第一三話 布陣
朝方第一報があった件が本決まりとなり、港区にある九条由佳のマンションで、九条と式神たちは慌ただしく旅支度をしていた。今回のセンターのミッションの主力部隊として、正午には会津に向けて出立する。午後には時田らも都内を発つというが、現地入りは、たとえ同時に出発したとしても、物理的な制約を超えて移動する九条―式神チームの方が早い。
「ねえ、これって、あのコじゃない?」
そのばたばたとした空気の中、突然、バイオレットがそう言った。残りの一一人が、はっと気づいた顔になる。
「……ほんとだ、これ、ひなだ。」
深紫がそう言う。
「いけない。」
「そうね、これはちょっと大変かも。」
黒とベージュが、そう言って、真剣な表情になる。
「どうしたの?」
九条由佳が、一瞬で変わった空気に反応して、式神たちに問う。
「教誨師が、刺された。」
「でも、怪我よりも、ショックの方が重大。」
式神たちが、口々にそのようなことを言う。
「何ですって?場所、分かるの?」
「それは難しいかも。知ってる声だから拾えただけだし。近いから、都内だとは思うけど。」
バイオレットが答える。
「分かったわ。ともかく相馬家に連絡してみます。」
九条由佳が青木はるみの携帯に電話を入れたのが午前一一時三二分。数分後には、助手席に執事長の西村を乗せたRX7-FD3Sが屋敷を飛び出していた。
「銀座だったら、たいていどの店もすぐに繋ぎがとれるのですが、新宿だと……」
常時モニターするスタッフはいないが、これまでの慣習もあり、相馬ひなは今もGPS発信機を鞄か衣服のどこかに忍ばせている。だから、現在地はすぐに確認できた。新宿駅に近い、デパートの一つだ。
RX7が、渋滞回避に長けたベテランのタクシードライバーのようなルート選択で、GPSが知らせる地点に向かう。だがそれでも、足りない。足りない気がする。
「すいません、信号ですが……」
減速しないまま、青木はるみが尋ねる。
「事故にならない範囲で全部突っ切れ。警察車両を引き連れての現地入りもかまわない。」
「了解。」
すうと、青木はるみの目が据わる。まるで上空から周辺の状況を見下ろす眼を持っているように、狂った、だが確実なドライビングで、執事長の指示に応える。
やがて目指す地点に到達したRX7の助手席から、相馬家の執事長が飛び出し、そのままとあるビルに駆け込んでいく。
「すいません、緊急です!通してください!」
そう声をかけつつ、エスカレーターを駆け上がっていく。フロア全体に目を配りながら、4階まで上がったとき、フロアの一角に不自然な人だかりができているのが目に留まった。
「通してください!」
西村が野次馬をかき分けると、その中央で、すでに到着していた救急隊と警察に囲まれて、相馬ひなが床に倒れていた。ちょうど、担架に乗せられるところだった。試着室からその前の床に、ぎょっとするほどの量の血液がこぼれている。
現場の保全も間に合っておらず、そんな状態の相馬ひなを野次馬の目に晒していることに、西村は激しい憤りを感じた。だが、ともかく、搬送開始には間に合った。仕事は、これからだ。感情を排した声で、即座に対応を開始した。
「私はこの方の家の者です。身元の確認等できますが、現場の担当の方は?」
救急と警察の情報確認担当の者をつかまえる。向こうの必要な情報を渡す代わりに、状況の説明を受ける。青木はるみが到着したので、救急の方は青木が同行できるよう、話を通した。
「頼んだぞ。」
青木はるみは、強ばった表情のまま、一つ頷いた。
「時田くん、今回の件、頼っちゃって悪かったわね。」
「あー、それは気にする必要はなさそうだよ。どうもこの件、そもそもうちの分野での事象みたいだから。」
「うちの分野って……、あたしが辞めてそんなに経ってないけど、センターは宗教方面に進出したわけ?」
「ん、まあね。不景気ですからねぇこっちの業界もー。」
「はあ?」
昨日まで、聖衆秘仙会の夏道場が行われていた山寺の本堂前に、吉井奈津子、時田治樹、森田ケイの三名はいた。夏場とは言え、すでに日は西に傾きつつある時間帯、寺には警察によるイエローテープが数カ所貼られているものの、それ以外は森閑とした佇まいである。
