ。自分の心は、それを遂行するに相応しいほど、殺伐と朽ちてしまったかどうか、確認した。あるいは、引き金を引く前に、尋問する必要があるかもしれない。拳銃で、四肢を一本ずつ打ち抜き、前歯を叩き割り、文字通り口を割らせるイメージを、鮮明に喚起し、そしてまた嘔吐した。
たとえば、それは相馬邸の地下の一室。
「何故、あたしを刺したの?」
吉田紗幸は、後ろ手に縛られ、床の上に直接座らせられている。教誨師は、銃を吉田紗幸の咥内に差し入れ、空いた方の手で髪を掴み、尋ねた。
「うう、うぐ……」
銃身が喉奥にまで届き、吉田紗幸が嘔吐に体を震わせている。
「答えろ。」
銃身を抜き、側頭部をブーツの脚で蹴りつける。溢れ出た唾液と、それに混ざった鮮血が飛び散り、さらに床を汚す。その床に横たわったまま、震える切れた唇で何かを答えようとする吉田紗幸の口を、また銃身で割る。もう胃液くらいしか戻すもののなくなった吉田紗幸が、自分の吐瀉物にまみれながら、泣いて懇願する。
「た、助けてよう、ひなちゃん……」
その名前で呼ばれると、自分の理性が全部吹っ飛ぶのが分かる。めちゃくちゃに銃身で喉奥を痛めつけた上で、引き金を引く。
そんな悪夢同然のイメージを、人が夢想するものとして最低の部類にすら入らない夢を、覚醒したまま、繰り返しイメージした。そして、繰り返し戻した。
嘔吐する度に、脇腹の刺し傷が痛みのたうち回ることになったが、やがて、どんなに残虐なシーンを想起しても、吐き気を感ずることはなくなった。
(これで、いつでも銃を握れる。あのコの前に立てる。)
そのことを確認してから、教誨師は病院を退院したのである。
もはや自分は、教誨師ではないのかもしれない。裏切られ絶望した、ただの殺人者なのかもしれない。
それでも、あの娘の前には、立たなければならない。
どうするかは、自ら決めなければならない。
すべては、明日の午前、吉田紗幸に会って決める。
「はるみさん、あれから時田さんの仕事の方、連絡はあったかしら。」
「お嬢様、そのお体では」
「連絡はあったの?」
「……まだでございます。」
「そう。」
教誨師は自分の携帯を取りだし、時田に直接連絡を入れた。
「時田さん、ひなです。……あ、はいもう大丈夫です。仕事ですが、対応できますのでチャンスがくれば連絡ください……。ええ、ええ。それじゃ失礼します。」
以前なら、青木はるみの担当業務に断りもなく手を出すことはなかったはずだ。分業と言うよりも、それはひなの気遣いだった。しかし今の教誨師、相馬ひなには、そのような心配りは見られなかった。
何かが、というよりも、相馬ひなは、狂っていた。狂ったと言うよりは、ただ、眠っていたのかもしれない。
教誨師はいつか、一人前のスナイパーとして、有能なエージェントとして、独り立ちしなければならない。それは、相馬ひなにも、現在の後見人である青木はるみにも、十分分かっていた。だがそれは、こんな痛みを伴う形で無理矢理進められるべきではない、とも、青木はるみは思った。
最期の言葉を受け取る者。
最期に言葉を与える者。
それが、教誨師の役割だとするならば、そもそもが矛盾なのだ。
矛盾を解消し、無個性の殺人者となるか、あるいは、矛盾を引き受け、教誨師として在り続けるか。――生きていくその生き易さなら、矛盾はない方がよい。
そして、誰にも、何もできないまま、静かに朝が訪れた。
吉田紗幸は、地下の一室のベッドに寝かされていた。車椅子を降り、ベッドサイドに立つ。
紗幸の顔を見た教誨師の眉が、ぴくりと動く。
「これは、誰が?」
「我々が拘束したときにはすでに。」
「そう……。吉田紗幸、聞こえる?これから、あたしの問いに、答えてもらうわ。」
外界の雑音が遮断された室内に、意外なほど大きく、教誨師が拳銃のスライドを引く音が響く。その銃口を、左頬の大半および左眼の目尻周辺が青黒く腫れ上がった、吉田紗幸に向ける。
「あなたにあたしを襲わせたのは、誰?――あなた自身?それとも?」
「……。」
