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第一四話 八月一三日まで、八月一三日から

 八月の八日から三泊四日で、相馬ひなは家のメイド等と沖縄に遊んだ。ただの慰安旅行という目的であったから、気の置けない者たちと水着を着て東シナ海に浮かび、一日三度土地の美味を食べ、ホテルのゲームコーナーで青木はるみ等と対戦する以外、特に何をするでもなく、どこに出かけるでもなく過ごした。メイドの中にはメジャーな観光スポットに出向いた者もあったが、ひな自身はずっと、ホテルの敷地内とビーチの往復だった。相馬ひなには、どんな観光スポットよりも、自分の屋敷のメイドたちと話をし、彼女たちの素顔に触れることの方が何倍も楽しく、また大事なことの気がしていた。

 夜になると、女ばかりの気楽な旅でもあり、主人である相馬嶺一郎のお手つきとなった青木はるみを被告とした、楽しくも生々しい裁判が行われたり、その被告が急に証人の一人となっての、ひなお嬢様の初々しい恋路についての情報交換会が行われたりもした。未成年でありそのため素面でもあるひなには、ほろ酔い加減で遠慮のなくなった年上女性一〇名以上に囲まれ質問責めに遭うという厳しい状況ともなったが、半べそをかきながら、異様にご機嫌なメイドたちの相手をしたのも、翌日になれば楽しい記憶になっていた。ふだんはしとやかで慎ましやかなメイドたちのありのままの姿を見たようで、初めて同じ女として打ち解けあえた気がした。

 ただ、沖縄最後の晩には、アルコールで軽く目の据わった青木はるみが、「お嬢様いわく、お嬢様のお体はあの憎っくき森田ケイのものだそうでございますが、唇はお嬢様のものだそうですので!」と仁王立ちで言い放ち、その上ひなを押し倒しながら強引にキスをするということが起こった。そのため、我も我もと相馬ひなにキスをせがむメイドたちの列ができ、そして実際に次々と唇を奪われたことだけは、しばらくは軽い悪夢として記憶に残ってしまいそうであった。ひなが真っ赤になり涙目になって青木はるみに抗議したことが、さらに他のメイドたちを刺激したらしく、結局居合わせたすべてのメイドとキスするはめになった。メイドたちは手際よく、ひなを押さえつけたり羽交い締めにしたりする係を交替しながら、ひなに対してそれぞれのテクニックを遺憾なく披露した。桜井というメイドは、仲のよい安藤というメイドと二人がかりでキスしてきたが、どういう訳かひなの目の前で二人が勝手に盛り上がるという事態になりかけ、さすがにそれは別のメイドが二人の頭をこつんこつんと殴って止めさせた。光景だけを見ればとんだハーレム状態だが、当然ながら「首から下は……」という青木はるみの言葉はみな守っていたし、すべてにぎやかな笑いの中での出来事だった。メイドたちはみな、大好きなお嬢様に、酒の勢いを借りてスキンシップしたかったようなのだった。

 当初は、九条由佳配下の式神たちもこの旅行に参加する可能性があった。だが、特に夜はそんな有様だったため、不参加は正解だったかも知れないと、ひなは帰りの飛行機でぼんやりと思った。式神たちは、結局直前になってセンターでの仕事が入ってしまい、九条由佳から丁重に断りの電話があった。あのかわいらしい式神たちが参加したら、うちのメイドさんたちはどうしていたのだろう、とひなは思った。

 この時期もセンターは多忙らしい。ひなの父親でありセンターの代表権を持つ上級幹部の一人でもある相馬嶺一郎は、屋敷に戻らない日が少しだけ、多くなっていた。相馬ひな自身も、センターの時田から、八月一五日から一〇日間の待機要請を受けている。センターには、キリークという廃絶教団の現在のリーダーをスナイプする仕事が、某ルートから降りていた。八月一四日までは別のエージェントが、八月二五日から先も、別のエージェントが受けている。要はまだ、キリークの現リーダーの所在が掴めておらず、誰がいつその仕事を遂行するのかも定まっていない段階なのであった。自分の待機期間でのスナイプ決行の指示が降りれば、後はそれをただ行うだけである。

 相馬ひなが沖縄から帰ったのは八月一一日の夜遅く、待機期間までは、三日間だけではあるが余裕があった。そのうちの一日を、相馬ひなは去年のクラスメイトだった吉田紗幸と過ごすことにしていた。

