第一一話 こぼれる悪意
「森田、いったい何があったんだ?」
出発予定の午後一時にあと数分というタイミングでかかってきた携帯電話での通話を終えて、オフィスに戻ってきた森田ケイに、時田治樹が尋ねる。席を外していた時間の長さ、そして、ずいぶん慌ててオフィスを出て行ったその様子から、電話の向こうで何か不測の事態が起こっていることを、時田は察していた。
「今はまだ何とも言えないが、……お前最近、教誨師に仕事依頼してたか?」
「ん?ああ、してるよ?でも厳密には、少しだけ先の話だけどね。」
「先?」
「うん。一五日から一〇日間の待機期間設定してもらってるけど。――っておいまさか、お嬢様がどうかしたのか?」
「いや……。」
いつも自分に対しては遠慮のない、きっぱりとした話しぶりの森田が、言い淀んでいる。何事かを考えているようでもある。それで時田は、それ以上は追及するのをやめた。代わりに、
「お前は、こっちに参加して大丈夫なのか?」
そう、確認した。
「ああ。オレはもう、屋敷の人間ではないからな。」
時田の懸念は、当たっていたらしい。
「そうか。済まないな。こっちも、事態は簡単じゃないんでね。」
「気にするな。今は、自分の持ち場を務めるしかないんだ。」
森田らしくないと言えば、これ以上森田らしくないセリフもなかった。まるで自分に言い聞かせるような、そんなセリフだった。
(わかりやすいヤツだなほんと。)
そう思ったが、やはり時田は追及はしなかった。
「じゃ、出発しようか。高速、混んでないといいけどね。」
「そうだな。」
そう、それだけの言葉を交わして、二人はオフィスを後にした。
裏磐梯の、静かな山中であった。近隣は観光地としてよく知られた一帯だが、不思議とこの一角だけは、土地に不案内な者たちの出入りはなかった。
早くも秋の気配漂う朝である。古ぼけた山寺を借り受けて、今年も聖宗秘仙会恒例の、夏の道場が開かれていた。
「奈津子、奈津子、」
のどかな山寺の庫裏に、のんびりした男の声が響く。
「どうしたのお父さん?」
ジーンズにTシャツの上にごくふつうのエプロン姿で食事の準備をしていた若い女が振り返る。対する男の方は、無精髭を生やした、むさい坊主姿だ。頭髪の方も無精をしているのか、短く伸び始めている。
「お前、あの不登校児起こしてこい。朝の勤めサボりやがった。」
「ええー、あたし朝ジキ準備で忙しいしあの子ちょっと変態ぽいからお父さん行ってきて。」
「変態って、お前何かされたのか?」
本来は娘の身を案ずるセリフのはずだが、どういうわけか男の方は満面の笑みだ。
「されてりゃ黙ってないわよあたしももういい歳したおねえさんなんだし。目つきがちょっと、ってだけよ。」
「なあんだ。」
父親にあるまじき、心底残念そうな声。
「じゃ、行ってきてくれよ、おねえさん。」
「えー!?」
「いいだろ?もういい歳したおねえさんなんだからそれくらい。」
「それでも宗教者なの?まったく。」
「おれはただの野坊主だよ。そんな小洒落たもんじゃない。」
そう言って、父親は笑いながらのしのしと本堂の方に歩いていってしまった。一人ぽつんと残された吉井奈津子は、何か強引にかつのどやかに言いくるめられたまま、仕方なく庫裏のさらに裏手、修行と称して預けられた少年等が寝起きしている離れに向かって歩き出した。
聖宗秘仙会は昭和初期に興ったいわゆる新興宗教だったが、その母胎は仏教と修験道にあった。新興宗教としては温厚なその教義によって、従来の仏教界との折り合いも悪くなかった。数年前からこの山寺のように、各地の寺社を借りて、秘仙会は道場を開いていたが、そんな特質の宗教団体であったから、極ふつうの家庭の子弟も、特に抵抗なく道場に参加していた。リピーターというのもこういう道場には似合わないのだろうが、夏なら夏、冬なら冬の道場に、数年続けて参加する者もあった。
問題の不登校児は、この夏が初めての参加だった。ほとんど誰とも口を利かず、それでも昨日までは「勤め」と呼ばれる修行にはすべて参加していた。参加態度も、むしろ熱心と言えるくらいであった。だが、今朝の勤行から急に、出てこなくなったのだという。