「答えなさい。」
「……。」
吉田紗幸は、教誨師の眼を見つめた。そして、見つめたまま、涙を浮かべた。
「ご、ごめ」
「謝るなっ!」
紗幸の言葉を遮るように、銃を腫れた頬に突きつける。
「……その顔、あたしの始末に失敗したから、依頼主に折檻された、そんなところじゃないの?――違う?」
そう尋ねて少しだけ銃を引く。失笑のような表情が浮かぶ。
吉田紗幸が、ぎこちなく頷く。
「仕事で受けたんなら、謝るな。――ただ、依頼人の名前だけは、どうしても喋ってもらうから。」
「お嬢様、吉田さんは」
「口を挟まないで。これは、あたしとこのコの問題。」
青木を振り返りもせず、教誨師はそう言い放った。
「……わかったわ。言うわ。」
教誨師の意志の堅さに負けたように、吉田紗幸がそう、言った。銃口を向けたまま、教誨師は無言で待った。
「依頼人は、そうね、直接の依頼人は、わたしの父よ。……厳密には、義父、だけど。教誨師さん、考えなかった?組織の息のかかった理事が三人もいた学園に、組織関係者の子女が在籍している可能性を。」
吉田紗幸の口調は、普段の口調とはまるで違う、ふてくされたような、やや大人っぽい口調だった。
「……続けて。」
「義父は、組織壊滅後、キリークのナンバー2、今のリーダーに近づいたわ。都賀という男よ。さすがに仕事がないんじゃね、似たような需要の生じるところを渡っていくしかないから。……だから、今回の依頼の大元は、キリークと考えてもらっていい。」
「あなたは、いつから仕事を?」
「そうね、わたしが義父に強要されてこの仕事に手を染めたときには、教誨師、あなたの通り名はもう聞こえていたわ。そんな名前の、似たようなのがいるらしい、と義父が言っていたから。」
「そう……。」
表情を変えぬまま、教誨師はまた尋ねた。
「それで、もう一度聞くけど、その顔は?」
「ええ、義父よ。……なんなら体も見る?ふだんは、外から見えるところなんか、殴らない人なんだけどね。よっぽどキリークの今のリーダーが怖いのよ。」
「……殴られる、だけなの?」
なぜか吉田紗幸は、左半分の腫れた酷い顔に婉然とした笑みを浮かべた。
「そうね、義父は、変態だから。義理の娘を裸にして殴る蹴る、それでとりあえず満足するみたいよ。後は、どう始末してるんだかね。知りたくもないから確認したことはないわ。」
吉田紗幸、相馬ひな。同い年の、殺し屋たち。互いに傷ついた果ての、隔たり。
「……依頼を、しない?」
「え?」
「殺しの、依頼をしない?って訊いてるのよ。嫌ならいいわ。」
「まさ、か……。」
「実はね、一件今仕事が入りそうなのよ。それも、ターゲットは、あなたのお義父さんが恐れているっていう、まさにその人物。どうせなら、二人まとめて始末させてもらうわ。……別に、あなたがお義父さんを庇うって言っても、まあいずれ、相馬の家が始末するだろうけどね。」
「……。」
吉田紗幸は、目を丸くしたまま、何も言えずにいる。
言えるはずもない。今日まで受け入れ、委ね、自ら守ってもきた、義父との歪んだ関係を、教誨師は自ら棄てよと言うのだ。憎しみと慕情の綯い交ぜになった、酸でできた産湯のような場所を、自ら棄てよと言うのだ。
ふん、という様子で教誨師はようやく銃を引いた。
「はるみさん、確認するけど、今回の件、被害届は?」
当然、教誨師は届けが出ていないことを知っている。
「はい、提出しておりません。」
吉田紗幸が、はっと驚いた顔になる。
「あなただって、桜ヶ丘、卒業したいんじゃない?立件されなければ、学園側も関知しようがないし、警察も未成年者の事件の可能性から、報道発表はかなり制限しているわ。つまり世間は今回の件、ほとんど知らないし。仮にどこかが何か言ってくれば、こっちから圧力をかける予定よ。……そんなところでどうかしら、スノー。」
「……!」
教誨師は、吉田紗幸のその世界での通り名を呼んだ。そして、力なく微笑んだ。吉田紗幸も、その表情につられたように、同じような笑みを浮かべた。