 午前一〇時に、新宿のスタジオアルタ前で待ち合わせた。桜ヶ丘は、保護者同伴でない限り、休暇中の外出も制服着用を義務づけていたから、二人とも、桜ヶ丘の制服を着て、新宿の街を歩くことになる。アルタ前に、ぽつんと制服を着て立っているのも場違いな気がするが、そんなことよりも、夏休みを利用しての観光客が多いのか、アルタ前は酷い混雑ぶりであった。そのことの方が、気になっていた。

(待ち合わせ場所、もっと地味な場所にすればよかったな。タカノの前か交番辺りの方がよかったかも。うまく紗幸ちゃん、見つけられるかなぁ。)

 この心配は、幸運にもそれほど深刻な問題には発展しなかった。

「紗幸ちゃん、こっちこっち。」

 そう言って伸びをして、手を振る。それまできょろきょろしていた吉田紗幸は、ひなの姿を認めると、ぱっと明るい笑顔を浮かべ、駆け寄ってきた。そのままの勢いで両手を差し出すので、ひなも思わず両手を差しだした。二人して、両手を繋ぎ向かい合う格好になる。

「ごめんね待たせちゃって。」

 そう言って繋いだままの両手を振りながら謝る吉田紗幸は、何かいつもと感じが違う気がすると、相馬ひなは思った。何か、いつもよりかわいらしく見えるのだ。

 そんなことを考えている自分がおかしくて、ひなはちょっと赤面してしまった。だがそれとともに、あることに気がついた。小声で尋ねてみる。

「紗幸ちゃん、口紅塗ってる?」

 今度は吉田紗幸が真っ赤になった。慌ててひなの手を握っていた両手を放し、自らの唇を隠すようにする。

「……もうバレちゃった?校則違反だから、なるべく薄くしたんだけど……。変かな?目立つかな?」

 うつむいて、悲しげな表情になる。慌ててひなが言葉を続ける。

「ううん、そんなことない。何かいつもよりかわいく見えたから気がついただけで……」

 慌てて出たせりふではあったが、効果は覿面であった。吉田紗幸は、今にも泣き出しそうなくらい、困ったようなうれしいような表情になった。

「……あ、ありがとう。」

 潤んだ瞳で、相馬ひなの顔を見つめる。

(あちゃー、またやっちゃったか……。)

 夏休みの午前中から、お嬢様学校の制服を着た、しかも十分に美少女と呼べる外見を備えた二人が、人待ちの人が多いアルタの真ん前で、手を繋いで赤くなったり見つめ合ったりしている。さすがにその様子は多少、目立ったらしい。二人の様子をちらちら見たりしながらひそひそ声で喋る人間が周りに増えたことにようやく気づいて、相馬ひなは慌てて吉田紗幸の手を引いて走り出した。

「紗幸ちゃん、い、移動するよ!」

「ど、どこへ?」

「とりあえず、ここじゃないどこか!」

 そう言って笑うひなにつられて、紗幸も笑った。笑いながら、二人して人混みの中をジグザグに走った。

 やがて二人は、とあるデパートの中に飛び込んでいた。

「どうする?ていうか、今日って、何をする予定なんだっけ?」

「……デート。」

「あー、いやその、それはとりあえずそういうことでもひとまずいいんですが、具体的には?」

「んー、お買い物とか?お茶したり、ご飯食べたりとか?それから……」

 そう言い差して、吉田紗幸は何か大人っぽい表情で笑みを浮かべた。

(この顔は、よからぬことを考えている女子の顔だ!)

 青木はるみを筆頭に、相馬ひなの周りには、こうした表情を浮かべる女子がしばしば現れる。沖縄で、そういう女子集団の溢れる愛情の餌食になったばかりでもある。だから、それなりに警戒はできるつもりだ。自ら「キスしたことがある女子の人数」をさらに増やさないためにも、十分今日の「デート」の展開には気を配る必要があると、ひなは思った。

「じゃ、えーと、それじゃひとまずお買い物からかな?」

「そうだね、この上の階で、お洋服見ていい?」

「うん。行こ行こ。」

 そうして、二人して四階の、自分たちの年齢相応のショップが多く入っているフロアに行き、交互に試着を始めた。最初こそ店員も付いていたものの、吉田紗幸が余りにマイペースで何度も試着し、また相馬ひなにあれこれ着せようとするため、諦めて、途中で他の客への接客に回るほどであった。

