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第一二話 邪気祓いたち

 ねえ、ケイくん。あたし、何か間違えてた?あたし、友達なんて、作っちゃダメだった?教誨師は、一人の殺し屋として、ただ一人の殺人者として、生きてかなきゃダメだったの?

 ねえ、ケイくん以外の人と遊んでたから、こんな罰が当たったの?

 はるみさん、ねえ、あたしなんでこんなところで転がってるんだろうね。ねえ、おなか、おなかが痛いよう。ねえ。血が、血がどんどん出てっちゃうよ。はるみさん、はるみさん、……。

 どうして、こんなことになっちゃったんだろう……。

 こんな、仕事でも何でもなくて、お友達と、お買い物に来ただけなのに。……

 門限も関係ない、制服だって着てる、学校のお友達と、お買い物に来ただけなんだよ?

 ……。

 違う。そうじゃないんだ。お友達、って思ってたのは、あたしだけだったのかも。……でも、どうして?

 どうして?

 どうして?

 どうして?

 お願い、誰か、誰か答えて。

 ……。

 負傷自体、あるいは負傷した箇所の痛みそのものよりも、精神がほぼパニックに近い状態で、どう行動してよいか判断ができない。致命傷というほどではないことも、今手当をすれば助かるということも、理解はできる。だが、ではどうすれば、ということの答えは、思い浮かべることができない。

 もう、諦めよう、そう思ってしまいそうになる。だがそれも、何を諦めるのか、はっきりと理解できているわけではない。これはきっと、飼い主に突然捨てられた、子犬か何かの気持ちなのかもしれない。そんなことを思っても、それが何かの解決になるわけでもない……。

 これまで鍛え続けてきた教誨師の精神が、あっさりと今、崩れ落ちようとしていた。

 ほんの何週間か前、一三人のかけがえのない友人と、そしてその友人たちのかけがえのない人とを、おのれの精神と一振りの刀とで救い出した、あの教誨師はもう、ここにはいない。

 ぼんやりと、ただこのままここで、うずくまっていたいような気もする。それでも、この仕切られた空間からは出ないといけない、そんな気がした。見知った誰かが、外で、自分を呼んでくれているような気もした。

 そっとその方向に腕を伸ばすと、厚手の布地に指先が触れた。ありったけの力を振り絞ってその布地を引き寄せると、外が見えた。何とか上半身だけ、ごろりと這いずり出た。布地が軽く裂けるような音と、レールからコマが外れ飛ぶビンッという音がいくつか連続して響いた。ようやく異変に気づいた店員がかけより、声をかける。

「お客様、どうなさいました?お、お客さ……きゃああああ」

 フロアが一瞬で騒然となる。

「チ、チーフ、警察と救急に電話してください!お客様が!お怪我をされてます!」

「え……、うわ、マジかよ、……わ、分かった!すぐ電話する!」

 そんな叫びが飛び交う。

 品川で狙撃されたときよりも、教誨師のダメージは大きかった。それはむしろ、教誨師ではなく、相馬ひなのダメージだった。身体のダメージよりも、精神のダメージの方が、深刻だった。

 護るべき世界、自分が護りたい、日の当たる、殺し屋も海外組織もいない当たり前の世界から、突如、敵意を突きつけられた。

 なぜ、こんなことになったのか、全く理解ができなかった。


 紗幸ちゃん、なんで?


 周りに人々の騒ぐ声を聞いて、ほっと気が緩んだのか、教誨師の意識はそこで閉じた。



 事の起こりは、八月一二日の午前中のことだった。

 はじめは、文部科学省のパブリック・コメントを受け付けるページに不具合が起こった、それだけのことだった。フォームに記入をし、送信ボタンを押すと、不正な処理がなされ、ブラウザが固まる、症状としてはそれだけだったが、人目に晒されやすいページだけに、クレームもたくさん届く。そのため、お盆休みも関係なく、復旧の対応もすぐに開始された。原因は不明だが、フォームのcgiが壊れており、それを元の問題のないファイルに差し替えるだけで復旧した。