一瞬の、静寂が訪れる。自らの秘密を相手が知ってしまったことに対する、諦めにも似た思いが胸を満たす。
「スノー、って。いつから知ってたの?」
「あたしは知らなかったわ。あなたに刺されるまではね。ただ、父は、そういう名を持つ人間が桜ヶ丘にいるというのは、早くに情報を掴んでいたようよ。でも、娘には伝えなかった。同業であれば、互いに牽制し合うことはあっても、直接対決することはないだろうと、父は思ったみたい。ま、その甘い判断のおかげで、あたしは殺されかけたけどね。」
吉田紗幸は、ついに泣き出した。嗚咽の合間に、教誨師に訴える。
「だったらわたしのこと、とっとと始末してくれればいいのに……。そうよ、わたしは吉田紗幸なんてコじゃない。わたしはスノーなのよ。そしてわたしは、あなたにナイフを突き立てた。その事実はもう消せないわ。もう。前と同じようには……。吉田紗幸はもう……。」
「そうね、そうかもしれない。あたしが知ってる吉田紗幸ってコは、もういないのかもしれない。丁寧に、危ない血管を避け、重要な臓器を避けてナイフを刺してくれたのも、刺したナイフをこじらなかったのも、たまたまで、全くの偶然かもしれない。
でもね、スノー。聞きなさい。そんなことは関係ないのよ。あなたは、このあたしに弱みを握られた。これは致命的よ。表の世界で活躍しても、裏の世界で暗躍しても、あたしが生きてる限り、あなたにほんとの自由はない……。分かってる?」
自分の僅かな善意も躊躇いも、すべて見透かされ、そして、それを関係ないと切り捨てられた。吉田紗幸は、覚悟を決めた。涙が、止めどなく流れ落ちる。
「もう、いい。早く、殺してちょうだい。……もう、生きていたくない。」
青木はるみは、自らの主人が震えているのに気づいた。すっかり血の気の引いた顔で、教誨師は告げた。
「……前歯のない無様な顔になりたくなければ、口を開けなさい。」
「お嬢様!」
「あなたは黙っていなさい!」
教誨師が、吉田紗幸の口元に銃を突きつける。
覚悟を決めたのか、吉田紗幸は両眼を閉じ、わずかに口を開いた。
その唇を強引に押し広げて、金属と樹脂で構成された銃の銃身が、ぐいと挿し入れられる。
だが、嘔吐を誘うぎりぎりのポイントで、銃は止まる――。
「……ふざけないで。じゃあ殺してあげるなんて、このあたしが言うと思う?あたしはそんなに甘くない。契約のない殺しは請け負わないし、だいいち、あなたを楽になんか、してやらない。――あたしが、すべて決める。あなたが選べる選択肢は、たった一つよ。教誨師として、この相馬の家の娘として、あなたに命じるわ。」
「……?」
吉田紗幸は涙を堪え、嗚咽を堪えて身構えた。どんな要求がくるのかと。義父殺しを依頼せよと言われ、次は命令だ。
それでも、吉田紗幸は何か、心のどこかが期待に彩られたのを感じていた。心のどこかで、同業者として認めていた教誨師から、この人生最後の命令が与えられる。同じ少女として憧れ、恋愛感情すら抱いていた相馬ひなに蹂躙され、貶められる。そのことに自分の、スノーとしての、吉田紗幸としての意味があるのだと思いかけた。それは、いまこうして死を覚悟し、また虐げられることを愛情だと受け止め生きてきた吉田紗幸にとっては、最期の灯火のような幻想だった。
だが、――
「あなた、うちのメイドにおなりなさい。」
教誨師の提案は、意外なものだった。義父殺しの提案よりも意外すぎて、とっさには何も答えられなかった。もっとも、答えようにも口は銃で塞がれていたのだが。
「お、お嬢様、」
吉田紗幸が反応する前に、青木はるみが思わず声を上げていた。
「はるみさん、どうせうちはこのコの義父というのを始末しなければならない、それは間違いないわよね?」
「はい。」
「その後、このFive-seveNを咥えさせられてうっとりしてる哀れな変態女さんは、どう暮らしていけばいいの?」
「それは、そうですが……。」
青木はるみは口ごもった。変態女と言われた吉田紗幸の無事な右側の頬は、屈辱に染まっている。あるいはそれには、歓喜の色もいくらか、混ざっていたのかもしれない。
