9.深淵からの呼び声
連絡橋を駆け抜ける俺たちの目の前で、事態は最悪の形で進行していた。
開放されたゲートの奥から噴出した黒い霧――『高濃度魔毒ガス』は、生きた蛇のようにうねりながら、エレオノーラの護衛兵たちに襲いかかった。
「な、なんだこれは!? ぐあっ!?」
先頭にいた兵士が悲鳴を上げる。 霧に触れた右腕が、一瞬で灰白色に変色した。 石化だ。それも、俺が患っているような緩やかな進行ではない。数秒で細胞をガラス質に置換する、即死級の猛毒。
「下がるんだ! それに触れるな!」
俺は走りながら叫んだ。 兵士は腕を切り落とそうとナイフを抜いたが、遅かった。石化は瞬く間に全身へ広がり、彼は恐怖の表情を浮かべた彫像となって、その場に崩れ落ちた。 ガシャン、と陶器が割れるような音がして、兵士だったものが破片になって散らばる。
「嘘……データには、ここは『再生槽』だと……」
エレオノーラが、青ざめた顔で後ずさる。 彼女の手元にある解析端末は、真っ赤なエラーメッセージを吐き出し続けている。
「そのデータは正しいさ! ただし、数千年前のな!」
俺は彼女の腕を乱暴に掴み、強引に後ろへ引き倒した。 直後、彼女が立っていた場所を黒い霧が薙ぎ払う。
「アラストル……!? どうして貴方が……」
「挨拶は後だ。……見ろ、お前が開けたパンドラの箱の中身を」
俺が指差したゲートの奥。 そこには、光り輝く古代の遺産などなかった。 壁一面にこびりついた、ヘドロのような黒い結晶。そして、そこから滴り落ちる粘液が集まり、不定形の怪物となって這い出してくる。
『■■■■……!』
声にならない怨嗟のようなノイズ。 それは、数千年分の『星の排泄物』だった。 大気を浄化する過程でフィルターに蓄積された、汚染物質の凝縮体。 エレオノーラは、浄化装置の「ゴミ捨て場」を開けてしまったのだ。
「曹長! 焼夷手榴弾だ! 奴らを燃やせ!」
「お、おう! 食らえ!」
ガラードが腰から手榴弾を抜き、怪物へ投げつける。 爆炎が上がる。 だが、黒い粘液は燃えるどころか、炎を飲み込んでさらに膨張した。
「馬鹿な……熱エネルギーを吸収しているのか?」
「魔毒は魔石の燃えカスだ。つまり、熱や魔力に対して極めて親和性が高い。……魔法も爆薬も逆効果だ!」
俺は瞬時に理解した。 これは、現代の兵器では殺せない。 エネルギーを与えれば与えるほど、活性化して増殖する。
「じゃあどうすりゃいいんだ! 鉛玉も効かねえぞ!」
ヴァルカがライフルを撃ち込むが、弾丸は粘液を素通りし、床に虚しい火花を散らすだけだ。
怪物が腕のような触手を伸ばす。 その速度は遅いが、触れれば即死。しかも通路を塞ぐように広がっていく。 このままでは、連絡橋の上で袋の鼠だ。
「……計算しろ。解はあるはずだ」
俺は過呼吸になりそうな肺を抑えつけ、周囲を見回した。 ここは浄化施設。ならば、必ず「排出」のメカニズムがあるはずだ。
俺の視線が、天井に張り巡らされたパイプと、床下のグレーチングに向く。 風の流れ。 ゲートから吹き出した霧は、床下へと吸い込まれていない。空調が停止しているからだ。
「エレオノーラ! その端末で、このエリアの『緊急換気シークエンス』にアクセスできるか!?」
俺は腰を抜かしている元婚約者の胸ぐらを掴み、怒鳴った。
「え、ええ……セキュリティは突破しているわ。でも、換気なんてしたら、この毒ガスが外に……」
「違う! 『逆噴射』だ! 吸気ではなく、排気ダクトへの加圧パージを行え!」
俺の意図を察したのか、彼女の瞳に理知的な光が戻る。
「……そうか、気圧差で押し戻すのね! やってみる!」
彼女は震える指で端末を操作し始めた。
「曹長、ヴァルカ! 30秒だ! 奴を足止めしろ!」
「無茶苦茶言いやがる!」
ガラードは悪態をつきながらも、照明弾を連続で投擲し、怪物の視界を撹乱する。 ヴァルカはライフルのストックを肩に当て、今度は怪物の「足元」の床材を狙って撃ち抜いた。 床が崩れ、怪物のバランスが崩れる。
『接続……換気ファン、強制起動! 最大出力!』
エレオノーラが叫ぶと同時に、遺跡全体が重低音と共に振動した。
ゴオオオオオオッ!!