「相変わらずね、時田くんも。それで、こちらの方は?あたしまだ、紹介されてないんだけど。」
「知ってて訊いてない?」
時田が笑って混ぜっ返す。
「こういうときはきちんと紹介するのがマナーでしょ?」
「そうだね、悪かった。こちら、森田ケイ。現在はセンター所属のエージェントだ。」
意外なことを聞いた、という顔を吉井はした。そして、
「教誨師の付き人は、お辞めになったのですか?」
そう、真正面から尋ねた。森田ケイは、特に大きな反応は示さなかったが、
「ああ。今は、――時田の手駒の一つだ。」
少しだけ、言葉を選んだような様子でそう答えた。
「ん?その現状理解はどうかと思うけど、まあ、春以降、チームを組むことも多くなったかもね。」
笑いながら、時田も応じる。
「へええ。」
奈津子が感心したように頷いたのに重なるようにして、どこからか、微かに着信のバイブレーターの音が響く。時田が、ごめん、というように軽く片手を上げてから、電話に出た。
「はいはーい、そっちはどう?……あー、やっぱりね。……こっちも、現場チェック終えたら南下するから。そっちのタイミングでまた、連絡もらえますか?一二人の乙女ちゃんたちによろし、ん?今は八人?……ふうん。あ、はい。よろしく~。」
「どんな状況だ?」
通話を終えた時田に、森田が尋ねる。
「やはり集団で南下したらしい。九条と式神たちの探索で、霊能者が不自然に集まっている地点を見つけたって。」
「連中、そんなスキルもあったのか?」
「まあ、おそらくは九条本人のスキルだろうね。式神がいればそれを増幅できるだろうし、探査地点への移動も桁違いでしょ。」
「――ほんとに対霊能戦の備えもできてるのねぇ。驚いた。」
「まあね。これには、相馬さんの、いや、止めておくよ。吉井ちゃんはもう、外の人だったね。」
時田が、森田の目つきが厳しくなった理由を察して、会話を切り上げる。
「残念。うちもうかうかしてられないから、情報もらっちゃおうと思ったのに。」
「ふふん、軽そうに見えてほんとに軽いのが時田くん、て言われたこともあったけどね。さて、それじゃ南下しますか。現場であと何か確認したいことある?」
「そうだな、佐々木ってやつがキリークのスパイだったかどうかは気になるが、後はここで見るべきものはない気がする。」
「そうね。遺留品も全部、めぼしいものは警察が持ってっちゃったみたいだし。」
「じゃ、南下決定だね。集団は、県境を越えたらしい。目的地は、茨城県常陸太田市、旧里美村地区ってとこ。吉井ちゃんは、後部座席で寝ていきなよ。夕べ、寝てないんでしょ?」
「え?ぜんぜん平気、と言いたいところだけど。ここに来るまでも危なかったから、お言葉に甘えて後ろでのんびりさせてもらうわ。」
三人は、再度インプレッサに乗り込み、山寺を後にした。九条等と合流するのは、二時間後の予定である。
公安課長杉田律雄は、宮城・福島での宗教団体同時失踪事件と、昨日からの中央省庁へのサイバーテロの関連性を、ある程度は想定して考えていた。だが、直接の証拠は一切なく、また、先の展開も見えない。どれだけの手札を切るべきかで、若干の迷いがあった。
(キリークは唆されたのみ、CCLが主体だとして、二つの作戦を同時に展開する狙いは何だ?……こちらの警戒レベルを跳ね上げるだけで、むしろ二つの作戦の連携上の旨みは見いだせなくなるではないか……。)
合同庁舎の食堂で、滅多に考え込む様子を他人には見せない杉田が、すでに空になった山菜そばの器を前に腕組みしている。お盆休みでもあり、開いている食堂はそこしかなく、むしろ店内は混雑していたが、誰も、杉田の黙考を妨げようとするものはいない。
スーツの内ポケットで、杉田の携帯が小さく音を立てた。モニターには、実際には相馬嶺一郎を指す、とある偽名が表示されていた。
「どうかされましたか?」
「いや、身内のことで済まないが、教誨師が昼前、新宿で何者かに刺された。命に別状はないが、事件の背景が気になる。それで、お前の耳に入れておこうと思ってな。」
「……申し訳ありません、相馬さん。」
「こっちのことは、気にしなくていい。」
「今現在進行中の二つの事象については?」
「それなりに把握している。福島にはすでに、九条君らを向かわせた。君らは、サイバー戦の真っ最中だろう?」
