魔法使いの残骸
一章 竹箒の記憶
子どもの頃、自分には特別な力があると本気で信じていた。
それは単なる子どもの空想ではなく、確信に近いものだった。朝起きて鏡を見るたび、「今日こそ何かが目覚めるかもしれない」と期待に胸を膨らませていた。魔法みたいな力が使えるのだと思っていた。いや、思っていたというより、使えるはずだと信じて疑わなかった。
小学三年生の夏休み、私は祖母の家の物置で古い竹箒を見つけた。柄の部分は年月を経て深い飴色に変わり、穂先は使い古されて不揃いだった。その瞬間、電流が走ったような感覚があった。これだ、と思った。これこそが私を空へと導く道具なのだと。
竹箒で空を飛ぶ練習をした。
最初は庭で始めた。箒にまたがり、助走をつけて走る。何度も何度も繰り返した。膝を擦りむき、手のひらに豆ができても諦めなかった。
母に「何やってるの」と呆れられても、「練習中」と答えるだけだった。
やがて練習場所は裏山へと移った。高い場所から飛び降りれば、箒が浮力を得るのではないかと考えたのだ。切り株の上に立ち、箒にまたがって飛び降りた。当然、地面に激突した。それでも懲りずに、今度はもっと高い岩の上から試した。
擦り傷と打撲だらけになった私を見て、父は「もういい加減にしろ」と怒鳴った。でも私は止めなかった。ただ、練習を人目につかない早朝に変更しただけだった。
夏休みが終わる頃、ようやく諦めた。箒は物置に戻され、私の魔法使いとしての挑戦は幕を閉じた。
今思えば馬鹿だったなあ、と思う。
だが当時は本気だったのだ。本気で空を飛べると信じていた。本気で世界には見えない法則があって、それを解き明かせば奇跡が起きると思っていた。
あの頃の私は、まだ世界が無限の可能性に満ちていると信じられた。失敗しても、明日があると思えた。
二章 魔法のない世界
魔法。
そんなものがあれば苦労しない。
三十八歳の私は、狭いワンルームマンションのベッドに腰掛けて、小さく溜息を吐いた。
窓の外では、梅雨の長雨が降り続いている。灰色の空を見上げながら、昨日の出来事を反芻する。
「今期で契約満了ということで、退職していただきます」
そう、人事部から言われたのは、つい昨日のことだ。
人事部長の小林という男は、申し訳なさそうな表情を浮かべてはいたが、その目には何の感情も宿っていなかった。彼にとって私は、ただの処理すべき案件の一つでしかないのだろう。
「業績不振によるコスト削減で、契約社員の方々には順次ご退職いただくことになりまして」
順次。その言葉が妙に引っかかった。つまり私は、切られるべきリストの中の一人だったのだ。五年間、真面目に働いてきたつもりだった。遅刻もほとんどせず、与えられた仕事はきちんとこなしてきた。でも、それだけでは足りなかったらしい。
これからどうしよう。
不安が胸の中を去来する。波のように押し寄せては引いていく、重たい不安。
転職は初めてではない。
これまで何度も転職してきた。数えてみれば、これで七社目になる。新卒で入った会社は三年で倒産した。次の会社ではパワハラに耐えきれず一年で退職した。その後も、リストラ、契約終了、人間関係のもつれ。理由は様々だったが、結果は同じだった。私はまた、職を失った。
だが、転職活動というものは、思った以上に体力も気力も消耗する。
履歴書を書く。職務経歴書を整える。求人サイトを漁り、応募する。書類選考を待つ。面接の日程調整をする。面接に行く。祈られる。また応募する。このサイクルを何度繰り返せばいいのか。
三十代後半の、特筆すべきスキルもない契約社員。企業が欲しがる人材ではないことくらい、自分でもわかっている。
三章 見えない重荷
その上、のしかかってくる市県民税、社会保険料、国民年金。
給与天引きだったものが、会社を辞めた途端に自分で支払うものになる。しかも高額。
昨夜、インターネットで調べてみて愕然とした。市県民税だけで年間十数万円。国民健康保険は、前年度の収入をもとに計算されるから、さらに高額になる。働いていた時の収入で計算された保険料を、無職の状態で支払わなければならない。この理不尽な仕組みに、怒りすら覚えた。
国民年金は支払免除申請ができるが、他はそうはいかない。
減免制度があることは知っている。でも、減免されたとしても、ゼロにはならない。毎月、容赦なく請求書が届く。支払いが滞れば、延滞金が加算される。そして最終的には差し押さえ。
多少貯金はある。
通帳を開いて確認する。残高は百二十万円ほど。五年間、必死に貯めた金額だ。飲み会は断り、趣味も諦め、旅行にも行かず、ただ黙々と貯金してきた。いつか来るかもしれない「もしもの時」のために。
その「もしもの時」が、今、来てしまった。
それを切り崩せば何とかなるだろう。
計算してみる。家賃が月六万円。光熱費と通信費で二万円。食費を切り詰めて三万円。税金と保険料で月平均四万円。合計で月十五万円。百二十万円あれば、八ヶ月は持つ計算になる。
八ヶ月。その間に次の仕事を見つければいい。
でも、もし見つからなかったら? もし見つかっても、また契約社員で、またいつか切られたら? そう考えると、底なし沼に引きずり込まれるような恐怖を感じる。
だが、世の中、貯金のない人間もいる。
そういう人たちはどうするのだろう。そんなことを考える。
テレビのニュースで見た。生活保護の申請をしても、なかなか受理されない人たちがいる。「まだ働けるでしょう」と門前払いされる。親族に連絡が行くのが嫌で、申請を諦める人もいる。
路上生活者の数は、公式統計より遥かに多いという。ネットカフェや二十四時間営業のファミレスで夜を明かす人たち。彼らの多くは、かつては普通に働いていた人たちだ。
私と彼らの間に、どれほどの違いがあるのだろう。
四章 雨の中の独白
窓の外で、雨が強くなった。雨粒が窓ガラスを叩く音が、部屋に響く。
私はベッドから立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出した。プルタブを開ける音が、やけに大きく感じられる。一口飲む。苦味が喉を通り抜ける。
魔法。
魔法が使えたら。
もし本当に魔法が使えたなら、私は何をするだろう。
お金を出す魔法? いや、それは浅はかだ。お金があっても幸せとは限らない。
病気を治す魔法? それもいい。でも、病気だけが人の不幸ではない。
時間を戻す魔法? 子どもの頃に戻って、もっと勉強すればよかったと思う。でも、戻ったところで、同じ失敗を繰り返すかもしれない。
私は全ての人間が自分なりの幸せを見つけて生きていけるように祈るだろう。
そう、祈るのだ。
魔法で幸せを与えるのではなく、幸せを見つける力を与える。それが本当の魔法なのかもしれない。
でも、そんな魔法はない。
あるのは、この現実だけだ。
雨の音を聞きながら、私は竹箒で空を飛ぼうとしていた子どもの頃の自分を思い出す。あの頃の私は、今の私を見てどう思うだろう。
「諦めたの?」と聞くかもしれない。
「魔法はなかったよ」と答えるだろう。
「じゃあ、どうするの?」
「わからない。でも、生きていくしかない」
ビールを飲み干し、私は求人サイトを開いた。魔法はない。でも、明日はある。それだけを信じて、私はまた歩き出すしかないのだ。
窓の外で、雨は降り続けていた。