天井と床下の巨大ファンが回転を始め、猛烈な暴風が発生する。 それは俺たちがいる連絡橋から、ゲートの奥へと向かう一方的な気流だ。
『■■■……!?』
ガス状の身体を持つ怪物は、物理的な風には逆らえない。 凄まじい吸引力によって、黒い身体がちぎれ飛び、ゲートの奥へと吸い込まれていく。
「今だ! ゲート閉鎖!」
「閉じるわ!」
エレオノーラがエンターキーを叩く。 重厚な扉が、断末魔を上げる怪物を押し潰すようにして閉ざされた。
ドォォォン……!
扉が完全に閉まり、ロックがかかる。 嵐のような風が止み、再び不気味な静寂が戻ってきた。
俺たちは全員、その場にへたり込んだ。
「……ハハッ、とんだお宝だぜ。開けたら死神が出てきやがった」
ガラードが乾いた笑いを漏らす。
俺は肩で息をしながら、エレオノーラの方を向いた。 彼女はまだ、信じられないものを見たという顔で、閉ざされたゲートを見つめている。
「……どういうことなの、アラストル。ここのデータには『無限のエネルギー炉』があると……」
「半分は正解だ」
俺は杖をついて立ち上がり、彼女の前に立った。
「神代の文明は、確かに無限のエネルギーを持っていた。だが、それは『星の寿命』を前借りするシステムだったんだ。……お前が見たのは、そのツケだよ」
俺は懐中時計を取り出し、彼女に見せた。 中に入っている黒い石。
「魔石文明の行き着く先は、あの中と同じだ。……世界中が排泄物で満たされ、石になって死ぬ」
エレオノーラは唇を噛み締め、俺を睨み返した。 だが、そこにかつてのような余裕はない。
「……でも、まだ奥があるはずよ。この施設の中枢なら、毒を浄化する方法だって……」
「それを探しに来たんだ。……だが、俺たちだけじゃ手が足りない」
俺は右手を差し出した。 握手のためではない。共闘の提案だ。
「カロン重工の兵隊は全滅した。俺たちも弾薬が尽きかけている。……ここから生きて出るには、お前の『解析能力』と、俺の『計算』を合わせるしかない」
かつて、理想を語り合った二人の才能。 それが今、絶望的な状況下で再び交差する。
エレオノーラは少し迷った後、泥で汚れた俺の手を、強く握り返した。 その手は冷たかったが、確かな意志が宿っていた。
「……勘違いしないでよ。これは一時的な休戦よ。私の理論が間違っていないことを証明するために、貴方を利用するだけ」
「ああ、分かっている。……利害の一致だ」
俺たちは奇妙な混成チームとなった。 魔法嫌いの参謀、声なき狙撃手、野蛮な曹長、そして理想に燃える亡命科学者。
目指すは、この縦穴の最深部。 『星の墓場』の底へ。
「行くぞ。……深淵が呼んでいる」
俺の言葉に応えるように、遺跡の奥底から、低い駆動音が響き渡った。




