第一〇話 再びの楽園へ
「ねえ?」
「ん?」
「昔のあたしって、何してた人、なのかな。」
「知りたいのか?」
「ん――、分からないけど。でも、気にはなるよやっぱり。」
「そうか。――オレの方は見た目は巫女さんだったわけだけど、稼業としては、まあ、今と似たような稼業だったみたいだな。」
「え、そうなんだ。」
「刀を持った集団に囲まれたのを自力で切り抜けたり、みたいな夢も、たまにはな。まあ、それが事実かどうかも分からないが……。どっちにしろ、一〇代のオレには十分悪夢の部類だった。鮮明に覚えてるよ。」
「そっかー。何て言うの、それじゃほんと今とあんっ、あんまり変わらないね。ていうかお話してる、んだからぁ、そんなこと、」
「お前に助けられたこともあるらしい。」
「え?あたしが?や、ん、だめ、もう……」
「お前というか、前世のお前が、何人も斬って、斬り拓いて、助けてくれる夢も見たからな。」
「そ、そうなんだ。あたし、お、ん、女の子なのに。人、斬ってたの?」
「詳しくは、分からないけどな。まあ、夢にそいつが出てくると、似たものどうし、って感じはいつも感じてた。親しくて、優しい、頼りになる仲間ってとこかな、と。」
「へ、えええ。仲間、かぁ。ん、ってほらまじめな顔して、まじめな話してるんだから!もうどっちかにしてよね!」
「じゃ。」
「え?」
「ダメか?」
言葉での答えはなかった。二人はまた、唇を重ねた。
(あ、自分だけ先にパンツはいてる……。ずるい……。)
まだ頭の中が空っぽで、そんなことしか考えられない。
(オトナって、みんなこんなことしながら、それでも社会生活も営んでるわけよね……。)
がんばってみても、そのくらいの思考しかできない。
「タバコ、いいか?」
「うん。帰りに、シャワー貸してね。」
「ああ。何か飲むか?」
「あ、じゃあえっと、お水がいいかな。」
執事時代と変わらぬ手際で、ひなの手元に冷たいミネラルウォーターの注がれたグラスが届く。結局変わったのは、森田ケイの自分に対する言葉遣いくらいで、後はそんなに変わっていないのかもしれない、ひなはそんなことをちらと考えた。ケイは結局、執事の頃も今も、自分の騎士なのだと思った。
「ありがと。」
自分も、こういうことに少しは慣れてきた気がする。でも、いつも余裕はなくて、たいていは今のようにくたくたで、喉もからからになる。冷たい水がこくんと音を立てて、喉を通り過ぎてゆく。そのおいしさを知ったのは、つい最近のことのようにも思う。
「さっきの話の、続きなんだけどね。……正直、あたしは全然、昔のことって分からないからさ。その人があたしと似たようなキャラなのかどうかも分からないし。でも、ケイくんはちょっとは分かるわけでしょう?」
「分かるって言っても、どんな出来事があったか、くらいだけどな。」
「うん。でも、なんかちょっとね。やきもちみたいなの、感じるんだ。」
「オレにか?」
「ううん。……過去のあたしに。過去のケイくんを知ってる、過去のあたしがちょっと、羨ましいというか、妬ましいんだ。」
「……それって、占有欲とか所有欲の類?」
「うん。そうだと思う。」
あまりにも正直に、ひなは自分の気持ちを認める。
「あたしはケイくんの一番でいたいのに、もしケイくんが、あたしの知らない、過去のあたしの方がいいって思ってたらどうしよう、みたいな気持ちになる。」
「意外と、欲張りなんだな。」
「そうだよ欲張りだよ。だってあたし、……」
そこまで言って、口をつぐんだ。身に巻き付けていたシーツを捨てて、ベッドサイドに立つ。そして、ベッドに腰を下ろしている森田ケイと向き合い、両手をそっと差し出す。ケイはくわえていたタバコをゆっくりと消し、それに応えるように、手を伸ばす。二人の指が絡み合い、手のひらが、重なる。
「一度でもいいから、こういう関係になりさえすれば、こうやって、自分を全部見てもらえれば、それで自分は納得して、あとは独りでも生きていけるかと思ってたんだけど。」
「納得、していないのか?」
「納得は、したわ。でも――」
森田は黙したまま、両手をつないだまま、次の言葉を待つ。
「これじゃあたしはまだ全然満足できないんだ、ってことを納得しただけだったの。」
そう言うと、相馬ひなは、森田ケイに体を預けるようにして、ベッドの上に倒れ込んだ。両手はつないだままだから、ケイがひなに押し倒された格好になる。裸の胸がまた、重なり合う。さっきまでタバコを挟んでいたケイの指の匂いを、鼻先を軽く擦り付けるようにして嗅いでみる。
「そうか。よかった。」
「よかった?」
