第一話 リハビリテーション
第一部同様、残酷な描写や性的な描写に関しては、あんまり激しいものはありません。ただ、全くないわけでもありませんので、R-15とさせていただきます。ご了承ください。第二部の分量は、文庫本換算で397ページ、全一五話の構成となっています。
品川事件から一ヶ月以上が過ぎた、四月下旬。
相馬ひなの新学期は、半月ほど遅れて始まった。
左肩のリハビリテーションはある程度進んではいたが、教室では同じ姿勢で長時間いなければならないため、筋力の落ちた左腕を特注のプロテクターで補助した状態で、ひなは登校することになった。屋敷最寄りの駅までではなく、桜ヶ丘の正門まで直接、森田のインプレッサで送ってもらった。森田が相馬の家の執事を辞めるまであとわずか、ひなにとっては貴重な、二人だけの時間でもあったが、それよりも今日は、新しいクラスにうまくとけ込めるかということの方が、気にかかっていた。
銃で撃たれた女、それだけで、クラスメイトの興味を惹くはずだった。その上、年度の切り替わりでクラスの顔ぶれも違っている。新学期早々ずっと欠席しており、制服の上から目立つプロテクターも装着している。そうした諸々が招き寄せる厭わしい事態を一応覚悟した上で教室に入ると、待っていたのは、軽い無視に近い状況だった。他人行儀な挨拶は返ってくるが、誰も自分からは、ひなに話しかけてこようとしない。昨年同じクラスだった者でさえ、だ。自分の席が分からないので教えてもらおうとしても、必要最小限の会話しか続かない。
(あれ、何だこの空気……。銃で撃たれたってだけで、仲間外れ扱い?そんな悪いコとは口きいちゃいけないってことになったのかしら。それとも何か、別の要因が?まあ、いいけど。昔から、学校じゃ一人だもんね。)
桜ヶ丘の一学年は、高等部で四クラス、中等部では三クラスだ。高校に上がるときに一クラス分増えるだけで、他の高校に出て行く者もあまりいない。生徒数的には小規模の部類でもあり、生徒間の関係は、それなりに濃い。ひなのように特段所属するグループを持たない者もいたが、それはその生徒が孤立し孤独であるということを意味しない。単にグループに属していないというだけの話だ。
しかしそれが、どうもこのわずかな期間で変わってしまったらしい。今さら凹むような精神構造ではないが、ちょっと淋しい気もした。入院中何度か見舞ってくれた吉田紗幸は、今年は別のクラスになっていた。きっと昼休みには向こうからやってくるだろうが、それまでの時間が少し、憂鬱だった。
やがて、朝のホームルームの時間になった。担任は一昨日、父親とともに呼び出された際に会っているが、四○歳くらいの女性教員で、湯本理彩という数学の教師だ。去年までも数学の授業を受けたことはあったが、担任されるのは初めてだった。面談の折、「ともかく偶然とは言え、校則を破った結果大きな事件に巻き込まれたのですから、しばらくは大人しくお過ごしなさい」と言い放たれている。表向きは一応、ひなも被害者のはずなのに、小さな校則破りくらいで自己責任を問うてくるような、対応に余裕のない感じが、伝わってきた。
それを思い出して、そうか、とひなは納得した。住んでいる世界が違うのだということを、思い出した。治安が徐々に綻んできている今の日本ではあるけれど、彼女たちの人生の可能性の中に、銃で撃たれるという選択肢は未だなかった。そのあり得ない世界の向こう側へ転落してしまった者に対して、どう接していいか分からない、というのが正直なところなのだろう。担任の教師も他の生徒たちも、おそらくそれは変わらなかった。
「相馬さん?」
事務的な連絡が終わった辺りで、担任が声をかけてきた。
「はい。」
「今年度最初の登校ですし、皆さんにご挨拶と自己紹介をお願いします。」
憂鬱を晴らすためのチャンスは、向こうからやってきた。クラス全員の視線を感じながら立ち上がる。
「前へ出てよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
(うわ、すごい見られてるなあ。そんなに気になるなら、何でも訊いてくれればいいのに。)
そんなことを思いながら、教室の一番前まで出て、振り返る。クラス全員を見渡す。