「えーと、なんだっけ、ああそうだ、佐々木くん?佐々木くーん?」
奈津子は少年の名を呼びつつ回ってみたが、離れにも庫裏にも、そして境内にも、その姿は見あたらなかった。そのことを伝えると、
「やれやれだな。お前、朝飯が終わったら、他の子供たちに様子を聞いてみてくれないか。」
父親である吉井俊司はそう言って、自分は何人か世話人を連れて辺りを探してくると言って、出て行った。
吉井奈津子はふだん、仙台にある聖宗秘仙会の事務所で働いていた。事務所とは言っても、オフィスとして使っているフロアの奥には、形ばかりの祭壇を備えた奥の間もある。だが、秘仙会はその実、全国各地の山岳に分け入り、新たな世代の修験の道を求める教団であって、町場のビルの中に設えた祭壇など、仮のものに過ぎなかった。つまりそれは、宗教法人としての体裁を整えるためのイミテーションに過ぎないのだが、それでも、その祭壇の存在が根拠となって、仙台事務所が教団本部ということになっていた。
奈津子はそこで、主に上層部間の、教団の表には出せないような事項を扱っていた。教義がどうであろうと、一般受けがよかろうと、この時代、一つの組織を運営していくには、それなりの備えが必要だった。特に、すぐに各地の山中に分け入ってしまう上級幹部たちの動きを掌握し、変事に備えることは、奈津子の重要な任務になっていた。
だから、奈津子にとってこの夏道場は、せわしくもあったが、ちょっとした休暇のようなものでもあった。気遣いの要る事務仕事から数日解放される、リフレッシュのためのキャンプにでもやってきたようなものだった。
だがそこで、体験入場した少年の脱走あるいは行方不明事件が起こった。せっかくの休暇気分も台無し、という気がしたが、それでも奈津子は手際よく、参加者や道場側の人間からの情報収集を終えた。
やがて、寺の周囲の捜索を終えた父親たちが戻ってきた。結局のところ、佐々木という少年の姿はなく、また、奈津子の方の調べでも、夕べの就寝の時間の後で、少年の姿を認めたものはいない、ということになった。
「親元に、連絡を入れねばなるまい。」
この夏道場を運営する側の主だった人間が集まり、そう結論した。だが、奈津子が、入場時に保護者が記入していった電話番号に電話をかけると、それは奇妙なことに、現在は使用されていない番号であった。市内局番までは福島市内のものであったが、数回かけ直してみても、「現在使われておりません」というメッセージが返るばかりであった。
そこで、ひとまずこの寺の住職に相談の上、警察に対応を仰ぐこととした。また、聖宗秘仙会の実質上の代表である木村一二三に報告の電話を入れた。秘仙会は、特定の教祖を持つような教団ではない。それでも、何か事が起これば、木村が意志決定をするかたちになることが多かった。
木村一二三は、年齢の上ではまもなく五〇歳に手が届きそうな、だがどこか若々しさを失わない、一見したところ年齢不詳の男であった。今は一人、長野・静岡県境の山中に入っている。修行の邪魔だとは言いつつも、木村は立場上、数時間に一度は電話への着信をチェックする。煩わしいのは嫌っても重量は気にならないらしく、携帯の充電用に手回し型の発電器と、さらに小型の太陽電池パネルまで持ち歩いている。昨年だったか、携帯と一緒に日向ぼっこするのも悪くないもんだよ、という発言をしたこともある。
やがて、その木村の方から電話がかかってきた。
「ああ、僕だけど、うん。状況は分かった。……外の連中の工作かも知れない。十分、警戒して。ぼくはまだ、降りないから。」
それだけ言うと、木村は電話を切った。声は若々しく、指示は簡潔であった。
吉井親子や、他の夏道場の世話人たちは、木村の指示を受けて、佐々木の捜索と併せて周辺の巡回や警戒を行うことにした。夜も、世話人が交替で番に立つことにした。本堂前で一同が集まり、簡単な打ち合わせをする。
「まあでも、いくらかでも使える者はいるわけだし、お客さんたちを守ることくらい、できるだろうよ。」
父親のそんなセリフを聞いて、だがそれでも奈津子は一抹の不安を感じていた。
(何もないのが一番だけど。何かあったら、……)
