なんて馬鹿なんだろう
彼の顔に触れながら、私は「なんて馬鹿なんだろう」と涙を流した。
彼と初めて会ったのは、私がクラスメイトたちに足蹴にされている時だった。
教室の片隅で先生がいない休み時間だった。
「やめろ!」
彼はそう言いながら教室に入った。他クラスだと言うのに構いもせずに。
「は、なに?」
私を足蹴にしていた安城さんが彼を睨む。
それに続いて、二人の女子と、三人の男子が彼を睨んだ。
「それをやめろって言ってんだ」
彼の言葉は力強かった。
それでいて、優しさに溢れていた。言葉を「それ」という曖昧な表現にしたのは、私への気遣いだ。何をされているか具体的な言葉にすると、私の心がさらに傷つくと思ったから、といつの日か聞き出した。
「なんなの? お前こいつのこと好きなの?」
男子の一人がへらっと笑う。
「そんなの関係ないだろ。お前らのやってることは許されることじゃない」
「うるせーな。部外者は黙ってろよ。お前もそう思うよなあ?」
視線を向けられて、私はビクリと肩を震わせる。
即座にこの場における最適解を導き出した私は、頭をブンブンと縦に振る人形へと変身した。
「ほら、本人もこう言ってるぜ」
そう言って、男子の一人が彼の方を振り返ると、男子は吹き飛んだ。
彼が殴ったのだ。
「何すんだテメエ!」
「言ってわかんねえなら、こうするしかない」
「ふざけんな!」
「生意気なやつめ!」
三人の男子がいっせいに彼に襲いかかった。
彼は必死に抗戦していたが、勝てる訳もなく、一分後には床に伏せっていた。
そんな彼を見て、私は「なんて馬鹿なんだろう」と笑みをこぼした。
それから私は身なりを整えた。
容姿を理由に存在を疎まれていた私は、だんだんと受け入れられていった。
身体にまとわりついていた脂肪は、死にものぐるいでこなした運動で減らした。運動によって筋肉も鍛えられた。
髪や肌のケアの方法を学んだ。
動画を見て、いくつもの化粧品を購入した。
髪は細やかになり、美しい絹のようになった。肌からはそばかすが消え、シミひとつなくなった。
結果、廊下を歩けば男子の誰かが振り向くまでになった。
そんな私が彼に近づくと、彼は嬉しそうに笑った。
「あの時勇気を出してよかったよ」
「可愛い彼女ができたから?」
「違うよ。君が前を向いてくれたからだ」
拗ねたように彼が言うので、私は「なんて馬鹿なんだろう」と暖かい気持ちを胸に抱いた。
私が彼のことを叩いたのは、夜のことだった。
二人きりで私たちは彼の部屋にいた。
学校帰りで、映画を観るために彼の部屋に集まったのだ。
私の親も、彼の親も承諾済みだ。彼の母親の作った晩ご飯を頂いて、順番にお風呂に入って、映画を観る。
そうして二人きりの時間を過ごしていると、彼が私の手に触れたのだ。
私は彼を受け入れた。手に平に触れて、指を絡めあった。
映画が終わるまで、その手は離さなかった。
「おもしろい映画だったね」
私がつぶやいた。
「うん。でも、主人公の選択には賛同できない。敵に勝つにはそれしかないとしても、悪いことをするのは許されない」
私は思わず「ふふ」と笑ってしまった。
「なんで笑うのさ」
「違うの。なんかそういうの、あなたらしいなって」
我慢できずに、私がクスクスと笑うと、彼も「なんだよそれ」と言いながら笑ってくれた。
ひとしきり笑い合うと、ふと目が合った。
私は次の出来事を予感して、目を瞑った。
そして、彼の唇が私の唇を犯した。
記憶が蘇る。
彼と過ごすことで、上書きされたと思っていた記憶だ。口の中に異物を入れられたのは一度や二度じゃない。
稲妻のように蘇った記憶は、感情を呼び起こし、私は彼を突き飛ばした。
「ご、ごめん。俺……」
俯く彼の顔を、私は見ることができなかった。
違う。あなたのことを拒絶したわけじゃない。
そんなことを言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。
私は彼の部屋から出ていった。逃げ出した。
その結果、正義感の強い彼がどうするか想像もしないまま、私は逃げ出したのだ。
それからしばらく、私たちはお互いに距離をとった。私はいつでも話をしたかったけど、彼の方はどうだったのだろう。
目が合うと、逸らしてしまうし、近づけば離れる。
そんな微妙な距離感を保ったまま一ヶ月くらいが経って、彼は自ら命を絶った。
そう聞いた時、私は耳を疑った。何かの聞き間違いだと思いたかった。
これは私の想像でしかないけれど、彼は耐えられなかったのだと思う。
理想の自分と、現実の自分の乖離に。
清く正しく、正義を信じ悪を憎む。
それが彼の指針であり、生きる理由であった。
でも、人間はそんなに単純じゃないし完璧でもない。
だから私はたくさんの花が添えられた箱の中にいる彼の顔を触れながら思ったのだ。
ああ、なんて馬鹿なんだろう。
それから十年が経った。
私は正しさに溺れて死んでしまった彼とは、また別の彼とベッドで寄り添っている。
気持ちよさそうに眠っている彼の頬を撫でて私は涙を流すのだ。
なんて馬鹿なんだろう、と。
みなさん元気ですか。
私は元気です。