 しかし、この現象はそれだけでは終わらず、この日から翌早朝にかけて、各省庁のサイトが有する同様のページに、類似の不具合が断続的に起こり始めた。いずれも、フォーム関係のcgiのトラブルに起因する単純トラブルだ。それぞれ、個別に対応することで、復旧は単純にできるのだが、原因は全く分からなかった。各部署の担当者がコンピューター・セキュリティに関する情報を見ても、同様の症例となるウィルスの警戒情報を見つけることはできなかった。

「長谷川、どう思う?」

 八月一三日、午前九時を少し回った頃。情報通信局内のサイバーテロ対策技術室で、長谷川里香子に臨席の同僚の男性――井野泰弘が声をかけた。長谷川は操作の手を停めないまま、薄く笑いを浮かべて返事をした。

「え?今さらどう思うもないわよ。真っ黒。それにもう、ほら。文科省、発症してる。」

 物憂く、やや甘えたような響きもあるいつもの口調で長谷川は答え、目の前に二台あるモニターのうち一台を、井野の方に向けてやった。画面には、不正アクセス監視プログラム越しに視た文科省サーバーの現在が映し出されていた。サーバーは、公開済みのファイルのコピーを作って、ご丁寧に圧縮ファイル化した上で、せっせと中央アジアのとある国のサーバーに送信している。

「う、ちょっとまて、これは酷いな。ってこれ、メールサーバまで視られてるじゃねえか。」

「管理者が同じだったんでしょ?最初のトラブルでcgi直した人の権限が強ければ強いほど、それを盗んだ敵のテロは強大になるわけ。ま、メールサーバはね、すぐに全部丸出しになっちゃうような権限設定じゃないけど、ね。時間をかければ、やがては危ないわね――」

 長谷川はまた、休みなくキーボードを叩き出した。会話中よりも分あたりの打鍵回数は急激に上昇している。すぐに半眼に近い目つきとなり、ある程度瞬きの回数も抑制された状態になった。この状態の長谷川は、半分別の世界に行っていると、局内では言われていた。井野はもう少し、長谷川に聞きたいこともあったが、諦めて、自分の仕事の処理に戻った。

 だが、数分後。

 長谷川のキーを叩く手がぴたっと停まったと思うと、拳を握りしめ、

「くっそざけんなこらー!」

 フロア全体に響きわたる、そう、同僚の誰も、一度も聞いたことがない声を張り上げ、唐突に立ち上がった。その弾みでキャスター付の椅子が後方に弾き飛ばされ、狭い通路を挟んだ別の同僚の椅子の背もたれ付近に激突する。

 運悪くお盆休みを取り損ねて、たまたまこの日居合わせたサイバーテロ対策技術室のスタッフ全員が、まるで自分が怒鳴られたかのように、一斉に首を竦めた。臨席の井野は、危うく椅子から転げ落ちるところだった。

「ど、どうしたんだ?長谷川……」

 長谷川里香子は井野には答えず、ぶるぶると震える手で携帯電話を取りだし、コールした。

「はいはーい、ん?里香子がわざわざ電話くれたってことは、そっちでもマツリに気づいたってこと?」

 暢気な声が返る。

「……気づくも何もないわよ。」

 そう言って、一つ深呼吸をする。

「要らない心配だったみたいね。」

 そう、言葉を続けた。これだけのやりとりで、落ち着きは取り戻している。

「ん?うちにも、鼻の効くコはいるのよ?」

「対応は?」

「放置中。今、舞ちゃんにダミー権限作ってもらってるから、それができたらそのID盗ませて追跡開始。」

 長谷川里香子は吾妻ルカの声を聞きながら、椅子に腰をかけようとしたが椅子がない。後ろの同僚がそっと、さっき自分に向かって十分危険な速度で飛んできた椅子を、何も言わずそろそろと押し戻してくれた。事情はよく分からないが、軽く会釈をして椅子に腰掛ける。