携帯電話のアドレス帳に、元同僚だった時田という男の連絡先があるのを確認し、少しだけほほえむ。
(弱いところ、見せたくないんだけどね。)
その携帯電話を折り畳むと、そっと重ねた両手に包み、胸元に抱き寄せるような仕草をした。ふっと一つ息をついて、それからまた、状況の変わった夏道場の対応に戻るため、小走りに庫裏の方に戻った。
夕食の後、佐々木少年の件について、世話人の中では年嵩となる吉井俊司が代表として、参加者に説明した。また、事件性はないと思うが、念のため周囲の警戒を強化すること、各自も特に夜間は勝手な行動はせず、互いに安全を確認してほしいことを伝えた。
だが、事態は意外なほど早く展開した。
毎夏、道場の度に炊事を手伝ってもらっている寺ゆかりの女性も帰り、奈津子が食事と台所の片づけも終えて、台所脇の板の間で、座卓に突っ伏すようにもたれて一人うとうとと微睡んでいると、突如駆け込んできた者がある。父親の、吉井俊司だ。
「ここにいたか!」
そう言うなり、いきなり奈津子の首辺りを掴むと、台所の土間に設けられた室の蓋となっている板を外してそこに放り込んだ。
「朝まで出るなよっ」
そう、押し殺した低い声で命じ天板を閉じると、自分はまた台所からかけて出て行った。
直後、庫裏の表の方から、叫び声と罵声、そして、少し離れた本堂の方から銃声が響いて、奈津子の潜む室の中にも届いた。
(何てこと……。お父さん、みんな、大丈夫かな――)
耳を澄ますが、大きな音以外は皆、室の中までははっきりと聞こえてこない。ただじっと、様子を窺うしかない。夏場ということもあり、大して野菜類が保管されているわけではないことも幸いして、体の下の根菜類をいくらかどけると、何とか膝を抱えるようにして座ることができた。
室の蓋となっている天板は、決して隙間なく敷かれているわけではなかった。暗い中で携帯電話を使用すれば、外から明かりに気づかれる恐れもある。台所は、照明は落とされていないが、古い寺の土間だ。もとよりそう明るいわけではない。敢えて無理をすべき場面ではないと判断した奈津子は、そのまま様子を窺うことにした。
程なくして、台所まで、侵入者と思われる人間がやってきた。数人分の、底の固いブーツのような足音が、室の周りを囲み、何事かを会話した後、去っていった。いくつかの足音は、奈津子の潜む室の蓋を直接踏んでいた。その振動で、ぱらぱらと、砂やほこりのようなものも落ちてきた。危機への対応はセンターでずいぶん鍛えられたつもりだった吉井も、この状況には正直、震えた。
だが、その恐怖よりも、気になることがあった。
(――英語?)
奈津子の耳には、侵入者たちの会話が日本語でなく、英語だったことが聞こえていた。いったいどんな集団に襲撃されたのか、聖宗秘仙会本部付ではあるものの、今は単なる事務員に過ぎない吉井奈津子には、想像することさえできなかった。
やがて、境内からいっさいの物音が消えた。
夜明けにはまだ数時間という時間帯だったが、意を決した奈津子は、携帯電話を開き、人材センターのエージェントの一人、時田治樹にメールを送った。むろん、深夜だ。時田がすぐに反応しない可能性も考えなければ、とは思っていた。だが何となく、返事はすぐ届くような気がして、こんな状況なのに、少し笑ってしまった。
送信時刻:2009/08/13 02:52
件名:ヘルプお願い
本文:時田くん、夜遅くごめん。秘仙会で、福島県内で夏道場やってるんだけど、正体不明の集団に踏み込まれて、発砲音とかも聞こえた。今から1時間半くらい前。一応座標データ送るけど、ひとまず指示くれる?とりあえずまだメールで。よろしく。
送信を知らせる表示を確認し、奈津子は再び携帯電話を閉じた。
時田治樹はこの夜、たまたま高田馬場ブランチのオフィスのソファで眠っていた。幸いなことに作戦行動中でもなく、海外でもなかったが、現在再び焦臭い動きが指摘されている廃絶教団キリークに関する情報収集に疲れての仮眠中ではあった。だが、時田のような人間は、オフと決めなければメールの着信くらいでも跳ね起きるだけの訓練と心構えは持っているらしい。
(ん?誰だろこんな時間に……って、吉井ちゃんじゃないの。何かあったな。……!)