 その様子は、いちいち服を試着した感想を恋人に求める乙女のようでもあり、若い女性にあれこれ服を着せて喜ぶ年嵩の女性のようでもあった。

「ひなちゃん、次の服、もう着られた?」

「え、ちょっと待って、これ意外と着にくい。」

「どうなってるの?」

「えー覗かないでよう。」

 何度目かの試着の途中だった。吉田紗幸は試着室のカーテンの隙間から顔だけを見せて、慌ててワンピースを着てしまおうとする相馬ひなを、何故かぼんやりした表情で見ていた。そして、

「ひなちゃん、……いえ。相馬家のお嬢様。……あなたのこと、ずっと好きだったわ。そして、目障りだった。」

「え、何?何の話?」

「さよなら、教誨師。」

「え、どうし、て……」

 店員はすでに、二人のそばから離れていた。客も、途切れていた。

 そうなるタイミングを、吉田紗幸は、狙っていたのだろうか。

 相馬ひなは、左脇腹を、試着室のカーテン越しに、刺されていた。

 接近戦のトレーニングも十分積んである教誨師のスキルは、一切、発揮されなかった。あるのはただ、衝撃と混乱だけだ。

 なぜ、吉田紗幸は、自分のことを刺したのだろう。

 なぜ、吉田紗幸は、自分のことを目障りだと言ったのだろう。

 なぜ、吉田紗幸は、自分が教誨師と呼ばれる人間なのだと、知っていたのだろう。

 なぜ、吉田紗幸は、自分にとどめを刺さなかったのだろう。

 なぜ、……。

 様々な疑問が溢れ出る中、助けを呼ぶのも忘れて、相馬ひなは、試着室の中に崩れ落ちた。そして、問うてはならない問いを、自分に向けて尋ねてしまった。

 なぜ、自分は、教誨師なんかに、人殺しなんかになってしまったのだろう……。

 ケイくん、はるみさん、教えてよ。

 お父さん、教えてよ。

 あたし、あたしが教誨師だから友達に刺されたんだよ。あはは。あはははは。

 友達とか、護りたかったんだけど、目障りなんだって。

 ねえ、あたし、どこから間違えてたの?

 教えてよ。

 白々とした、意識の空白が近づいてくる。耳鳴りのような音と自らの鼓動だけが聞こえ、意思決定だけでなく、考えることすらできなくなってくる。その中で、その向こうに、誰かの後ろ姿が見える。

 ああ、お母さんだ。お母さん、あたし、がんばったんだよ。がんばったんだけど、目障りなんだって。それで、刺されちゃった。刺されちゃったの。お母さん。もう、休んでいい?眠っていい?ねえ……。

 どうして何も、応えてくれないの?

 ねえ……。

 長い間、そうして、微睡んでいた気がする。一瞬しか、経っていない気もする。

 どうしてこうなったのか、はるみさんやケイくんに訴えようとしていた気もする。

(紗幸ちゃん、無事逃げられたかな。)

 何故かそう考えている自分がいたが、そのことについて、特に何の感情も湧いてこない。

(どうして、太い血管とか危ない臓器とか外したんだろう。)

 それはもしかすると、吉田紗幸の覚悟にも似た想いの反映であるのかもしれない。だが、今の相馬ひなには、具体的な解答は何もイメージできない。どんな意味も見いだせない。

 分からないことだらけの危機的な心理状態の中、それでも、相馬ひなは、試着室から這いずり出た。そして、誰かの声を聞きながら、意識を失った

 次に意識が戻ったのは、病院のベッドの上であった。

「お嬢様、気が付かれましたか?」

「はるみさん、か。……状況の説明を、お願いできるかしら。あと、現在時刻も。」

「かしこまりました。現在、八月一三日、午後六時二三分。ここは、いつもお世話になっている麻布第一病院の個室です。担当もいつも通り、第一外科の越智先生です。お嬢様は、新宿伊勢丹四階の試着室で何者かに刺され、救急車でこちらに搬送されました。搬送開始に、西村とわたくしが間に合いましたので、こちらへはわたくしが同行いたしました。式神さんたちがお嬢様の異変を察して、九条様がご連絡をくださったのです。それで、搬送前に駆けつけることができました。」