「了解。不安要因は?」

「相手の規模と速度かな。最大値だと、省庁サイト根こそぎ持って行かれるわよ。」

 長谷川は、その言葉にうなづくようにゆっくり一度眼を閉じると、それから、背もたれに背中を預け、天井を見上げた。

「見解一致ね。ま、警察庁サーバの保全は頼んだわ。うちはワクチンを基に抗ウィルスプログラムの生産とセッティングに入る。」

「ワクチンを基にって、もうウィルス確保か確認してるの?」

「ええ。文科省が感染したのは、HRP-9H、またはその亜種。」

「えっ……。それって……」

 電話越しでは見えるはずもないが、長谷川は微笑みを浮かべて答えた。

「そう。――あたしのコよ。先日の作戦で一度だけ使った……」

 HRP-9H。長谷川里香子謹製の物騒なツール、というよりも、ウィルスだ。LinuxサーバーだろうとWindowsサーバーだろうと、それがサーバーである限りねじ込むことができる、情報詐取兼クラッキング機能を持ったウィルスだ。それが、今回の敵の攻撃に使用されているという。

「――里香子、課長に報告するけど、いい?」

「ええ、頼むわ。これはたぶん、戦争になる。」

「そうね……。こっちの班での召集もあり得ると思う。まずはサイバーフォースセンターの皆さんに十分な説明と指示を。いつでも引継が可能なようにして。」

「分かったわ。」

 通話を終えて、長谷川里香子は再度立ち上がり、サイバーフォースセンター、つまりサイバーテロ対策技術室の同僚たちに声をかけた。

「すいません、ちょっと聞いてください。……すいません。ありがとうございます。……現在、各省庁のサイトに対するサイバーテロが発生していますが、一番進行の速い文科省のサーバで、中心的なウィルスの特定ができました。

 それで、えーと、公安課との連携もとりつつですが、可能な方は全員、今から配布するワクチンプログラムを元に、迎撃用プログラムというか、offensiveな防壁を作成していただけませんか?イメージは、タミフルとか、リレンザみたいな感じです。ワクチン、つまり事前投与ではなく、発症後の個体に使用します。」

「協力はかまわないが、質問がある。ワクチンが、なぜもうあるんだ?」

 井野が尋ねる。

「理由は単純です。敵が今回使用したのは、……私が作ったクラッキング用ウィルスの一つです。プログラム作成時に、ワクチンも準備してありました。」

「じゃあ、それをすぐ省庁に配布すれば?」

 別の局員が尋ねる。

「そうしたいのは山々ですが、……。早すぎる対応は、日本の省庁がこのウィルスに対するワクチンを最初から持っていたことを、敵だけでなく、関係諸機関に教えるはずです。それはつまり、不正操作用のプログラムを日本の政府系機関が作成し保持、また外部に向けて使用したことを認めたのと、同じことになります。今回のウィルスは、少なくとも私自身による使用は先月、他局との作戦協力下での一度きり、それも、痕跡なく回収したはずでした。今日まで、そのとき以外、世界のどこにも存在しなかったウィルスなのです。あらかじめ、そんなウィルスに対抗するワクチンや防御プログラムを用意できるのは、……そうです、分かっています。それなりの責任をとることは、覚悟しています。」

 長谷川里香子が伝えたいことが伝わり始めると、サイバーテロ対策技術室のフロア全体を重い空気が覆いだした。吾妻ルカが指示した「引継」とは、つまり、最悪のケースの場合、違法ツール開発者としての長谷川里香子を処分することで、警察庁は不祥事を収束させる可能性があることまでを見越しての対応を指していた。

 ぎりぎりまで抗ウィルスプログラムの投与を遅らせれば、あらかじめワクチンがあったという憶測をある程度は封じることができるかもしれない。だが、それと同時に、省庁のサーバーは危機に晒され続けるという問題も生じる。また対応がうまく行き、サーバーの機密情報の防衛に成功したとしても、その準備に不自然な点があるとされれば、ウィルス自体の作成者の存在を喧伝することになる。どちらに転んでも、対応がうまく行かなかった場合、責任をとるのは自分だと、長谷川里香子は告げていたのだ。

「私はこれで、この職場を去ることになるかも知れません。でもそれは気にしないでください。今は、攻撃に晒されているサーバたちを護るための、迎撃プログラムをお願いします。ぎりぎりまで、各サーバには攻撃を受け続けてもらいますが、最終ラインを突破される前に、一気に形勢を逆転するだけの迎撃プログラムを、それも複数種投下できれば、まだ、状況は変えられます。」