思わず上体を起こし、ケイの顔を見る。
「ああ。」
「なんで?」
そう尋ねると、まだ床の上にあった両足をベッドの上に乗せながら、ケイが答えた。
「オレもまだ、全然満足してないからな。」
ひなを乗せたまま、器用に定位置に戻る。
「……それって少し、意味、違う気がするけど。男子と女子じゃ。」
「そうか?まあ、そうかもな。」
「でも、」
「ん?」
「それほど悪い気もしない、かな?いや、やっぱりちょっと悔しいかも。」
「なんでだ?」
「それって今のあたしじゃ満足できないって意味に聞こえる。」
「ふん、自分だって、満足できないって言っ……」
「ほらやっぱり意味違うじゃん。あたしのは、もっともっと、あたしのこと見てほしい、ずっとずっと、見ててほしい、って意味なの。」
「……やっぱりお前、キャラ変わってないか?」
「……しょうがないでしょ?そんなコに、なっちゃったんだから。誰のせいでまったく、……え、ちょっと待って、もしかして、そういうコ、嫌い?独占したいって思われるの、嫌?」
急に心細げな声になったひなが尋ねる。
「そうだな。嫌だ。」
ストレートにそう言われて、軽く上体を起こしているだけなのに、立ちくらみのような感覚が襲う。目の前がぐるりと回転しそうになる。
ずっと重ねていた両手を振り払われた。
「……ご、ごめんなさい、もう、そういうこと、言わないから、だから――」
震える声でやっと、そう言ったのに、答えは返らない。
我慢しても、涙が出てきてしまう。
もっと安定しなければと、自分では思っているのに。
もっと大人にならなければと、何度も自分に言い聞かせているのに。
やっと手に入れた、教誨師でも相馬ひなでもない、ただのひなに戻れる場所。それが、壊れてしまう。自分が欲張ったせいで、なくなってしまう。そう思っただけで、涙が溢れてきてしまう――
そっと、ハグされた。
そのハグが、すぐに力強い抱擁になった。
涙が溢れていた目元に、口づけられた。
また、唇を重ねられた。
意図が分からず、ケイの顔を見ようとしたら、反対に、見つめられた。
髪をやさしく撫でられた。
そんなことをされたら、よけい涙が出てしまう。
諦めて、力を抜いた。
頬と頬とが、重なる。
「もう少し、オレのこと、ちゃんと見ろよ。」
直接耳に囁きかけられた。
「?」
「お前は、オレを独占したいなんて、思う必要はないし、自分のことを見ててほしいなんて思う必要も、ないんだ。」
「……え?」
「オレの女は、男の顔色窺うような、男を無理矢理つなぎ止めようとするような、そんな器の小さい女であってほしくない。それに、」
「――それ、に?」
「どのみちオレは、お前しか見てない。」
「……!」
顔色を失い取り乱していた相馬ひなの顔が、一気に紅潮した。ケイの言葉に何か応えたいのに、何を言っていいのかまるで分からない。慌てて起き上がり、それでも何か言おうと唇を動かしたが、
「そんな当たり前のこと、いちいちうじうじ確認してくるような女は、正直めんどくせー。」
言葉が出る前に、そう、言われてしまった。
(め、めんどくさい!?)
「でもまあ、結局どんなに面倒でも、オレは一生、お前を見て、お前を追いかけて、生きていくんだろうな、とは思ってる。」
「……めんどう、なのに?」
「ああ。」
「どうして?」
「面倒だから答えない。」
「……うん。」
何を自分は焦っていたのだろう。
こんなにも、こんなにも、愛されているのに。
気がついたら、森田ケイの上に全裸で馬乗りだ。
そのことに、改めて気がつく。でも、不思議と恥ずかしくはなかった。
面倒なこと言ってごめん、と謝ろうかと思ったけれど、やめた。
うれしい、そう伝えようかとも思ったけれど、それもやめた。
「――今、何時くらい?」
「ん?午後三時二〇分、だな。」
「よかった。」
そう言って、それから
「自分だけ先にパンツ履いててずるいです。」
それだけ言うと、一度ケイの上から降りて、その邪魔な布切れを強引に引き剥がし始めた。
夏の長い午後。もうあまり邸内では隠してもいないのだが、一応ははるみさんとお買い物、ということになっている。お迎えまで、気がつけばあと、数分。
いつもよりは忙しかったけれど、もうシャワーも、身繕いも終えていた。
長い、長いキス――。
桜ヶ丘の制服を着て、森田ケイの、膝の上。
別れ際はいつも、ほんとうは泣きそうだから、キスしているか雑談しているか。
そんな時間帯。
「そうだ、明後日から三泊四日で、沖縄だから。」
「ん?ああ、例の「慰安旅行」か。」