眠気は吹っ飛んでいた。
件名:Re: ヘルプお願い
本文:状況教えてくれる?分かる範囲でok.
敵の人数:
敵の武装:
敵の特徴なんでも:
吉井ちゃんの現状:
秘仙会のみなさんの状況:
センター上がりなら、何が大事か分かってるよね?以上。
送信して二分もしないうちにレスが返った。
件名:ありがと
本文:返信感謝です。以下よろしくね。
> 敵の人数:複数。5名以上。
> 敵の武装:銃あり。その他は不明。
> 敵の特徴なんでも:使用言語が英語、軍用ブーツのような足音。
> 吉井ちゃんの現状:お寺の暗い台所の真っ暗な室の中おいもやタマネギと一緒に潜伏しています。
> 秘仙会のみなさんの状況:お寺から連れ去られたかも。今はお寺に人の気配ありません。とても静か。以上。
「銃にブーツに英語だぁ?」
思わず携帯の画面に話しかけながら、時田はすぐに返事を入力する。
件名:英語って
本文:地域、できれば方言的な特徴って分かる?
酷い状況には違いなかったが、時田からレスが届き始めたことで、吉井奈津子は少しほっとしていた。油断とは違う、対処への気力を伴う落ち着きのようなものが、やってきていた。
(え、英語の特徴って言われてもなあ。あんまり得意じゃないんだよな。ただ、そうだなぁ、アメリカ英語じゃなかったな。南部訛でもないし。強いて言えば、……ベッカム?一瞬だからなぁ、自信ないけど。)
その判断を、そのまま時田に返信してやる。
時田は即座に、非北米英語圏で、現在日本に入国が確認されている不穏なグループの確認を行った。ここのところ時田は国内宗教集団の動向ばかり追っていたが、センターでは外事班的に動くエージェントもいる。情報の大半は、共有するのがルールだ。
怪しい情報はいくつもあった。時田が現在追っている、廃絶教団キリークの残存信徒たちと、イギリスのテログループの関係者が接触したという情報まであった。
(おいおい、ここに置かないで直接オレに寄越せよなこんな重大情報。凧揚げといただろ?)
ふん、と鼻で笑いながら、時田はさらに情報のチェックを続ける。凧、あるいは旗は、ここではある分野についての情報求むというサインを、センター内で示していることを差している。
(結論から言えば、キリークが何かを画策している、ということだね。それに、いずれかの海外組織が絡んでいる。吉井ちゃんの言うベッカム英語ってのも、潜入情報と合致してる。)
さらに返信する。
件名:かなりやっかいな状況
本文:調べてみたけど、確かにイギリスが本拠のグループが入国中。で、質問だけど、おたくはキリークと因縁ある?何年か前に破防法適用されて解散させられた廃絶教団だけど。キリークが海外組織とつるんで何か画策中らしいんだ。
すぐにまた、レスが返る。
件名:Re: かなりやっかいな状況
本文:キリークとうちは直接の因縁はないと思うな。ただ、一時はキリーク脱会者がうちに加入して、キリークが騒いだことがあるっていうけど、何年も前、私がまだそっちにいた頃の話。で、あたしはまだ、ここに隠れていた方がいい?