「いろいろ、面倒をかけたわ。それで、犯人については?」

 ふだんの相馬ひなであれば、式神たちが自分のために何かをしてくれたというような出来事があれば、確実に反応していたはずだ。それが、ない。そのことに小さからぬ違和感を覚えたが、ひとまず青木はるみは主人の問いに答えた。

「お嬢様とご一緒だった吉田紗幸さんを、警察は第一の容疑者としているようです。吉田さんは、事件後、特に理由なく行方を眩ませていらっしゃいますので……。ただ、相馬家としては犯人に心当たりはないと答えておりますし、警察はまだ人物の特定はできていないようですが、一緒に来店したのはお嬢様と同じ制服を着た髪の長い女子校生だった、ということなどは確認済みという話です。学園の方が協力すれば、やがては吉田さんだと特定されるかと。」

 あえて青木はるみは、吉田紗幸を「さん付け」で呼んだ。ひなの口から情報を得るまでは、お嬢様のお友達を犯人とは決めつけないという心遣いだ。

「そう……。」

「お嬢様、いろいろご心痛もおありでしょうが、今はお体」

「はるみさん、」

 ひなは、青木はるみの言葉を遮った。気遣いの言葉と分かっていて、それを遮った。

「吉田紗幸は、……あたしが教誨師だと、知っていたわ。」

「それは本当でございますか!?」

 驚く青木には反応せず、相馬ひなは、いや、教誨師はこの件への対処を指示した。感情も何もない、ただ、やや浅い呼吸の中でつぶやくような様子で、告げた。

「彼女の背後を、洗いなさい。徹底的にね。桜ヶ丘に来た理由、あたしに、近づいた理由、そして、今回の動機、調べられるものは、すべて調べなさい。」

「承知いたしました。もう旦那様の命で調査を開始しているはずですので、さっそく西村に連絡して調べさ……」

「あなたも、お手数だけれど、調べに出てちょうだい。付き添いは、不要よ。」

「ですがお嬢様、あたくしは」

「相馬家の娘として、教誨師として命じます。……行きなさい。」

 青木はるみは、相馬ひな付きのメイドとなって初めて、相馬ひなから拒絶された。二人の間に隠し事があったことも、からかいが過ぎて喧嘩腰になったこともあったが、一度も、気持ちのやりとりの上でこのように線を引かれたことは、なかった。

 ぐ、と拳を握り、唇を噛んだ。そして、自分に対し、そうした態度に出ざるを得なかった、教誨師相馬ひなの、深い痛みを思った。こみ上げるものを、堪えた。

「……ご指示、承知いたしました。」

 略式ではない、メイドとしての正式の礼をして、青木はるみは主人の依頼を引き受けた。

 すぐさま退室の準備を始めた青木はるみに、その背中から、感情を伴わないままの主人の声が届く。

「ありがとう。ごめんなさい。……わがままついでに、もう一つ、お願いできるかしら。」

「何なりと。」

「可能ならば、吉田紗幸の身柄を押さえて。生きたままで。警察よりも早く。」

「……かしこまりました。全力を尽くします。」

 後はもう、会話はなかった。今はただ、今すべきことをするだけだ。



 秋の虫が、早くもそこここの茂みで鳴いていた。

「課長から、俺たちテロ班に指示だ。式神たちの協力を得ることを、恥と思うな。今回の件、新たな負傷者を出したら負けだと思え、とのことだ。」

「式神ちゃんたちの潜入スキルを軸に、作戦を遂行せよ、ということだな。」

 綾川睦月と塩谷仁とが確認し、数名の対テロ班の人員がうなずく。

「綾川さん、まずは駐車場に止まっているマイクロバスを制圧、でいいんだな?」

 対テロ班に合流した森田ケイが、作戦の手順を確かめる。

「ああ。式神八名の協力下で行動するが、まずマイクロに式神と人間で一名ずつ、かける四台分、付いてもらう。森田さんは四号車、ペアは黒さん。それと、九条さんと時田さんは司令塔役だ。」