「そう。そんなの関係なく、前から相馬家女子&お友達チームで行こうと思ってたんだけど、さすがに予定が合わなくて。そしたら、お父様が。強引に予約入れてくれてた。」
「結局、誰が行けるんだ?」
「すごいよ。相馬家ガールズほぼ全員。メイド長の暮坂さんだけは屋敷に残るって言うんで不参戦だけど、後は少なくとも一泊はするよみんな。」
「それは、……恐ろしいな。」
全員を知っている森田ケイが、思わず苦笑する。
「あと、知り合いにも声だけはかけたんだ。そうしたら、式神ちゃんたち来るかもって。九条さんは無理みたいだけど。」
「そうか。」
「他にも声かけたけど、さすがに無理だったみたい。」
「ん?他って?例の委員長とかっていう怖いコとかか?」
「さすがに紗幸ちゃんには声かけてないよう。本人曰くだけど現在性別無視すれば森田ケイさんのライバル第一位かっこ自称かっこ閉じるなんだよ?あのコ呼んだら、ケイくんに悪いというか、あたしの身が危ない気がして。っていうか、学校のお友達はメンツ的に無理だしね。情報統制大変だもの。他は、水原さんとか、ルーナさんとかだよ声かけたのは。」
「……ほんとか?」
ひなは何気なく口にしているが、ある種とんでもない固有名が並んだ。単純に組み合わせのレアさだけで言ったら、国会の各党首経験者とサウナで談笑する広域指定暴力団の組長とその若頭、くらいのレアさ加減だ。
「だって、一緒に戦った仲間だし。その慰安旅行だってお父様が言うからさ。まあさすがに、水原さんはまた海外に行くみたいで無理、ルーナさんは、男子禁制旅行だとリヒトが一緒に行けないのでご遠慮しますって。相変わらず、ラブラブみたいで。」
「そうか。じゃあ、気楽なメンバーだけなんだな。」
「そう。」
「南の島に、トラウマもないしな。」
「ええ。ドクターのヤツが、しぶとく復活してくれたおかげでね。……でも、さすがね。」
「何が?」
「あたしたぶん、あのままだったら、しばらくは沖縄とか奄美とか、行けなかったと思うから。」
「……。」
「まだ、あの日蝕から二週間くらいしか経ってないんだよね。」
「そうだな。いろいろあったけどな。」
「お父様、けっこう今回、無理したと思うんだ。」
「何か、聞いてるのか?」
「ううん。だから、大変なんだろうなって。」
「何だか、ちゃんと親子してるんだな。」
「今はほら、はるみさんがこっそりいろいろ教えてくれるしね。」
「おっさんコメントするけどいいか?」
「へ?いいけど。」
「できる範囲で親孝行しとけよ。」
「あ、……うん。分かった。」
ケイの父親は、ケイが中学に上がる頃にはもう、他界していた。幼かったひなには、当時の事情はほとんど分からないが、そのことだけは知っていた。
「まあでも、あたしは国粋主義者にはならないと思うけど。」
「親と同じことするのが親孝行ってわけでもねえだろ?」
「それもそうね。……ちょっと悩んでたけど、ありがと。」
「ま、親孝行だなんて、高校も卒業してない娘さんとこんなことになってるオレが言えるせりふじゃあなかったな。」
「……バカ。」
そしてまた、キス。
数分後、相馬ひなは、はるみさんとの待ち合わせ場所にいた。
時間通りに、黒のFDが迎えに来る。
いつも通り、助手席に収まる。
少しだけ、運転席の青木はるみの眉根が寄る。
「……お嬢様、どうせなら髪も洗われた方が……。制服も、帰ったらファブリーズ、いえ、クリーニングですわね。」
「あちゃーやっぱりたばこ臭い?髪はちょっと今日時間厳しくてっていうかはるみさん何で赤面してるのよー!」
「……いえ、ほんとうに男の部屋にいらしたんだなと思いまして。」
「……もう!」
「ああ、あたしのお嬢様が、どんどん女になっていかれる……」
「やめてー!っていうかその面倒そうではた迷惑な感情をドライビングにぶつけないで~!」
「C1一周、お付き合いいただきますわ!」
「だめだってこの時間混んでるし人の目が多すぎるでしょ?」
「では、湾岸線へ――」
「首都高なんてどこも混んでるってダメだってええええっていうかまだここ一般道おおおおおお――」
品川での負傷以来活動を休止していた教誨師は、この夏、そのパートナーを替えて復活した。
思いを込めた、刀を振るった。
友のために、銃を握った。
少しずつ、だが確実に不穏な時代へと滑り落ちていくこの世界を、教誨師はもう一度、歩き始めた。
護るべきときに、護るべき誰かを護るために。
「そうそう、先ほど、時田さんから依頼がありましたわ。」
「了解。それじゃ打ち合わせよろしくね、後見人さん。」
「はい、教誨師様。」
相馬邸(ヒロインのお屋敷)での事件の後の、束の間の休息。第二部、まだ終わりません。