2.泥炭地の悪魔
崩れかけた司令部の外に出ると、雨はさらに勢いを増していた。 泥水が跳ねる音に混じり、野太い怒号が聞こえてくる。
「おい、新しい指揮官様が出てきたぞ!」
「どうせまた『死んでこい』って命令だろ!」
塹壕にへばりついていた兵士たちが、濁った目で俺を睨みつけてくる。無理もない。彼らは既に三日三晩、睡眠もとらずに魔導砲撃に晒され続けているのだ。
その殺気立った集団の中から、一人の巨漢がぬっと姿を現した。
泥だらけの軍服、伸び放題の髭。口には火の消えた安物の葉巻を噛んでいる。階級章は……曹長か。
「アンタが、あの無能の代わりか?」
男は俺の顔の前で、わざとらしく唾を吐いた。
「俺は第3小隊のガラードだ。見ての通り、部下はもう半分しか残っちゃいねえ。ここから突撃なんざさせるつもりなら、あんたの背中から鉛玉をぶち込んでやるぞ」
脅しではない。本気だ。 俺の背後にいるヴァルカが、ぴくりと反応してライフルの銃把に手をかける。 俺は片手でそれを制し、ガラード曹長の目を真っ直ぐに見返した。
「突撃はしない。防御もしない」
「あ?」
「これより、この塹壕の排水ポンプをすべて停止させる。同時に、前方2キロ地点の用水路を爆破し、この一帯を水没させる」
ガラードが目を丸くし、葉巻を落としそうになった。
「はあ!? 正気か! 俺たちまで水浸しになるぞ! 塹壕戦で足を濡らすのがどういうことか分かってんのか!」
塹壕足。冷たい泥水に浸かり続けた足は壊死し、切断を余儀なくされる。兵士たちが最も恐れる病の一つだ。
だが、俺は懐から地図を取り出し、彼の胸に押し付けた。
「敵の主力は『重魔導甲冑』だ。総重量は2トンを超える。この雨で緩んだ地盤に、さらに水を流し込めばどうなる?」
「……沈む、か」
「そうだ。奴らの機動力は死ぬ。泥の棺桶を作ってやるんだ」
俺は咳き込みながら、言葉を継ぐ。
「足が腐るのと、頭を吹き飛ばされるのと、どちらがいい? ……生き残りたければ、泥水を愛せ」
ガラードは数秒間、俺の顔をじっと観察していたが、やがてニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「……へっ、インテリにしちゃあ悪辣な手だ。気に入ったぜ、少佐殿!」
彼はくるりと踵を返し、部下たちに向かって怒鳴り声を上げた。
「野郎ども聞いたか! 水浴びの時間だ! ポンプを止めろ! 土嚢を積み上げろ!」
30分後。
予想通り、連邦軍の攻撃が始まった。
地響きと共に、灰色の霧の中から巨大な影が現れる。 蒸気と魔力光を撒き散らしながら進む、鉄の巨人たち。重魔導甲冑部隊だ。
背中のボイラーから「プシューッ」と排気音を響かせ、右腕に装着された魔導砲が赤熱している。
『帝国のアリどもを捻り潰せ! 前進!』
敵の拡声器から勝利を確信した声が響く。
だが、その進軍は唐突に止まった。
ズブッ、と嫌な音がして、先頭の機体が大きく傾いたのだ。
『なっ……なんだ、この泥は!? 出力上げろ!』
『だ、駄目です! 脚が抜けません! 吸い込まれていく!』
俺が人為的に氾濫させた水流は、前線の荒れ地を底なしの沼へと変えていた。 2トンの鉄塊など、泥からすればただの漬物石だ。もがけばもがくほど、彼らは深く沈んでいく。
「かかったな」
俺は双眼鏡を覗きながら呟く。
敵は慌てている。機体が沈めば、吸気口から泥が入り、魔石エンジンが停止するからだ。
『くそっ、撃て! 魔法で泥を吹き飛ばせ!』
敵の指揮官機が叫ぶ。 その瞬間、重魔導甲冑の背中にある排熱ダクトが大きく開いた。 強力な魔法を行使するには、炉心の温度を下げるために強制排熱を行う必要がある。
俺はその一瞬の「熱源反応」を見逃さない。
「ヴァルカ。距離800。……風読み、補正マイナス2」
俺の隣で、泥まみれになりながら伏せていた少女が、巨大なライフルのボルトを引いた。
カシャン、と硬質な音が響く。
彼女はスコープを覗いていない。 ただ、俺が示した空間の一点を感じ取り、肉体の感覚だけで銃口を向けている。
彼女が使う弾丸は、鉛の芯にタングステンを被せた徹甲弾。 魔力など一切込められていない、ただの物理的な質量だ。
だからこそ、魔法防御では防げない。
「……3、2、1」
俺が指を振り下ろす。
ドンッ!!
落雷のような轟音が、雨音を切り裂いた。
ヴァルカの小柄な体が、強烈な反動で後ろへずれる。 放たれた弾丸は音速を超え、雨粒を弾き飛ばしながら直進した。
次の瞬間。
沼でもがいていた敵の先頭車両の胸部装甲が、飴細工のように弾け飛んだ。
『ガアアアッ!?』
断末魔と共に、機体から黒煙が噴き出す。 動力炉をピンポイントで貫かれたのだ。魔石燃料が誘爆し、鉄の巨人は火だるまとなって泥の中に崩れ落ちた。
「な……!?」
隣で見ていたガラード曹長が、唖然として口を開けている。
「おいおい……あのバケモノの装甲を、たった一発でブチ抜きやがったのか? 魔法もなしに?」
「魔法など必要ない」
俺は冷ややかに答えた。
「奴らが魔法を撃とうとして障壁を展開する直前、冷却のために0.5秒だけ装甲の隙間が開く。……そこへ鉛をねじ込んでやっただけだ」
理論上は可能だ。 だが、それを実行するには、コンマ秒のタイミングを見極める俺の目と、嵐の中で針の穴を通すヴァルカの腕が必要になる。
戦場に静寂が落ちる。 無敵と思われていた重魔導甲冑が、ただの「狙撃」で破壊された事実は、敵に底知れぬ恐怖を与えたはずだ。
『た、退け! 狙撃手がいるぞ!』
敵軍がパニックに陥り、後退を始める。
俺は咳き込みながら、懐中時計の蓋を閉じた。 泥水に浸かった足が冷たく痺れてきている。
「……まずは第一波、クリアだ」
ヴァルカがスッと立ち上がり、排莢する。 真鍮の薬莢が泥の中に落ちて、チャリと鳴った。
彼女は無表情のまま、俺の濡れたコートの裾を軽く引っ張った。 「大丈夫か」と聞いているのだろう。
「問題ない。……仕事に戻るぞ、ガラード曹長」
俺は呆然としている髭の曹長に声をかけた。
「敵は必ず、より強力な『熱』を持って戻ってくる。……次は、この泥ごと俺たちを焼き尽くすつもりでな」
泥炭地の悪魔と呼ばれた俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。