「相馬ひなです。皆さんご存じだと思いますが、先月、ある事件に巻き込まれ、怪我をしてしまいました。家の者と一緒ではありましたが、軽率な行動だったと、反省しています。事件のときは、負傷後すぐ意識を失ってしまったようで、ほとんど覚えていないのですが、事件の鎮圧に当たられていた警察の方々にはそれほどご迷惑もかけず、家の者が対処して病院に搬送されたとのことで、その点はよかったと思っています。先週始めに退院し、今は週二回、病院にリハビリに通っています。場合によっては、あと数ヶ月はリハビリが必要だそうですし、怪我の痕もまだけっこうすごいのですが……、でも、今は、こうして、ちょっと目立っちゃう格好ですけれど、桜ヶ丘に帰ってくることができて、……」
それまで顔を上げて話していた相馬ひなの言葉が、途切れてしまった。教卓の横で、心細げとしか言いようのない様子で、俯いてしまっている。誰も、そんな相馬ひなは知らないはずだ。学校では見せたことがない表情のはずだから……。
そしてひなは、覚悟を決めたように足元を一度じっと見つめてから、クラスの生徒たちに向かって顔を上げ、笑顔を見せた。その笑顔の中で、涙が光り、つと頬を伝う。
「みんなと一緒の教室にいられるようになって、ほんと、うれしいです。……」
クラス中が、相馬ひなの一挙手一投足に注目させられていた。
「あたしも、あの事件が何だったのか、なぜ自分が、こんなことになってしまったのか、まだよく分からないのですが……。でも、できれば、みんなには、交通事故にあって、入院していた友達が退院して、久し振りに学校に来た、くらいの感じで、また、前と同じように、接していただければと、思います……」
自由に動かせる右手でハンカチを持ち、何度か目頭を押さえながら、それだけのことを言った。
「少し、出遅れてしまったけど、高校最後の一年間、よろしくお願いいたします。」
最後にそう言って、ハンカチで目の辺りを押さえたままお辞儀をして、自分の席に戻った。
クラスは、しんとしていた。
(しまった、やりすぎたかな?)
そう思って辺りを見回したら、誰からか、拍手が起こった。それがあっと言う間に、クラス全員の拍手になった。慌てて担任の方を見ると、その担任までが涙ぐんでいた。涙ぐんだまま、うんうんとうなずいている。
(あちゃー、やりすぎた、わね。これは……)
自分の席でもう一度立ち上がり、クラスに向かって、また、お辞儀をした。去年のクラスメイトの中には、泣いてくれているコもいた。そんなことを観察していたら、不思議と自然に、演技ではない涙が出てきた。
(あはは、自分まで泣いちゃった。あはは。あたし、うれしいみたいだ。ふふふ。)
ぐしぐしとハンカチで鼻を押さえながら、こっそりちょっとにやにやしてしまった。
こうして、相馬ひなの学校への復帰は、一応順調に進行した。後でクラスメイトが教えてくれたところによると、先週、担任の湯本が、相馬ひなが来週から登校するが、事件のことや怪我のことをあれこれ訊かないように、当人は一応大丈夫そうで、週末には面談の予定もあるが、それでもPTSD等の後遺症があると大変だから、と言い渡していたという。それで、話したくても話しかけられないような空気になっちゃって、どうしようと思ってた、ということだった。それが、ひなの方から話してくれたから、みんな状況が理解できたし、ほっとしたんだと思うよ、そんなことも、一緒に教えてくれた。
(そっか……。みんなに、心配かけちゃってたんだね。ごめん。)
桜ヶ丘は、思ってたよりもいいところなんだな、と、ひなは思った。ここで教鞭を執ったドクターのことや、九条由佳のことを、ちらと思い出したりもした。
その日のお迎えははるみさんだった。家の車ではなく、はるみさんの愛機RX7(FD3S)がロータリーエンジン特有の排気音を響かせて桜ヶ丘の正門前に乗り付けられたときには、その付近に居合わせた生徒たちの間に一瞬緊張した空気が流れた。だが運転席から現れたのが、メイド風のおっとりした印象の女性だったため、一瞬で辺りはなごやかな空気になった。
「お嬢様、申し訳ありません、はるみの車でお出迎えになってしまいました。」
「うちの車どうしたの?」
ひなは、左手がまだ自由には使えない。座面の低い助手席に、少しぎこちない動作で収まる。
「一台はたまたま車検、もう一台は旦那様がご使用になっていました。森田も今日は出かけておりますので。」
「ああ、そうね、今日はセンターへ行く日だったわね。」
「はい。」
「あたし別に7も好きだから気にしなくていいわよ。ただ、正門横付けは少し問題かも。体育の先生とかスクランブルモードになっちゃうかも。」
「それは……?」