「残りのメンバーは、宿泊施設の方だな。」

「ああ。式神の皆さんにはサブマシンガンとナイフを支給、我々はナイフだ。」

「外人部隊は殺してもよいが、キリークは逮捕、というのは変更ないか?」

「ああ。変更なしだ。よろしく頼む。」

 キリークとイングランド系テロ組織が五〇名近い人質を監禁する宿泊施設、プラトー里美はすでに、八名の式神と一〇名弱の公安課対テロ部隊とによって包囲されていた。森田にも、他の隊員たちと同様に骨伝導型の無線が貸与され、全員が、九条および時田の指示を聞くことができるようになった。

「現在時刻、二一時〇二分四〇秒。作戦開始まで後、二分少々ね。敵に目立った動きなし。まずは、二一時一〇分までにマイクロバス四台の制圧と、宿泊施設への突入準備を。」

「諒。」

「こっちも了解だ。行くぞ。」

 この時間帯、マイクロバスには武装した見張り役とその補助役が一人ずつ配置されていた。人質の人数は、各バスに二人。宿舎にいる人質たちの行動のコントロールが目的のため、人質は四つの教団から二人ずつという、最小限の人数なのだ。

 四号車と公安サイドから名付けられた一台のマイクロバスで見張り役を務めていた白人の男は、すぐそばの座席に縛り付けてある老女が、急にぴくんと身じろぎしたのに気づいて、そちらに視線をやった。だがその瞬間、男は、自分でも理由が全く分からないままに、何故か前のめりに崩れ落ちた。うめき声を上げる間もなく、最後尾近い通路の床に延びてしまい、動かない。実際には、先にバス内に潜入した式神が、サブマシンガンの銃床辺りで男の盆の窪を思い切り殴りつけただけだ。

 ただ、そのどさりという音に気づいて、バスの前の方に陣取っていた補助役の男が、慌てて座席から立ち上がろうとした。だが、突然バスに乗り込んできた別の黒い人影と交差したと思うと、一瞬の後に、やはりバスの床に崩れ落ちてしまった。

 式神の侵入に最初に気づいた高齢の女性が、未だ縛られたまま、「ありがとう」と言おうとしたとき、最初に床に倒れた男の首を、黒づくめの男がナイフで切り裂いた。家を出るときに玄関の鍵をかけるように、車を止めるときにブレーキを踏むように、ごく当たり前の作業であり当然の動作として、黒づくめの男は床に倒れた男の首を切り裂いた。

「なぜ殺したの!?」

 そう、叫ぼうとしたが、老女にはそれができなかった。誰にも見えるよう姿を現した式神が、銃を老女の首に突きつけ、こう言ったからだ。

「まだ騒ぐな。仲間のことを案ずるなら、後数分は大人しくしていることだ。」

 式神はそのまま消えた。黒づくめの男は手早くもう一人の男を縛り上げ、人質となっていた二人のロープを切ると、

「後数分でいい、大人しくバスの中にいろ。……仲間を死なせたくなければな。」

 そう念押ししてからバスを降りていった。

 勝敗は瞬く間に決した。

「M1からM4まで制圧完了。プラトー里美の制圧にかかれ。」

 九条がそう指示を出したちょうど一分後には、打ち合わせ通り、八人の式神が残り一七名となっていたキリーク・テロ組織合流部隊のうち八名を昏倒させていた。残る九名も、仲間が急に倒れたのに気を取られているうちに、綾川率いる対テロ班の人員が昏倒させた。キリークとテロ組織のメンバーは樹脂と金属で出来た特殊な捕縛用ワイヤーで拘束され、人質たちは、いったい何が起きたのかもろくに分からぬまま、突如現れた謎の集団によって解放された。式神の正体に気づき、感謝か畏れかは分からないが、手を合わせ、ひざまづく者もある。

「作戦、完了。総員、手順通り撤退準備にかかれ。」

「式神ちゃんたち、お疲れさん。後は仕上げだけだからよろしくたのむよー。」

 無線から、黒のぼやきが聞こえてきた。

「今回の敵はほんとに宗教団体なの?誰もあたしたちを視られなかった。人質の中には何人か、視える者もいたけど。」

「そうね。いずれにしても、彼らに神秘は扱えないわ。あの教祖と、今のリーダーがどうかは知らないけれどね。」

「そう……。こちらはそろそろ作業終了みたい。最終チェックが終わり次第、そちらに戻る。」

「了解。……さて、吉井さん、もう大丈夫よ。お父様、探しに行かれたら?」

「はい、ありがとうございます!」

 吉井奈津子が、九条の言葉に弾かれたように、プラトー里美の建物内に駆け込んでいった。

 やがて、公式には現場の指揮者となっている綾川睦月がプラトー里美の責任者と話して事情を説明し、地元警察が慌てて現場に駆けつける頃には、不思議な八人の少女たちと黒づくめの男、そして綾川と塩谷を除く大半の迷彩服の男たちは姿を消していた。