「はい……。事件はこれで、三つになりました。」
中央省庁サーバーへのサイバーテロ、宮城・福島での宗教団体をめぐる事件、そして、相馬家令嬢への傷害または殺人未遂事件。杉田が数えたのは、この三つだ。
「ああ。CCLの作戦の規模としては、極東では過去最大級だろうな。」
「やはりCCLと考えるべきでしょうか。私には、CCLの狙いが今一つ掴めていないのですが。」
「やつらは負ける想定では作戦を実行しない。やつらがこの作戦で勝利した場合を考えれば、答えはすぐに出てくるさ。」
杉田は、無言で相馬嶺一郎の次の言葉を待つ。
「……やつらの狙いは、我々相馬家・センター・公安連合の失態を誘い、組織崩壊後、九条移籍前の不安定な状況に、この日本を押し戻すことだろう。センターも、相馬家も、目障りな存在だろうからな。サイバー戦の方は、さすがに絨毯爆撃しかなかったようだが、連中がこんな力業に出るには、それだけの強い動機があるはずだ。」
「となると、先月末のお屋敷での一戦以降のわずかな期間で用意された作戦となりますが……。それにしてはセッティングが分厚く入念なものに思われます。こちらは総力戦で抵抗するしかありません。」
「おそらく、ということになるが。」
嶺一郎はまた一度、そこで言葉を区切った。
「おそらくは、キリーク煽動の部分はいくらか前から準備していたんだろう。キリークの残党には、収監されている初代教祖の奪還を聖戦と呼ぶ過激な一派もいるわけだからな。焚きつけるのは簡単だし、うまく動かせば、日本の対宗教テロ部門の動きを見ることもできる。CCL上層部の考えそうなことだ。そしてそこに、九条の件で我々が噛みついた。サーバも似たような時期に破壊された。そうなれば、既定の作戦に報復とクラッキング元のリサーチが上積みされても、なんら不思議ではない。……CCL側はどの段階で作戦がストップしても、特段失うものはなく、こちらは対応策を展開するだけで、こちらの手の内や戦力、強度を露呈してしまう……。」
その言葉には、自分たちの描いていたシナリオよりもCCL側に有利な材料があったことを認める苦さがあった。
「……相馬さん、一つ相談があるのですが。」
「何だ?式神たちを、使いたくなったか?」
「かないませんな。サイバー戦に長けた四柱の式神を、都内に戻してはもらえませんか?こちらは、村山にも協力を依頼します。」
「……村山か。あいつが動くか?この前の大手町テロでも動かなかったんだろう?」
「村山は、切り札は最後まで残しておくタイプなのだと思いますが。」
「ふん。似たもの同士ということか。」
「は?」
「いや。――式神の件は、九条君に相談してみたまえ。オレはかまわない。」
「ありがとうございます。ご連絡ありがとうございました。」
「こちらは、娘の件の実行犯を押さえ、その背景も洗わせてもらう。九条君には、そちらの対テロ班到着を待つように伝えておく。時田も森田も、状況によっては使ってやってくれ。」
「ご協力、感謝いたします。よろしくお願いします。」
通話を終えた杉田は、さっそく九条の携帯を呼び出す。短く着信記録だけを残し、後は九条の都合次第でかけ返されるのを待つ。
椅子から立ち上がり、空の器を持って、食器の返却口に運ぶ。
「ごちそうさま。」
「いつもありがとうございます。」
カウンターの向こうとこちらとでそんな当たり前の会話をして食堂を出ると、さっそく着信があった。
「九条君、作戦行動中すまない。数分だが、話せますか?」
「大丈夫ですが、何でしょうか。」
数分後、日本の命運を左右する申し合わせが成立した。
東京、千代田区。合同庁舎二号館に、久しぶりに少女たちはやってきた。福島からとって返したわけだから、服装は迷彩服のままだ。庁舎内では異様な存在として注目を浴びるはずだが、廊下ですれ違う者は誰一人、彼女たちがそこにいることすら気づかない。
バイオレットの襟章の少女が言う。
「こうしてみると、あたしらもいいように使われてる気がするな。」
グレーの襟章の少女が言う。
「まあね。でもまあ、今回は協力してもいいんじゃない?」
藍色の襟章の少女が言う。
「何で?」
ベージュの襟章の少女が言う。
