3.亡霊の設計図
夜が来た。 雨は小降りになったが、泥炭地特有の湿気が、カビの臭いと共に塹壕へ沈殿している。
兵士たちは、泥水に浸かりながらも、どこか安堵した表情で缶詰を開けていた。 今日一日、誰も死ななかった。この最前線において、それは奇跡に近い出来事だ。
「少佐、アンタも食いな。泥の味がするシチューだ」
ガラード曹長が、配給の缶詰を放り投げてきた。 俺はそれを受け取り、礼も言わずに懐へしまう。食欲はない。胃の中に鉛が詰まっているような不快感が消えないからだ。
俺は塹壕の隅に座り込み、懐中時計を取り出した。 蓋を開ける。そこに入っているのは、時計の針ではない。 黒くガラス化した、いびつな小石だ。
かつて「アッシュ・バレー」と呼ばれた森の、成れの果て。 俺が焼き尽くした土地の破片。
「……計算が、合わないな」
独り言が漏れる。 今日の戦闘で、敵の重魔導甲冑を撃破した。敵は警戒して下がったはずだ。 だが、俺の脳内にある「戦術予報」のアラームが鳴り止まない。敵の撤退があまりにも早すぎた。まるで、旧式の機体が壊されることを織り込み済みで、次の手を準備していたかのような……。
「……」
衣擦れの音がして、ヴァルカが隣に座り込んだ。 彼女は自分のシチューを半分だけ食べ、残りを俺の前に無言で差し出した。 「食べないと死ぬ」という、彼女なりの抗議だ。
「分かったよ。……食べる」
俺がスプーンを口に運ぼうとした、その時だった。
キィィィィィン……
空気を引き裂くような、甲高い金属音が遠くから響いてきた。 重低音の排気音ではない。もっと鋭く、もっと洗練された、高速回転するタービンの音。
俺の手からスプーンが落ち、泥の中に沈んだ。
「総員、配置につけ! 来るぞ!」
俺は叫びながら、双眼鏡を掴んで土嚢の上に身を乗り出した。
夜明け前の薄暗い霧を切り裂いて、それは現れた。
いつもの無骨な鉄塊ではない。 滑らかな流線型の装甲を持つ、純白の機体。 背負っているのはボイラーではなく、青白く発光する複数のフィンを持った新型の推進機関。
重力を無視するかのように、泥沼の上を滑るようにホバー移動している。
「なんだ、あれは……浮いてやがるのか?」
ガラード曹長が呆然と呟く。
俺は息を呑んだ。 知っている。あの機関の構造を。あの蒼い光の波長を。 あれは、かつて俺が士官学校の実験室で、黒板に書き殴った数式そのものだ。
『魔素圧縮燃焼理論』。 排気ガス(魔毒)として捨てられていたエネルギーを再循環させ、完全燃焼させることで出力を倍増させる技術。 平和利用のために書いたはずの設計図。
「……通信を傍受しろ! 周波数、合わせろ!」
俺は通信兵からヘッドセットをひったくった。 ノイズ混じりの音声が、耳元に飛び込んでくる。
『――テスト開始。燃焼効率、98%。魔毒排出値、理論通りゼロ』
その声を聞いた瞬間、心臓が凍りついた。 理知的で、どこか楽しげなアルトボイス。 忘れるはずがない。俺の隣で、いつもその数式の美しさを語っていた女の声だ。
「……エレオノーラ……」
『あら? この泥沼、思ったより深いのね。旧式が足を取られるわけだわ』
彼女の声は、まるで散歩でもしているかのように軽やかだった。
『でも、私の『ホワイト・グリント』には関係ない。……汚い泥ね。焼き払ってしまいなさい』
白い機体が、右腕を掲げた。 杖の形をした砲身が展開し、幾何学的な魔法陣が空中に描かれる。 だが、その色はいつもの赤黒い炎ではない。
目が眩むような、純白の閃光。
「伏せろぉぉッ!!」
俺がヴァルカの頭を抱え込んで泥水に飛び込んだ瞬間、世界が真っ白に染まった。
ゴォォォォォッ!!
爆発音ではない。 空気が一瞬で沸騰し、気化する音だ。
熱波が頭上を通り過ぎていく。 数秒後、俺はおそるおそる顔を上げた。
「……馬鹿な」
目の前に広がっていたのは、泥沼ではなかった。 水分を一瞬で蒸発させられ、赤熱してガラス状に固まった大地。 俺たちが頼みの綱にしていた「泥の罠」は、高効率の超高熱によって、歩きやすい舗装道路へと変えられていたのだ。
『道は作ったわ。全軍、前進』
エレオノーラの冷徹な号令が響く。
「あ、あ……」
俺の喉から、ヒューヒューという音が漏れる。 過呼吸だ。 肺の中の石化部分が疼き、視界が明滅する。
これは俺の罪だ。 俺が書いた数式が、俺が愛した理論が、また人を殺す。 アッシュ・バレーの惨劇が、ここで再現される。
「少佐! おい! しっかりしろ!」
ガラードの声が遠い。 指先が震えて、杖が握れない。
その時だった。
ガッ!
強い衝撃が頬に走った。 痛みで意識が引き戻される。
目の前に、ヴァルカの顔があった。 彼女は俺の胸ぐらを掴み、その硬い手のひらで、俺の頬を力一杯張ったのだ。
その鉄色の瞳が、射るように俺を見ている。 「計算しろ」と、そう言っていた。 「お前の仕事は、震えることじゃない。敵を殺す算段を立てることだ」と。
彼女の手は、泥だらけだった。 だが、その温もりだけは鮮明だった。
「……ふぅー……ふぅー……」
俺は意識的に呼吸を整え、ポケットから気管支拡張剤のアンプルを取り出し、太腿に突き刺した。 薬液が体内を駆け巡り、強制的に心拍を安定させる。
「……すまない、ヴァルカ。目が覚めた」
俺は泥を吐き捨て、双眼鏡を拾い上げた。 白い悪魔が迫ってくる。 俺の理想の成れの果てが、俺たちを殺しに来る。
「……ガラード曹長。総員、退避準備。ただし、逃げるのではない」
俺はガラードの襟を掴み、狂ったように笑った。
「奴らを『燃料庫』へ誘い込む。……俺の元婚約者に、熱烈な歓迎会をしてやるんだ」
過去からは逃げられない。 ならば、あの白い機体ごと、俺の手で葬り去るしかない。
俺は最後の、そして最悪の方程式を組み始めた。