 宮城・福島、そして茨城を舞台にした、キリークの教祖奪還作戦は、満足にその最初の要求すら出せぬままに壊滅した。



 一方、サイバーテロ班は予想外の苦戦を強いられていた。

 各省庁サーバーに格納された情報が流出するという最初のテロは、長谷川里香子のワクチンプログラムに手を入れた七種の抗ウィルスプログラムが効果を発揮し、サーバー自体の保全と、攻撃元サーバーへの遡及とが完了していた。

 しかし、その攻撃元サーバーはどうやらすでにシステムがネットから切り離されたか電源を落とされたかしており、結城舞の悪意が詰まった報復プログラムを突っ込むことはできなかった。

 また、それとほぼ同時に、やはり予想通りに始まった第二ステージ、つまり大手町データセンター内基幹サーバーへの攻撃は、かなり分厚く帯域の広いものであった。サーバーに格納されたデータに影響を与えぬよう配慮した作戦展開となる防衛側に対して、攻める側は当然、そんなことを気遣う必要はない。また、敵の狙いはほぼ吾妻たちの予測通り、大手町―新宿ラインのからくりそのものを探ろうとするものであった。

 そうなると、敵は自らの狙いを実現するのに、わざわざサーバー内のファイルを壊したり置き換えたりする必要も実はなく、ただ大手町データセンター全体のデータのトラフィックを掌握し、その転送先をすべて確認するだけで、作戦の第一段階は完了してしまう。もちろん、そのデータを持ち帰り、確認する作業は必要だが、それは無理にリアルタイムでやる必要のない作業だ。そして、仮にサーバーを攻撃するにしても、転送先サーバーが特定できれば、後日、物理的に攻撃することも可能となってしまう。その間に、攻撃対象がサーバーの移設等を行うにせよ、それなりの経費という名の損害を与えることもできる。

 すべては予測されていたことだ。そして、そのような敵の戦術に対抗するため、大手町のサーバー内に、防壁プログラムと緩衝領域を設けたのだ。だが、それでも対応速度ぎりぎりでの攻防に引きずり込まれた。村山七海のイメージした作戦とは、大手町データセンター内のサーバー群のデータ転送先となっている実サーバーとの間に、ダミーのサーバーを複数介在させ、敵のプログラムにはダミーの転送先の情報を持ち帰らせる、というものだった。公安のサーバーの前に、吾妻が依頼し押野が組んだダミーサーバーが置かれているのとは少々配置と理由が違うが、大手町データセンターのデータの転送先が、それらのダミーサーバーであるように見せかける。また、これまでのトラフィックのログも改竄し、正確な情報は持ち帰らせない。ダミーサーバー自体も作っては消しを繰り返し、敵が検出したデータの意味を即座に消失させる。そうした対策で時間を稼ぐうちに、敵の攻撃元サーバーや端末にまで遡及し活動を停止させる、作戦は、そんな組立だった。

 だが、そうした防御戦術は、敵の側でも折り込み済みであったらしい。

 大手町データセンターと、新宿インビジブルは、その接続を断つことはできず、常時繋がっている。もちろん、大手町データセンターとつながる一般のサーバーも同じことだ。切断してしまってよいものであれば、攻撃を認識した時点でシステム自体を停止する機構をいくらでも搭載するだろう。

 だが、それはできない。大手町データセンターのような巨大なセンターが、一時的にせよネット上から丸ごと消失すれば、その損失は計り知れないものがある。だから、防御側が採りうる作戦は、限られているのだ。

 敵のプログラムは、大手町データセンターと外部の一般サーバーとの間に設けられたダミーサーバーの、さらに先へと遡及し始めた。防壁プログラムは、その攻撃に反応し、新しいダミーサーバーを設営するが、結局はいたちごっこだ。敵プログラムがそのいたちごっこに勝利すれば、本来のデータ転送先だった実サーバーが露呈する。