「愚問。」
ぷう、と頬を膨らませる藍色の襟章の少女―インディゴに、バイオレットが教えてやる。
「依頼主が、他でもない杉田課長だからね。あたしらがそこそこ自由に振る舞えるのも、九条を処罰しないよう取りはからった杉田のおかげだからね。」
「ねえ、「あたしら」っていうの、変。」
親切に教えてもらっているはずのインディゴが言う。
「う、うるさいよ。じゃあなんて言えばいいんだ?」
「あたしたち、でいいんじゃないの?」
「着いたよ。」
グレーがそう言って、ドアを開いた。
「あ、ガチレズのお姉さんだ。」
たまたまドア近くにいた吾妻に向かって、ベージュがわざと子供っぽい口調でそう言い放った。長谷川里香子、結城舞、押野亜紀の三人は爆笑、杉田課長は苦笑だ。吾妻自身は、「何でバレた?」という表情で固まっている。九条も時田も森田も皆センターに集っている今、他と比べれば少しだけ純朴な、漢字二文字シリーズの少女たちならともかく、情報戦に長けたこのカタカナ名前の少女たちにそのことがバレないはずもない。
グレーが杉田の前に進み、告げた。
「九条由佳配下の式神四名、求めに応じ参集した。指示を。」
(うわ、グレー、黒みたい。)
他の三名の式神がそう思っていると、
「ご協力、感謝します。まずは、全員でミーティングをお願いしたい。」
それが当たり前であるかのように、杉田が応じた。
ホワイトボードを背に、吾妻ルカと杉田課長が立ち、半円形に並べた椅子に結城舞、長谷川里香子、押野亜紀、そしてグレー、インディゴ、バイオレット、ベージュが座っている。そこへ、内線電話が鳴った。何故か杉田が進んで受話器を取り、「よろしく。」と告げた。
今にも始まりそうだったミーティングは、まずは口火を切るはずの杉田が椅子に腰を下ろしたため、自然と開始延期となった。全員無言のままで待っていると、やがて、作戦室のドアが開いて、守衛の「お連れしました」という声が聞こえた。
何となく入り口の方を振り返った押野は、
「室長、何やってんですか?」
と思わず突っ込んでしまった。そこには、iゲート社の秘書室長、村山七海がいた。
「いやあ、押野君。」
押野から見れば、村山七海は、大手町でのテロの際に、一応陣頭指揮は執ったものの実際の作業は吾妻や押野に任せっきり、ふだんも実務は、何故かテロ後に突然新設されたポストである女性の秘書課長に任せっきりで、たいした仕事もしていない、そんな窓際上司にしか見えていない。そもそもコンピューターやシステムに関する十分な知識があるかどうかについても、押野は疑っていた。見た目はそれなりに紳士なのかもしれないが、柔和すぎて頼りない、というような印象なのだ。
実際それが、秘書室の秘書全員の共通認識でもあった。ある電子機器メーカーから引き抜かれたという有能な新課長がいれば、もう室長は要らないよね、そんな声も聞こえていた。
「すまん杉田。iゲートでの引継に手間取った。」
「いや、お前が来てくれたこと自体が重大なんだ。気にしなくていい。服部女史はどうだ?」
「文句なしだ。」
「それじゃ、今回は実戦にも参戦してもらえるんだな?」
「ああ。前回は、押野君や、そちらの吾妻さんにお世話になった。その礼くらいはさせてもらうよ。」
椅子が追加され、村山七海は杉田の案内でベージュの隣の新しい座席に腰を下ろした。きょとんとしたままの押野に向かって語りかけるように、杉田が紹介する。
「こちら、iゲート社秘書室長の、村山七海だ。中央省庁のサーバのバックアップデータを保管する大手町データセンタと、それから新宿iゲート地下のサーバを使った二重バックアップシステムの考案者にして、新宿サーバの最終権限者だ。」
「えええ?え?どういう――」
吾妻や長谷川、結城は、杉田のこの説明で、村山に対する先入観のない評価と敬意を持つことができた。かつて、大手町データセンターテロ事件の折、吾妻は村山に会っている。確かに頼りない人物だという印象を受けてはいたが、裏のある人物など、嫌と言うほど見てきている。人物評価の上書きなど簡単だった。しかし、押野はふだんの村山を見せられ続けてきている。あの窓際室長が、自分がどうやっても攻略しきれない新宿インビジブルの最終権限者、と言われてもにわかには信じられない。一人状況が飲み込めず頭を抱える押野に、さらにふだんよりも頼りないような様子で、村山が言った。本人としては、押野を気遣った口調のつもりなのかもしれない。