ようやく教誨師は、銃を引いた。
「どう?これは、あたしにとっては単純な選択の、当然の帰結よ。あなたを殺すか、殺さないか、というね――。
ねえスノー、一生拘束するとは言わないわ。あたしが独り立ちするまで、ということで十分。お望みならその後、決着をつけたっていい。いずれにしたってあなたのことは、あたしの秘密を知る者として、相馬家はずっと監視してなきゃならない。もし、あなたを殺さないって選択肢を、今日この場で、この教誨師が選んだらね。そしてあなたも、あたしの影に怯えて暮らさなければならない……。
だったらいっそのこと、働きながら、うちから高校に通ったら?その後も、うちで働いたら?っていうのがとりあえずの提案、よ……」
どさり、と突然教誨師が倒れた。
青木はるみが慌てて駆け寄る。
「……この件の始末だけは自分でつけるつもりだったのに……。はるみさん、スノーの意向、訊いておいて。――あたしは、部屋でちょっと休ませてもらうわ。」
刺し傷自体は経過もよく、特段の炎症も化膿も生じていない。ただ、体力が失われていた。吉田紗幸を始末する、そのイメージに苛まれ、食事もろくに喉を通らなかった教誨師の体力は、かなり衰えていた。
結局、教誨師は引き金を引かなかった。引けなかったのではない。最悪の状況までを冷静にこなせる自信を、自らの体力と引き替えに得た。その自信の中で、一人の少女の適切な処遇を、全力で考えたのだ。
教誨師の選択は「吉田紗幸は殺さない。」だった。後のことは、その決定に従った処理に過ぎない。もはやスノーの意向は関係なく、教誨師は自分なりの「処分」を決めたのだ。もしこの処分に吉田紗幸が従わなければ、後はただ、相馬家が事務的に始末するだけだ。
教誨師は駆け寄った青木はるみの手を払いのけるようにして、自力で車椅子に戻った。仕方なく、青木はるみはインタフォンで別のメイドを呼んだ。そのメイドに押されて、車椅子の教誨師が部屋を出ようとすると、背後から、吉田紗幸の声が届いた。震える、声だった。
「待って、ひなちゃん、ぜんぶ、……ひなちゃんの言うとおりにするわ。」
教誨師は、片手を上げて、車椅子を停めさせる。
「そう、分かったわ。……はるみさん、紗幸ちゃんをお願い。必要なら、病院へ。」
振り返らないまま、それだけを指示すると、教誨師は車椅子を進めさせた。
扉を挟んだ室内では、スノーと呼ばれ、またたった今、「紗幸ちゃん」と呼ばれた少女が泣いていた。
だが、部屋の扉が閉まっても、教誨師が涙を流すようなことは、一切なかった。教誨師はただ、何者かをにらみ据えるようにして、ぎりりと歯を食いしばった。
八月二三日。
キリークのナンバー2と呼ばれる現リーダー、都賀恭二は、かねてより潜伏中の山荘にもほど近い、佐久間湖という湖のほとりにいた。静岡と愛知、長野の三県が県境を接する辺り、天竜川を堰き止めて造られた、巨大なダム湖のほとりである。発電所関係の展示資料館の屋上、佐久間湖を見下ろす展望台で、都賀は、ある男と会っている。
吉田紗幸の義父、吉田宗男だ。
「なあ、都賀さん。あんたの部下はみんな捕まった。海外の協力組織もだろう?結局あんたは、公安と海外組織の両方から目ぇ付けられて、身動きも取れない状態ってわけだ。」
「ふん、何とでも言え。海外組織の方は、もっとデカい海外組織ってのが紹介してくれただけさ。特段の遺恨は残らないはずだ。」
「もっとデカい組織?――あんたまさか、ランズエンドと取引したのか!?」
「ん?今さら何を驚いているんだ?でもまあ、よく知っているじゃないか。ま、元組織メンバーなら知ってて当然か。」
「そ、それじゃ、教誨師の始末ってのも、公安とつるんでて目障りだっていうだけじゃ……」
「ああ。ランズエンドの意向だ。どうもランズエンドは、相馬家に遺恨があるようだな。そしてお前はそれを、しくじった。俺の心配だけじゃなくて、自分の心配もしてみたらどうだ?向こうは、お前も事情を知ってると思うかもしれないぜ?」