携帯電話の画面に向かって時田は一人で呟いた。
「吉井ちゃん、その質問の答えは、こっちにはないよ。」
件名:了解
本文:情報ありがと。ま、逆恨みってのもあるから、キリークの線は現状濃厚だと思う。こっちは同様の事件がないか、探ってみるよ。対処法が分かるかも知れないしね。それから、吉井ちゃんがそこから出るか出ないかの判断は、吉井ちゃんにしかできない。でも、手順だけは伝えとくよ。まず、天板の隙間があるようなら、そこに針金状の導線が渡されていないか、よく確認して。ちょっと危ないけど、携帯の液晶で照らして見るといいと思う。まあ、上が明るければ、多少は危険性も下がるし。で、導線とかトラップ、そういうのがいっさいなければ、板を一枚、まずは外してみて。それで何もなければ、身を隠す場所を2カ所以上イメージしてから、脱出して。
(えー、トラップ設置まで警戒しなきゃいけないのー?まあ、教科書通りならそうだけどなぁ。連中、そんな暇あったかな。まずはよく思い出してみよう。)
結局数分後、様々な可能性を消去しつつ、吉井奈津子は台所の室から脱出した。
(お父さんごめん。朝までは耐えられなかったよ。)
そう、心の中で詫びつつ、寺院内の探索を開始した。
(聞こえた銃声は、一つ。お寺の天井高いからなぁ。上に向けての発砲だと、弾痕発見できないかもなぁ。……っと、これは、やっぱり血液か。誰か、撃たれたね。)
本堂に上がるたたきの上に点々とこぼれた液体を見つけた。それは、携帯電話の液晶の明かりの下で見ると、赤く、軽い粘りけを伴っていた。自らの父親が撃たれるシーンを想像して、奈津子は目の前が怒りで暗くなった。
(時田くん、出て。)
そう念じつつ、電話をかけた。
翌朝、センターには関連する情報が続々と集まってきていた。
仙台では、神契東天教の支部が八月一二日午後一〇時過ぎに突如襲撃され、居合わせた信者一〇名近くの大半が連れ去られたという。吉井の情報によれば福島・裏磐梯の聖宗秘仙会夏道場での事件が起こったのはその約二時間後、さらにまた、マイクロバス数台の一団が、一三日の明け方近く、福島・茨城県境付近で目撃されたという情報もある。
「Nシステムの情報、取れるようにしておくんだったな。」
そう、時田が呟くと、
「できるのか?」
と背後から問う声がある。二時間ほど前、午前六時過ぎに招集をかけた、森田ケイだった。八時集合という指示に合わせての登場だ。
「やろうと思えば、できないことはないよ。ただ、コストと、バレた場合のもみ消しがやっかい。」
「なら、正攻法で聞き出せばいいじゃないか。公安にコネ、山ほど作ってあるんだろ?」
かなり重そうな、おそらくは車内に置き去りにできない武器類を納めたバッグを、空いているデスクの上にとりあえず置きつつ、森田ケイが訊く。
「まあ、それはそうなんだけどね。正攻法って、借りを作るってことだからねえ。……さて、さっそくだけど、情勢分析からやろうか。場合によっては、今日の午前は、情報収集だ。出発は、その後になるかもね。」
「ああ。……だがその前に、やっぱりルカには情報流しておけよ。」
「珍しいな、お前がルカねえさんを計算に入れるなんて。」
「ん?違うぞ。オレが計算しているのは、課長の方だ。ルカに流せば、あそこの課長までは勝手に上がるだろ?」
「あれれ、ずいぶん酷いんだね。」
そう言いつつ、時田も笑っている。
「まあ、ねえさんは良くも悪くも、ネットの人だからねぇ。」
「あの専門性は敬服に値するけれどな。それと、もう一件。」
「ん?」
「この件が宗教絡みなら、九条に待機を要請しておくべきじゃないか?」
「そうだね。その通りだ。まあ、本物が出るどうかは分からないけどね。」
「敵が移動し続けるなら、式神たちの助力も必要になる。センターは、人手不足だからな。」
時田はその言葉に頷いて、「神様の手も借りたいってヤツだね」と適当な返答をしつつ、まずは公安課S班所属の吾妻ルカに電話を入れた。自分が誰であるかは隠さないが、一応は善意の一市民として、情報という名のモノとモノとを交換する。それだけで情報は、価値を増す。