「ごめんね、押野君。君が探っても探っても把握できなかった最終権限者は、僕なんだよ。いい練習になったでしょ?ハッキングの。……ま、どんなに頑張っても、パスワードは絶対分からなかったと思うけどね。僕のパスワード、二一桁あったから。」
自らの試行錯誤や社内規定違反のアクセスを、あの室長にすべて掌握されているという事実は、押野を凍り付かせるのに十分だった。その押野の肩を、隣のグレーがとんと叩いてやる。
「それじゃ、始めるぞ。今回の作戦、顔ぶれを見れば分かるかと思うが、総力戦だ。式神の諸君、それから、大手町―新宿ラインの護り人である村山にも参戦してもらう。警察庁の諸君は特に、心して事に当たってほしい。」
「はい。」
吾妻と結城、そして長谷川が応える。押野も、悪い夢でも振り払うかのように軽く首を横に振りつつ、すでに眼差しは平時のそれに戻りつつあった。
さながら彼らは電脳世界の神官と巫女であり、それを支える使い魔であった。もはやそれは比喩ではなく、一つの力のかたちであった。
時刻は、午後八時になろうとしていた。
四台のマイクロバスに乗って福島県から南下してきた集団は、茨城県常陸太田市の旧里美村地区にある宿泊施設、プラトー里美にいた。
集団とは言っても、その内訳は、数年前に解散を命じられた廃絶教団キリークの信徒が一五名、そのキリークに協力するイギリス、イングランド系テロ集団のメンバーが一〇名、そこに拉致された神契東天教関係者が九名、新日本福音派キリスト者の会関係者が五名、救世真人教関係者が六名、そして、聖衆秘仙会関係者が二六名という構成であり、一つの集団と呼べるようなものではなかった。だが、プラトー里美の従業員たちが特に警戒もせずにこの七〇名ほどの集団を受け入れたのには、キリーク側のそれなりの工作が影響している。
まず、宿泊施設側にはのうのうと、自分たちが襲撃し拉致することになる新日本福音派キリスト者の会の名で、セミナー名目での予約を入れていた。また、マイクロバスが施設に到着したのは一三日、午前一〇時過ぎのことであったが、これも作戦に従ったタイミングだった。
通常のチェックインの時刻には早かったが、荷物を預けるだけならその時間でもよいと、宿泊施設側は事前に許可を出していた。そのため、四台のマイクロバスからそれぞれ数名が降りて、手続き等をすませた上でそこそこの量の荷を搬入した。その後、さも野外での研修か何かが予定されているかのような様子で一度、宿泊施設から離れた。この間、マイクロバス内では銃や刃物による人質たちの行動の抑止が常に行われていたわけだが、誰もそうした状況には気づかなかった。そして、これだけのことで、施設側は特に、この集団に何らの不信感を抱くことはなくなった。
だから、やがて夕方、日が落ちてから再度マイクロバスが戻ってきたときには、施設側も特に警戒せず、集団を受け入れた。日中バスは、人気のない林道を選んで、時々移動しながら、ただ、日没を待った。最低限の食事は与えられ、また十分な水分の摂取も認められていたが、それすら人質たちを落ち着かせ、暴徒化させないための作戦のようだった。そして、ようやく夏の日が沈んでから、プラトー里美に戻ったのだ。駐車場から宿舎までの移動を、日の光の下で行うのは、さすがに困難だったのである。
もちろん、宿泊施設側は違和感のようなものを全く感じなかったわけではない。食堂での夕食時にほとんど会話がなかったこと、そして、腕に怪我をした坊主頭の人間が混ざっていたことを気にした従業員もいた。だがそうしたことも、何か宗教上、セミナー実施上の理由があるのだろう、外国人が混ざっているのは、きっと牧師か何かであろうというような、ある種暢気な理解と共に、結局集団を受け入れていた。
実際には、キリークおよびテロ集団が、拉致してきた各宗教集団の中で重要度が高く、かつ年齢が幼いかまたは高齢の人物を人質にして、この時間帯も依然バス内に監禁していたため、どの団体も抵抗や自由な行動ができなかった、それだけのことであった。秘仙会の場合には、夏道場に参加していた中学一年生が人質に、新日本福音派キリスト者の会では長老格の女性が人質とされていた。他の二教団も同様だ。