 サイバーテロ対策技術室のフロアは、しんとしていた。だが、いつの間にかフロア入り口に立っていた人物が、発言した。

「……要は、突貫工事で迎撃プログラムを何種類か作って投下したらそのいくつかは有効だった、でも最初からワクチンがあったわけじゃない、みんなで一斉に抗ウィルスプログラム作ってとにかく端から投与しただけ、サイバーフォースセンター対応速くて偉い、ってオチになればok、ってことだろ?」

「はい、って室長、昨日から休暇じゃなかったですか?」

「まあ、こんなオマツリ滅多にないからね。経産省辺りまでフォームが壊れてるの確認した時点で引き返してきた。故郷の母さんごめんよって感じ。」

 普段は管理・調整役ばかりでいつも心底つまらなそうな顔しかしていない中年の室長が、なぜかやる気を漲らせ、満面の笑みを浮かべてそこにいた。自分も作戦に参加するつもりらしい。

 長谷川里香子は思わず苦笑を浮かべた。

「すいません、室長。みなさんも、この人手の少ないときにすいません。ご協力いただける方、よろしくお願いいたします。」

「了解だ、長谷川。だが、機密事項かも知れないがもう一つだけ教えてくれ。お前がそのプログラムを一度だけ使用した作戦というのは、どんな作戦だったんだ?」

 吾妻ルカには、「十分な説明と指示」を許可されていた。

「……皆さんにも守秘義務と責任が発生します。聞きたくないという方は、退席を。」

 誰一人、席を立つ者はいない。微笑みを浮かべて待つ者もいる。ルカならちょっと泣くシーンだろうな、と思いつつ、頭を下げた。

「お話しします。先月、我が国の民間人を一人オペレータとして拘束した上で、公安課のサーバにアタックを仕掛けた海外組織所属のハッカーがいました。報復として、そのハッカーの本拠となる宗教教団的な組織のサーバの全情報を奪い、ディスクを初期化してやりました。」

 どっと笑いが起こる。

「今回使用されているウィルスは、その際に使用したものか、その亜種です。気まぐれで、HRP-9Hと名付けています。作戦時には数種類のツールを使い分け、世界各地のサーバや端末を足場にアタックしましたから、作戦の実行者自体は特定されていない模様です。」

「ふん、それがどういうわけか、日本国内だろうと見当をつけられた、それで報復の報復で、同じウィルスを投げ返してきたってわけだな?」

 室長が確認する。

「ええ。たまたまどこかで確保され、かつ全くの偶然で日本の政府系サーバに向けて使用された、ということでなければ、後はそのハッカーによる報復行動と見て間違いはないと思います。」

「了解だ。さて。」

 そう言い差して、室長はフロアを見回す。そして、こんな状況にも関わらず、やはり満面の笑みを浮かべてこう言った。

「みんな、いつもお世話になってる里香子ねえさんのピンチだ。特に男子諸君、ご恩返しのチャンスだぜ~」

 ほぼセクハラの室長の言葉に、だが、里香子を除いた全員がまたどっと笑う。対策技術室ってこんな職場だったっけ?と里香子が驚くほど、センターのスタッフたちは気合いの入った表情で、仕事の開始を待っていた。ふん、と一つ苦笑を浮かべてから、里香子は告げた。