「大事な生徒を誘惑する不良少年と勘違いされて、屈強な体育教師数名に囲まれるかも、ってことよ。」
「うわ、それは厳しいですわね。承知いたしました。以後気をつけます。」
「ふふふ。まあそれも、おもしろそうだけどね?はるみさんなら、闘えるでしょ?」
「でもそんなことになったら、また旦那様が呼び出されてしまいます。」
「あはは。それはかわいそう。新しい担任の湯本先生も容赦ないしねえ。ってあれ、今日はこっちから帰るの?」
ふだん学校まで迎えに来てもらった際の帰宅ルートから外れ、首都高に乗るルートにFD3Sは進んでいた。
「あ、お嬢様、ご説明が遅れてしまい申し訳ありません。今日、実は秩父から呼び出しがございまして。特にお嬢様にご予定がなければ、このまま秩父にお連れしたいのですが、よろしいでしょうか。片道せいぜい二時間、ご就寝のお時間がずれるようなことはございません。もちろん、肩のお加減がよろしくなければ、今日は見送りということでもかまいませんが。」
「かまわないけど。リハビリは明日だしね。自主リハビリは寝る前でもできるし。」
「ありがとうございます。何でも、大叔母様がお渡しになりたいものがあるとかで。」
「なんだろう、大叔母様のすることって、こっち側からは全然予測とかできないからね。」
「はい。」
相馬ひなの回復ペースは、通常の症例の一・五倍~二倍くらいだと、担当医には言われている。それはもちろん、負傷直後、そしてその後も数日おきに水原のケアが受けられたためだ。負傷後のケアについては、公安課長が取りはからってくれたものらしい。それ以外にも、入院を延長し、下肢の加圧トレーニングや酸素カプセル等でのケアを集中して行うことで、負傷した部分の回復と全身の身体機能の維持に努めることも怠らなかった。その結果、思わず担当医が呆れて笑ってしまうくらいの回復ペースが保たれていた。
だがそれでも、重症は重症だった。肋骨が三本折れ、肩胛骨も弾丸を受け止めた部分を中心に骨折していた。新しい骨組織が成長し、骨折自体は完治に近い状態になりつつあったが、銃弾自体やそのエネルギーを受けた筋肉や皮膚の組織も潰されており、まだ被弾した中央部は少し窪んだような状態になっている。
左腕自体のリハビリも、本格的なメニューは始まったばかりだ。肩の可動範囲が狭まり、無理して動かせばごりごりとした音が体内で響くこともある。プロテクターはすでに、常に装着していなければいけないわけではなくなっているが、何より筋力の低下が、ひなの日常生活に影響を与えていた。
「授業中同じ姿勢っていうのが心配だったけど、何とか大丈夫だったわ。それより今朝は大変だったのよ……。」
そう言って、ひなが朝のホームルームでの顛末を語って聞かせると、はるみさんはうれしそうに頷いた。そして、
「お嬢様の嘘泣き、わたくしも拝見したかったですわ。」
そう言って、笑った。
「最後は結局マジ泣きしちゃったんだから、嘘泣きはチャラってことで。」
「ああ、そう言えば、お友達の委員長さんは、今年は?」
「別のクラスになったわよ。でも昼休みにはきっちり襲撃されたけど。」
「そうでございますか。」
「でも今日は次から次から元クラスメイトが巡礼してくれて、あまり話せなくて不満そうだったわ。」
「それじゃお嬢様、だいぶお疲れではありませんか?」
「そうね、まだ初日だからねぇ。少し寝てっていい?」
「もちろんです。」
「あと、できれば同じ姿勢がしばらく続いたら起こしてくれる?ときどき姿勢変えないとまずそうだから。」
「承知しました。」
「ごめんね、ORBISチェックとかできないけど。」
「いえいえ、はるみはどこかの黒い執事とは違って安全運転ですから。」
そう言いつつ、ものすごい勢いでFD3Sの黒い機体が午後の首都高をスラロームし始めているのは、お互いに言いっこなしのようだ。あくまで滑らかな挙動で、助手席慣れしているひなには心地よいくらいだったが。
(いつか、うちの関係者だけでレーシングチームが作れそうね。)
そう思いながら、ひらひらとシフトレバーを操るはるみさんの左手を横目で見つつ、ひなは仮眠の体勢に入った。
(うわ、なんだかエロいな、はるみさんの左手。比べて森田の左手は、実直、よ、ね……。ていうかあたし、なんでエロいとか考えてんの?)
そんな、ろくでもないことで一人困惑しながら、すぐに眠りに落ちた。
第一部の最終話から少しだけ時間をさかのぼって第二部が始まりました。第二部もなるべく早くアップしていきたいと思います。