(連中の狙いが分かれば、まだいいのだが、我々だけならともかく、他の教団まで襲撃したとなると……。オレの素朴すぎる頭じゃ見当もつかんな。――奈津子のやつがいれば、情勢分析くらいはできたんだろうが……。)
吉井奈津子の父親俊司は、痛む右手を気にしていないかのように、だがさすがに慣れない左手で夕食を食べていた。寺でのもみ合いの際に、右腕を敵の銃弾がかすめ、鈍い刃物で抉ったような怪我となっていた。だが、どんな状況でも、飯はしっかり食べる。練丹の道からすれば、口にしてよいものにはかなりの制限がかかるはずだが、吉井俊司はそれよりも、命あるものを食すということ自体を重視した、素朴な信仰を有していた。出されたものは、米粒一つ残さず食べるのを、己の信条としていた。だから、不器用ながらも利き手ではない左手で箸を持ち、夜の食事を平らげた。
(くっくっく……。オレもこの歳になってだいぶ修行を積んだつもりだったがな。利き腕一本怪我させられただけでこのざまだ。一二三さんは、こんなとき、どうされるのだろうなぁ。)
吉井俊司は、今は静岡と長野の県境付近に分け入っているはずの、秘仙会の代表のことを思った。
やがて、午後九時になり、異様な緊張の中、それでも種々雑多な出自の集団は、キリークのメンバー等の指示には逆らわず、各々割り当てられた部屋に分かれて就寝の準備に入った。
(連中、部屋割りまで計算ずくだな。同じ教団の人間が一部屋に固まらないように、部屋割りをしてやがる。……オレの他にうちの幹部連中が二人もいれば、それなりに突破口も作れそうなもんだが、さすがに幹部はきっちり分断されてるな。佐々木君も、しっかり仕事をしていたというわけだ……。)
監視役のキリークのメンバーに向かって、吉井は手を挙げた。
「すまん、寝る前に小便がしたい。トイレに行かせてもらえるか?」
特に作戦があるわけではないが、トイレが自分のいる部屋から離れていれば、それだけ施設内の状況も把握できる。監視役は、宿泊施設の廊下にいた上役らしい見張り役と相談した上で、顎先で部屋の出口の方を指し示した。
吉井が廊下に出ると、すっと近寄ってきた者がある。味方、ではない。トイレの行き帰りの監視役だ。
「ん?おお、佐々木君か。……まあ、こんなことになっちまったが、敵にせよ味方にせよ、無事なのは何よりだ。」
佐々木と呼ばれた少年は、手にしていた伸縮する警棒を吉井の首筋に押しつけた。
「黙って歩け。」
「おお、怖い怖い。悪かった。無駄口は止めておくよ。……ん、トイレはここか?」
「変なマネ、するな。」
「ああ、小便くらい落ち着いてしたいからのう。」
そう言いながら、北に面した共同のトイレに入る。こめかみの辺りに、きりきりする何かを感じる。
夜陰の先に、何かがいる。
(この気配はなんだ?俺たちをここまで連れてきた奴らの気配の外側に、何かとんでもない連中が隠れてやがる。霊能者だけじゃない、武闘系の人間もいるな……、いやこれは、軍人か、それとも公安か……?来てくれたのはありがたいが、頼むから、無理な突入だけはしないでくれよ。)
小便器の一つに向かい、衣服の前を開けながら、そのわずかな時間で周囲の状況の把握を行う。吉井俊司のスキルは素朴なものだったが、ある種叩き上げの確実さがあった。
(その心配はない。)
突如、吉井の脳内に、少女の声が響いた。
(こっちだ。)
背後から監視している佐々木少年に気取られないよう、何気ない様子で首をひねると、トイレ内の鏡に、少女の姿が映っていた。
少女は鏡越しに、じっと吉井俊司の眼を見つめる。互いに、肉声では言葉を交わさない。
(これから数分のうちに、全配置の確認を終える。我々は軍でも警察でもない。――敢えて言えば、暗殺部隊だ。お前たち、仲間内で念話は使えるか?)
(無理だな。うちは、そういう系じゃない。)
(わかった。ともかく、あと三○分は大人しく待て。仲間にも、可能ならそう伝えろ。)
(了解だ。マイクロバスに人質がいるのは知っているか?)
(当然だ。)
(安心した。連中の狙いは分かっているのか?)