「皆さん、特段お世話したつもりはありませんが、何かのお役に立ってるなら幸いです。」

 なぜか「おー」という感嘆の声が男性陣から返る。平然と微笑み返して言葉を続ける。

「今回の件、ご協力、よろしくお願いいたします。ワクチンと、不活性状態のHRP-9Hは、これから三分間だけ、共有ディレクトリに置いておきます。」

 いつもの六割程度のスタッフ数ではあったが、その全員が、自分の仕事そっちのけで長谷川の置いた二つのファイルの検討に入った。室長が指示を出す。

「長谷川の逸品だ。解析はチーム作ってやってもいいぞ。たいそう面倒だろうからな。井野はシミュレータを五~六個作っておいてくれ。オレもやるけど。」

 すっと、室長が全体の指揮を引き受けてくれた。正直、この男が帰ってきてくれて助かったと長谷川が考えていると、その室長が少し小声で話しかけてきた。

「で、お前はこれからどうするんだ?」

「三分経過したら、作戦行動を共にしたメンバーの所在を確認してもらいに、まずは公安課へ出向きます。おそらくはそのまま、向こうで敵の正体の確認と対応に入ります。」

 うん、とうなずき、室長はにやりと笑った。

「……これ、お前たちだろ?」

 局長は、ほとんどただの落書き帳と化している自身の手帳を広げ、そのとある箇所を指さしていた。そこには、


 七月三一日未明

 R∴M∴L∴A∴ 犯行声明


 と殴り書きされていた。

 長谷川里香子はただ微笑んで、

「それはノーコメントですねー。」

 と答えた。ということは、自分はそれを知っている、ということを認めたことになる。

「Aは誰なんだ?」

 とさらに問われ、少し考えて、

「えー、それ、庁内の誰かを指し示しているんですかぁ?」

 と抑揚のない調子で答えた。つまりは外部の人間だと答えたに等しい。室長も室長で、後のR、M、Lが誰なのかは分かっているという発言だ。二人は互いに、笑っていた。

「室長、後をお願いできますか?」

「おお、任せとけ。抗ウィルスプログラムの投下タイミングは、仕切らせてもらっていいんだな?」

「はい。なるべくぎりぎりの線でお願いしますが、最終段階に入る前にお願いします。これがわたしのHRP-9Hだったら、最終ステップは全ファイル削除ですので。」

「分かった。――帰ってこいよ。」

「……はい。行ってきます。」

 長谷川里香子はちらりと手首の時計を見て、アップ中だった二つのファイルを確実に削除すると、情報通信局を出て、携帯で吾妻を呼び出しつつ、公安課のオフィスを目指して歩き出した。

「そっちはどう?」

 余計な挨拶なしで吾妻が電話に出る。

「抗ウィルスプログラムを複数開発してもらえるようお願いしてきた。投与のタイミングは、室長に任せてきたわ。」

「了解。あの室長なら大丈夫ね。休んでなかったんだ。」

「途中で帰ってきたって。」

「日本の官僚は好きなだけ仕事ができて幸せだねぇ。で、あんたは?」

 がちゃり、と音がして、S班の作戦室のドアが開いた。

「情報通信局所属、長谷川里香子、出頭いたしました。」

「誰も呼んでいないが。」

 椅子に座ったままくるりと振り返った杉田課長が真顔で答える。一瞬で固まった長谷川里香子の両耳に、吾妻の携帯越しと直接の笑い声が届く。

「課長、里香子をからかわないでください。このコ、まじめなんですから。」

 携帯をしまいながら、吾妻が言う。

「そうだなあ、吾妻も見習ってほしいもんだな。」

「う……。」

 固まる吾妻の背後で、眼鏡に束ね髪の結城舞が笑顔で手を振っている。

「……失礼いたしました。状況により作戦協力の依頼に参りました。」

「了解だ。先ほどの吾妻への連絡で、こちらも対応を開始させてもらった。すでに押野氏の所在は確認済みだ。内部からの漏洩の線は、じきに確認できるだろう。」

「ありがとうございます。では、今回の敵の正体については?」

「長谷川君は、どう思うのかね。」

「ほぼ間違いなく、先日の作戦対象からの報復、あるいはリサーチではないかと。」

「理由は?」

「敵の動きは、日本の政府機関サーバへの攻撃ですが、その対象は絞り込まれていません。いち早く反応してきた部署・部局があれば、そこに先日の作戦の行動主体がいると捉え、さらなる攻撃を行う、そのような筋書きがまず考えられます。また、追加の攻撃をせず今回はそこで敵の作戦終了となれば、これは先日の作戦が誰の手に寄るものかを確かめる、リサーチが主目的の攻撃となります。」