「あとは九条だけど、内部で横に指示は出せないから、相馬さん通すよ。」
「ああ。それがいいだろうな。今の話じゃ、ターゲットがバラケているんだろ?類似団体が今後も襲撃される可能性も考えるなら、こっちはなるべく、組織立って構えておいた方がいい。」
「事態悪化の前にホーレンソーね。つーか、お前元々そんなに慎重なタイプだったっけ?」
森田ケイは、一人で、あるいは一人の兵隊として戦場で動くときと、集団で作戦を遂行するときとでは、別の判断基準を持っている。集団で動く際には、打てる手はすべて打ってから動くのを理想としていた。これは数年間、教誨師の後見人としてチームを組んでいた経験に基づくやり方だった。個人技は否定しないが、その技を発揮すべき状況自体は、しっかりコントロールすべきだと考えている。集団とは、不揃いなスキルを持った人間たちによって形成される。損害を最小限とするためには、入念すぎるほどの状況掌握が必要だ。だが、そんな面倒な説明は、一切省略した。
「さあな。それよりホーレンソーって何だ?」
「ん?オヤジ言語の一つ。」
「ふん、……。」
大して興味もないのか、森田はそれ以上話を続けようとはしなかった。ただ、時田が相馬嶺一郎に対して報告している会話の内容から、さらに何事かを考えているようだ。
「さて、それじゃ森田、君にも状況を伝えるよ。」
「相馬さんに言わなかった部分だけでいい。」
答えながら、森田ケイは、時田のデスクの隣の椅子に腰を落ち着けた。
この間にも、状況に対応を開始したセンターのエージェントや協力者から、いくつかの情報が上がってきていた。
「……東天教や秘仙会だけじゃない。宮城から福島にかけての新興宗教系が二カ所、襲撃されてるね。」
「どこだ?」
「ん、救世真人教宮城支部、それと、地の塩の教会仙台教会、あれ、ここ今は」
「新日本福音派キリスト者の会、だったか。」
「そうだね。何か関わりが?」
「ノーコメントだし、分かってるんだろ?」
「まあね。そういう仕事だからね。さて、結論は、」
「どこかが無差別に新興宗教に殴り込みをかけてるってことだな。」
「くっくっく。まあ、そうだね。目的とメリットは?」
「それについては、まずはお前の意見を聞くよ。」
「そうだね……。こっちの情報だと、動いているのは廃絶教団キリークと、イギリス系、もっと言えばイングランド系のテログループの合流部隊だ。もちろんまだ、確証はないけどね。」
「さっき電話で言ってたことだな。元センターの女ってのは、今はどうしてるんだ。」
森田は、時田から相馬に向けての説明で出てきた人物について、確認を入れた。
「現場から少し離れたビジネスホテルに潜伏してもらってる。」
「今回の依頼人は、そいつなのか?」
「一応はそういうことになるけれど、これはもう、「治安出動」レベルかもね。」
伸びをしつつ、背もたれに体を預けるようにして、時田はそう言った。
「大規模かどうかは分からないが、広域同時テロ、くらいにはなってるな。」
横から手を伸ばし、森田は時田の端末を操作する。
「どうした?」
「いや、北の方ほど、事件発生が早いんだなと思ってな。」
「そうだね。最後は茨城県境辺りでマイクロバス集団の目撃情報がある。」
「あちこちで掻き集めた人質をひとまとめにして、南のどこかへと移送する気なのかもしれないな。」
「いずれにしても、東天教で一〇人近く、秘仙会で二五人から拉致してるんだ。多すぎる人質は作戦の破綻を早めるってセオリーなんか、完全無視だね。」
「いったい、何がしたいんだこいつらは。」
「それについては、こいつらの状況の検討からだろうな。ちょっとこれを見てくれ……」
時田と森田は、数年前のキリーク解散当時から現在までの資料の確認を始めた。
この日、あと二つ事件が起こることを、まだ二人は知らなかった。
第二部の最終パート開始です。複合的な事件を書いていますが、福島県から茨城県北部にかけての一帯でも、事件が起こります。実際に遊びにいったことのある、懐かしい土地です。大半、見守ることと忘れないことくらいしかできませんが、何かできることを探していきたいと思っています。