(お前たちは、人質だ。拘置所に拘留中の、キリークの教祖を奪還するためのな。)
(そうか、分かった。そんなことかとは思っていたが。できることがあれば手伝おう。また声、かけてくれ。)
吉井は衣服の前を直し、さっきまで少女の姿があった鏡を見ながら、手を洗った。鏡には今、自分のむさい顔が映っている。少し、疲れているような表情だが、気にすることはなかった。
(くそ、こんなに痺れる小便は初めてだ。)
そう思いつつも、
「待たせたのう。」
そう平然と佐々木に告げて、施設の廊下を、元の部屋に向けて歩き始めた。
いっそのこと、何か歌詞に「待つ」や「待て」のような言葉の入った歌でも歌って歩こうかと思ったが、危険度の割に確実性が低いと思い、それは止めた。
(今はこのまま、現状維持がよい。ならば、自分が何も行動を起こさないことが一番のメッセージになるだろう。逆らう余地はない、そういう真面目な面でもしてオレが歩けば、みんなも分かるだろう。)
この時間帯、吉井のようにトイレに行くことを求める者もあり、各部屋への出入りがあった。廊下とのドアや襖は開かれていたから、部屋の中の者にも廊下を歩く人間の姿を見ることはできた。秘仙会のメンバーで、すれ違う者もいた。だが、吉井俊司はわざとらしいくらい、まだ十代の佐々木少年に従って、真面目な顔をして歩いていた。
(さあ、どうなるかのう。お嬢ちゃんたちのお手並み拝見だな。)
部屋に入る間際、佐々木少年にも、他の誰にも気づかれぬよう、吉井俊司は笑みを浮かべた。
(それにしても、一二三さん、凄いお人だな。)
そう、心の中で一人ごちつつ、部屋の一角に腰を下ろし、腕組みをした。
「課長、サイバーテロ対策技術室長が、抗ウィルスプログラムの投与に入ってよいか、念のため確認してほしいとのことですが。すでに七種のバリエーションを準備できたとのことです。」
携帯電話を片手に、長谷川里香子が問う。
「村山、」
「こっちもそろそろ準備が整うはずだ。やってもらってくれ。」
「分かった。堤君に、お任せいたします、存分に、とお伝えしてください。」
「承知しました。」
八月一三日、午後六時過ぎ。作戦室では、大手町―新宿ラインの防衛準備が着々と進められていた。具体的には、大手町データセンターに格納されたサーバー群のシステム上の一角を、押野が新宿インビジブルと呼んでいるサーバー群への不正アクセスに対する防壁として一時的に借用し、もしそうしたアクセスがあれば、攻撃元となるサーバーを割り出す、それだけの仕掛けだ。もちろん、攻撃元と判明したサーバーには報復する。CPU稼働率が数時間(プアなCPUなら半日以上)、常時一〇〇%となるような「テスト」を、全く別のとあるルートから送り込む。
技術的に手の込んだプログラムを報復として送り込むと、それだけでハッカーの個性を特定される可能性がある。そのため、このテスト自体はごく単純な作りとしてある。何の変哲もない、ただしスーパーコンピューター用のベンチマークテストを、結城舞が多少書き換えたものだった。ただし、システムの電源を落としても再投入すれば解答作業が自動的に再開されるような、そんな(結城舞いわく「親切」な)設計にしてある。それとともに、サーバーの記憶領域には、そのテスト解答のための計算ログがテラバイト単位のボリュームで書き込まれる。
「ルカおねえさん、こっちは準備できたよ。」
インディゴから、押野の携帯で吾妻ルカへ連絡が入った。
「ありがと。早かったわねぇ。こっちからちょっとチェックしてみるから、それでokなら、次は新宿に跳んでもらうわ。詳しくは亜紀ちゃんに聞いてね。」
「りょうかーい。」
合同庁舎内の作戦室と、大手町データセンターに無許可潜入中の押野や式神たちとを結んで、サーバーへの非合法な工作が進められていた。携帯電話の中の情報を、携帯電話を操作せずに読みとり、電源すら投入されていないディスクの磁気情報を抜き出せる式神たちにとって、それがたとえ、磁気ディスクではなく揮発性メモリーのみで構築された特殊なサーバーであっても、その空き領域を把握するなど簡単なことだった。データ容量に余裕のあるサーバーから少しずつ空き領域を提供してもらい、サーバー利用者の誰にも気づかれぬまま、新宿インビジブルのための防壁となるシステムと緩衝エリアを組み上げる。今回は敵最終サーバーの探知は長谷川里香子の手による不正アクセス監視プログラムの最新版(非公開版)をそのまま使用するし、敵側への攻撃は結城舞が準備した全く独立のルートで行われる。そのため、式神たちの作業量は少ないとは言えないが、そうべらぼうに多いということもない。押野の指揮もあり、むしろ楽しげに少女たちは作戦を遂行していた。
この作戦全体のレイアウトは、村山のものだった。防衛と攻撃を独立させ、かつ最重要サーバーの一つと言ってよい新宿インビジブル―iゲート社地下サーバー群には極力手を触れない、また触れさせない作戦だった。