「つまらんな。」

「は?」

「吾妻と同じ答えだ。だが、CCLほどの組織が、そんな底の浅い作戦を採るだろうか?何か、別の目的がある可能性はないのか?」

「……そうですね、可能性をさらに挙げれば、CCLが作戦の主体ではない、というようなことも考えられますが、結局は単純なテロまたはプロービングを外注しただけで、黒幕はCCL、というのは変わりません。後は、――単なるデモンストレーションの可能性くらいしか。」

「どういうことだ?」

「宣戦布告、あるいは何か他の理由での示威行動、というくらいですが……。」

「宣戦布告の場合の動機と展開は?」

「……。」

 返答に困る長谷川に、吾妻が助け船を出す。

「まあ、それは確実にCCLが今回の主体だったら、という話になりますけどね。自分は先日の報復をする準備を整えた、だからお前の寄越した爆弾を複製して投げ返すぞ、次はもっと凄いのが行く、覚悟しろ、みたいなことでしょ?」

 吾妻の言葉に、長谷川もうなずく。

「それは、ハッカー間の決闘のマナーなのか?」

「いえ、そんなお上品な世界じゃありませんから。」

「でも、その可能性もあります。」

「わかった。後は、その他の理由での示威行動の方だが。」

「はい。」

 長谷川里香子自身も、また吾妻ルカにも、「他の理由」についての直接の心当たりがある訳ではなかった。だが、そこを探り当てない限り、この議論に意味はない。作戦室を、沈黙が支配する。

 吾妻ルカは、品川事件を忘れない。敵の陽動に気づかず、本来の敵の姿を掌握し損ねた失策を、忘れていない。作戦行動中とは言え、一人の少女がその本来の敵――地の塩の教会の差し向けた狙撃者の銃撃で負傷したということについて、厳格な責任を意識している。

 だから、ということになるだろうか。長谷川と自分の状況把握がぴたりと一致したという事実に、実は初めから、小さな違和感を感じていた。もちろん、課長の「つまらんな」という一言、そして長谷川の「他の理由」ということばによって明確化されたものではあるが、そこに、何かの居心地の悪さ、不自然な印象を、見出していた。当初の自分の分析を否定することにはなるが、むしろそこを考えるべきだという直観のささやきを聞いていた。

「……ねえ里香子。あたしたちの解釈、うまく一致しすぎてない?」

「……そうね、言われてみれば、まっすぐ単純な答えに向かわされてる気がするわ。」

「うむ……。」

 課長も、そして結城舞も、吾妻の発言の意味するところを正確に受け取っていた。だが、具体的に何を「他の理由」とすべきかについては、アイデアはない。

 再び、沈黙が訪れる。そこへ唐突に、内線電話が鳴った。iゲート社の秘書課主任が来ているという。結城舞が対応し、やがて、守衛に形式上だが案内されて、押野亜紀がS班作戦室にやってきた。

 挨拶をして入室する押野そっちのけで、吾妻と長谷川が顔を見合わせる。

「課長。確証は何もありませんが、一つ、警戒すべき最悪の展開があります。」

 吾妻が告げる。

「何だ?」

「今回の中央省庁のサーバに向けてのアタックは、先日の作戦への報復やリサーチ等の実効的な重みは持つものの、すべて囮またはカモフラージュであって、背後でより重大なサーバへのアタックが行われる、という展開です。」

「大手町―新宿ラインか。」

 はっと言うよりもぎょっとした顔で、押野が吾妻たちの方を見つめる。

「はい。まだ確証も兆候もありませんが、現在アタックされている省庁サーバ群の先には大手町―新宿ラインがあります。また、我々のようなセクションの人間はもちろん、押野さんのような大手町―新宿ラインの保全者たちでさえ、今回のような大規模で興味深い事象には注目させられます。場合によっては、これはもうすでに実際そうなっていますが、トラブル及びハッキング対応で現場に張り付き、という状況にもなります。

 敵が、その隙に叩きに来る、というのであれば、こちらは、あっさり総力戦の構えになるでしょうね。……表のサーバを守りつつ、背後のシステムも防衛しなければならないですから。」