 吾妻ルカは、結城舞の支援を受けて、大手町データセンター内での壮絶ないたちごっこを続けていた。完全にプログラム任せでは、あっと言う間にパターンを解析されて、その先に行かれてしまう。揺らいだ要因を防壁に与え、敵の探索を緩衝領域内に留めておかなければならない。

 長谷川里香子は、今度は敵の第二ステージの攻撃の発信元を遡及していた。今現在実行されている攻撃であれば、その発信元は捉えられるはずだ。そのはずが――

「発信元への遡及失敗。手繰れません――」

「何故だ!?」

 思わず吾妻の語気が鋭くなる。

「分からないし、分かれば対処してるわ。」

「敵のサーバ解析速度上昇しました!ダミーサーバの連続設営による防壁、後数分で突破されます。」

 結城が状況を伝える。吾妻は、絶句せざるを得なかった。

「どうする、村山。」

 作戦室に詰めていた課長が問う。村山は、新宿に最終ラインを構築する指示を出していた。最終ラインとは言っても、新たな手があるわけではなく、ダミーを作って時間を稼ぐ作業を新宿側でも行うだけだ。当然そこを破られれば、大手町―新宿ラインのからくりは丸裸になる。

 それでも、何もしないよりはましだ。己の衷心から組み上げた大手町―新宿ラインの存亡に関わる指示を、村山は出そうとした。その瞬間だった。

「課長、村山さん、あと二分ください!」

 吾妻が叫んだ。答えを待たず指示を出す。

「長谷川、情報通信局の権限で、第一ステージでの攻撃対象となった全サーバと大手町との接続を解除できるか?」

「そんな権限存在しないけど、やれるわ。始末書付き合いなさいよ!」

 答えながら、長谷川は即座に対応を開始した。ふっと吾妻が笑みを浮かべる。

「結城は、戦況モニタしつつ報復プログラム投入準備!」

「え、あ、はいっ!ルート保持再開まで数秒ください!」

「分かった。解除準備いいか?」

「ちょっと待って!……あと二台、……一台、……OK、いつでも行けるわ!」

「こっちも行けます!」

「よし行くぞ、3、2、1、解除!」

「……敵の解析減速確認、現在解除前の7%未満!」

「その7%が敵の本体だ。切られる前に」

「分かってる!出た!」

「結城!」

「教皇回勅、投入します!」

 このとき、結城舞が投入したプログラムは、今後五〇年間の気候変動に関するシミュレーションをCPUに命ずる、スーパーコンピューター用のベンチマークテストを改造したものであった。ベンチマーク故、シミュレーションが利用するデータベースは規模の小さい模擬データに過ぎないが、それでも通常のコンピューターには十分な負荷、負担が発生する。それを、発信元を隠蔽した上で、最後はバチカンの公式サイトが載るサーバーから敵サーバーに突っ込む。敵には当然、バチカンからクラッキングを受けたようなログが残る。

 もちろん、敵がそのように事態を理解するはずもないが、そこには結城舞なりのこだわりがあるらしい。

「ふふ、ふふふふ。」

「笑ってないで状況を報告!」

「大手町データセンターの探索速度さらに低下、最速時の〇.五%未満から、限りなく停止に近い状況で推移。敵の端末直近サーバは現在データを結合・解析しつつベンチマークを遂行中。」

「敵の端末自体は把握できたのか?」

 吾妻が尋ねる。

「端末名までは分かりましたが、厳密な所在地は不明です。」

「端末への攻撃は?」

「サーバと同様、教皇回勅を突っ込みましたが、データベースのダウンロード開始直後に接続を断たれたようです。ネットに再接続すれば、その続きのプロセスが再開されますけど。」

「まあ、そのときにはデータベースはもう存在していないわけだな。」

 ふう、と一つ息を吐きつつ、吾妻がそう言うと、

「いえ?」

 結城が笑っている。黒い笑みだ。

「その場合は直接IPCC関連のデータを片っ端からダウンロードするように小細工を。」

「舞ちゃん……。」

 ようやく、作戦室の張りつめていた空気が緩む。吾妻が、杉田と村山に報告する。

「課長、村山さん、ひとまず今回の攻撃を封じ込め、敵端末直近サーバの活動を停止させました。」

「よくやった。なぜ、省庁サーバの接続カットに気が付いたんだ?」

「こちらが敵の端末に遡及できずロストした後、大手町に対する探索速度が上がりました。それで、こちらと同様敵も、何らかの遡及回避策を講じていたのだろうと判断しました。こちらのロストを確認した上で、全力解析に入ったものと見たわけです。……ただ、そこから先はバクチです。」