サイバーテロ対策技術室ではまもなく、各省庁のサーバーに抗ウィルスプログラムを投与する。村山は、敵が行動を起こすとすれば、まさにそのタイミングであろうと考えていた。サイバーテロに対抗し、実施した対応策に一定の効果が上がり始めれば、誰であってもほっとする。システムをどこまで復旧させられるか、確認を急ぐ気持ちも生じる。そして、このテロに注目している人間たちは、事の結末を見届けようと、さらにその復旧作業に注目することになる。そこを敵は狙っていると、村山は考えたのだ。
結城舞は、なぜ敵は今、つまりサイバーテロに対する有効策も示せず、ただサーバーの内部を垂れ流しにしているようなタイミングで攻撃しないのかと問うたが、それは、同時進行でこちら側のスキルおよび戦力の中心を計るようなリサーチを行っているからだろう、という回答を村山は示した。この見解は長谷川の見解と一致していたが、村山は、敵の手順はベストのものとは思えないが、我々に必要なのは敵の動きを読み、封じることであって、自分たちのシステムに対するよりよい攻略法を考えることではないのだと、笑って付け加えた。
そうしたやりとりの上で、村山を総指揮役として、サイバーテロ対策合同チームは行動を開始した。吾妻ルカ・押野亜紀と四人の式神たちは、大手町データセンター内の工作を、結城舞と長谷川里香子は、情報通信局との連携も維持しつつ、中央省庁サーバーへのサイバーテロの発信源の解明と、大手町―新宿ラインへの攻撃が始まったときに瞬時に攻撃元を特定するための準備を担当した。
後は、敵の本当の狙いが、まさにその大手町―新宿ラインにあるという読みの正しさの問題も残っているが、これには、杉田も村山も楽観的な考え方を持っていた。日本のネットシステムのどこを攻撃されても、最悪大手町―新宿ラインが護られればそれでよい、もし他への攻撃が開始されたら、その時点から作戦を変更して対応してもよい、そうした、経験の少ない者には選択しがたい考え方で、今回の作戦は組み立てられていた。
ふだんはサイバーテロ班の指揮役を務める吾妻ルカにとっては、戦略上の勉強にもなる刺激的な作戦であった。そして、作戦の途中変更くらいのことは当然できるだろう?とでも言いたげな、杉田と村山の様子に、責任と自負とを改めて感じた。
(給料分より働かせてもらえそうね、これじゃ。まあ、みんなそうだけどね。)
故郷への里帰りの途中で引き返してきたサイバーテロ対策技術室の室長、休みをいつ取っているのか見当もつかない杉田、そして割に合わない仕事に協力してくれる二人の民間人、式神たち、そんな顔ぶれの中で、吾妻ルカは自分の仕事をしていた。
結城舞が、時の到来を告げた。
「報告します。対策技術室、1827、敵攻撃対象となっている全サーバにおいて、同時にオペレーションスタートです。モニタします。」
長谷川里香子は、すでに抗ウィルスプログラムの挙動を追跡している。
「現在プログラムのプローブが中継ポイントを四つ~七つまで遡上、現状すべてのアタックの発信元は八九%の確率でEU圏内と判明。」
「了解です。吾妻さん、敵の反応検出確認よろしく。」
「了解しました。」
キーボード経由で、押野と式神たちにメッセージを送る。
[始まるわ、亜紀ちゃん、式神ちゃんたち。そっちまで迷惑をかけることはないと思うけど、よろしくね。]
[新宿了解、しばらくは可能な限り寝た振りさせておきます。]
新宿iゲート社地下サーバールームには、押野に案内された式神たちがすでに待機していた。押野がコンソール中央に立ち、四人の式神たちは二人ずつに分かれて、やはりコンソールの前に陣取っていた。スツールが二つしかないため、インディゴとグレーがマニピュレータとして席に座っている。
前回、新宿と大手町とを舞台としたテロがあった際には、押野や吾妻の対処により、新宿インビジブルまでは手繰られていない。ただし、大手町データセンターと「その先」を探ろうとする動きは、その際に少なくとも一度見られた、ということになる。
iゲートに潜入していた板井祐子が、どこまでを把握した上でテロの主犯となったのか、またどれだけの情報を外部に持ち出したのか、その部分の判断は難しかった。ただ一つはっきりしているのは、当時の板井の背後には組織と、組織とつながる海外組織、CCLがいた、という事実だ。
CCL内部に、かつては組織との連携の下、大手町データセンターのハッキングを試みる動きがあった。だとすれば、今度の省庁サーバーへの大規模ハッキングに隠蔽するようにして、CCLが再度、大手町データセンターとその先のからくりを押さえようとする動きがあっても、何の不思議もないのだ。
「これだけ大きいと、どのサーバで何が起こっているか見えにくいね。」
「全員で陣組めば解像度も上げられそうだけど、四人だと限界あるからね。」
「でもまあ、今回は「ふつうのアクセス」で十分そうだけどね。」
「そうね、これだけ速ければ、直接触らなくても。」
式神たちは、特に何の気負いもなく現状を把握していく。間近で見る押野が舌を巻くほどの理解力だ。
八月一二日午前に始まるサイバーテロ、および一二日夜に始まった宗教団体に対する拉致事件、その二つへの対応準備はほぼ、整った。
だが、CCLとの因縁浅からぬ相馬家の娘は、このとき、病院のベッドの上であった。
次は一応バトル回です(ヒロイン不参戦ですが……)。