 話しながら、吾妻ルカは自分自身を嘲った。こんな可能性、最初に頭に浮かばなくてどうする、と。

「押野君、来て早々済まないが、新宿の方は過去二四時間、特に異常はないか?」

「え、はい、現状で特には。」

「そうか。何か出るとすれば、まずは大手町からだろうしな。――押野君、村山君は元気ですか?」

 突然の問いに、押野は戸惑いつつ答えた。

「は?あ、弊社の秘書室長ですか?はい、相変わらずだと思いますが。」

「君を飛び越して、直接村山君と連絡を取ることもあるかもしれないが、許してくれたまえ。」

「かまいませんが?」

 公安課長、吾妻ルカ、長谷川里香子三人の見解はこれで、共有された。複数の可能性を、そのまま丸ごと共有したということになる。押野に向かって軽く頷いてから、課長は次の指示を出した。

「ここから先は、電子世界の外の人間にも聞いてみることにする。君たちはここで、最重要ラインの防衛法と、今回の黒幕への報復方法を考えてくれたまえ。」

「報復、ですか。」

「ああ、そうだ。目的が何であるにせよ、国民の血税で運営されている清いサーバに、ずいぶんふざけたマネをしてくれたわけだからな。ただし、その作戦を採用・実行するかどうかは、自分が判断する。」

「承知しました。」

「自分は、ちょっと出かける。戻るまでは、作戦準備だけだぞ、いいな。何かあれば連絡しろ。」

「……はい、承知しました。」

 公安課長杉田は、なぜか念押しをして出て行った。ふだんは滅多に念など押さない男だ。

「今の、どういうことだろう……。」

「え、何が?」

 吾妻の呟いた疑問に、長谷川が反応する。すでに長谷川里香子用、押野亜紀用の端末も、この作戦室には設えられている。二人は電源を投入し、作業を開始しながら会話を続行する。

「課長、あんな風に念押しなんかしないのよふだんなら。」

「私は念を押しました、だが部下は暴走しました、であなたの首を切る作戦ね。」

「う、やっぱり?ってそれはないわこの一大事に。」

「その自信様はいったいどちらの方角からいらっしゃってらっしゃってるのかしらねー。」

「杉田課長は部下の判断力を試さない。そんなもの、最初から掌握しているからね。」

「とすると、課長はあなたが思わず暴走して反撃したくなるような状況を予期してるわね。」

「より酷い状況がやってくると?」

「ええ。きっと、ネットの中だけの戦争じゃないのよこれは。リアル世界で異変はないの?公安課吾妻くん。」

「……未明から、宮城・福島辺りの宗教関連団体で大規模失踪または拉致事件の報告があるけど。」

「何かキーワードは?」

「……そうね、そう言えば今朝、とある親切な民間人が教えてくれたわ。廃絶教団キリークが海外の武装組織とつるんで何かを画策してる線が濃厚って。」

「キリーク?ほんとに?」

「ええ。」

「だったら課長もなおさら念を押すわよ。それ、まかり間違えばうちの庁全体の大失態よ。うちが潰した教団だもの。」

「あはは。そうね。危機対処ばかり考えてたから、政治的観点ていうのを忘れてたわ。」

「しょうがないわね。キリークが主体か、それとも焼け木杭に注油したヤツの方が主体かは分からないけど、類似品に厳しいっていうキリークのそもそもの特徴を考えると、ね。」

 吾妻と長谷川の会話に、結城と押野は軽く置き去りだ。そのことを察して、吾妻が仕切る。

「うん。さて、それじゃ四人でまずは情報の共有と見落としチェックね。敵のサイズ・方向とスキル、速度の見当をつけるわよ。もしこの間のヤツらのセッティングなら、……」

「――神様はイエス様だけじゃないってことを、もう一度教えてやりましょう。」

 ぼそり、という表現が示す以上に無味乾燥な口調で、結城舞が言った。

 先輩二人は、その言葉の迫力に、思わず沈黙した。結城の放つ黒い何かに、固まっている。押野は何か、邪な笑みで応じている。それは、この後起こる様々なことからすれば、まだとてもかわいらしい事象の部類に含まれていた。

事件の全貌が判明するまで、もう少しかかります。よろしければ、お付き合いください。

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