「ん?」

「遡及回避策にハッキング済みの日本のサーバを動員しているとすれば、今回敵が攻撃を二つのステージで組み立ててきた理由も分かります。また、もしそうであれば、そこを切り離せば、リアルタイムで指示を出している敵本体が炙り出せると思ったのですが、もしその読みが外れていれば、……」

 苦笑、と呼ぶしかない表情で、吾妻は村山に視線を投げる。

「どうにもならなかったでしょうねえ。我々の負けだったと思います。」

 村山があっさり認める。そして、指示を出す。

「さて、皆さん、お分かりでしょうが、これは穴の開いた堤防にボロ切れを詰めただけの状態です。長谷川さんは、情報通信局の方々と協力して、省庁サーバの洗浄と防壁改修を実施していただけませんか?まだ敵のコントロールを受ける部分が生きているはずですので。敵が別のサーバからアクセスすれば、また同じ攻撃が可能になります。大手町との接続を再開するには、その部分を切除しておく必要があります。」

「承知しています。課長、よろしければ通信局に戻り、向こうで対処したいと思いますが。」

「よろしくお願いする。」

「吾妻さんと結城さんは、大手町の防壁とログデータの秘匿機構の再検討に入っていただけませんか。敵がどれだけで復帰してくるか分からない。ASAPで、やれるところからやっていただければと思います。ただ、権限の関係があるので、アイデアは押野君に伝えるようにしてください。」

「了解です。」

「それじゃ杉田、俺はこれから、新宿に戻るよ。タイムラグは押野君に指示を出すから特段生じないと思うが、俺が向こうに着くまでは、式神を新宿に配置しておいてくれないか。」

「承知した。車を回させる。」

「すまない。新宿自体も、少し構造を変えないと行けないだろうな。」

「アイデアはあるのか?」

「一応あるが、言わないよ。そのうち、押野さんか吾妻さんたちが解析するだろうから。」

 そう言って、村上は微笑んだ。吾妻が尋ねる。

「それは宿題ですか?」

「そうだね。三日経ったら覗いてごらん。……いや、覗かれては困るんだった。」

「そうですね。」

 そう言って笑い、吾妻は村山に礼を言った。

「今回の作戦、勉強になりました。ありがとうございました。」

「こちらこそ。それではまた、いずれどこかで。」

 戦果としては、痛み分けだ。こちらは各省庁のサーバーとそのバックアップ機構の入り口である大手町との接続を断たれ、大手町―新宿ラインの防衛機構の再検討を迫られた。敵は、直近のサーバー一台と端末一台をしばらく使用不能にされただけではあるが、今回の作戦の目的の一つ、日本側の対応のリサーチも、長谷川やサイバーテロ対策技術室の入念な対応に妨げられ、十分にはできなかったはずだ。

 公安課長である杉田のもとには、すでに茨城での作戦終結の報せが届いていた。サイバー戦の結果もあり完全勝利とは言えないが、今回の結果について、杉田はひとまずの満足を得ていた。宮城・福島・茨城の三県で展開されたキリークの大規模拉致事件を早期決着させ、こちらのサイバー戦でも最重要機構のからくりは保全された。センターおよび式神たちの協力は得たものの、むしろその共闘を試すことができたこと自体が重要だった。

(甘えるわけには行かないが、切り札が切り札であることが確認できた。今は、それで十分だ。)

 今回、キリークの事件については、宮城・福島・茨城の三県警による合同捜査本部を形式上立ち上げ、事件解決についてはすべてそちらから情報が出されることになっている。その段取りの進捗を確認するため、杉田も作戦室から出る。

「村山を送ったら、自分の部屋に戻る。何かあれば、そちらへ頼む。」

「承知しました。」

 結城舞の声が返る。

(後は、相馬さんのお嬢さんの件だけか……。)

 村山と合同庁舎の廊下を歩きながら、杉田は第三の事件のことを思った。

バトル回と言いつつ、何か静かな戦いになってしまいました。次話(第一五話)にて第二部終結します。

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