「都賀、貴様……」
「どうも、こんにちは。」
突如、展望台に一人の男が姿を現した。特に何の気負いもない様子で、二人に近づいてくる。
「……何の用だ?」
「ん、まあ昼間っから、こんないい天気の、こんな眺めのいい場所で、ずいぶんきな臭い話をする人間がいるもんだなあと思ってね。」
「聞いていたのか?」
「もちろん。あんたら声大きいよ。でもまあ、素人には何のことやら話の中身は分からないけどね。――あれ、安心しないでそっちの人。僕が素人だって言ってるわけじゃないんだよ。」
「お前、何者だ?」
「んー、聖衆秘仙会の、木村一二三っていうもんだけどね。何でも、僕が代表ってことになってるらしい。」
「何?秘仙会の?」
「まあそう色めき立たないでよ。あのときうちはほんとに何にもしてなかったんだから。……それより、都賀さんだよね、キリークの。あんた、狙われてるよ。こんな、見晴らしのいいところにいちゃ、ダメなんじゃないかな。」
「ふん、この距離でスナイプできる人間なんて、そうはいないさ。……だが、お前が何故そんなことを気にするんだ?俺がいなくなれば、そっちも商売しやすいだろうに。」
「うん?うちは商売っ気ないからね。教団の資産だって、お国に内緒の分を入れたって、二〇〇〇万くらいのもんだよ。郵貯口座二つ分。いまどき二〇〇〇万じゃ、マンション一部屋買えるかどうかじゃないの?よく分からないけど、でもそんなのあんたらには端金でしょ?」
都賀という男は絶句している。おそらくは、教団資産の額に驚いたのだろう。全盛期のキリークと比べて、確実に二桁は少ない。
その表情を見届けてから、木村一二三は、初めて凄みのある笑みを浮かべた。
「うちの資産はね、人なんだよ。その辺の団体と一緒にされては困るんだ。――にしても、あんたも教団を率いる者なら、こんな山ん中に隠れてないで、信者に対して責任取ったらどうなのかな?あ、いや、これはお節介だったね。気にしないで。」
それだけをわざわざ、しかも言い捨てるように言って、背中を向けた。
「それじゃね。ともかく警告は伝えたから。十分気をつけなよ、そっちの人も。」
そう言って、木村一二三はゆらりと歩き始めた。
(確かに、僕が心配してあげることじゃなかったんだけれど。うちの吉井も怪我させられたわけだし。)
木村一二三は、キリークが何かを画策していることは掴んでいた。それで、山に入るという名目で、ナンバー2の都賀の動向を探っていた、というのが本当のところだ。だが、事件は別の場所で起こり、都賀は今日明日にも指名手配されるらしい。
「今日で、山を、降りるか。」
そうつぶやき、そのまま、資料館の出口に向かった。
木村一二三は、資料館のロビーで、車椅子に乗った少女と、それを押す使用人風の女の二人連れにすれ違った。木村は立ち止まり、二人の後ろ姿を見送ったが、
(確かに、僕が心配してあげることじゃないね。)
そう、声に出さずにつぶやき、そしてまた、ゆらりと歩き始めた。
この日、センター経由で教誨師に降りていた仕事は、契約期間をあと一日残して遂行された。相馬家の敵と認定された男の始末も、つつがなく終わった。兇器の一つは、この八月のある日、教誨師自身を抉ったナイフであった。
『教誨師、泥炭の上。』第二部、完。
第二部は、第一部より少しだけ長めで、よくある文庫の書式換算で400ページ近い分量になっています。ただ、全15話に刻んであるため、当人としても第一部よりは読みやすかった気がしました。
でも、次の第三部は若干短めですが全8話なんです。今さら変えられないし、ちょっと失敗しました。
ともかくも、この分量のお話にお付き合いくださった方、ほんとうにありがとうございます。現状三部の「教誨師シリーズ」ですが、この第二部の終わり方がいちばん気に入っています。まあ、ちょっとかっこつけすぎてるかなとも思いますけれど。
第三部も、準備が整ったらアップ開始します。また、よろしくお願いします。